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★★獨り言★★ monolog, monologue


→ making reminia army
     → QA(warbirds QAの抜粋)
→ わたしの祖先
→ 親族の軍隊體驗(明治以降)  
架空陸海軍の捏造方
how to makeup imaginary army & navy

→ レミニア軍のスタンス
→ making reminia army & navy
→ 官等考
  → 尉官は判任官か?
  → 然らば大尉は判任官か?
→ 名称の新舊、言語考證
→ 言語考證2 喋り方
→ 血液型と兵士適正

レミニア軍のスタンス

  事實の提示は生々しいので、このHPは、ストレートな史實から出發するのを止めて、まるきり假想世界の假想國の軍隊を詳述する事としました。時代設定は1930年代にとりましたから、その當時の舊日本軍を他人の消息・噂話として眺望する事もできます。架空世界ですから、日本軍も細部では史實と相違するアヤシイ行動をとっているかもしれません。レミニア軍の戰闘を日本陸軍の観戰武官が眺めていたり、また東京の麻布にレミニア公使館が、神戸に總領事館があるのは、その一部です。
  日本軍に就いての事實データは、駐在武官報告の體裁で、掲載したく存じます。既に他の有力なHPに掲載されているデータは省略し、あまり本筋とは關係のなさそうな變なデータを載せる豫定です。
  私自身は軍隊と社會の關係に就いて興味を持っているのですが、例えば野間宏「眞空地帯」を大西巨人が「俗情との結託」で批判した一連の論争で、どちらの見方を採るかと問われれば、後者に肯く傾向があります。
  そのため背景社會の説明が不必要に長く、軍隊とは直接に關係しない枝道に入ってしまう事がありますので、その点はどうか御容赦下さい。

?レミニア國は子供童話の世界??

  レミニアは、どこと特定するには餘りにも變な國(近隣諸國も含めて)として設定しましたから、その邊りも御了解願います。
  以上、思いついた事を並べて、このHPの「ことわり書き」と致しました。  → top

★★ making REMINIA ARMY ★★ farad de reminia arme

史料と資料

先ず資料について  → top
  家の書棚に積んである本に、兵隊さんの手記が多く、うちの年寄が散歩や勤め帰りの折にヒョイと買ってきたのでしょうが、年代順に並んでいて、必要に迫られ(讀書感想文の宿題のため)一冊讀んでみましたところ、その奇怪な内容に一驚し、とうとう書棚にある兵隊本をあらかた讀んでしまいました。
  レンタル・ビデオで、兵隊さんの出てくるのを借りてきて、實際の衣食住の環境や挙措動作を参考にするようになると、その拠って来る規則を讀んでみたくなり、圖書館で操典や禮式令を見て、なるほどと納得しました。けれども軍隊體験者の手記や聞書きが理解を助ける一番の教材でした。光人社の兵隊さん・よもやま話シリーズは、その意味で貴重な情報源です。雑誌「丸」の記事も、こまかいところが分ってよいです。
  そこで、ややこしい事が嫌いなズボラ者としては、樂しい空想の世界が、いちいち史實に拘束されるのは興をそがれるし、自分でもチャップリンの獨裁者なみのパロディ國家を捏造してみたいという欲望もあって、とうとう「レミニア聯合共和國陸軍」が誕生してしまいました。
  そのうちレミニア軍の機構から民情、社會背景まで述べることになり、はやりのHPに載せてみると、自分の整理もつくので、こうなりました。  → top

【史料について】
  でたらめをHPに載せてもリアリティがなくなるので、史實を基礎として、それに歪曲を意圖的に加える事にしました。歪曲とは、こうであったなら面白かっただろうになあ、と思う事柄を堂々と、さも事實であるかのごとく正規の制度として述べることです。昭和初期の舊軍史料が一番入手しやすいので、對象とする時を1930年代と定め、舊陸軍をメインのモデルとしました。舊陸軍は舊幕時代と断絶した新しい軍隊だけあって、諸事にシムプルなのが特徴ですから、面白くするために、獨仏の兵科兵種を付け加えてバラエティーを持たせたり、閉塞氣味だった進級制度で大方の批判の的である部分(陸軍大學校卒業生の抜擢進級や准士官・下士の将校登用、准士官と初級士官の序列、貧弱な癈兵院)を改竄したりしました。これらの機構・編制を作るときは操典や軍令を参照し、あくまで基本には忠實に組み立て、軍事知識のある方には改竄点が判然と分かるようにしました。英軍の面白い制度である少年鼓手・笛手も導入しました。
  實際の舊陸軍は機械化を行おうとして及ばず、日露戰争當時の尻尾を曳きずった中途半端な編制だったのですが、もうすこし何とかならないのかなー、と云うところを加味して、レミニア陸軍編制としました。例えば常備編制として軍團制度をとる(1次歐州大戰直前の獨逸帝國陸軍軍團戰時編制に拠る)、殆ど自動車化されている、大規模な装甲機動兵力を持つなど。ここで主力は異様に近代的ですが、邊境守備隊や植民地軍は舊式であるようにするのがミソです。中央から置き忘れられた砦の生活を描いてみるのが、そもそもの目的だったからです。
  また海軍は舊軍とは逆に、非常に保守的であるように組んでみました。前世紀の帆船時代の奇妙な慣習や制度を持ち越して得々としている状態というのは、案外に難しく、この段階で、すこし當時の事を記述した史料を讀まなくては先に進めません。「海軍制度沿革」(復刻版)や戰前の海軍關係の法令集は、その意味で帆船時代の制度規則が載っており重寶しました。明治初期の兵學校の科目に敵船への接舷斬込みや、舳先の衝角を相手にぶつける戰法などが並んでいるのですから、驚きです。
  空軍は實に平凡です。陸軍の騎兵の一部が飛行部隊になったと想定してありますが、舊陸軍の航空部隊史の編制を参照しても、もうひとつピンときません。舊陸軍の編制改編の沿革をたどると、日進月歩の航空兵器の發達に編制がモタモタと追いついていった感があり、わたし自身が航空部隊の實務に疎いせいで、なんとも泥臭い空軍ができあがりました。
  陸軍の給養は、わたしの最も關心あるところですが、まだとても詳しい捏造ができません。野戰貨物廠が野戰諸廠を統合したものだったと知ったのもつい最近ですし、經理部演習の特集記事を見るだけで、その奇怪な内容にのけぞってしまうくらいですから、いかに自分が物事を知らないかを思い知らされております。衛生制度にしても同様で、HPでは舊軍衛生部制度の敷き寫し解説に終始して、衛生隊や病院編成で如何にも不自然な捏造をおこなってお茶をにごしている現状です。これは法務部や軍樂部にもいえることで、自然な捏造に至るまでには、さらなる史料の發見と讀込みが要求されております。  → top


【待遇とは】
  階級制度は、明治の官制ようやく定まって以来、外交上・國威發揚上、西歐諸外國のそれと對應していますが、尉官以下の身分が少し理解に困難なところあって、舊陸軍では大尉から少尉までが高等官の範疇に入っているところ、實際上は判任官であり、禮遇が高等官並であるにすぎない、下士は判任官となっているが、實際上は雇員であり、禮遇が判任官並であるにすぎない、と云う問題があります。わたくしは、そもそも判任官とは尉官相當者なのでないかと考えております。武官は下級者でも命をかけて勤務するのだから一段階上位の禮遇を受けるよう配慮したのだと思いますが、例えば米國の陸軍では、下士は全く雇員と同じ扱いとなっています。First Sergeant(先任下士:舊軍の中隊附特務曹長の役目に該當)であっても中隊長の命令で簡單に兵卒に降等されますし、兵卒であっても、命令ひとつで簡單に下士になったりします。しかし舊軍の下士官は、それよりずっと身分を保障されており、中隊長に絶大な人事権があるわけではありませんでした。警察の警部(police captain)・警部補(police lieutenant)や鐵道省(鐵道院)の田舎の驛長、小學校長が50歳代の退官まで、ずーと判任官(1〜4等)で、永年勤續の業績卓抜者が稀に高等官奏任待遇になる傍ら、20歳代後半から30歳代の若い陸軍曹長や特務曹長(准尉)が同じ判任官1〜2等であるのは、奇妙なことです。しかし巡査(巡査部長 police sergeantを含む)も判任官「待遇」であり、そのような禮遇を名誉上うけるように配慮した官制であったので、下士も巡査と同じ判任官「待遇」と見なしてよいのだろうと考えております。下士の場合は「待遇」がついていないけれど、實質上は判任官「待遇」者であって、文官にあるような本チャンの「判任官」(尉官相當)ではないと考えれば、この邊の整理がつきます。そこで、レミニア陸軍では、日本の官制の「待遇」を高等官待遇以上に限り、尉官は高等官待遇の判任官、准士官・下士は米國なみに單なる雇員、兵卒は傭人としました。このへん、日本の文武官の官制を見るときに、また諸外國の相當官職と照合する時に、ちょとややこしくなるところです。「待遇」の考えさえ抜いてしまえば、すっきりします。  → top
【尉官は判任官か?】
古本に「歐米警察視察談」と云う雑誌記事を集めたような綴本があって、出版社も明記されていない明治時代の警察學校内部資料のようなものですが、そこに載っている警視法學士 松井茂「警察法の位置及警察權の基礎に就いて」(明治三十五年六月二十四日於警察監獄學校)と題した記事を見ると、プロシャ警察の警察中尉(警部補?)を日本に招聘したが、その官等に就いて云々しています。いわく、

「(前略)我警察監獄學校に聘せられたる普魯西警察中尉クリューゲル氏は彼の地にて申せば判任官である。尤も判任官であると云っても日本で意譯すれば高等官六七等位(註1)である。何故に意譯すれば高等官であるかと云へば向ふでは高等官の等級と云ふものが少ない、其のクリューゲル氏の如きは日本到来の時は暫く措き後には勅任官ニ等(註2)の待遇を受けたのである、我邦にも外國の事情に精通せる外務省ありて段段取調の結果定めて此沙汰になったのと思いますが、兎に角此點を以て見ても警察中尉と云ふ判任官が、日本に来ると勅任官になれると云ふのは對等國とは申し乍ら随分位置の懸隔に相異のあることに就いては驚かなければならぬ。私はクリューゲル氏とは至て懇意なる間柄であるから同氏の為には悦ばぬではないが、私は日本の警察官として衷心釈然たらざる點がある。(後略)」
あるめ註1: 高等官六等は陸海軍大尉、七等は同中尉に相當。
   註2: 勅任官二等は陸海軍少将に相當。
   備考: 日本の警視は高等官三等〜八等(奏任官)の等級があり、陸海軍の佐官・尉官に相當。警部・警部補は判任官一等〜四等の等級があり、陸海軍の准士官下士官に相當。

この話に拠って考えれば、尉官は判任官であるとプロシャでは位置付けられていたようです。日本の官等では尉官を本格的な高等官に入れてしまい、下士官を判任官にしてしまうので、インフレ氣味の職官表だったと申せましょう。文官ではそう云うことはありませんでした。  → top


【然らば大尉は判任官か?】
前項で尉官は判任官と云いましたが、果たして大尉はそうなのか、昔の帆船時代の英國海軍を見れば些か疑問です。大尉(lieutenant)になるには准士官待遇の候補生(midshipman)が大尉任官試驗に合格して、やっと進級できたので、大尉と中少尉との間には歴然とした格の違いがありました。しかも中少尉は候補生が仮に命ぜられる職務を指しており、あくまで身分は准士官であったのです。大尉進級試驗に合格し大尉のポストが空いて任官する順番を待っている候補生が中尉(sublieutenant)で、大尉進級試驗を受験する資格(候補生としての實役停年を満たし艦長の推薦を得る)を得た候補生が少尉(acting sublieutenant)となります。すると尉官と云っても、実際には大尉と云ふ士官と中少尉(候補生のうち)と云ふ准士官があるだけとなります。
ところで中少佐(lieutenant commander)は大尉が小さな艦艇長となるポストで、自分で航海長の役目もしたので master and commander と昔は呼びましたが、実際は大佐の勅任艦長(post captain)ではなく大尉に毛の生えたようなものでした。勅任官の次の奏任官と考えてよいでしょう。大尉はこの中少佐連中と同じ仲間で、准士官(判任官)である中少尉とは一線を画しています。それで大尉はどうも判任官ではなく、その上位にある奏任官なのではないかと思えるのです。(2004.8.14)  → top
【名称の新舊、言語考證】
  「下士官兵」と云いますが、それは比較的新しい呼び方で、明治大正に大人となった人は「下士卒」と云うのが普通でした。各部の相當官も、「主計正」「軍醫監」と、古めかしい從軍文官の匂いを残した名称で呼んでおり、むしろ「主計大尉」や「軍醫中尉」と呼ぶのは、大東亞戰争に入ってからの短い間の事でしたから、1930年代のレミニア軍も敢えて當時の常識に異を唱えることなく、万事にわたり古い名称を採用しました。團隊名も、例えば、いちいち「野戰兵器廠」「野戰衛生材料廠」などと舊式名称で呼んであります。後には「野戰貨物廠」として統合されてしまうのですが。
  翻譯で、大正時代の外國軍の階級呼称を例えば「二等兵」だの「衛生伍長」だのとしてあるのには、興を削がれます。「二等卒」「三等看護長」となるべきです。何故ならば、その該當する年代の日本には、「二等兵」などという等級は、日本語として存在しなかったからです。その時代に對應した實在の日本語を使用してこそ翻譯の腕の見せ所であると考えるからです。想定する時代より未来にある用語・呼称は使用しないのが私のルールです。「當時の日本語」の考證を無視することはできませんし、時代言語の考證は安易であってはならないのです。同時代の外國制度の用語にしても、同時代あるいは、ぴったりが無理ならば、すくなくとも同時代より過去に於いて直近の言語で譯語をふるのが、讀んでくれる人へのサービスだと思います。
  では逆に南北戰争やナポレオン戰争の頃の西歐軍隊の翻譯をする時は、舊幕時代に流通した日本語を使うのかと云いますと、それは使いません。明治になって使用した用語を使います。そもそも舊幕時代に西歐で組織された軍隊の用語を日本語にしたのを明治軍隊は使用していたのですから、それを舊幕時代の西歐軍隊に適用するのは至極自然だからです。舊幕時代には、そもそも近代軍隊の概念すら無かったので、その概念を表す日本語も存在しなかったわけです。この明治を境にした翻譯の逆轉現象は、西歐列強の制度に對應する新日本語の創設が軸となっていて、新しい對應譯語が定着する時点を起点として、時の過去・未来にそれぞれ適用されていくことにります。  → top
【言語考證2 喋り方】
  もっとも興ざめなのは、軍人の喋り方の間違いです。昨今の映畫吹替・翻譯には、私のごとき軍隊體験ゼロ人間が見ても「わー、そういう喋り方はしないでしょー」というひどいのが結構あります。そこにいくと、まだ戰中世代が軍隊言語を世の常識としてしていた時代に製作された作品には、間違いというのは殆どありませんでした。細かくチェックが入ったし、お客さんのほうも男子は殆どが何らかの形で軍隊體験者であったので、「ああ、喋くりが出鱈目じゃ観る(讀む)氣がしねーよ」と厳しかったのだと推測します。
  誰でも氣がつくのは、陸式と海軍式の相違で、語尾が「であります(陸)」と「です(海)」からはじまり、「自分は(陸)」と「私は(海)」、「お願いします(陸)」「願います(海)」、「少尉殿(陸)」「少尉(海は上下ともに呼捨)」と、そのへんから間違うと雰囲氣だいなしとなります。
  階級呼称も、昭和の海軍は「大尉(たいい)」を「だいい」、「大佐(たいさ)」を「だいさ」と讀むのが普通で、これも重要かつ初歩的な留意点です。明治大正には海軍も陸式に近く、「たいい」「たいさ」と呼んでおりました。昭和海軍では薩摩訛の「だいい」「だいさ」と呼ばなくては、奥行が出ません。戰前は女學生でも常識として「たいい」「だいい」を使い分けしていました。ところが「大将」は、そのまま「たいしょう」です。なぜそうなのかは、分りません。分遣艦隊の旗艦に掲げる「代将旗」というのがあって、紛らわしいからかなーと勝手に思ったりしていますが、こんど詳しい方に教えてもらおうと考えています。
  陸軍の喋り方は、「であります」に見られるように、長州の方言を流用しているのですが、それは建軍當初の将校が殆ど長州出身者で占められていて、初年兵教官をする時に、徴兵の地元方言では意思疎通しないので、軍隊共通語として長州訛りを強要した結果そうなったと云います。
  しかし表向きは長州訛りの陸式喋り方を使用していても、下士卒は地元採用で滅多に他の地方に轉属はしないので、普段の喋りは方言丸出しです。從軍手記の喋りの部分を見ると、方言になっていて、将校に對するときには長州式軍隊標準語を使いますが、それも方言とゴタ混ぜです。完全な軍隊標準語を使っていても、考證のしっかりした映畫ではイントネーションは方言にしてあります。大阪の聯隊では、平坦な「であります」のところが「で」と高聲になり、「あリま」が少し低く平坦、「す↑」で尻上りになる抑揚なのです。「そうであります」は、「そーで」高聲、「ありま」少低く平坦、「す↑」尻上り、となります(京阪神の中でも微妙に細部が違う)。
  上官に返事する時に、映畫などで「はっ!」と云ってるのがありますが、それは軍隊言語にはなくて、みな「はい」か、それが訛化した「はあ」です。
  階級等級年次の上下關係で微妙に言葉遣いが違ってきます。階級が違っても入隊年次が同じ同年兵ならば、對等の言葉遣いになり、階級が同じでも年次が違えば下位の者は語尾が鄭重になり、年次の間隔が開いていくほど、軍隊用語が多用されてフォーマルになっていきます。下士卒と将校では、間に越えられない溝があって、對話はフォーマルな公式軍隊語であるのが普通です。
  年次が同じでも、年齢に開きがあると、「さん」づけになります。徴兵猶豫が切れて入隊してきた年食った大學生は同年兵から「さん」づけで呼ばれる例が多く、時として古兵からも非公式には「さん」を付けられたりします。
  戰場では、分隊長の伍長が、より古い年次の召集兵に、本来は「分隊長殿」となるべきところ、「分隊長!」と呼ばれたり、「分隊長、あぶねーよ、こっちにきてろ」など、對等の口を利かれて、それを當然のものとして受けています。
  将校どうしは、下士卒と同じように、階級年次の上下で言語を使い分けますが、日常的に「貴様」「貴公」「俺」「自分」などと云っていたわけではなく、「僕」「私」「貴方」をも使用していたので、将校がそういう娑婆の言葉遣いをしても別に間違いではありません。
  年寄った将校は一般的に「わし」の一人称を使いますが、古い将校は方言丸出しで、「おい(九州)」「あし(愛媛)」などと云います。
  聯隊長が若い旗手に「貴方の御父上は私が旗手だった時の上官でしてな」と話しかける例もありえます。古い高級将校は、相手により、こうした言葉の使い分けをしたようです。(つづく)
【血液型と兵士適性】
旧陸軍では血液型による兵士適性を研究したことがあります。(軍醫團記事)
その後、戰争が激しくなるにつれ廃れてしまいました。
最も下士卒に向くのが、B型です。旧軍の下士官にはB型が最も多いのでした。今では、このタイプはマイペースと云われていますが、意外にもルールを細かいところや裏技までよく知っていて(実行するかどうかは別)、瑣末な雑事を嫌がりもせず熱心にこなします。過去に拘らないさっぱりした気質は軍隊のように荒っぽい世界にぴったりです(どうでもよい事はすぐに忘れてしまう)。酒を呑んでも日頃と同じような態度で、何をやらせても餘り奇抜なことにはなりません。部下が仕事をやりやすい、分りやすい人物が多いようです。内務、戰闘どちらも適性大です(ほめすぎ)。ただ旨いものには目が無くて、これが缺點と云えなくもありません。私生活は物事にのめり込みやすいところがあり、何か趣味を持つと第二の仕事として才能を伸ばす人もあります(退役してから商賣を始める人が多い)。軍隊も商賣も細かく面倒なことばかりですが、B型の辞書には「面倒」と云う語が載っていないかのようです。
O型は大雑把で面倒臭さがり屋なので(コーヒーを飲んだ茶碗に平気で茶をいれて飲むようなところがある)、日常の内務はぱっとしませんが、突然に異常な事態に置かれても動揺せず(言い換えれば鈍感)、命令を守り目的を完遂する強固な意志が(マニアックなところがある)天性備わっています。集中力にすぐれ、沈着に照準をつける射撃のうまい人物が多く、そのぶん日頃ぼんやりしたところがあり、人間関係も淡白なので平時はあまり出世しません(何を考えているのか良く判らない)。上官に楯突くのも平氣で、内務班では寝臺に座りこんで、あっちのほうを向いて煙草を吹かしているような古兵の萬年一等兵がぴったりです。自分の欲望に忠實なので善悪を超越した神も佛も無い境地に達し易く、凶悪犯人にも天使にも成り得る自由自在な不思議な人格の持主が多いのが特徴です。
A型は細かく気を使い段取りが上手く、きれい好き、正直で何事も規則どおりキチンとしていなければ気が濟みません(そうでない人には厳しい評価をくだす)。初年兵時代には陰日向なく良く働き、同僚部下には親切なので、内務班では人望があります。そのため上等兵になる人が多く、また上官に人氣があって、偉い人の當番兵になったり事務室要員にとりたてられたりします。敏感な動作で相手の機先を制する銃劍術など白兵を使った戰闘に秀でています。相手の出方を深く読みすぎて、かえって自滅することがあります(早とちりが得意)。長い戰闘になると神經が消耗する傾向があり(ストレスがたまりやすい)、適當に緊張を緩和する必要があります。そのため亂痴氣騒ぎの酒宴が大好きだったり、女性に目がなかったり、まさかこの人がという、思わぬところで息抜きをします(大目に見てあげないと壊れる危険あり)。
AB型は形式通りの生活(ただし自分で決めたパターンなので他人からみると奇妙なところがある)を好み、几帳面に仕事をこなします。氣に入った事なら没頭するので、高い技倆を持つ人物が多く(神様の域に達する)、「ああ、その事ならあれに任せておけ」、と云う高い評価を周囲から得ます。人付合いは巧くないので、日常では誰からも理解されやすい型を演じ(さしで丁々發止の對決をするような深刻な事態を避けたがる)、さらりと笑って危険な戰闘に出ていきます。爽やかな人物と皆から見られますが、本當にそうである場合も多く(すなわち深刻なことは何も考えていない)、わざとらしさの無いところが特徴です。
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