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★★親族の軍隊體驗(明治以降)★★prewar & wartime family history: their army experiences

       田舎の大叔父(豫備役衛生准尉)
       田舎の大叔父の弟(特務機關?)
       田舎の大叔母の息子ども(豫備役應召兵)
       祖父の同級生(少佐)
       祖父(國民兵役應召兵)
        |
曾祖父 → 祖母 → 父 → わたし
 |     大叔父(兵站部の勤勞動員)
曾祖母   大叔母

廣島の親戚
藥劑師の親戚(曾祖母の弟)
縫製組合長の親戚(曾祖母の兄)
伯剌西爾(ブラジル)の伯母さん  → top


曾祖父

  この人は母方のお爺さんですが、大正初め頃に、廣島の實家が没落したので、大阪に出て商家の丁稚小僧になりました。そこでは澤庵と芋ばかり食べさせるので、厭になって東京に行き、神田の英語學校に通いました。それで英語は割と讀めた様子で、爺ちゃんになってからも同居の受驗生を相手に英字新聞連載のチャーチル「大戰回顧録」を毎朝、ご飯食べながら、あーでもない・こーでもない、と譯讀しているのが面白かったと、家の年寄が云っています。秘密の浮氣日記も崩しに崩した横文字で英語とほかの外國語のゴタマゼで書いてありました。正妻は小學校を出たきりでアルファベットをまるで知らないので、そうしたのです。
  最初は明治大學の生徒になり、次に早稲田大學の商科に移りました。冬になると學資稼ぎに焼芋の呼賣をしました。芋は見るのも厭じゃ、と晩年は澤庵も芋も滅多に食べようとしなかったそうです。賣残りを、ご飯代りに食べたのでしょうね。
  卒業論文に商家の丁稚奉公の勞働實態を詳細に考察したのを書いて、よくできていると云うので、その方面の研究をしてみないかと助教授に推薦されたのでしたが、學校はその通知を田舎に送ってしまったため、實家は回答期限がずいぶん過ぎてから、やっと本人に轉送してきました。とっくに他の人が、その職を占めてしまったあとで、それで學者になるのは、やめになりました。暢氣なものです。その頃は、まだ大隈公が存命で、學生委員として訪問した御屋敷の縁側で一緒に撮った寫眞があります。公は暗殺されかかった時に指の一部をなくしていたので、その短くなった指は指貫のような義指(?)で補っていて、螺鈿(眞珠や貝の嵌込細工)で装飾してあった、とは曾祖父の證言です。その頃、禪が流行っていて、禪問答にかよった寺で撮った寫眞もあります。おかげで我家は以来、曹洞宗が宗旨となりました。
  大正14年頃に早稲田大學を卒業したのですが、ちっとも兵隊にいったと云う話を聴きません。長いあいだ學生をしていて、そろそろ24か6になってゐた筈です。學生に對する徴兵猶豫を適用されたまゝ卒業後に入社した新設會社で直ぐに地方支店長になり、しかも在學中から妻帯者で子持で、陸軍の方でも、これでは兵隊としては役に立たないと云うので、ほっぱらかしになったと考えるのが妥當なようです。ど近眼かつ榮養失調である以外は體格も普通で病氣もしていないし、少年時代に明治の生徒のとき社會主義にかぶれたのは別に徴兵検査には影響しないと思うからです。簡閲點呼に行ったという話もありませんから、第一補充兵役にすら入っていなかったらしく、曾祖父のように經歴の變な人間や、學校の先生・官公吏・會社幹部には、こう云う抜道もあったようです。當時は、大學や専門學校の卒業生で一年志願兵になる人も滅多におりませんでした。中學や實業學校(今で云う高等學校にあたる、ただし進學率から云うと大學學部に相當すると考えられる)の卒業生で家が裕福な場合は、一年志願兵となる人がいました。
  また大正11〜12年には山梨陸相の軍縮が實行され、5箇師團分に相當する兵員が削減されたので、この影響もあったのでしょうか。更に大正14年には宇垣陸相の4箇師團削減があり、とうとう曾祖父は幸運(?)にも軍隊とは縁の無い境涯となってしまいました。

餘談
  大正12年夏、曾祖父は妻とは別の女性の所に遊びに行って、仲良く、おひるご飯を食べていたところ關東大震災に遭い、ほうほうの態で澁谷の先までやってきましたが、刀や竹槍で武装した自警團の檢問に引っ掛りました。ラジヲなど無い世の中で、戒厳令が出ているのも知らず、もともと文句云いの書生なので、いろいろ苦情を述べ立てました。廣島辨が混じっているので東京の人には上手く聞き取れないところがあって、「ばびぶべぼ、と、ゆーてみい」とか「貴様あ主義者か」などと難詰されて問答が妖しくなっていき、自警團の皆さん白兵を振りたてて險悪な雰囲氣となったので、心配した親切な巡査に引摺られ警察署に連れて行かれました。保護檢束のような形で留置場に一晩留められて、翌朝やっと早稲田は鶴巻町のグラグラになった狭い下宿に歸ってきたそうです。その頃から曾祖父と曾祖母の仲は良くなくなりました。一家の主人たる者が大事な時に家を空けて一晩も歸ってこないなんて、と云うのが曾祖母の感想です。

餘談2
  就職したところは新興の生命保險會社で、地方支店では専ら圖書館に通い、専門の本を濫讀して保險經營の知識を詰込み、内勤から營業に至る大幅な改善提案を論文にして重役に出したところ、「理論としては良く出来ている。それでは君が實際にやってみ給え」となって、急に支店長に任命されてしまいました。設立間もない會社で全國に支店網を展開中でしたので、餘程人材が不足してゐたのでしょうか。
  幸い支店の業績はあがり、事務も整備され、収益が目に見えて上昇したので、其の儘支店長を續けることになりました。けれど昨日まで同僚だった人が皆で自働車の扉を開けてくれたり先にお辞儀をしてくれたりするので、それが嫌だったと本人は申しておりました。この支店長は時々行方不明になる癖があり、月々の營業締切日に、どこに電話を掛けても見つからず部下を大いに困らせたそうです。それでも職を續けられたのは、本人が大變な社交家振りを發揮し、大口の顧客を繋ぎとめて(今で云ふ團體保險?)業績を鈍らせなかった為なのだそうです。
  その後、あちこちの支店を巡って、事務改善と業績向上に専心し、そろそろ重役になろうかという矢先に、急に辞職してしまいました。そして大阪の岸和田に行き、そこで保險代理店を自分で開いて、悠々自適の暮らしに入ってしまいました。一説には超一流の美人藝妓を専務と取合いになり、にっちもさっちも行かなくなって辞めてしまったのだと云います。仕事も成功しましたが、あっちの方でも大變な發展をしていたのですね。
乞われて満洲の國策會社の重役になり、大連、新京に單身赴任しましたが、娘が監視役でくっついていきました。でも、そこでも、いつのまにやら才色兼備の立派な女性と仲良しだったのには驚いたと云います。

餘談3
  曾祖父の早稲田の同級生で、Kさんと云う人がいて、たいへん仲好しでした。授業が終ると、必ず教壇に詰寄っては先生を質問攻めにしてゐる學生があるので、やはり質問大好き學生だった曾祖父と意氣投合しました。それがKさんだったのですが、出身は佐渡で、北一輝の遠縁にあたるそうです。丸い顔つきや片目がひんがらのところが寫眞の北氏に酷似しております。
  性格も壮士風で、「おう、いるか」 と云っては突然に訪ねてきたそうです。小麥粉をほぼ獨占する製粉會社に勤めましたが、仕事をさぼって神宮球場に早慶戰の應援に行ったのが露見して、重役に呼ばれ詰問されたところ、一緒に行った同僚は瓣明にしどろもどろで馘になってしまいました。ところが次に呼ばれたKさんは、胸を張って「浩然の氣を養いに行ったのであります!」と明言し、逆にその重役に度胸の良さを感心されてしまい、お咎めなしとなりました。
  會社の幹部になっても曾祖父とKさんは二人でよく遊びに行ったようですが、雪の降る夕方に、人力車を連ねて御飯を食べに行く途上、黒板塀に囲まれた狭い長い路地にさしかかり、間の悪いことに向こうからやってきた俥と鉢合わせとなって立ち往生してしまいました。向こうの車夫と此方の車夫が互いに、道を譲れ、譲らない、の押問答を始め、雪の深い夕方は癇が立つのでしょうか、だんだん喧嘩腰になっていきました。向こうは俥の傍に護衛の若い衆がついてゐて、これが意外なことに大人しく、頻りに車夫を宥めようとしたのですが、なにかのはずみで揉み合いとなってしまいました。こちらの車夫が地面に蹴倒されたので、それまで黙っていたKさんが俥を降りスタスタ相手のところに近寄ると、いきなり若い衆の鼻柱を殴りつけ、脛を蹴飛ばし、ひるんだ車夫を押しのけ、先方の俥の乗客を引摺り降し襟髪を掴んでしまいました。よく見ると身なりの良い中年で眼光鋭く癖ありの顔貌(かおつき)、ずしりとした貫禄でしたが、こう詰寄られては身動きが取れず、若い衆が蒼い顔をして懐に片手を入れたのを 「素人さんに手え出しちゃ不可(いけ)ねえ」 と制し、「いや元氣の良いお人だ、若いのがずいぶん失禮をしました」 と向こうから温厚に和解を提案して収まりました。あとで 「あれは、どう云う人か」 と訊くと、それは博徒の大親分で、子分が何百人と云う土地一帯の大總長でした。こちらは刺客と間違えられて、危うく若い衆の返討ちに遭ってゐたかも知れん、と改めて思い當たったのでした。Kさんは後に 「いや大親分ともなると凄い人格者ぶりじゃ」 と頻りに感心しておりました。これは「雪中の立廻り」と題して時折、我が家の茶飲み話に出ましたが、「じゃあ、お父さんは、その時どうしていたんですか」 と問われると曽祖父は、「いや、K君がいきなり俥を降りるから、わしも雪のなかをヨタヨタ走っていくと、もう既に決着がついておったのだ。電撃作戰とは、あゝいうのを以て模範とする」 皆は 「なあんだ、結局あまり喧嘩の役に立たなかったのじゃありませんか」 「わははは」
  Kさんは意外なことに奥さん孝行で、宴會で呼ばれていくと、あとで必ず奥さんを同じところに連れて行って、同じ料理を二人で食べました。
満州の國策會社の重役になってからは、髭をはやし太ってしまいましたが、玄關をガラリと開け 「おう、○○君、いるか! ひさしぶりだのー」 と訪ねてきて、子供をつかまえると 「おお、N子ちゃん、元氣か、大分おおきうなったのー、うわははは」(なにが大きくなったのかはつまびらかではありませぬがw)と呵々大笑。中味はちっとも學生時代と變わりませんでした。
まことに快男兒を繪に描いたような人です。   → top


祖父

(曾祖父の長女の婿)
  さて曾祖父より少し時代の下がった祖父の時代となりますと、せっかく中學校で退營特務曹長(冬になると鼻水を垂らすので「ダラ特」と生徒はアダナしたそうで)から兵式體操なる歩兵教練の初歩を學びましたが、徴兵檢査が第二乙種合格で、狭長體(身長のわりには、胸囲がない)および近眼だからと云うので、乙種合格第二補充兵役編入となりました。簡閲點呼か教育召集くらいあるかな、と思ってゐましたが、それもありませんでした。これは兵隊にとられる可能性は殆ど無く、日露戰役のような國家存亡の危機とならない限りは、軍隊とは縁の無い兵役です。逆に云えば、こういう者まで召集するとなると、なりふり構わず講和しなければならない状況(敗戰寸前)に國家が至っているわけです。
祖父は母方の曽祖父の婿さんで、鳥取の伯耆大山の麓で育ちました。この伯耆の國は出雲の隣に位置し、縣の西部にあって、同じ鳥取縣でも東部の因幡の國とは氣候風土が違い、明るい朗らかな人が多いと云われてゐます。
  當時の中學校は、5學年各2クラス程度の規模でした。中等教育の普及を目的として文部省は全國各地方に中學校の増設をしていました。應募者が少ないので、縣學務部も苦勞しました。村から一人は生徒を出してくれと頼んで廻ったのでしたが、あまり捗々しくなかったようです。生徒は小學校卒業したての者と、小學校高等科2年卒業者の混成で、教師は東京の高等専門の學校を出た氣鋭の青年を揃え、校舎は新築にして小人數教育と、今から考えれば、わりと豪華な環境です。父親が郡役所の兵事掛書記をしていた關係で、断りきれずに次男を(長男は既に高等小學校を出て農業學校に通ってゐました)進學させたとのことです。
  この父親は因幡の出身で、若い頃は京都に遊學し、同志社の英語學校の生徒だったのですが、上級學校に進むには學資が足りず、止むを得ず歸郷し、伯耆に田畑を分けてもらって分家した人で、明治の頃に流行った大きな髭をはやし、洋服長靴で騎乗し郡内を駆巡っていたそうです。その仕事は村々に委任された徴兵・徴發・召集・復員事務の取纏めでした。職員録によれば身分は文官の判任待遇で月給二十何圓から始っていますので、兵隊の位に直せば、下士官から大尉くらいまでを長い間かかって登ってきたというところでしょうか。中年以降は役所の筆頭書記を辞め耕地整理組合の方にいってしまいました。若い時には同志社を卒業したら醫學校に行こうと思っていたらしく、その所為か多少の衛生知識があって、子供の健康には配慮しており、眞冬でも薄着励行(着物・襯衣一枚にサルマタ?と足袋だけ)、時々すき焼をして幾らでも牛肉を食べさせ滋養を補給し抵抗力をつけさせていました。
  息子は中學校を卒業して、神戸の輸入紙問屋の見習社員となりました。ワイシャツ・ネクタイの上から店の屋号の入ったお揃いの法被を着て、洋紙の見本束片手に算盤の珠を遣繰りして取引の勉強をしているうちに、もともと頭のつくりが理數系の理詰だったので、そういう曖昧な商賣の世界が性質に合わなかったようで神經衰弱に罹って塞ぎ込んでしまい、いったん田舎に歸ってきました。今で云う出社拒否症みたいなものでしょうか。當時の訓練のおかげで算盤は非常に早く、あの太い指でよくあれだけ彈けるね、と家中で感心したものです。計算・暗算は得意だけれど、人の出方を見ながらのネゴシエーションは不得手だったわけです。
  父親に連れられ温泉に逗留して休養後、大叔父の世話で今度は財閥系保險會社の内勤事務員になり、大阪北郊の新興住宅地、池田に下宿し、背廣を着て箕面有馬電軌(今の阪急寶塚線)に乗って北濱(商取引の中心)に通勤の生活をするようになりました。電車も市電に毛が生えたようなもので、停留所では定期券も見せずに乗降できました。昭和4年頃です。晝休みの樂しみは、堂島の橋を越えて梅田まで歩いてきては、阪急百貨店8階の大食堂で、「ソースライス」というのを食べることだっだそうで、文字通りライスだけ注文して卓上のウースターソースを掛けて福神漬けをおかずに食べるのでした。カレーライスが25銭(コーヒー附)したのに、ライスだけだと5銭で濟み晝食代がほとんど浮くので、安月給取は大いに助かりました。こういう御客さんが増えて、百貨店では 「ライスだけの方はお断り」 する事にしたのでしたが、創業社長の小林一三さんがそんな吝嗇(けち)な根性では商賣は擴大しない、ライスだけ注文する人も今でこそ不景氣な世の中で貧乏してゐるが、そのうち段々昇給して御家族ともども當店の御得意様になってくださる大切な方々だ、と云って、「ライスだけの御客様も大歓迎」 と方針を變えさせ、そういう新聞廣告も出し自ら食堂に出向いてはソースライスの御客と目が合うと、にこやかに鄭重な敬禮をしたので、「流石(さすが)は阪急、度量が違う」 と評判になり、百貨店はいよいよ繁盛したのだそうです。祖父も貧乏してゐても都会生活のこう云ふ處が樂しかったのでしょう。當時の下宿屋は食事附で、夜のんで帰る時は、電話を下宿屋の主人に入れて 「晩御飯たべてきます」 と云っておくと、主人は上機嫌で、「あ、よろしま、おおきに、ありがとさん」 と答えるのでした。下宿代から食べなかった分の食事代を差引くことをせず、月々同一額を支拂っていたので、不食分は下宿屋の儲けとなるからです。季節には電車に乗って京都の嵐山の紅葉見物や舟遊び、松茸狩など、風光明媚の地に大勢で遊山に行って遊び、こうした、のんびりした大阪のサラリーマン生活がよかったらしく、勧められる儘に見合結婚をして朗らかな奥さんをもらい、どしどし子供ができました。

大阪の風景

  餘り喧嘩はしない方でしたが、中學で柔道を習っていましたから、多少の技は使えた様子です。遠足の山の上で酒を呑んでゐる時に、文句を並べて絡んでくる男がいて、急に腹が立ったから相手の肩をトンと突くと、はずみと云うのは恐ろしいもので、その人は山頂から谷底まで轉げ落ちてしまいました。その時はさすがに心配になって、救出に向かおうとしたところ、彼氏は何とか這い上がってきたそうです。

  昭和の御世も年が進むと、だんだん世の中は不景氣になってきて、餘り出世の見込も無いので、家族ともども満洲に渡り國策會社の支店長になりました。熱河承徳あたり(萬里の長城が山海關で北支那と満州を隔てる古代國境の地)の出張所に通う時には、劔附鐡砲を持った警備歩兵同乗のバスに乗って山奥を行きます。途中で熱い湯氣の出る饅頭(まんとう)を食べるのが樂しみだったとの由、辿り着いた先で明るいうちに用件を濟ませると、憲兵分駐所の曹長殿と白酒(パイチュー)を酌み交わしながら情報交換すると云う生活で、いろいろ怖い思いをしたそうです。
  昭和二十年風雲あやしくなってきたけれど、もう満38歳の第二國民兵役なので、よもや兵隊にとられまいと思っていましたが、鞍山の支店長から本社に轉勤辞令をもらって赴任途中の新京驛頭で召集令状を受取り、7月24日に吉林(きつりん)の關東軍白濱工兵隊(白濱と云う人が隊長の工兵聯隊と思われる)と云うのに入隊してしまいました。中年の癖ありげなおっさんばかりが、未教育補充兵で入ってきたので、若い上等兵も下士官も固ってしまって、手も口も出ない状態でしたが、もう陸軍もオシマイだと思った様子がアリアリと挙措動作に出ており、「なんだか可哀相だった」 と云います。なにしろ30人の班に小銃が二丁しかなかったのを見ても、運動不足のおっさん連が息を切らせて 「○○二等兵、厠に行って参りますっ」 と初年兵の動作をやっているのを見ても、陸軍が窮迫しているのは目に見えるから、意氣が上がらないのは當り前だったでしょう。けれど班附の伍長が一人で仕方なく張切って、ビンタを張りながら内務班生活を叩き込んだので、おっさんらも何とか兵隊らしくなったのだそうです。(その後、部隊が解散してから奉天驛でその伍長さんと出くわした時には思わず嬉しくなったのですが、荷物を澤山両手で抱えていたので、お返しの鐡拳を献上できなかったのは残念と云っていました)
  まがりなりにも内務班生活と工兵の基本動作を教えてもらいましたが、急に運動したので筋肉がつっぱって厠で座れないのは弱った、そうです。工兵の最初の各箇教練は、圓匙(スコップ)で土を掘る動作で、少し進むと綱の結び方など細かいものにいきます。私も庭仕事をしているのを見ていて、スコップの使い方に無駄が無いので感心したことがあります。紐を切る時は鋏を使わず、掌に何度か不思議な巻き方をした後、ひょいと引っ張ると、プツリと切れてしまうのです。これは導火線の長さを調節する技法なのだそうで。しかし爆藥を扱うまではいかなかったようです。
  勤務では、夜の歩哨が一番怖かったらしく、八路(パーロ)や國民党軍(クオミンタン)のゲリラがきたら 「たれかーっ たれかーっ」 と悠長に歩哨規則とおりの誰何(すいか)をしているうちに、こっちがモウやられているから、これが怖かったと云います。炎熱下の訓練を續けるうちに、或る夜、非常喇叭が鳴り集合が掛りました。晝に掘った塹壕に入って待っていると、蘇聨の爆撃機がやってきて、照明彈を投げるとその明かりの中で悠々と旋回を繰り返し我が兵舎を偵察していきました。防空壕から眺めると花火見物をしているようで、なかなか綺麗だったなーと、今でもその話が必ず出てきます。遥か遠方には焼夷彈が雨のように降っていて、それは蘇聨による吉林ダム襲撃でした。
  工兵隊は撫順炭礦護衛のため鐡道にて南下し、南新水で下車、驛前に露營を始めました。すると入營1ヶ月に満たない8月18日朝、集合がかかり、年寄りの将校が召集兵を前にして 「日本は停戰したから、此處に於いて解散する」 と云いました。次に昂奮した若い将校が出てきて 「自分らは徹底抗戰するから、志を同じくする者は一緒に戰おう」 と言いました。祖父はお土産の毛布と、まだ支給されていなかった二等兵の給料を貰って四平街驛まで辿り着き、そこで新京行きの列車を待ちましたが、3日たっても乗れません。満鐡社員の計らいでやっとこ乗車し、新京に着くと驛構内は蘇聨兵が盛んに出没し、さんざんに荒らされてゐました。既に平服に着替えてゐたので目立つことなく、すばやく驛を出て會社のある康安大路に向かいました。同僚と共に會社の資金を自宅に移して保管しましたが、妻子は南の方に避難して家はもぬけのからでした。歸國まで大變だったそうですが、朝鮮國境の社員家族救出に志願して、支那人に變装し零下30度の雪中を汽車に乗り込んだのが、なかなか冒険だったといいます。ところがせっかく救出に成功したものの、自分の妻子は疫病で皆亡くなっていて、かろうじて6人ゐた子供のうち小學生の長男と次男だけが生き残っていました。次男は内地に歸ってから中耳炎をこじらせて亡くなってしまいました。内地に歸國まで1年ほど大連に足止めされました。
  進駐してきた蘇聨兵はシベリアの奥地から出てきた譯の分からない連中ばかりで、街頭でバッタリでくわすと、「ダワイ、ダワイ」 と腕時計を取り上げてしまうのでしたが、ネジを巻くのを知らないので、腕に五箇くらいつけていて、ネジがきれると捨ててしまい、新しいのを調達するのだそうです。親戚の齒醫者さんに治療に来ていた蘇聨兵は(隊には齒科醫が居ないそうで)、家族の寫眞を見せては自慢しているうちに、ワーワー泣き出すから、弱ったと云います。街頭で無闇に發砲するので、一軒おいて隣に住んでいた人が夕飯中に流れ彈に當って即死したのは、氣の毒でした。行って見ると湯豆腐の豆腐をくわえたまゝだったそうです。曾祖父も廣場で小銃を構えた蘇聨兵に呼び止められて、それが何やらややこしい事を云い出したので、逃げ出すと、後ろから發砲されましたが、彈はあたリませんでした。

 さてそこで、突然に私の祖母が登場します。母方の曽祖父の長女です。大阪の難波(なんば)は、銀杏並木を連ねたメインストリート御堂筋(みどうすじ)の終點、そこには和歌山と高野山に行く 「南海電車」 の始發驛を兼ねた百貨店高島屋がありました。そこを出ると 「ミナミ」 と云われる繁華街が擴がり、今は見る影もありませんが當時は高級商店街だった心齋橋筋(しんさいばしすじ)から劇場街の千日前通、ありとあらゆる食べ物屋の並んだ戎橋筋(えびすばしすじ)、道頓堀(どうとんぼり)、惣衛門町、「大丸」 「そごう」 の両百貨店が並ぶ本町(ほんまち)まで、大變な賑わいを見せたところです。少し道を外れると玩具問屋で有名な松屋町、藥問屋の道修町、株屋の北濱、船問屋の船場と、當時の日本經濟の實質的な活動拠點がありました。難波から少し南にさがった天王寺に佛教系の私立女學校があって、祖母はそこに通っていました。合格確實と保障されていた女子師範學校の入學試驗で、心臓が悪くて落ちたので、なんだか勉強が馬鹿らしくなり、地味な私立學校に入り、授業の合間にうどんを食べながら、のんびり暮してゐました。これが身軆強建で師範に入っていたならば、きっとこわい先生になっていただろうなー、と皆思ったものです。日赤看護婦もよいなー、とも云っていたので、そうなったらきっとこわーい婦長さんになっていただろうなー、とやはり皆は思いました。布團を被って徹夜で冒險小説や探偵小説に讀みふける、ちょっと拗ねた文學少女になってしまったので、それでまあ良かったかもしれない、と今更ながら皆思っております。

  紀元は2600年と云う御祝いをしてから、女學校もそろそろ軍國色濃くなってきて、分列行進やら薙刀やら銃剣術やらを習って、ついでに大阪城にある歩兵聯隊に射撃の訓練にも行きました。歩兵銃を撃たせてくれて、それから機關銃も1連射させてくれたので大満足でした。その頃の女學校はさぞや嚴格だっただろうと御思いでしょうが、これは大阪だけかも知れませんが、案外に適當で、音樂の先生の綽名はスラールと云うのでした。それは髪の毛が薄くて、残った毛を大事に長く伸ばしてポマードを塗り頭頂に撫で附けてあるのですが、朝禮の時、風が吹くとそれが靡いて、フワフワと空中を漂う有様が、ちょうど樂譜の記號にあるスラールと云う形になってしまうので、校庭に整列中の全校生徒が一齋にクスクスと笑うのでした。すると先生は 「何が可笑しいか!」 と髪をたなびかせながら怒鳴りますけれど、なかなか笑いは収まらないのでした。制服もセーラー服に決まっていましたが、お洒落な子はスカートの襞を細かくして本數を増やしたり、得意の裁縫で長さを調整したり、上着の胴を締めたり、靴下に凝ったり、髪の毛にウェーブをつけたり、乙女心は今も昔も同じでありました。天王寺線の満員列車で吹きさらしのデッキにつかまっていると(その頃は自働ドアなんて洒落たものはなく煤だらけの茶色い客車を機關車が引っ張っていました)、毎朝會う何處かの中學の生徒が腰に手を廻して支えてくれたりしました。ちょっと美少年でした。

  この頃までに、満洲事變、濟南事件、盧溝橋事件がありましたが、實情は餘り詳しく知らされず、殊に昭和14年(1939)のノモンハン事件は奮戰むなしく機械化蘇聯軍にボロ負けしたのが、やっと戰後になってから詳しく分ったくらいでした。なので國民は皆んな日本軍、特に猛訓練に勤しむ關東軍はとても強くて世界一と信じていました。

  難波の高島屋百貨店から心齋橋筋に入る交差點のとっつきに「南街(なんがい)劇場」と云ふのがあり、教護聯盟(生徒の補導團體)に見つからないように私服で友達と誘い合わせてよく映畫や實演を観に行ったそうです。淡谷のり子が映畫上映の幕間に出演してブルースを歌ったけれど、さすが東北美人だけあって色が抜けるように白かったそうです。
  12月の寒い朝、學校に行こうとして髪を梳かしていると、ラヂヲが眞珠湾攻撃のニュースを流し始めたので、「えー、ほんとー?!」 「うあー、まだ戰争するのー??」 と家中で感想を述べ合いました。この間まで支那の戰争はもうすぐ終わるらしい、と云ふ噂がまことしやかに流れていたものですから、子供心にもショックだったそうです。大人は、これは負けられんぞとカラゲンキを出していますから 「ふん馬鹿馬鹿しい」 とも云えず、「ぜいたくは敵だ」 「うちてしやまん」 と勇ましい標語が叫ばれるなか熱にうかされたような鬱陶しい日々が續くうち、いつも元氣に商賣していた八百屋の若者や洋品店の若旦那が、次々といなくなって、兵隊にとられてしまい、日支事變がいつまでも終わらないのに、この先アメリカと戰争しちゃ、もーわたしの命も20歳(はたち)くらいで終わり、と思ったので、したい放題することに決め、女學校を卒業した昭和18年に一人で満州の大連に来て、曾祖父(國策會社の重役になっていた)の世話(實は不倫監視)をしていました。汽船から降りて獨りで大連埠頭の大階段に佇んでいた氣分は今でも忘れられないそうです。新京(今の長春)にも居ました。街の中心地にある社宅は分厚い石壁の大きな建物でスチーム暖房があり、蛇口をひねれば温水がいつでも出てきました。内風呂もありましたが、プールみたいな大浴槽のある地階の共同風呂は24時間はいれました。家の中では夏服で平気なのに、外に出る時は、きぐるみみたいに重武装して行かないとすぐに凍傷にかかるのでした。

  當地の和文タイピスト講習所を修了したけれど、勤めに出ずに社宅で掃除・洗濯・買物を手っ取り早く済ませては毎日せっせと映畫館に通っておりました。獨逸・ハンガリーなど枢軸國經由の輸入映畫は殆ど全部觀たようです。新京や大連の街は廣場を中心に放射状に道路が延びていて、ひとすじ間違えると、とんでもない方向に行ってしまい、もとに戻るのに難儀したから、今でもそう云う場所は嫌いなのだそうです。だから東横電車(現在の東急)の田園調布驛には決して降りようとしません。大連は不思議な街で、買物途中で迷子になって舊市街に入ると、ひどい混雑と屋臺の湯氣で、その中から 「日本人は日本に帰れ」 (中國語で)と怒鳴る青年がいたり、新市街には亡命ロシア人がたくさん商賣をしていて、喫茶店の紅茶もサモワールがあり、銀の受臺にガラス・コップを嵌めてジャム入りという式なので、町全體がなんとなく浮世離れした處だったらしいです。露西亜人は面白い習慣があって、眞冬に河の氷を割って裸で飛び込んだり、どんなに寒くても夕方は必ず家族で散歩する(と云うより街路を集團でせかせか歩く)のでした。

  ある時、驛に満員列車が到着し、大勢の婦女子が乗ってゐゐましたが、みな軍人の家族で、同じような列車が次々と北からとめどなく来ました。蘇聯軍が越境し關東軍と交戰中なのだそうです。そのうち日本は降伏し、あっという間に高級軍人とその家族は内地に引揚げてしまい、無敵關東軍は影も形もなくなり、あとには敗残の日本兵と無防備な民間人がそっくり置去りとなってしまいました。
  これはもう駄目だ、それでは今度は何時たべられるか分からないから、隣の畑にはえている大根を抜いてきて、食べてしまおう、と考え、ニ三日は大根料理ばかり拵えていました。満州は蘇聯兵が進駐するところとなり、その下級の兵隊は勝手に人の家に押入って亂暴狼藉を働くので、自衛のため髪を剪り男の服を着て暮らしていました。冬の午後に獨りで留守番をしていたところ、扉をドシドシ叩いては露西亜語を喚き散らすので、すわロスケの襲来と、すぐさま押入に飛込み、天井板を開けて屋根裏に這い登り、元どおりに天井板を閉めたのと同時に、扉を銃の薹尻で打ち破って數人の兵隊が亂入して来ました。天井裏に隠れているのを見つかったら懐剣で抵抗して一人くらいは殺してやるかと考えながら梁から垂れ下がったツララを眺めていたところ、ロスケには氣の毒なことに、日本建築に特有の天井裏と云う構造を知らないらしく、押入れを開けても天井板が開くとは氣づかず、さんざん部屋を荒らし回った挙句、蒐集していた大量のブロマイド寫眞(女優男優のポートレート)の入った箱をそれぞれ戰果として抱え、お互いに何やら文句を云いあいながら空しく引揚げていきました。その後、暫くはロスケが引返してくるのではないかと思い天井裏に留まっていましたが、今度は誰かが飛び込んできて大聲で頻りに自分の名前を呼ぶので、やっと降りてみると、歸ってきた曾祖父が仰天の餘り、足の踏場も無く散らかった部屋の眞中で仁王立ちとなっていました。てっきりロスケどもに攫われたと思った様子です。やれやれ危機一髪でした。それからは、短髪と男装に加え、顔と手に木炭を塗って暮らしてゐゐました。
  住んでいたビルの向いが大きな陸軍病院で、終戰後に入ってきた國府軍がそこで共産黨軍を相手に戰闘するのを窓から見てゐたのですが、映畫のようにはテキパキいかず、長いあいだ鐡砲を持って地面に張付いたまま、15〜20分單位でノロノロ動くのだそうです。死んでいるのかと思っていた兵隊が、急に起きてトコトコ走ると、またドッタリ倒れて15分は動かなくなり、忘れた頃に動き出して、いつのまにかどこかに隠れてしまって見えなくなり、銃聲も滅多にしないので、見ているほうは 「退屈」 したのでした。引揚までは着物を支那人に賣ったりして食繋いでゐました。
  その祖母が、内地に歸ってきて、やもめになっていた祖父と出會って再婚して出来たのが、私の父というわけです。誰もが嫌がって辞退する朝鮮國境の邦人救出に事もなげに志願して、勇躍機關車に乗りこむ支那服の祖父の勇姿に惚れてしまったのだそうです。(ちょとヤヤコシかったかなー)  → top


大叔父

(曾祖父の長男)
  祖母の弟です。たいへんなヤンチャ坊主で、小學校の教室にチャンと座っていたためしがない、と云う問題児だったのですが、試驗を受けるのだけは巧くて、ろくに勉強しないでも難しい試驗に合格してしまうので、両親が驚いたと云うヘンな人です。同じ小學校にかよっている姉の教室にやってきては、授業中の廊下で出鱈目な踊りをして見せたり扉を開けて顔を出したりするので、真面目な姉の方は恥ずかしいやら腹が立つやらで閉口したのでした。為に操行點(生活態度の評価)が低くとても中學には合格しないだろうと云われておりましたが、6年生になって轉校し其處の擔任の先生がとても熱心に指導してくださった御陰で難關中學に好成績で合格しました。もともと筆が達者で、昔の全國の大名小名の名前と石高をスラスラとソラで云えるくらいの記憶力があり、物事に熱中すると、そればかりになってしまう性質があって、ついでにヤマをかけるのにも獨特の勘が働くので、日頃の行状からして、とても無理と周囲に思われている難關をパッと突破してしまうのでした。これはヤヤコシイ戰國の世で取るに足りない木造の山城を根拠地にし、なんとか全滅を免れて生抜いてきた御先祖の血のなせる業(わざ)でしょうか。
  曾祖父に從って満州に渡り大連の舊制中學に在籍しながら、勤勞動員で軍兵站部の飯炊をしていました。卒業後は旅順の工科大學に入ったのでしたが、學徒出陣で徴兵猶豫も無くなってしまったので突如、現地の醫専に入學しました。軍醫になると少しは生き延びられるだろうと云う考えで、醫業が好きというわけではないのです。當時は軍醫促成のための醫學専門學校が多く新設されてゐました。解剖實習をしているうちに終戰となり、學校も解散して、とうとう醫師免許は取らずじまいでしたが、これは醫學界の發展にとっても大伯父の行く末にとっても良いことでした。内地に引揚げてくると、私立大學の商業専門部に編入、途中で法學部に進み、競争の激しい採用試驗に難なく合格して大きな新聞社に就職、廣告局を志願しスポンサーのついた宣傳出版物の編集をしてゐました。全國を隈なく歩き回って寫眞を撮り、新日本年鑑と云うグラビア誌を作ったりしています。名所舊跡が見れて高級旅館に泊まっては美人の女中さんと仲良くなれるので、こんな良い商賣はないとうそぶいておりました。編集局に移って記者にならんかと云われても、夜討朝駆の激務に耐えられぬゆえ、と申立て、樂チンな方を選んでしまうのでした。この人はたいへんなモノマニアで、本業のかたわら歴史研究に没頭のすえ、後に室町時代の詳細な武家研究で幾つかの論文と本を書き、歴史學界に足跡を残しています。 → top

田舎の大叔父

(祖父の妹の夫)
  さて、こちらは田舎の親戚です。甲種合格で鳥取の歩兵聯隊に現役入隊し、二等卒から頑張って伍長勤務の衛生上等兵となりました。秋季演習で私供の曾祖父の家に宿營したところ、娘がこの赤十字腕章を巻いた兵隊さんに一目惚れし、ぜひ嫁に行きたいと云いだして、満期除隊後、彼は私どもの親類となったのでした。伯耆(ほうき)大山(だいせん)の麓で果樹園を營んでいましたが、下士官適任證書を持っていたので、日支事變に最初の充員召集を受けた時には、豫備の衛生伍長に強制的に任官させられてしまい(軍隊用語では 「志願ニアラサル下士官」 と云います)、御蔭でそのご終戰まで何度も召集され、とうとう衛生特務曹長(准尉というべきところ、本人は特務曹長と云います)になるくらいの長い間(約7年間)、とぎれとぎれに軍隊生活をしなければなりませんでした。ついこの間までピンピンして梨をつくっていましたが、とうとう老衰でなくなりました。  → top

田舎の大叔父の弟

(祖父の妹の夫の弟)
  その田舎の梨つくりの衛生特務曹長殿の弟です。この人物は兵歴明らかではなく、職業軍人(士官學校出身)というわけでもなく、ただ、いつのまにやら大陸の特務機關に所属してゐて、色々な秘密工作に從事したのだそうです。風貌は人目を惹くほうではなく、あまり印象に残らない特徴の無い顔立ちです。目は暢氣に笑っていて、體格は、あまりやる氣のなさそうな姿勢で、武張ったところが一切無く、動作も飄々と、實寸よりひとまわり痩せて細く見えました。性格は底抜けに明るく、呑めば樂しく話も上手く、次々と不思議な藝當を繰り出しては座をとりもつのですが、戰中の話はいっさい無しで、戰後も居所を轉々と變えては、地味な職業に就いてヒッソリ暮らしておりました。と云って生活に困っているというわけでもなく、そこそこ普通に暮らしてゐましたから、まことに不思議な人物です。今も大阪の町中で「平凡」に暮らしているはずです。  → top

田舎の大叔母の息子ども

(祖父の姉の息子)
  祖父の妹には息子が5人おりましたが、みな頑丈な田舎の青年で、みな兵隊になって、みな戰病死してしまいました。寫眞でしか、お目にかかっていません。 → top

祖父の同級生

  親戚ではありませんが、祖父の中學の同級生で、二人で寫眞館の記念寫眞に収まっています。その人は新品少尉の肩章をつけ、白手袋で指揮刀の柄を握っていますが、丸顔でなんだか子供みたいです。横には祖父が縞の背廣にカンカン帽のいでたち。舊制中學卒業後、士官學校に進んで、将校となってからは聯隊附でのんびり暮らしてゐましたが、終戰間際の歩兵中佐の時に、大陸のどこかで友軍の救援に赴き、自分の部隊を率いて突撃前進中、不運にも地雷原に踏み込んで戰死されました。  → top

廣島の親戚

  廣島市内に出て暮らしていた親戚は、原爆が落ちて以来まるで音信不通です。きっと全滅したのでしょう。 → top

曾祖母と大叔母

(曾祖父の正妻と末娘)
  家が代々の幕府代官所書役だった曾祖母は、廣島の山奥の田舎屋敷で、のんびり育ったのでしたが、お母さんやお祖母さんと同じように二重瞼の大きな眼に鼻筋の通った美人だったので、從兄で早稲田の學生だった曾祖父が、親にも親戚にも無断で田舎から東京に 「攫ってきた」 のだそうです。今で云ふ略奪結婚ですね。夏目漱石が住んでいた早稲田鶴巻町の家の近くに坂があって、それを登ったところにある家の2階に間借りして、當時新鋭の輸入ミシンを据え(驚いたことに未だに大叔母が保存しています)得意のワイシャツ仕立で内職をして夫の學費を扶けていたのでしたが、朝は二人で學校の食堂にいってご飯を食べて、氣樂に暮らしていました。夫が論文を書き始めると、必要な書名を書いた紙切れを貰って、古本屋に行っては、これこれが出たら取っておいてくださいと注文したのだそうです。そのうち食べるものも節約しなければならなず榮養失調になるくらい窮迫してきましたが、最初の子供ができた頃に、やっと夫の就職が決まり、大震災も無事に切抜けて、だんだん羽振りがよくなりました。

愛用のミシンと同型のもの

仙臺にて
  女中も何人か雇い、寶石も買い、廣い家にはいつも居候や親戚がゴロゴロして、賑やかに暮らすことができました。それと共に夫は家を空けることが多くなり、次々と才色兼備の藝者さんと仲良くなったのにはあきれます。
  夫がよく轉勤したので、2〜3年おきに、いろんな地方都市に住みましたが、聯隊の近所に居た時は、兵隊さんが演習で隊列組んで練兵場を往き還りするのを子供を抱いて見物したそうです。みな胴體が樽みたいに太くて、丈夫そうだった、と云います。或る時、隊列の端の下士官(兵卒の肩章は星だけで、下士官は星の他に金筋が一本入っているので見分けがつく)が物入から何やら黒いものとりだして、ポウーンと曾祖母(當時は二十歳臺半ばで、日本髪の美人だった、と自分で申しておりましたが)に放り投げました。とっさに受取った手のものを見ると、黒革の分厚い財布で、紙幣が詰まっていました、きっと練兵場付近の路上で拾ったものの警察に届ける手間を省くために、適當な人にバトンタッチしたのでしょう。下士官は頷いたように見えましたが、そのまま隊列と共に兵營に入っていってしまい、それきりです。財布は警察に届けました。
  昭和の初め頃、名古屋の徳川町に居た時は、家より庭のほうが立派でしたが、これは尾張徳川家のお城の續きに大きな庭園があった跡で、そこが屋敷町になってしまったからでした。近所に陸軍の歩兵将校が住んでいて、毎朝、從卒が馬の轡(くつわ)を取って迎えに来ました。聯隊長か、大隊長だったのでしょう。或いは師團勤務なのかも知れません。佐官以上と副官が乗馬本分でしたから。その後、東京杉並に引越すと、やはり近所に同じ将校が引越してきたそうで、軍人も轉勤が多かったのですね。
  當時は、まだのんびりとしていて、都會の月給取は餘裕があり、その奥さんは朝からお化粧をして身なりを整え、長火鉢に座り込んで、新しくお茶を入れ換えながら、ぶらぶらやってくる訪問者と四方山話に興じる毎日を過ごしておりました。正午になると女中の少女が 「おくさま、今日は(晝ご飯のおかずは)なにに致しませう。コーンビーフがありますけれど」 と云ってくるので、「ああ、それにしませう」 と答えては、キャベツを刻んで添えたのに輸入罐詰のコーンドビーフを炒めたのを、ソースをかけて、ご飯を食べていました。女中連は田舎から出てきて、あまり肉を食べたことがなかったので、毎日コーンドビーフを奥さんに奨めては、大喜びで一緒に食べていました。罐詰が足りなくなると、鷹揚な奥さんは 「なんでも良いから、すきなものを買っておいでなさい」 とお使いにだすので、三日に一度はそうしたものを一家中で晝ご飯に食べていました。曾祖母は装身具や髪形には、うるさかったのですが、食べ物には淡白で、女中が毎日おなじものを出してきても平氣だったそうです。
  當時の大家族には、どこでも居候というものがゐて、曾祖父も曾祖母も揃って生活には頓着のない浮世離れしたところがあったので、常時だれかしら親しげな人間が家で一緒に暮しておりましたが、それは家族ではなく、書生さんとか二階の誰それさんとか云ってゐましたが、一緒に御飯をたべて小遣をもらい、わーわーとにぎやかに分け隔てなく暮しておりましたので、早く云えばまあ居候です。その中で面白い人物としては、10年くらいの間、一緒に暮していたSさんで、新潟で曾祖父が會社支店の給仕に採用したのが始りでした。この人は話好きで、黙っているところを見たことが無く、四六時中おもしろ可笑しく子供の相手をしているのが得意でした。自分で勝手に童話を作って聞かせるのですが、そのうち曾祖父が名古屋に轉勤となると憧れの東京に出ていきました。神田の出版社に入りましたが、口先ばかり器用で餘り仕事ができず、私供の一家が大阪泉州の岸和田にいる時に、また舞戻ってきて、曾祖父の事務所の傭いになりました。そのうち戀人ができて或る日きゅうに居なくなりました。使っていた布團から當座のお金まで勝手に持って行ってしまったので、みな呆れましたが、終戰後、千葉の木更津の消印でお金を無心する手紙がきて、ここまでの人とは思わなかったと、とうとう皆わらってしまったくらいです。
  ほかにも同居人はいましたが、二階に無料間借りしていた夫婦は、東京の出身で、いつも身奇麗に洒落た立居振舞いの映畫通でした。 「あ、今日は何々が掛る初日です。樂しみですね」 と云いながら、明るいうちに早めの晩御飯を濟ますと、夏ならパリッと糊の利いた浴衣に揃いの團扇の下駄履きで、驛の向うの映畫館に散歩がてら行ってしまいます。それで何をして食べていたかと云えば、あまりよく分りませんでした。ときおり曾祖父の仕事を手傳ったりして、のんびり暮していたようです。御飯は皆と一緒に食べていましたから食費はいらず、家賃もなし、家族もてんでに好き勝手な行動をしてゐたので、こんな居心地のよいところはなかったのでしょう。
  女中は年頃になるとお嫁にいってしまうので、補充交代が頻繁でした。そのなかに掃除の下手な子がいて、部屋の隅の埃がすこしも取れていないのでした。曾祖母が掃除の様子を見ていると、せっせとよく働いているのですが、やはりゴミがとれない。曾祖母は考えたあげく、一緒に街に出て、「ほら、あの看板を讀んでご覧なさい」 と云うと、ちっとも讀めません。その足で眼鏡屋に入って近眼鏡を作りました。初めて眼鏡をかけた子は、こんなに世の中が明るいとは知らなかったと報告しました。それ以前は継接ぎのボロボロのボヤボヤで世間ができているように見えていたそうです。プレゼントした眼鏡は、ちょっと張りこんだので、「顔つきまで賢そうになった」 「いや、ほんとうに賢くなった」 と皆の評判を取り本人もご満悦でした。そのうち良いところにお嫁に行ってしまいました。
  女中の中には意地悪な子もいて、誰も家にゐなくなると小さい子供に、おもいきり目をむいて 「い〜〜」 をしてみせるのがゐました。ところが曾祖母は、そういうことには頓着しないで、「い〜」 の○子さんは長く家に勤めてゐました。寫眞を見る限りでは、ほがらかそうで屈託なさそうです。
  小學校に通う長女は、當時は給食がないので、瓣當をもっていくのですが、卵焼きがはいっていると、同級の子が、「それ、おいしい? どんな味?」 と、さも珍しそうにするので、最初は不思議でしたが、その同級生は生まれてからこの方、卵焼きというものを食べたことがなかったと分かってきたので、ひどく驚きました。氣をつけて見ていると、瓣當がなくて晝休みになるとすぐに校庭に出て遊んでゐる子もいて、先生が小使室に呼んでは自分の瓣當を分けてあげたり、一緒に牛乳を飲んだりしていました。世の中は、のんびりしていたとはいえ、想像を絶する貧窮も隣り合せで、東北では飢饉がくると娘を身賣に出したり、餓死者を出す家まであったのでした。
  やはり同級生で、本格的な洋館に住んでいる子がいましたが、長い間アメリカの大都會にゐて、ちょっと變わったところがあり、こちらは變わった人が大好きだったので遊びに行くと、小さな部屋に案内されました。そこに綺麗な着せ替えの西洋人形が小さな家具調度に囲まれて座っていて、「この部屋は、このお人形さんのためだけのお部屋なのよ」 と云うので、びっくりました。小さなベッドに安樂椅子、箪笥、化粧臺の中には、着替えの洋服にリボン、化粧瓶やブラシ、ヘアピンまであって、小卓の上は紅茶茶碗とポットに模造のサンドイッチがひと揃い並んでいました。これはアメリカで女の子なら大抵は持っていて、熱心に服や家具を蒐集してゐゐるのだと聞かされて、さらに驚き、誰でも自家用自動車を自分で運轉して買物に行ったり百階建てのビルジングに勤めに行くのだと云う話になると、開いた口がふさがらないのでした。
  このため、この曾祖母の長女(私の祖母にあたる)は、その後アメリカの實力はたいしたことはないと大人が云っても、あまり信用しなかったそうです。
  さて戰時中は、曾祖母は夫と仲が悪くなっていたので内地に残っておりましたが、人をそらさないところがあり、いろんな人がその茶の間を訪れて、淹れたての茶を喫しながら話込んでいきました。もと藝?で長唄のお師匠さん、驛長さん、工場主、その他なんでこういう人が長火鉢の傍に座っているのかと思うくらい雑多な職業の人々が、裏庭から見渡せる廣大な玉葱畑を眺めながら、入替り立代り、樂しそうに世間話に興じてゐゐるのは奇妙な圖です。
 ちょうど信太山の野砲兵第4聯隊の近くを通る南海電氣鐡道の驛そばに住んでいて、大勢の兵隊さんが貨物側線から積載作業をする時に、井戸水を貰いに来たそうです。次女(大叔母)は無邪氣な女學校生徒だったので、たいそうモテて、いまだに兵隊さんフアンです。高等女學校に入學して勤勞動員が始まり近くの東洋紡績の毛布工場に通いました。仕事は面白かったのですが、原料が羊毛なので、それを撚り合せていると油臭くて、おまけに繊維屑が作業場の中に猛烈に舞飛ぶので弱ったそうです。空襲警報が鳴って、「退避〜!」 と號令が掛かると米軍の戰闘機が飛んできて機銃掃射をしました。海岸の砂がパパパと飛んで、防空壕の縁からそれを見物していました。そのうち終戰になり、新制高校生になりました。平和になったので三味線や踊りを習ったり、友達と誘い合って寶塚歌劇などに通って、のんびり樂しく暮らしてゐましたが、そのうち満洲から父親や姉兄が引揚げて来ました。朝鮮戰争が始まる前に高校を卒業し、寶塚音樂學校の生徒になりました。昔風のお父さんが、あっさり受驗をOKしたので、到底許可が出ないだろうと思い込んでいた家族は以外な展開に吃驚しました。やはりお父さんは娘が可愛いのですね。海老茶の袴を穿いて南海電車、地下鐵、阪急寶塚線に乗継いで學校に通うのは大變なので、その頃大阪市内に居た姉の處に下宿してゐました。卒業して少女歌劇の舞臺に立っておりましたが、寶塚映畫と云ふのがあって、そこにエキストラで出たり、新藝座と云ふ新喜劇にも出てゐゐました。賣出中のトニー谷と樂屋が隣だったりしたそうです。そのうちテレビ時代となり、ドラマの端役やコマーシャルで仕事をすると、當時は全て生放送なので、やり直しが利かず、なかなか大變だったと云います。
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藥劑師の親戚

(曽祖母の弟)
  曾祖母の弟です。畫家になりたくて、東京にでてきて曾祖父の居候をしたり、當時はモダンなオートバイ屋兼ガソリン・スタンドを手傳ったりして、繪の勉強をしてゐましたが、義兄にあたる曾祖父が「堅い職業に就き給え」と學資を出して名古屋の藥學専門學校に入れてしまいました。
  そこを卒業して藥劑師開業免状をもらい、田舎の母親を呼んで、ついでにお嫁さんももらい、大阪の城東區で藥局をしていました。そのお嫁さんのお父さんは西洋人で、そう云われてみれば顔立が日本人離れしていて、その息子達もなんとなく目鼻立ちがエキゾチックでした。お店の方は近くに國内最大の陸上兵器製造工場の 「陸軍砲兵工廠」 があり、そこにかよう職工さんの長屋が延々と續く町並で随分と繁盛したそうです。處方箋の調劑もしていましたが、その頃のお客は一寸おなかが痛くても醫者にかからず(なにしろ健康保險が普及しておらず、お金がいるので)藥局に直接に藥を買いに来たのだそうです。店主の藥劑師は近眼で乙種のまま第二國民兵役になってゐゐましたが、警防團と云うのができて、空襲被害の消火活動にあたるので、その役員になってしまい、制服の襟に「消防大尉」の徽章を付けた寫眞が残っています。これは「しょうぼう・だいい」と讀むのだそうで、海軍式の讀み方です。陸軍式では「たいい」ですが、海軍は薩摩訛なので 「だいい」 と云います。なぜ警防團が海軍式なのか不明ですが、それは大阪のその地區だけが、そうだったのかも知れません。或は日本海軍が模範としてゐゐた英國海軍水兵の有力な再就職先が消防署だったので(水兵はマストなど高いところに登って作業するのが得意なので)、大阪ではそう呼んでいたのでしょうか、いろんな空想が浮かんできます。
  大空襲で砲兵工廠とその周邊部は丸焼になりましたが、藥局の並びだけ不思議に焼け残り、そのまま商賣しておりました。以前の店が狭かったので、筋向かいに新しく店を借替えて住んでいたのですが、前いた界隈は焼野原になりました。
  藥局は大通りに面した店舗兼用長屋の右はしです。建て主が地主から借りた土地に長屋を建てて、またそれを貸す方式で、階段の壁一つ向こうはお隣です。隣はしもたや、その次が牛乳屋さん、それから新聞販賣所で、ひと棟の大きな長屋になっています。藥局の中は1/3が硝子陳列棚の並んだ石敷き土間で、お客さんの座る丸椅子が幾つか置いてありました。あとの1/3が、上り框に晝でも電燈の燈った硝子張の調劑室と藥庫で全部板敷き、のこりの1/3が茶の間と臺所、洗面、厠と縁側、狭い庭の半分にあとから風呂場を建て増しました。藥劑師と奥さん、男の子3人、お祖母さんの6人が、茶の間で卓袱臺囲んでご飯を食べていました。藥劑師の 「おとーちゃん」 は、ときどき酔っ拂うと押入の下に掘った防空壕跡に轉り込んで、「ワシはモー死んだものと、おもーてくれ」 とのたまわって、翌日の朝御飯には出てこなかったそうです。
  終戰直後の話に、城東線(大阪城の東外郭を工廠に沿って走るので)と云っていた國鐵の驛前に映畫館兼芝居小屋があり、そこに旅役者が巡業に来るのですが、座長が藥局にやって来て 「ヒロポンをくれ」 と云います。當時は戰前の名残で麻藥と云えば阿片くらいしか頭に浮かばない、コカイン等の覺醒劑は容易に手に入った頃の延長だったので、そう云う客が跡を絶たないのです。藥局主人は潔癖症で、「その類の薬は、うちには置いてないから、餘所を當って呉れ」 とけんもほろろに追返すのですが、「そんな筈は無い」 と相手も強情です。「これやらないと、芝居に艶が出ない」 などと理屈を出して、ごねにごねた、それを本當に置いて無いのだと分らせる迄がひと苦勞だったと云っていました。
  そして、昭和三十年代の終り頃には二階の床が傾いてきて、そこで寝起きしていた子供らは夜中に段々轉がっていって、朝になると必ず壁際に寄せ集められているようになりました。今ではもう、分厚い硝子の引戸を連ねた昔風の藥局も道路擴張で取壊されてしまい、息子どもは別の職業に就いて跡を継ぐ者はおりません。  → top

縫製組合長の親戚

(曽祖母の兄)
不思議な人で、戰時中は行方不明、終戰後に突如として姿を現し、これが伯父さん、と皆に紹介されました。どうして長い間いなかったのか、その秘密はとうとう未だに明かされておりません。一説によると、外國に行っていて、ある事情で歸るに歸れなくなってゐゐたのだ、と云い、いや、一途な性格なので思想犯で檢舉されて監獄に入ってゐたのだろう、と云う説もあります。或いは機密の仕事に從事してゐゐたので、家族にもその事情及び所在を知らせる事が叶わず、やっと戰争が終わったので、戻ってきたのだとも云います。本人が全く何も云わないので、誰も經緯を知らないのです。
石見(いわみ)にある幕府代官所で書役を務めていた家に生まれたので、風貌は侍そのもので、面長の鼻筋の通った眼の大きな、ずいぶん立派な顔立をしてゐゐました。若い頃から劔術が上手く、相當の有段者でした。普段から身のこなしが敏捷で眼光鋭く、これは面當の格子の間から常に相手の動きを見据える剣道の癖で、直らないのだそうです。背が高いので、それを生かして面を取るのが得意でした。道場で對戰者の頭を散々に打って勝ち續けていると、とうとう先方が怒って、「組討ち〜」 と叫び、竹刀を放り出し、面をかなぐり捨てて、恐ろしい勢いで突進してきて、壁際に押し附附けられてしまう事がよくありました。相手は多分、戸山流のもと軍人だったのだろうと思われますが、それからは劔道とは云わない格闘技となってしまい、こう云ふ事は、軍隊の實戰劔術ではよくやるのだそうで、戰國の世の合戰で祖先もこう云うのをしていた筈です。突撃を受止めた衝撃で、腹の隅が 「ぐう」 と云うのだそうです。そのうちに、長年 「ぐう」 を續けていると、「ぐう」 が 「ぐに」 になり、「ぐね」 になって、とうとう脱腸になってしまいました。笑うと 「ぐね」 が出るので、片腹を手で押さえてゐましたが、戰後間もなく手術して、「こんなに簡單に治るんだったら、早くしておけば良かった」 と云ってゐゐました。けれど、それからも笑うとき必要も無いのに片手で腹を押さえると云う仕草だけは治りませんでした。
戰後の復興期から大阪で自宅兼用の小さな縫製工場をしていました。一階が作業場で二階が自宅になっていました。しっかり者の奥さんをもらった所為で工場はきちんと動くため、本人は時々いなくなってしまいます。
  「お父ちゃん、どうしたんかなー」 と皆で云いだす頃に、ひょっくり歸って来きます。別に悪所で遊んでいる譯ではなく、品行は至って方正です。この放浪癖は老人になってからも治らず、60歳を越えてから自働車免許を取ってしまうと、行動範囲が廣がって、とんでもない所から電話が掛って来る事となりました。
  さて終戰直後に話が戻りますが、時々は浮浪兒みたいな子供と一緒に歸ってきます。風呂屋に連れて行き、御飯を食べさせ、暫く家に置いて新しい働き口を世話したり、汽車賃と當面の生活費をあげて故郷に返したりしました。橋の上で、ぼんやり水面を見ている薄汚れた子供は、鍛冶屋の徒弟でしたが、ヘマをすると怖い親方が熱く灼けたヤットコで 「じう」 と焼きを入れるのだそうで、腕や足に火傷の痕がたくさん附いていて、飯もろくなのを喰わせてくれないから、飛び出してきたと云うのでした。そうかと思えば、空襲で一家全滅となり自分だけ生残った天涯孤獨の、どう見ても小學生くらいの子供が 「おっちゃん、煙草すいたい」 と云って紙巻を旨そうに吹かしたりしました。今から考えると同じ日本とは思えない世の中だったのですね。
世間が落着いてくると、縫製同業組合の理事長をしてゐゐましたが、放浪癖は治らず、自轉車に乗って隣町の弟の藥局に、ぷらぷら現れては、母上の御機嫌を伺い雑談してゐたかと思えば、自働車でどこかに出て行き、翌日には 「おーい、いま富士山の麓におるんじゃがのー」 と電話がきたり、次の週には北海道にゐて、日を置かずに廣島の山奥の郷里に突如として出現、昔馴染みのお寺の住職と懐舊談に興じたり、なんとなく浮世離れした人です。  → top

伯剌西爾(ブラジル)の伯母さん

(曽祖母の従妹)
廣島の親戚にブラジル移民となった人がゐゐて、それは内地で何をやってもうまくいかなかったので、新天地を求めて海を渡ったのですが、それにつられてその兄弟もみな移民船に乗ってしまいました。ところが現地に着いてみると3年間は農場で働かなくてはならないと云うので、嚴嚴重な監視のもとに皆で畑を耕しておりました。その人の娘は氣立て明るく丸顔の器量良しだったので、農場監督がお嫁にしたいと云い出しました。そして監督夫人になってしまったので、一族郎党は樂な仕事に就くようになり、年季が明けるとそれぞれ念願の商賣を始めました。さて、農場監督は拳銃を腰に提げた嚴つい男でしたが、一緒に暮らしてみると實は非常な發明狂でした。いろんなものを考案しては愉しんでいたようですが、そのなかで野菜を刻む簡單な調理器具が大變に賣れて、特許を取ってゐゐた御蔭で一夜にして百萬長者となってしまいました。その後もちょっと工夫をした洗濯挟だとか日常品の特許を幾つか持って、優雅に暮らす事ができました。白麻の背広に縁無眼鏡、太い指に葉巻を持って、安楽椅子にどっかり座り怖そうな顔の片頬でニンマリしている寫眞を見ることができます。一粒種の息子は、ブラジル陸軍士官學校を卒業して工兵将校になりました。卒業式で校長のにこやかな将軍と握手をして何やら賞状を貰っている伯母さんの嬉しそうな寫眞もあります。
この「ブラジルの伯母さん」は、ときどき日本に里歸歸りすると、朝は鍋に牛乳を入れて煮立ったところにココアをどっさり混ぜて飲んでおりました。ハンドバックにはいつもチョコレートが入っており、外出中は煙草代わりに時々つまんでいました。  → top


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