★★親族の軍隊體驗(明治以降)★★prewar & wartime family history: their army experiences
田舎の大叔父(豫備役衛生准尉)
廣島の親戚
藥劑師の親戚(曾祖母の弟)
縫製組合長の親戚(曾祖母の兄)
伯剌西爾(ブラジル)の伯母さん → top
餘談
大正12年夏、曾祖父は妻とは別の女性の所に遊びに行って、仲良く、おひるご飯を食べていたところ關東大震災に遭い、ほうほうの態で澁谷の先までやってきましたが、刀や竹槍で武装した自警團の檢問に引っ掛りました。ラジヲなど無い世の中で、戒厳令が出ているのも知らず、もともと文句云いの書生なので、いろいろ苦情を述べ立てました。廣島辨が混じっているので東京の人には上手く聞き取れないところがあって、「ばびぶべぼ、と、ゆーてみい」とか「貴様あ主義者か」などと難詰されて問答が妖しくなっていき、自警團の皆さん白兵を振りたてて險悪な雰囲氣となったので、心配した親切な巡査に引摺られ警察署に連れて行かれました。保護檢束のような形で留置場に一晩留められて、翌朝やっと早稲田は鶴巻町のグラグラになった狭い下宿に歸ってきたそうです。その頃から曾祖父と曾祖母の仲は良くなくなりました。一家の主人たる者が大事な時に家を空けて一晩も歸ってこないなんて、と云うのが曾祖母の感想です。
餘談2
就職したところは新興の生命保險會社で、地方支店では専ら圖書館に通い、専門の本を濫讀して保險經營の知識を詰込み、内勤から營業に至る大幅な改善提案を論文にして重役に出したところ、「理論としては良く出来ている。それでは君が實際にやってみ給え」となって、急に支店長に任命されてしまいました。設立間もない會社で全國に支店網を展開中でしたので、餘程人材が不足してゐたのでしょうか。
幸い支店の業績はあがり、事務も整備され、収益が目に見えて上昇したので、其の儘支店長を續けることになりました。けれど昨日まで同僚だった人が皆で自働車の扉を開けてくれたり先にお辞儀をしてくれたりするので、それが嫌だったと本人は申しておりました。この支店長は時々行方不明になる癖があり、月々の營業締切日に、どこに電話を掛けても見つからず部下を大いに困らせたそうです。それでも職を續けられたのは、本人が大變な社交家振りを發揮し、大口の顧客を繋ぎとめて(今で云ふ團體保險?)業績を鈍らせなかった為なのだそうです。
その後、あちこちの支店を巡って、事務改善と業績向上に専心し、そろそろ重役になろうかという矢先に、急に辞職してしまいました。そして大阪の岸和田に行き、そこで保險代理店を自分で開いて、悠々自適の暮らしに入ってしまいました。一説には超一流の美人藝妓を専務と取合いになり、にっちもさっちも行かなくなって辞めてしまったのだと云います。仕事も成功しましたが、あっちの方でも大變な發展をしていたのですね。
乞われて満洲の國策會社の重役になり、大連、新京に單身赴任しましたが、娘が監視役でくっついていきました。でも、そこでも、いつのまにやら才色兼備の立派な女性と仲良しだったのには驚いたと云います。
餘談3
曾祖父の早稲田の同級生で、Kさんと云う人がいて、たいへん仲好しでした。授業が終ると、必ず教壇に詰寄っては先生を質問攻めにしてゐる學生があるので、やはり質問大好き學生だった曾祖父と意氣投合しました。それがKさんだったのですが、出身は佐渡で、北一輝の遠縁にあたるそうです。丸い顔つきや片目がひんがらのところが寫眞の北氏に酷似しております。
性格も壮士風で、「おう、いるか」 と云っては突然に訪ねてきたそうです。小麥粉をほぼ獨占する製粉會社に勤めましたが、仕事をさぼって神宮球場に早慶戰の應援に行ったのが露見して、重役に呼ばれ詰問されたところ、一緒に行った同僚は瓣明にしどろもどろで馘になってしまいました。ところが次に呼ばれたKさんは、胸を張って「浩然の氣を養いに行ったのであります!」と明言し、逆にその重役に度胸の良さを感心されてしまい、お咎めなしとなりました。
會社の幹部になっても曾祖父とKさんは二人でよく遊びに行ったようですが、雪の降る夕方に、人力車を連ねて御飯を食べに行く途上、黒板塀に囲まれた狭い長い路地にさしかかり、間の悪いことに向こうからやってきた俥と鉢合わせとなって立ち往生してしまいました。向こうの車夫と此方の車夫が互いに、道を譲れ、譲らない、の押問答を始め、雪の深い夕方は癇が立つのでしょうか、だんだん喧嘩腰になっていきました。向こうは俥の傍に護衛の若い衆がついてゐて、これが意外なことに大人しく、頻りに車夫を宥めようとしたのですが、なにかのはずみで揉み合いとなってしまいました。こちらの車夫が地面に蹴倒されたので、それまで黙っていたKさんが俥を降りスタスタ相手のところに近寄ると、いきなり若い衆の鼻柱を殴りつけ、脛を蹴飛ばし、ひるんだ車夫を押しのけ、先方の俥の乗客を引摺り降し襟髪を掴んでしまいました。よく見ると身なりの良い中年で眼光鋭く癖ありの顔貌(かおつき)、ずしりとした貫禄でしたが、こう詰寄られては身動きが取れず、若い衆が蒼い顔をして懐に片手を入れたのを 「素人さんに手え出しちゃ不可(いけ)ねえ」 と制し、「いや元氣の良いお人だ、若いのがずいぶん失禮をしました」 と向こうから温厚に和解を提案して収まりました。あとで 「あれは、どう云う人か」 と訊くと、それは博徒の大親分で、子分が何百人と云う土地一帯の大總長でした。こちらは刺客と間違えられて、危うく若い衆の返討ちに遭ってゐたかも知れん、と改めて思い當たったのでした。Kさんは後に 「いや大親分ともなると凄い人格者ぶりじゃ」 と頻りに感心しておりました。これは「雪中の立廻り」と題して時折、我が家の茶飲み話に出ましたが、「じゃあ、お父さんは、その時どうしていたんですか」 と問われると曽祖父は、「いや、K君がいきなり俥を降りるから、わしも雪のなかをヨタヨタ走っていくと、もう既に決着がついておったのだ。電撃作戰とは、あゝいうのを以て模範とする」 皆は 「なあんだ、結局あまり喧嘩の役に立たなかったのじゃありませんか」 「わははは」
Kさんは意外なことに奥さん孝行で、宴會で呼ばれていくと、あとで必ず奥さんを同じところに連れて行って、同じ料理を二人で食べました。
満州の國策會社の重役になってからは、髭をはやし太ってしまいましたが、玄關をガラリと開け 「おう、○○君、いるか! ひさしぶりだのー」 と訪ねてきて、子供をつかまえると 「おお、N子ちゃん、元氣か、大分おおきうなったのー、うわははは」(なにが大きくなったのかはつまびらかではありませぬがw)と呵々大笑。中味はちっとも學生時代と變わりませんでした。
まことに快男兒を繪に描いたような人です。 → top
大阪の風景
餘り喧嘩はしない方でしたが、中學で柔道を習っていましたから、多少の技は使えた様子です。遠足の山の上で酒を呑んでゐる時に、文句を並べて絡んでくる男がいて、急に腹が立ったから相手の肩をトンと突くと、はずみと云うのは恐ろしいもので、その人は山頂から谷底まで轉げ落ちてしまいました。その時はさすがに心配になって、救出に向かおうとしたところ、彼氏は何とか這い上がってきたそうです。
昭和の御世も年が進むと、だんだん世の中は不景氣になってきて、餘り出世の見込も無いので、家族ともども満洲に渡り國策會社の支店長になりました。熱河承徳あたり(萬里の長城が山海關で北支那と満州を隔てる古代國境の地)の出張所に通う時には、劔附鐡砲を持った警備歩兵同乗のバスに乗って山奥を行きます。途中で熱い湯氣の出る饅頭(まんとう)を食べるのが樂しみだったとの由、辿り着いた先で明るいうちに用件を濟ませると、憲兵分駐所の曹長殿と白酒(パイチュー)を酌み交わしながら情報交換すると云う生活で、いろいろ怖い思いをしたそうです。
昭和二十年風雲あやしくなってきたけれど、もう満38歳の第二國民兵役なので、よもや兵隊にとられまいと思っていましたが、鞍山の支店長から本社に轉勤辞令をもらって赴任途中の新京驛頭で召集令状を受取り、7月24日に吉林(きつりん)の關東軍白濱工兵隊(白濱と云う人が隊長の工兵聯隊と思われる)と云うのに入隊してしまいました。中年の癖ありげなおっさんばかりが、未教育補充兵で入ってきたので、若い上等兵も下士官も固ってしまって、手も口も出ない状態でしたが、もう陸軍もオシマイだと思った様子がアリアリと挙措動作に出ており、「なんだか可哀相だった」 と云います。なにしろ30人の班に小銃が二丁しかなかったのを見ても、運動不足のおっさん連が息を切らせて 「○○二等兵、厠に行って参りますっ」 と初年兵の動作をやっているのを見ても、陸軍が窮迫しているのは目に見えるから、意氣が上がらないのは當り前だったでしょう。けれど班附の伍長が一人で仕方なく張切って、ビンタを張りながら内務班生活を叩き込んだので、おっさんらも何とか兵隊らしくなったのだそうです。(その後、部隊が解散してから奉天驛でその伍長さんと出くわした時には思わず嬉しくなったのですが、荷物を澤山両手で抱えていたので、お返しの鐡拳を献上できなかったのは残念と云っていました)
まがりなりにも内務班生活と工兵の基本動作を教えてもらいましたが、急に運動したので筋肉がつっぱって厠で座れないのは弱った、そうです。工兵の最初の各箇教練は、圓匙(スコップ)で土を掘る動作で、少し進むと綱の結び方など細かいものにいきます。私も庭仕事をしているのを見ていて、スコップの使い方に無駄が無いので感心したことがあります。紐を切る時は鋏を使わず、掌に何度か不思議な巻き方をした後、ひょいと引っ張ると、プツリと切れてしまうのです。これは導火線の長さを調節する技法なのだそうで。しかし爆藥を扱うまではいかなかったようです。
勤務では、夜の歩哨が一番怖かったらしく、八路(パーロ)や國民党軍(クオミンタン)のゲリラがきたら 「たれかーっ たれかーっ」 と悠長に歩哨規則とおりの誰何(すいか)をしているうちに、こっちがモウやられているから、これが怖かったと云います。炎熱下の訓練を續けるうちに、或る夜、非常喇叭が鳴り集合が掛りました。晝に掘った塹壕に入って待っていると、蘇聨の爆撃機がやってきて、照明彈を投げるとその明かりの中で悠々と旋回を繰り返し我が兵舎を偵察していきました。防空壕から眺めると花火見物をしているようで、なかなか綺麗だったなーと、今でもその話が必ず出てきます。遥か遠方には焼夷彈が雨のように降っていて、それは蘇聨による吉林ダム襲撃でした。
工兵隊は撫順炭礦護衛のため鐡道にて南下し、南新水で下車、驛前に露營を始めました。すると入營1ヶ月に満たない8月18日朝、集合がかかり、年寄りの将校が召集兵を前にして 「日本は停戰したから、此處に於いて解散する」 と云いました。次に昂奮した若い将校が出てきて 「自分らは徹底抗戰するから、志を同じくする者は一緒に戰おう」 と言いました。祖父はお土産の毛布と、まだ支給されていなかった二等兵の給料を貰って四平街驛まで辿り着き、そこで新京行きの列車を待ちましたが、3日たっても乗れません。満鐡社員の計らいでやっとこ乗車し、新京に着くと驛構内は蘇聨兵が盛んに出没し、さんざんに荒らされてゐました。既に平服に着替えてゐたので目立つことなく、すばやく驛を出て會社のある康安大路に向かいました。同僚と共に會社の資金を自宅に移して保管しましたが、妻子は南の方に避難して家はもぬけのからでした。歸國まで大變だったそうですが、朝鮮國境の社員家族救出に志願して、支那人に變装し零下30度の雪中を汽車に乗り込んだのが、なかなか冒険だったといいます。ところがせっかく救出に成功したものの、自分の妻子は疫病で皆亡くなっていて、かろうじて6人ゐた子供のうち小學生の長男と次男だけが生き残っていました。次男は内地に歸ってから中耳炎をこじらせて亡くなってしまいました。内地に歸國まで1年ほど大連に足止めされました。
進駐してきた蘇聨兵はシベリアの奥地から出てきた譯の分からない連中ばかりで、街頭でバッタリでくわすと、「ダワイ、ダワイ」 と腕時計を取り上げてしまうのでしたが、ネジを巻くのを知らないので、腕に五箇くらいつけていて、ネジがきれると捨ててしまい、新しいのを調達するのだそうです。親戚の齒醫者さんに治療に来ていた蘇聨兵は(隊には齒科醫が居ないそうで)、家族の寫眞を見せては自慢しているうちに、ワーワー泣き出すから、弱ったと云います。街頭で無闇に發砲するので、一軒おいて隣に住んでいた人が夕飯中に流れ彈に當って即死したのは、氣の毒でした。行って見ると湯豆腐の豆腐をくわえたまゝだったそうです。曾祖父も廣場で小銃を構えた蘇聨兵に呼び止められて、それが何やらややこしい事を云い出したので、逃げ出すと、後ろから發砲されましたが、彈はあたリませんでした。
さてそこで、突然に私の祖母が登場します。母方の曽祖父の長女です。大阪の難波(なんば)は、銀杏並木を連ねたメインストリート御堂筋(みどうすじ)の終點、そこには和歌山と高野山に行く 「南海電車」 の始發驛を兼ねた百貨店高島屋がありました。そこを出ると 「ミナミ」 と云われる繁華街が擴がり、今は見る影もありませんが當時は高級商店街だった心齋橋筋(しんさいばしすじ)から劇場街の千日前通、ありとあらゆる食べ物屋の並んだ戎橋筋(えびすばしすじ)、道頓堀(どうとんぼり)、惣衛門町、「大丸」 「そごう」 の両百貨店が並ぶ本町(ほんまち)まで、大變な賑わいを見せたところです。少し道を外れると玩具問屋で有名な松屋町、藥問屋の道修町、株屋の北濱、船問屋の船場と、當時の日本經濟の實質的な活動拠點がありました。難波から少し南にさがった天王寺に佛教系の私立女學校があって、祖母はそこに通っていました。合格確實と保障されていた女子師範學校の入學試驗で、心臓が悪くて落ちたので、なんだか勉強が馬鹿らしくなり、地味な私立學校に入り、授業の合間にうどんを食べながら、のんびり暮してゐました。これが身軆強建で師範に入っていたならば、きっとこわい先生になっていただろうなー、と皆思ったものです。日赤看護婦もよいなー、とも云っていたので、そうなったらきっとこわーい婦長さんになっていただろうなー、とやはり皆は思いました。布團を被って徹夜で冒險小説や探偵小説に讀みふける、ちょっと拗ねた文學少女になってしまったので、それでまあ良かったかもしれない、と今更ながら皆思っております。
紀元は2600年と云う御祝いをしてから、女學校もそろそろ軍國色濃くなってきて、分列行進やら薙刀やら銃剣術やらを習って、ついでに大阪城にある歩兵聯隊に射撃の訓練にも行きました。歩兵銃を撃たせてくれて、それから機關銃も1連射させてくれたので大満足でした。その頃の女學校はさぞや嚴格だっただろうと御思いでしょうが、これは大阪だけかも知れませんが、案外に適當で、音樂の先生の綽名はスラールと云うのでした。それは髪の毛が薄くて、残った毛を大事に長く伸ばしてポマードを塗り頭頂に撫で附けてあるのですが、朝禮の時、風が吹くとそれが靡いて、フワフワと空中を漂う有様が、ちょうど樂譜の記號にあるスラールと云う形になってしまうので、校庭に整列中の全校生徒が一齋にクスクスと笑うのでした。すると先生は 「何が可笑しいか!」 と髪をたなびかせながら怒鳴りますけれど、なかなか笑いは収まらないのでした。制服もセーラー服に決まっていましたが、お洒落な子はスカートの襞を細かくして本數を増やしたり、得意の裁縫で長さを調整したり、上着の胴を締めたり、靴下に凝ったり、髪の毛にウェーブをつけたり、乙女心は今も昔も同じでありました。天王寺線の満員列車で吹きさらしのデッキにつかまっていると(その頃は自働ドアなんて洒落たものはなく煤だらけの茶色い客車を機關車が引っ張っていました)、毎朝會う何處かの中學の生徒が腰に手を廻して支えてくれたりしました。ちょっと美少年でした。
この頃までに、満洲事變、濟南事件、盧溝橋事件がありましたが、實情は餘り詳しく知らされず、殊に昭和14年(1939)のノモンハン事件は奮戰むなしく機械化蘇聯軍にボロ負けしたのが、やっと戰後になってから詳しく分ったくらいでした。なので國民は皆んな日本軍、特に猛訓練に勤しむ關東軍はとても強くて世界一と信じていました。
難波の高島屋百貨店から心齋橋筋に入る交差點のとっつきに「南街(なんがい)劇場」と云ふのがあり、教護聯盟(生徒の補導團體)に見つからないように私服で友達と誘い合わせてよく映畫や實演を観に行ったそうです。淡谷のり子が映畫上映の幕間に出演してブルースを歌ったけれど、さすが東北美人だけあって色が抜けるように白かったそうです。
12月の寒い朝、學校に行こうとして髪を梳かしていると、ラヂヲが眞珠湾攻撃のニュースを流し始めたので、「えー、ほんとー?!」 「うあー、まだ戰争するのー??」 と家中で感想を述べ合いました。この間まで支那の戰争はもうすぐ終わるらしい、と云ふ噂がまことしやかに流れていたものですから、子供心にもショックだったそうです。大人は、これは負けられんぞとカラゲンキを出していますから 「ふん馬鹿馬鹿しい」 とも云えず、「ぜいたくは敵だ」 「うちてしやまん」 と勇ましい標語が叫ばれるなか熱にうかされたような鬱陶しい日々が續くうち、いつも元氣に商賣していた八百屋の若者や洋品店の若旦那が、次々といなくなって、兵隊にとられてしまい、日支事變がいつまでも終わらないのに、この先アメリカと戰争しちゃ、もーわたしの命も20歳(はたち)くらいで終わり、と思ったので、したい放題することに決め、女學校を卒業した昭和18年に一人で満州の大連に来て、曾祖父(國策會社の重役になっていた)の世話(實は不倫監視)をしていました。汽船から降りて獨りで大連埠頭の大階段に佇んでいた氣分は今でも忘れられないそうです。新京(今の長春)にも居ました。街の中心地にある社宅は分厚い石壁の大きな建物でスチーム暖房があり、蛇口をひねれば温水がいつでも出てきました。内風呂もありましたが、プールみたいな大浴槽のある地階の共同風呂は24時間はいれました。家の中では夏服で平気なのに、外に出る時は、きぐるみみたいに重武装して行かないとすぐに凍傷にかかるのでした。
當地の和文タイピスト講習所を修了したけれど、勤めに出ずに社宅で掃除・洗濯・買物を手っ取り早く済ませては毎日せっせと映畫館に通っておりました。獨逸・ハンガリーなど枢軸國經由の輸入映畫は殆ど全部觀たようです。新京や大連の街は廣場を中心に放射状に道路が延びていて、ひとすじ間違えると、とんでもない方向に行ってしまい、もとに戻るのに難儀したから、今でもそう云う場所は嫌いなのだそうです。だから東横電車(現在の東急)の田園調布驛には決して降りようとしません。大連は不思議な街で、買物途中で迷子になって舊市街に入ると、ひどい混雑と屋臺の湯氣で、その中から 「日本人は日本に帰れ」 (中國語で)と怒鳴る青年がいたり、新市街には亡命ロシア人がたくさん商賣をしていて、喫茶店の紅茶もサモワールがあり、銀の受臺にガラス・コップを嵌めてジャム入りという式なので、町全體がなんとなく浮世離れした處だったらしいです。露西亜人は面白い習慣があって、眞冬に河の氷を割って裸で飛び込んだり、どんなに寒くても夕方は必ず家族で散歩する(と云うより街路を集團でせかせか歩く)のでした。
ある時、驛に満員列車が到着し、大勢の婦女子が乗ってゐゐましたが、みな軍人の家族で、同じような列車が次々と北からとめどなく来ました。蘇聯軍が越境し關東軍と交戰中なのだそうです。そのうち日本は降伏し、あっという間に高級軍人とその家族は内地に引揚げてしまい、無敵關東軍は影も形もなくなり、あとには敗残の日本兵と無防備な民間人がそっくり置去りとなってしまいました。
これはもう駄目だ、それでは今度は何時たべられるか分からないから、隣の畑にはえている大根を抜いてきて、食べてしまおう、と考え、ニ三日は大根料理ばかり拵えていました。満州は蘇聯兵が進駐するところとなり、その下級の兵隊は勝手に人の家に押入って亂暴狼藉を働くので、自衛のため髪を剪り男の服を着て暮らしていました。冬の午後に獨りで留守番をしていたところ、扉をドシドシ叩いては露西亜語を喚き散らすので、すわロスケの襲来と、すぐさま押入に飛込み、天井板を開けて屋根裏に這い登り、元どおりに天井板を閉めたのと同時に、扉を銃の薹尻で打ち破って數人の兵隊が亂入して来ました。天井裏に隠れているのを見つかったら懐剣で抵抗して一人くらいは殺してやるかと考えながら梁から垂れ下がったツララを眺めていたところ、ロスケには氣の毒なことに、日本建築に特有の天井裏と云う構造を知らないらしく、押入れを開けても天井板が開くとは氣づかず、さんざん部屋を荒らし回った挙句、蒐集していた大量のブロマイド寫眞(女優男優のポートレート)の入った箱をそれぞれ戰果として抱え、お互いに何やら文句を云いあいながら空しく引揚げていきました。その後、暫くはロスケが引返してくるのではないかと思い天井裏に留まっていましたが、今度は誰かが飛び込んできて大聲で頻りに自分の名前を呼ぶので、やっと降りてみると、歸ってきた曾祖父が仰天の餘り、足の踏場も無く散らかった部屋の眞中で仁王立ちとなっていました。てっきりロスケどもに攫われたと思った様子です。やれやれ危機一髪でした。それからは、短髪と男装に加え、顔と手に木炭を塗って暮らしてゐゐました。
住んでいたビルの向いが大きな陸軍病院で、終戰後に入ってきた國府軍がそこで共産黨軍を相手に戰闘するのを窓から見てゐたのですが、映畫のようにはテキパキいかず、長いあいだ鐡砲を持って地面に張付いたまま、15〜20分單位でノロノロ動くのだそうです。死んでいるのかと思っていた兵隊が、急に起きてトコトコ走ると、またドッタリ倒れて15分は動かなくなり、忘れた頃に動き出して、いつのまにかどこかに隠れてしまって見えなくなり、銃聲も滅多にしないので、見ているほうは 「退屈」 したのでした。引揚までは着物を支那人に賣ったりして食繋いでゐました。
その祖母が、内地に歸ってきて、やもめになっていた祖父と出會って再婚して出来たのが、私の父というわけです。誰もが嫌がって辞退する朝鮮國境の邦人救出に事もなげに志願して、勇躍機關車に乗りこむ支那服の祖父の勇姿に惚れてしまったのだそうです。(ちょとヤヤコシかったかなー) → top
愛用のミシンと同型のもの
女中も何人か雇い、寶石も買い、廣い家にはいつも居候や親戚がゴロゴロして、賑やかに暮らすことができました。それと共に夫は家を空けることが多くなり、次々と才色兼備の藝者さんと仲良くなったのにはあきれます。
夫がよく轉勤したので、2〜3年おきに、いろんな地方都市に住みましたが、聯隊の近所に居た時は、兵隊さんが演習で隊列組んで練兵場を往き還りするのを子供を抱いて見物したそうです。みな胴體が樽みたいに太くて、丈夫そうだった、と云います。或る時、隊列の端の下士官(兵卒の肩章は星だけで、下士官は星の他に金筋が一本入っているので見分けがつく)が物入から何やら黒いものとりだして、ポウーンと曾祖母(當時は二十歳臺半ばで、日本髪の美人だった、と自分で申しておりましたが)に放り投げました。とっさに受取った手のものを見ると、黒革の分厚い財布で、紙幣が詰まっていました、きっと練兵場付近の路上で拾ったものの警察に届ける手間を省くために、適當な人にバトンタッチしたのでしょう。下士官は頷いたように見えましたが、そのまま隊列と共に兵營に入っていってしまい、それきりです。財布は警察に届けました。
昭和の初め頃、名古屋の徳川町に居た時は、家より庭のほうが立派でしたが、これは尾張徳川家のお城の續きに大きな庭園があった跡で、そこが屋敷町になってしまったからでした。近所に陸軍の歩兵将校が住んでいて、毎朝、從卒が馬の轡(くつわ)を取って迎えに来ました。聯隊長か、大隊長だったのでしょう。或いは師團勤務なのかも知れません。佐官以上と副官が乗馬本分でしたから。その後、東京杉並に引越すと、やはり近所に同じ将校が引越してきたそうで、軍人も轉勤が多かったのですね。
當時は、まだのんびりとしていて、都會の月給取は餘裕があり、その奥さんは朝からお化粧をして身なりを整え、長火鉢に座り込んで、新しくお茶を入れ換えながら、ぶらぶらやってくる訪問者と四方山話に興じる毎日を過ごしておりました。正午になると女中の少女が 「おくさま、今日は(晝ご飯のおかずは)なにに致しませう。コーンビーフがありますけれど」 と云ってくるので、「ああ、それにしませう」 と答えては、キャベツを刻んで添えたのに輸入罐詰のコーンドビーフを炒めたのを、ソースをかけて、ご飯を食べていました。女中連は田舎から出てきて、あまり肉を食べたことがなかったので、毎日コーンドビーフを奥さんに奨めては、大喜びで一緒に食べていました。罐詰が足りなくなると、鷹揚な奥さんは 「なんでも良いから、すきなものを買っておいでなさい」 とお使いにだすので、三日に一度はそうしたものを一家中で晝ご飯に食べていました。曾祖母は装身具や髪形には、うるさかったのですが、食べ物には淡白で、女中が毎日おなじものを出してきても平氣だったそうです。
當時の大家族には、どこでも居候というものがゐて、曾祖父も曾祖母も揃って生活には頓着のない浮世離れしたところがあったので、常時だれかしら親しげな人間が家で一緒に暮しておりましたが、それは家族ではなく、書生さんとか二階の誰それさんとか云ってゐましたが、一緒に御飯をたべて小遣をもらい、わーわーとにぎやかに分け隔てなく暮しておりましたので、早く云えばまあ居候です。その中で面白い人物としては、10年くらいの間、一緒に暮していたSさんで、新潟で曾祖父が會社支店の給仕に採用したのが始りでした。この人は話好きで、黙っているところを見たことが無く、四六時中おもしろ可笑しく子供の相手をしているのが得意でした。自分で勝手に童話を作って聞かせるのですが、そのうち曾祖父が名古屋に轉勤となると憧れの東京に出ていきました。神田の出版社に入りましたが、口先ばかり器用で餘り仕事ができず、私供の一家が大阪泉州の岸和田にいる時に、また舞戻ってきて、曾祖父の事務所の傭いになりました。そのうち戀人ができて或る日きゅうに居なくなりました。使っていた布團から當座のお金まで勝手に持って行ってしまったので、みな呆れましたが、終戰後、千葉の木更津の消印でお金を無心する手紙がきて、ここまでの人とは思わなかったと、とうとう皆わらってしまったくらいです。
ほかにも同居人はいましたが、二階に無料間借りしていた夫婦は、東京の出身で、いつも身奇麗に洒落た立居振舞いの映畫通でした。 「あ、今日は何々が掛る初日です。樂しみですね」 と云いながら、明るいうちに早めの晩御飯を濟ますと、夏ならパリッと糊の利いた浴衣に揃いの團扇の下駄履きで、驛の向うの映畫館に散歩がてら行ってしまいます。それで何をして食べていたかと云えば、あまりよく分りませんでした。ときおり曾祖父の仕事を手傳ったりして、のんびり暮していたようです。御飯は皆と一緒に食べていましたから食費はいらず、家賃もなし、家族もてんでに好き勝手な行動をしてゐたので、こんな居心地のよいところはなかったのでしょう。
女中は年頃になるとお嫁にいってしまうので、補充交代が頻繁でした。そのなかに掃除の下手な子がいて、部屋の隅の埃がすこしも取れていないのでした。曾祖母が掃除の様子を見ていると、せっせとよく働いているのですが、やはりゴミがとれない。曾祖母は考えたあげく、一緒に街に出て、「ほら、あの看板を讀んでご覧なさい」 と云うと、ちっとも讀めません。その足で眼鏡屋に入って近眼鏡を作りました。初めて眼鏡をかけた子は、こんなに世の中が明るいとは知らなかったと報告しました。それ以前は継接ぎのボロボロのボヤボヤで世間ができているように見えていたそうです。プレゼントした眼鏡は、ちょっと張りこんだので、「顔つきまで賢そうになった」 「いや、ほんとうに賢くなった」 と皆の評判を取り本人もご満悦でした。そのうち良いところにお嫁に行ってしまいました。
女中の中には意地悪な子もいて、誰も家にゐなくなると小さい子供に、おもいきり目をむいて 「い〜〜」 をしてみせるのがゐました。ところが曾祖母は、そういうことには頓着しないで、「い〜」 の○子さんは長く家に勤めてゐました。寫眞を見る限りでは、ほがらかそうで屈託なさそうです。
小學校に通う長女は、當時は給食がないので、瓣當をもっていくのですが、卵焼きがはいっていると、同級の子が、「それ、おいしい? どんな味?」 と、さも珍しそうにするので、最初は不思議でしたが、その同級生は生まれてからこの方、卵焼きというものを食べたことがなかったと分かってきたので、ひどく驚きました。氣をつけて見ていると、瓣當がなくて晝休みになるとすぐに校庭に出て遊んでゐる子もいて、先生が小使室に呼んでは自分の瓣當を分けてあげたり、一緒に牛乳を飲んだりしていました。世の中は、のんびりしていたとはいえ、想像を絶する貧窮も隣り合せで、東北では飢饉がくると娘を身賣に出したり、餓死者を出す家まであったのでした。
やはり同級生で、本格的な洋館に住んでいる子がいましたが、長い間アメリカの大都會にゐて、ちょっと變わったところがあり、こちらは變わった人が大好きだったので遊びに行くと、小さな部屋に案内されました。そこに綺麗な着せ替えの西洋人形が小さな家具調度に囲まれて座っていて、「この部屋は、このお人形さんのためだけのお部屋なのよ」 と云うので、びっくりました。小さなベッドに安樂椅子、箪笥、化粧臺の中には、着替えの洋服にリボン、化粧瓶やブラシ、ヘアピンまであって、小卓の上は紅茶茶碗とポットに模造のサンドイッチがひと揃い並んでいました。これはアメリカで女の子なら大抵は持っていて、熱心に服や家具を蒐集してゐゐるのだと聞かされて、さらに驚き、誰でも自家用自動車を自分で運轉して買物に行ったり百階建てのビルジングに勤めに行くのだと云う話になると、開いた口がふさがらないのでした。
このため、この曾祖母の長女(私の祖母にあたる)は、その後アメリカの實力はたいしたことはないと大人が云っても、あまり信用しなかったそうです。
さて戰時中は、曾祖母は夫と仲が悪くなっていたので内地に残っておりましたが、人をそらさないところがあり、いろんな人がその茶の間を訪れて、淹れたての茶を喫しながら話込んでいきました。もと藝?で長唄のお師匠さん、驛長さん、工場主、その他なんでこういう人が長火鉢の傍に座っているのかと思うくらい雑多な職業の人々が、裏庭から見渡せる廣大な玉葱畑を眺めながら、入替り立代り、樂しそうに世間話に興じてゐゐるのは奇妙な圖です。
ちょうど信太山の野砲兵第4聯隊の近くを通る南海電氣鐡道の驛そばに住んでいて、大勢の兵隊さんが貨物側線から積載作業をする時に、井戸水を貰いに来たそうです。次女(大叔母)は無邪氣な女學校生徒だったので、たいそうモテて、いまだに兵隊さんフアンです。高等女學校に入學して勤勞動員が始まり近くの東洋紡績の毛布工場に通いました。仕事は面白かったのですが、原料が羊毛なので、それを撚り合せていると油臭くて、おまけに繊維屑が作業場の中に猛烈に舞飛ぶので弱ったそうです。空襲警報が鳴って、「退避〜!」 と號令が掛かると米軍の戰闘機が飛んできて機銃掃射をしました。海岸の砂がパパパと飛んで、防空壕の縁からそれを見物していました。そのうち終戰になり、新制高校生になりました。平和になったので三味線や踊りを習ったり、友達と誘い合って寶塚歌劇などに通って、のんびり樂しく暮らしてゐましたが、そのうち満洲から父親や姉兄が引揚げて来ました。朝鮮戰争が始まる前に高校を卒業し、寶塚音樂學校の生徒になりました。昔風のお父さんが、あっさり受驗をOKしたので、到底許可が出ないだろうと思い込んでいた家族は以外な展開に吃驚しました。やはりお父さんは娘が可愛いのですね。海老茶の袴を穿いて南海電車、地下鐵、阪急寶塚線に乗継いで學校に通うのは大變なので、その頃大阪市内に居た姉の處に下宿してゐました。卒業して少女歌劇の舞臺に立っておりましたが、寶塚映畫と云ふのがあって、そこにエキストラで出たり、新藝座と云ふ新喜劇にも出てゐゐました。賣出中のトニー谷と樂屋が隣だったりしたそうです。そのうちテレビ時代となり、ドラマの端役やコマーシャルで仕事をすると、當時は全て生放送なので、やり直しが利かず、なかなか大變だったと云います。
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