→ top


Questions & Answers 再録

ここに再録したQ&A(質問と回答)は「Warbirds」と云うHPに投稿したものです。このHPはミリタリー・ファンの疑問に答えるもので、誰でも質問できて、そのことなら知ってると思ったら誰でも回答を書き込む式になっています。「あるめ」が回答したものを専ら集めてあります。何度も同じ質問に答えるのは手間なので、このような形をとりました。主に舊軍のリアル世界に關する質問が多く、架空レミニア軍の話ではありませんから、日本の軍隊制度に関心のおありになる方には何かの御参考になるかと存じます。

(凡例:質問者は無署名とした。回答者は無署名の場合は「あるめ」。話の成り行き上、複数回答を掲載した場合は、「あるめ」及びその他の回答者のハンドル・ネームを付した。)

【内務】
  私的制裁
  同性愛
  カレーライスにソース
  海軍の食事
  海軍の食事定量
  軍人割引
  脚気
  戰争で生まれた民需品とスラング
  戰病死
  修正
  兵器の應用
  不審死(海軍)
【徴募制度】
  免役上限延長
  徴兵年齢
  志願にあらざる下士官
  兵科・得業の決定
  海軍徴兵と職業
【指揮】
  豫令
  合調音語
  元帥旗
  敬禮
  敬禮2(陸海の相違)
【團隊】
  衛戍地
  軍旗祭
  軍樂隊の地位
  8聯隊の負けた場所
  強い歩兵聯隊は?
【編成】
  段列
  戰隊司令部の編成
  隊の人数
  編成と編制
  Kampfgruppe
  獨軍部隊名の讀方
【兵科兵種】
  龍騎兵の起源
  徒歩砲兵
  海兵隊
  特殊部隊
【職務】
  副官
  参謀
  参謀と幕僚
【装備】
  鐵帽
  日本刀の實戰能力
  背嚢
  歩兵の扱える武器
【人事・學校】
  幼年學校閥
  天保銭の識別
  特務士官
  ノンキャリア将校の典型コース
【その他】
  マーチング・バンドと軍樂隊
  軍艦マーチの歌詞
  同士討ち
  戰場の音樂
  現地調達
  戰闘神經症の資料
  格闘術
  血液型
  陸海軍の仲
  米獨立戰争當時の歩兵戰術
  接舷斬込
  警察官のサーベル
  海軍の大佐・大尉の讀方
【レミニア】
レミニアの軍備


内務

【私的制裁】


戦前の日本では、軍隊内のしごきやいじめについてどの程度「シャバ」で語られていたのでしょうか。


口コミで経験者から後輩に伝えられていたのが普通で、印刷物は平和時でも全くありません。軍隊生活の参考書は必ず然るべき軍隊官衙の目を通るように出版者の方で予め手配するので、奥書や表紙などに「○○聯隊區司令官檢閲濟」などと印刷されていました。 しかしビンタなどは、民間でも危険な作業をする職人の徒弟、その他現場仕事の修業にはつきもので、外科医の熱心な人などはヘマをしそうな助手の脛を下駄(手術中は下駄履き)で蹴ったりして注意を促したといいます。
ただ寄席ではチンタオ守備隊帰りの柳屋金悟楼が軍隊落語をやったりして大受けしていたという事実があります。然しそこでも、やはり直接手をだす体罰は語られていません。 ただ、そのようなシゴキやイジメに縁のない職業の人や学生・生徒から直接入隊した人達は、慣れない事なのでずいぶん戸惑ったでしょうね。
補足:
私的制裁はいちおうルールがあって、
1 同年兵(同期生)どうしは互いに手を出さない。(等級が違っていても)
2 普通、ビンタをはったり、派手な制裁を主催するのは内務班の初年兵掛上等兵で、これは教育的指導の範疇として半ば公認されていた。
3 明らかに矯正の必要あるミスをした初年兵は、初年兵掛以外の上級兵からも私的制裁を受ける。
4 進級が遅れたり、出世コースから外れて鬱屈している古年兵などの中には私的制裁を憂さ晴らしとしている悪質な者がいる。(死亡事故などは主にこういうのが限度を超えた暴力を加えて発生する。手加減を忘れるということ)
5 中隊人事掛特務曹長(准尉)や内務班長は、内務班の動向を見ていて、「近頃、何班はたるんどる、ちと気合を入れたらどうか」と私的制裁を非公然に奨励したりすることがある。
6 内務班には必ず誰か止め役がいて、(被害者の寝臺戰友とか、最古参兵とか、班に近い別室に居住している下士官とか)潮時をみて「それくらいで堪忍してやれや」「うるさくて寝られんから、もうやめい」と制裁を中断させる。
7 制裁が原因の死亡事故や被害者が逃亡したりする事件が発生すると、加害者は中隊人事掛によってそれなりの罰を受ける。(營倉に入ったり、それきり進級が止まったり、転属になったり)ただし陸軍刑法犯として憲兵隊に送ったりはしない。部隊長以下幹部の成績に響くので、内密に処理される。被害者は事故として処理される。
あるめ  → top


【同性愛】


第二次大戦中の各国軍隊内部では、同性愛者はどのような扱いになっていたのでしょうか?「戦争のはらわた」では、同性愛が上官にばれた将校がそれをネタに脅迫されているようなシーンがありました。それ以来、(男だけの軍隊という環境の中)この問題について当時はどのような対処がなされていたのか気になってます。当然、日本でもあったと思いますし、Wikipediaでも同性愛志向者は「10〜20人に一人」という記述がありますが、これが本当なら見逃せない数字だとも思います。やはり、なんらかの処罰の対象だったのでしょうか?


えーと、話題が微妙な領域なので書きにくいのですが、同性愛にもいろいろ段階があって、舊陸軍では割と公然と容認されていたフシがあります。先ず陸軍幼年學校の生徒間に使われたスラングに、「ショーネン(schoenen)」があり、これは美少年を指すものです。上級生が下級生の品定めをする時に使う「男前」の意ですが、そう評された当人は親切にされて得をすることが多々あったようです。当時の(戦前の)中等学校には女性が皆無なので、勢い容姿のよい生徒は同性愛傾向のある上級生に誘惑される機会が多く、ある程度の行為に及ぶ(接吻、相互自慰など)ことも珍しくなかったと諸自伝に記されてゐます。これを学校側がどう指導していたかと云えば、武士の伝統のひとつとして容認姿勢をとっていました。しかしあくまで秘密の行為にとどめておかなければ、限度を超えると(鶏姦行為に及ぶなど)、厳しく処分(退学)されたことは当然です。上級生も処罰されましたが、相手の下級生も「かかる行為に身を任せたのは品位にもとる」として同様に処分されました。明治時代、三浦将軍が幼校長の時に夜な夜な集団で襲撃してくる隣地の士官學校生徒に屈服したとて数名の生徒を退学としたことがあり、以来あからさまな「稚児狩」はなくなりましたが、こうした風習は薩摩を中心とした九州出身者が持ち込んだものとされています。森鴎外も自身が書生時代に襲撃されて短刀で撃退しようとした話を書いています。また陸軍の幹部は終戦時まで武士階級の戰場傳統を色濃く保持しており、「稚児」を戰場に於ける女性の代用品として見るところがありました。まあ道具扱いなわけですが。西欧と違ってガチガチの基督教思想でタブー視することはなく、世の中全体がある程度ゆるやかに認めていたと考えてよいかと存じます。場合によっては、それの分らない人は不粋の野暮天と女性からすら笑われる事もあります。つまり、そういう状況がわかってないと軍隊内で空氣も読めず、頓珍漢な馬鹿と思われたわけです。  
→ top


【カレーライスにソース】


架空戦記小説を読んでいましたら海軍(?)でカレーライスを食べるシーンが出て来たのですが登場人物がそのカレーライスにソース(!)をかけて食べているのですが当時海軍や陸軍で食べられていたカレーはソースをかけて食べるのが一般的だったのでしょうか? ちなみに小説の舞台は大東亜戦争前後なのですが・・・・。昔のカレーは小麦粉が現在のものより多かったと聞きましたがそれに関係あるのでしょうか。


ソース(ウスター)をかけて食べるのは、市井のカレーの食べかた一種で、現に私もそうやっています。生卵をかけて食べるのもあり、ソースと生卵というのもあります(関西方面で多い?)。トッピングの一種で、軍隊での特別な食べ方と云うのではないようです。 あるめ


↑ガーーーーーン!! 知らなかったーー!!生まれて21年間カレーにソースかけて食べるのって常識だったのかーー!!大阪出身なのにーーー!!


↑カレーライスが段々と本格趣味に傾いて来た70年代以降、廃れてきたんです。御安心なさい。最近の人はあんまりやらないんですよ。
BUN


カレーに醤油をかけて食する人もいますね。私はしたことありませんが。
便利少尉


私の出た大学の学食のカレーはカレーホット(胡椒等をつけこんだ油)だの醤油だのソースだのをトッピングしないとルーは足りないわ味はしないわというシロモノでした。 …海軍のカレーも不味かったのだろうか…いや、フネの料理人は当たり外れが多いというから…(「味付けが人間じゃない」とフネを下ろされた海上保安庁巡視船のコックを知っているので)
Schump


ちょっと話は逸れますが、昔は白い御飯にソースをかけただけのソーライスと言うのもあったそうです。
ごまめ


ごまめさんの「ソースライス」は、祖父が昭和始め頃の大阪北浜で月給取していた時、今日の昼御飯は目先を変えたいと思うと梅田の阪急百貨店の食堂まで出掛けて食べていたと云っております。そこが始めたメニウで、洋食では一番安かった(それはそうでせう)、安い早い旨い、ので便利だったそうで。その頃のソースは、今のよりグンとコクがあって、うまかったと主張しておりますが、いったい普段はどういう食生活をしていたのでしょうねー。(聞いてみると、朝は生卵かけ御飯、晩はお酒と肴だったのだそうで、さぞかしテンション高かっただろーなー)
あるめ


(ゴミレス)私の友人が彼女にカレーを作ってもらったときソースをかけようとしたら滅茶苦茶怒られたそうです(双方共に関西出身)BUNさんやSchumpさんがおっしゃられた事が原因のようです。彼女曰く「ソースでごまかさな私のカレーが食えへんのか!」・・・恐ろしや・・・
カレーにソースをかけるのは幻雲さんのおっしゃるとおり昔のカレーは小麦粉が多いぶん粉っぽかったのをごまかすためみたいです。BUNさんとかぶりますが、最近の本格化嗜好により粉っぽくなくなってきたのでソースをかける人が減ってきているんでしょう。
とめ5号


ああよかった。安心しました・・・・。カレーつながりでひとつ知人が「軍隊調理法」なる書物を見て作ったカレーを先日試食しましたが・・・・味薄いっす(笑) そりゃこんなもんだったらソースでもかけないと物足りない人でますわな。ちなみにレシピはこんなんです。

材料(一人分)
牛肉(または豚肉、兎肉、羊肉、鶏肉、貝類) 70グラム
馬鈴薯 100グラム
人参 20グラム
玉葱 80グラム
小麦粉 10グラム
カレー粉 1グラム
食塩 少量
ラード 5グラム
準備
イ、牛肉は細切りとなし置く。
ロ、馬鈴薯は2センチ角位に、人参は木口切りとなし、玉葱は縦四つ割りに切り置く。
ハ、ラードを煮立て小麦粉を投じて攪拌し、カレー粉を入れて油粉捏を造り置く。
調理
鍋に牛肉と少量のラードと少量の玉葱を入れて空炒りし、約350ミリリットルの水を加え、まず人参を入れて煮立て、馬鈴薯、玉葱の順序に入れ、食塩にて調味し、最後に油分捏を煮汁で溶き延ばして流し込み、攪拌す。
備考 イ、温かき御飯を皿に盛りてその上より掛くればライスカレーとなる。
ロ、本調理はまたパンの副食に適す。
「〜パンの副食に適す」って小学校の給食みたいですね。コッペパンにカレーシチューはうまかった(笑)
↑上にあるカレーの作り方はどーやら陸軍式のようです。でも一人分につきカレー粉1グラムではちょっと少ないような・・・。だから知人の作ったカレーは味が薄いのかな。
幻雲


参考に「海軍割烹術参考書」よりカレーの作り方
材料:牛肉(鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレイ粉、麥粉、米 作り方:初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉(鶏肉)玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ別ニ「フライパン」ニ「ヘッド」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄ト口ノ如ク溶シ之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ンド煮エタルヲ入ル可シ)弱火ニ掛ケ煮込ミ置キ先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ之ヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス
とめ5号


大阪名物「自由軒のカレー」と言うのをご存じでしょうか。ルーとライスが出て来るとき既に混ぜられており、真ん中に生玉子が落としてあって、ソースをかけて食すものです。 (生玉子への味付けと思えばよろし)だまされたと思っていっぺん食べてみて下さい、美味いです。(お店の場所は有名なんで調べが付くと思います)
ooi


ごはんの上からルーをかけるのがカレーライスで、織田作さん愛用の自由軒のはライスカレーと称していたような記憶が。あの千日前の辺で心斎橋筋から恵比寿橋筋に大劇のある方にいく筋の右側ですね。昔のままのお店で。祖母に聞いてみたとこころ、戦前の女学校の学食のカレーライスは、メリケン粉汁の味なのでチットモからくなく(薄いハヤシライスみたいな味?)、ウスターソースをバシバシかけ、福神漬を山盛トッピングして、食べていたと云っております。(昭和12〜17年頃)
スプーンにソースを注いで、まんべんなく降りかける、これを1〜3回やると、だいたいOKだったそうで。今時の誇り高い(?)お店でやると、たたき出されそうですね。
あるめ


お願いですから、カレーの話しはもうやめて・・・今いる場所では日本のカレーが食えない。町まで行けば、べらぼうに高い値段で日本物屋に売ってる。とても食いたい。でもいろいろわかって楽しいね。(ゴミレスすまん)
カレー・・・・


うちの中国支社にはお土産としてボ○カレーやク○レカレーを持って行く習わしになっています(笑)。どこも苦労なさってるんですね。
ささき  
→ top


【海軍の食事】

きわめて大雑把な質問なんですが、太平洋戦争中の日本海軍の三度の食事は、どんなモノを食べていたんでしょう。もちろん、艦種や部署によって違いがあるのは分るんですが・・・。白米の他に、パン中心の食事等もあったのでしょうか?


白米は潜水艦だけと聞きましたが。水上艦は麦が3割ほど入ってると聞いたような。
taka


「食事の雰囲気」がわかる本といえば高橋孟『海軍めしたき物語』、『海軍めしたき総決算』が面白かったです。
バトゥ


時期や所轄、また下士官兵か准士官以上か、これらを特定しないことにはこうだとは言えません。食事に関しては、下士官兵が調理した食事を給与(品給)、准士官以上が食費による給与(金給)ですし、また部隊と官衙、学校、工作庁、作業庁とでも扱いが違います。そこで、上記の質問を(雰囲気から勝手に察して)「昭和期の艦船部隊の兵食」と仮定します。
艦船部隊における食事は「基本食」と呼ばれる通常の勤務に服する者に給するものが朝、昼、夕の三食に相当すると考えます。さらに、各種増加食(新兵、生徒、練習生、潜航時、航空時)などがある他、夜間の勤務に従事する者に対して必要に応じて「夜食」を供与することになっています。
こんなことを書いても質問者の欲する情報にはならないので、昭和12年度練習艦隊が印度洋を航海中の際の兵食の献立の一部を示します。

第1日
朝 米麥飯、里芋味噌汁、茄子辛子漬
昼 米麥飯、鯛煮魚、茄子油煮、胡瓜漬
夕 米麥飯、牛野菜シチュー、大根漬
夜 素麺
(中略)
第6日
朝 米麥飯、若布味噌汁、福神漬
昼 米麥飯、柳川もどき(豚肉)、澤庵漬
夕 米麥飯、鰮缶詰、煮込うどん、梅干
夜 おじや

などとなっています。もっともこの時は生糧品の供給が意のままにならなかったそうですが。
これは献立の一部でありますが、海軍経理学校に研究部にて研究した士官食、兵食の献立例であるところの「海軍研究献立表」に、色々な調理名がありまして、これらから兵食を独断と偏見で拾ってみると、「南瓜のスープ」「野菜スープ」「太刀魚の炒煮」「魚のカレー焼」「鰯のトマト煮」「鯖の芥子焼」「豚と馬鈴薯のカレー煮」「豚のカツレツ」「ロールキヤベジ」「牛肉味噌シチユー」「チキンカレー」「鶏の骨付揚」「鉄火味噌」「けんちん揚」「揚げ豆腐の卸かけ」「胡瓜サラド」「果物のサラド」「五目焼飯」「浅蜊のカレーライス」「トマト飯」「牡蠣ライス」「油揚丼」「マカロニナポリンタン」「支那蕎麦」「五目蕎麦」「小豆汁粉」「蒸かすていら」「二色羊羹」「バナナの砂糖煮」などなど、書ききれないほど非常に多数のメニューがあります。
無論、これら献立が艦船部隊で給食されたかどうかは別問題ですし、これは昭 和4年時点のものなので、これ以降新規メニューが開発(?)された可能性もあ りますが、概ね兵食の程度というものを察するには十分かと思います。
なお、潜水艦における献立の実例ですが、昭和17年度の伊二一潜の元旦の献立として、

朝 雑煮(缶詰餅 かまぼこ 筍 ふき ほうれん草)、向付(数の子、切するめ)、紅しょうが
昼 白飯)、鶏肉大和煮、里芋白煮、吸物(缶魚(かに)、松たけ、ほうれん草)、奈良漬
夕 白飯、いわし油煮、酢の物(万才煮)、吸物(キャベツ 人じん 筍 椎たけ) 大根みそ漬

などとありますが、元旦以降10日ほどの献立を見ていますと、缶詰がやや目立ちます。
なお「パン中心」云々ですが、日清戦争頃まではパンを多く食べていましたが、明治31年以降米麦食が増え、大正7年さらにパンを減らし、昭和6年には軍港内で週三回、それ以外は支給しなくても良いとされ、軍港以外では米麦食でもかまわなくなったとされます。ただ、糧食品の規定には米麦とあるものの、規定品が手に入らない場合もあり、実際にはパンを食べた例もあるものと思われますが、さきの練習艦隊と潜水艦における献立にはパンは認められません。もうちょっと制度面と実態に関して分かったら補足をするかもしれませんが、とりあえず。
そうか、「太平洋戦争中の」と質問にはあるのですね。でも、練習艦隊のほうは太平洋戦争時のものとそれほど大きな違いはないのではないかと思います。
今泉 淳


蛇足:日清戦争以降に御飯に麦を混ぜるようになったのは、脚気予防のためですね。陸軍は、脚気細菌説をとっていたので依然として「銀シャリ」を食べ続け、日露戦争で多くの脚気病者をだしました。海軍兵学校の朝食は、パン(寫眞でみると半斤以上ありそう)に味噌汁だったそうですが、試しにバター・トーストと味噌汁を一緒に食べてみましたら、おいしかったです。お隣に海軍の主計特務士官で、料理専門だった人がいて、時々、台所であっという間にフルコースを作っては奥さんに食べさせていました。長官級になると、洋食で軍楽隊の奏樂がついたので優雅だったそうです。外国船や寄港先の来客を艦内の食事に招待することがあって、メニウも水準以上でなければ勤まらなかったということです。
あるめ


今泉さんが詳細に書かれていますが、ちょっとだけ補足します。 明治17年から同30年頃までは週に15食がパンでした。その後、明治31年からは週に7食になり、大正7年以降は軍港内では週に4食、軍港外では2食に減ります。その後、昭和6年には軍港内3食、軍港外ではパンを支給する必要なし。となります。
制度面でみると、明治23年に勅令第4号海軍糧食条令および細則の達第131号糧食品経理規定の発布により、一日あたりの糧食の細目が明文化されました。そして明治31年に改正が行われ、その時に従来の糧食品日当表に代わり20表と呼ばれる糧食の細目を規定した表が出来、以降はそれを小改正して支給品を決めていました。
tackow  
→ top


【海軍の食事定量】


旧海軍にはギンバイというものがありましたが、一方、海自ではダイエットのために朝食を抜く隊員もいるそうです。そこで疑問に思ったのでが、昔の水兵さんは、ちゃんとご飯を食べさせてもらっていたのでしょうか、一日何カロリーぐらい摂取していたかご存知の方がいらしゃいましたらお教えください。
中村


昭和19年版海軍要覧(財団法人海軍有終会編)によると、兵・下士官の基本食1日分のカロリーは3373〜3564KCalということになっていました。
豆150g 麦粉150g 醤油750ml 酢50ml 植物油70ml 凝脂35g 味噌750g 塩55g 白砂糖(日額)35g 黄双(ザラメ)210g
マイソフ


時期や場所によるのでしょうが、私の知り合いは、「海軍は飯が良い。」と海軍に入ってたお兄さん(戦後は海上保安庁にもおられたとか)に言われて海上自衛隊に入隊したそうなので、総じてそれなりのレベルだったのではないでしょうか。
駆逐艦などの小型艦では、長期航海の後半部で食事の内容が貧弱になってしまうようなことはあったそうですが。
SAW


帳面上は充分なカロリーがあっても、同じ味の同じ献立が毎日延々と続くためすぐ飽きてしまうようです。「ギンバイ」には腹が減ったからの盗み食いではなく、単調な食生活のなかで普段と違う物を食べようとする努力(?)の意味もあったのではないかと思います。
ささき


いやあ、献立は結構工夫されているんですよ。単に海軍の場合は、士官と兵では食物の質が違った訳で(士官は良い物食ってる)これを現場レベルで不満を感じさせない程度に融通するための手段がギンバイ等の行動だったのだと言えるのではないでしょうか。
SUDO


旧海軍のギンバエは、隠れて酒宴をする時の、お酒とサカナになる何か、であった場合が多いみたいです。ご飯は規定どおり三度三度食べるので、夜勤者には夜食が、戦闘中あるいは演習中には戦闘食が滞りなく配給されていたので、あまり量に不満はなかったのではないでしょうか。
あるめ


高橋孟 著 「海軍めしたき物語」「海軍めしたき総決算」新潮文庫
の一読をお薦めいたします。
主計兵として太平洋戦争に参加した著者の海兵団入営から終戦・復員船勤務までの海軍生活を描いた本で、主計兵の日常がよくわかります。ギンバイやデッコの事も書いてあります。戦記モノとしては勇ましい所は全然なくユーモアとペーソスに溢れ大変面白い本です。既に読了していたらごめんなさいです。
キー67  
→ top


【軍人割引】


台湾へ行った時、電車の料金が「子供・学生・軍人・大人」の4種類に区別されていて、軍人は大人よりも1割ほど安い表示でした。他の国(アメリカ等)ではこのような軍人に対する割引制度はあるのでしょうか? また、日本の自衛隊はどうなのでしょうか?


アメリカは知らんが、少なくとも日本には無いでしょう。「自衛隊割引」は色々な所にありますよ。見たことはありませんか?
BUN


米国では一般的な交通機関に軍人割り引きはない(まあ大半が自動車で通勤するから)のです。ですが、退役軍人には数々の特典があります(生命保険の割り引きとか)。
Vinegar-Joe


三笠記念艦に行ったとき、自衛官は入場料が割り引きになるって書かれてました。それ以外では自衛官割引を見たことがありません。注意して探せば結構あるとは思うのですが。
ツカドン


戦前の日本でも、映画館・劇場・乗り物・娼館などで兵隊割引がありました。
カンタニャック


合理化でなくなりましたが、うちの会社にも「○○共済会指定」の電気店でものを購入するといくらか値段が安くなる制度がありました。防衛庁にも「防衛庁弘済会」なる組織がありますし防衛庁そばでホテルも経営しているような話も聞きましたので「指定店」や「直営ホテル」では隊員は割引になる制度ではないかと思われます。指定店の場合は割引の明示はないと思われますが、店によっては「○○共済会指定」などいう掲示をしているところがあるようです。
割引といえるかどうかわかりませんが、戦前の日本では水交社という軍関連施設で海軍士官は格安料金で食事できたように聞いています。(たしか陸軍にも同様の組織があったように記憶しています。)
米軍も食事等を将校クラブで格安で提供する制度があるように聞いています。
SAW


米軍の基地内での食事は外にくらべて格安で、しかも、美味しい(ラングレ-空軍基地で昼を食べたことがあるが、デザートまで付いて500円ほどという涙のでるような安さ。毎日ここで食事したいと心底から思った)です。でも将校クラブのことはわかりません(はいるチャンスがなかった)。
Vinegar-Joe


将校クラブ等は割引というより厚生施設と言うべきかもしれませんね。第二次大戦中の米国では、ハッリウッドの有名女優がダンスの相手をしてくれるなんていう軍人用施設が愛国的映画関係者の手で運営されていたそうです。うろ覚えですが料金なんか取ってなかったような気が・・・
SAW


新宿に『日の丸』ってキャバレーがありましたが、今もあるのでしょうか?
ogurenko


昔聞いた話によれば、熊谷(航空自衛隊の教育隊のある町)には制服で行くと、色々な優遇が受けられるって聞いたことがあるな。映画館とか居酒屋とか。って、いうか制服着てるから誰も暴れず、金払いも良く、店主にとっては理想の客であるらしいです。
sorya


ゴミ・『ガメラ2』に出て来た「グランドヒル市ヶ谷」に予約入れたら「自衛隊の方ですか?」と尋ねられたことあります。凝っているなぁ、と感心しました。
バツ


戦前は「軍人半額」だったそうです。市電、鐵道三等普通乗車券、映畫館など。けれど二等車や急行券、劇場の特等席はどうだったか、分りません。兵隊さんは、御国の為に働いているのだから、と皆んなが親切に扱ったのでしょう。陸軍もなるべく何の産業も無いような寂れた邊境の町に兵營を建てて、地域経済に貢献したフシがあります。
あるめ


○I○Iのテナントの一部は身分証を提示すると7%引きだったはず。だが基本的に細かな物品に関しては量販店で買ったほうが安い。金を借りたり預けたりは、共済組合のほうが得。(ただし手続きが面倒)宿泊施設や旅行関係は共済組合の提携店は割引。基地のある街では大抵「自衛隊歓迎」という看板を出した店があります。しかし歓迎であって割引かどうかは・・・(w
横須賀には「スポーツ刈り2000円、自衛隊カット2500円」の理髪店もあったしなぁ。ちなみに「自衛隊歓迎」と似た看板で「自衛隊金融」というのがありますが、間違えないように(w
レートによりますが、アメちゃんの基地内の物価は意外に高い。(デフレ日本のせいか?)彼らは休日に「ユニクロ」や「100円均一」「ダイエー」などで日用品を買っていきます。安く感じるのはアルコール類だけかも?
だめ海士長  
→ top


【脚気】


日露戦争時、陸軍が脚気対策を誤り、大量の脚気患者を出したというのは、本当でしょうか。作家として知られる森鴎外以下の陸軍軍医陣は、海軍軍医陣や欧米医学界の忠告を聞かなかったため、海軍では、ほとんど脚気患者が日露戦争中出なかったのに対し、陸軍では、露軍の記録にまで、日本陸軍は脚気が蔓延しており、作戦に支障を来している、と書かれたほど、ひどく脚気が流行したそうですが、これは事実でしょうか。森鴎外は、医学の勉強のため、独に留学までしたはずで、陸軍軍医陣は、当時の欧米医学をきちんと導入していたと思うのですが。

日本陸軍が日露戦争中脚気患者を出したのは事実です。陸軍の公式発表数では患者数25万人(内死者約2万8千)だそうです。当時、ドイツではローベルト・コッホにより結核菌等が発見され細菌学が発展、病気の原因には必ず細菌が関係していると考えられていました。その為脚気にも原因である細菌があると考えられていたのです。(実際にはビタミンB1不足で発症します。)この脚気細菌説は農学博士鈴木梅太郎氏が「オリザニン(ビタミンB1)が脚気に効く」という説を発表した後も根強く残ったそうです。
畝傍


欧米の医学をきちんと導入しなかったのではなくて、その当時の欧米医学を忠実に学びすぎた、とも言えそうですね。言葉の綾かもしれませんが。
便利少尉


まだこの当時(明治時代)は脚気の原因がはっきりとわかってなかったんです。いろいろな説はあったようですが。ただ日本陸軍でも白米だけの主食よりは米麦混食の方が脚気の予防には効果がありそうだということは経験的に把握していたようです。その理由まではわかってませんでした。なので平時には米麦混合食だったため、それほど脚気は増えていません。戦時には前線へ米と麦の2種類を運ぶのは補給の負担が大きくなるため、主食を白米にしてしまったことが日清・日露の両戦争で脚気が蔓延した原因です。
TETSU29


とあるサイトの情報では、森鴎外自身は「麦ごはん」を食べていたそうです。これは、明確な根拠なしに栄養状態の改善に効果のあった白米食を「官僚」としての森鴎外は変更できなかったのはないかと言う人もいるようです。
SAW

 そのご意見、なかなか似説得力があると思います。当時、脚気治療のために麦ご飯を食べるというのは、民間療法の一種、つまり迷信の類と思われてた節があります。西洋医学を学び、しかも官僚でもあった鴎外の独断だけでは、無理だったのかもしれませんね。
ツカドン


私の記憶では、キャプテン・クックの航海等で、食事の改善により壊血病の予防・治療が行われて以来、食事により、一部の病気は予防・治療が行えることが分かるようになっており、日露戦争時には、欧米では、壊血病以外にも、脚気やペラグラ病については、食事で予防・治療が行えることが、医学界では通説になっていたと聞いたような覚えがあったので、質問しました。どうも、いろいろと回答していただき、ありがとうございました。


↑キャプテン・クックの航海に関しては、糧食にザウアークラウトとモルツを加え、寄港地で野菜を積極的に購入する等の措置を講じた結果、壊血病が抑止されましたが、これによりザウアークラウトが評価された結果壊血病対策が混乱しただけ、という評価もあります。 実際に長期の航海時における壊血病の被害がほぼ根絶するのは英海軍が乗組員に対してライムジュースを支給するようになってからだったと思います。
大塚好古


既述かもしれませんが、欧州における医学においても、英国流の臨床医学と独逸流の病理医学によって対応が分かれていたのではありませんか? 森鴎外はドイツ留学ですので病原菌説を中心に検証し、海軍の高木軍医(氏名、階級失念)は英国留学により臨床(悪く言えば、症状が改善されれば原因は後回し)中心で、対処をめぐり陸海軍で論争を引き起こしたのではないかと思います。吉村昭氏が高木軍医の本を書いていたとは思うのですが。
能登


海軍の高木軍医
フルネームは「高木兼寛」(タカギ カネヒロ)ですね。麦飯の導入により脚気を予防したことから男爵に叙され「麦飯男爵」と呼ばれたそうです。欧米ではビタミン学の先駆者として知られているそうで、南極には彼の名を取った「高木岬」があります。宮代忠童という漫画家が「麦飯男爵 高木兼寛」という作品で彼の一生を描いています。同じシリーズに「杉原千畝物語」、また坂井三郎氏の漫画(最近文庫化された)もあります。本屋さんにあるかどうか分かりませんが、どれもお手軽に読めるのでお奨めです。
T216


森軍醫總監陸軍省醫務局長は、帝大閥。高木さんは、そうではなくて。。。と聞いたことがありますが、學閥も関係していたのでせうか。高木さんは北里系の慶應派だっけ?あれ?英國醫學だから慈恵だったっけ?おまけに陸軍省醫務局の中も東京帝大と京都帝大に分かれていたようですね。そういうところも、陸軍が脚気細菌説に立ったままになった原因だったと思います。帝大と慶應は終戦後の下山事件でも、死後轢断説を巡って双方意見を譲らなかったそうで、面白いですね。(面白がってちゃ不謹慎ですね。ごめんなさい (^^;
補足訂正:高木男爵は英国の医学校留学者で、慈恵の創設者だったです。 あるめ  
→ top


【戰争で生まれた民需品とスラング】

例えばトレンチコート、紙巻タバコの様に戦争や動乱から生まれた日用品や生活の知恵、カレーライス、牛肉の大和煮等の食物、言葉やスラング等を御教え下さい。


日本の火縄銃絡みで1つ。すでにご存じだったら笑い話(笑)。
・『火蓋を切る』
「熱戦の火蓋が切られた」などと使われる言葉『火蓋を切る』。これは、火縄銃の火皿(点火孔)を覆う安全装置『火蓋』に由来していると言われています。火縄銃を撃つ時、閉じていた火蓋を切る(開ける)ことにより、火皿が開いて点火可能になります。ここから転じて、物事の始まりを表す言葉として『火蓋を切る』が使われるようになったそうです。
ブラック・タロン


「適当だなー」「適当な奴」の適当は、教範類(マニュアル)に「何々に適当(adjust)する」と云う本来の意味が訛化して、「よい加減な」と云う意味の兵隊スラングに使われておりましたが、戦後これが復員兵から巷に伝わって、普通の人も使うようになりました。
ねぎらいの言葉も軍隊から伝わったものに、「ご苦労様であります。さぞやお疲れでありましたでせう」(最上級)「ご苦労様であります」(上級)「ご苦労様」(中級)「ご苦労」(下級)がありますが、最近は水商売系の「おつかれ」に驅逐されてしまいました。
  あるめ


女性の生理用タンポンは,戦場(たしか一次大戦)での止血用タンポンが大量に余ったために転用のアイディアから生まれた,という一行知識のウラを取ってやろうとしらべてみたのですが,わかりませんでした.
ウマシカオ


火縄銃ネタでもう二つ三つ。火縄銃やその射撃に由来すると思われる慣用語はかなりあるようです。
『お目当て』
目標となる品物等を表す慣用語。火縄銃の照準器は『目当』(めあて)と言い、これが目標等を表す意味に転じたようです。
『目星を付ける』
的や火縄銃の前目当(照星。フロント・サイト)を星と呼ぶことから、狙いを付けるという意味に転じて生まれたようです。
『見当を付ける』
場所等を推測するという意味でよく使われる言葉ですが、これは火縄銃で狙いを定めることから転じたようです。
<注:上の1も含めて出展は『日本の火縄銃』(須藤薫雄著)より>
ブラック・タロン


「口火を切る」というのも銃と関係ありそうですね。
ささき


武器・兵器に関する表現に由来を持つ、ということでしたら日本刀に関するものでも「反りがあわない」、「鎬(しのぎ)を削る」、「鞘当て」なんてありますね。
辞典編集者


密閉瓶詰めは、確かフランス第二帝政期に軍用として開発された技術ではありませんでしたか?
大名死亡


↑そうですそうです。確か食料保存方法の募集がなされた結果生まれたものです。
あ…それから、天候を予測する必要性を感じたナポレオンが、パリ天文台長のルベリエ(海王星の発見者でもあったはず)に指示して研究がなされ、気象図を作成し、気象学がスタートしたんだとか。気象図にある「前線(front line)」。これは戦場の「前線」と言葉も概念も同じなんだそうです。寒気と暖気がせめぎあっている所ということですね。
ごるぴゐ


腕時計は、軍隊(海軍?)が一番初めに作り出しました。艦の位置を知るためには精密な時計(クロノメーター)が必要で、1秒の誤差でも問題になります。後に軍隊がそれを携帯に便利な腕時計をしました。
あと、盲人用の点字も、フランス軍が暗闇でも読めるように発明したと聞きます。
ザイドリッツ  
→ top


【戰病死】


最近読んだ『戦争に強くなる本』という本に「太平洋戦争で戦死者よりも病死者の方が多かったのは、日本軍が補給や医療についてろくに考えていなかったため」と書いてありました。しかし、史学専攻の友人に聞いたところ「欧米でも第一次大戦までは戦死者よりも病死者の方が多かった。ペニシリンなどの抗生物質のない日本軍で戦死者より病死者の方が多かったのは別に異常ではない」と言われました。
どちらが正しいのでしょうか?


例えば、独ソ戦のドイツ軍でも、戦闘で即死ないしは重傷を負って死亡といった戦死者に該当するケース以外に、凍傷や肺炎にかかり前線で十分な手当てを受けることができずに死んでいった者が相当数いるんですけどね。負傷兵を後方に送り療養させるにも彼らを運ぶ輸送手段が不足、やむを得ず病状が重い者は泣く泣く見捨てたことも結構あるわけで。 ただ、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争や第一次大戦の頃は、医療技術の進歩やリハビリの導入によって、後遺障害を防止、軽減する努力が本格的に行われ始めた時期であります。当時の日本の軍隊も、欧米先進国の医療や集団衛生管理の技術を相当導入しているんですけどね。
アリエフ


しかし、太平洋戦争で戦死者より病死者が多かったことを理由に、日本軍は衛生や補給を軽視したという意見をよく見かけます。三野正洋『日本軍小失敗の研究』では、日清戦争で日本軍の戦死者より病死者が多かったことを取り上げ、衛生・補給を軽視したからだと主張してます。しかもネットを検索してみたところ、この意見を信じている人が相当数いたので衝撃を受けました。どうも最近の人は昔の医療水準がどの程度か知らないようです。

私の手持ちの雑誌記事によると、スペイン風邪の大流行もあり、第一次世界大戦時、米国では、戦死者の3倍の戦病死者を出したそうです。海軍に至っては、戦死者の9倍の戦病死者を出したとか。このことから考えると、抗生物質がない日本が、太平洋戦争において、病死者の方が、戦死者の方が多くても、別に異常ではないようにも思われます。しかし、その一方で、日本軍が、医療はともかく、補給を充分に考えていなかったのも、否定しきれない事実ですので、私の見る限り、どちらもそれなりに正しいことを言っていると思います。
山家


検索して調べたら、ペニシリンは1929年にドイツのフレミングによって発見されたが、チェインとフローリーによって実用化されたのは1940年、そしてフローリーはアメリカに渡ってしまったというわけで、当時のドイツ軍でも十分な量のペニシリンを保有していたのだろうか?なお、日本は1944年に独自に実用化に成功しているとか。
アリエフ


例えば陸続きの戦場ならば、病気に罹っても後方の病院に送り返せるが、南洋の島々ではそれもままならない。そういった条件の違いも考慮しなければならないでしょう。もちろん島々では補給もままならないわけですが。
便利少尉


In Pacific it is obvious that Japanese casualty was higher than it was of U.S. forces. U.S. army and marines both had medical personals who rescued the injured under fire. They also had most advanced medical equipment to treat the sick and wounded. Since Japan lacked both, this fact should not come as surprised. In addition bug spray (sattchuu sprey) was invented during WWII to kill mararia carring dugs.
Vinegar-Joe


J・F・ダニガン「第二次世界大戦あんな話こんな話」によれば、イギリス軍は1943年にビルマ戦線で戦闘による負傷者を1人後方に移送するごとに140人の戦闘以外の移送者(ほとんどは熱帯性の病気による)を出したそうです。これが新薬の導入と、防御策の徹底によって1944年には60人、1945年には40人に減ったとのこと。アメリカ軍の方も全体では戦闘による戦闘不能者は18%に過ぎなかったそうです。
バツ


病死の方が戦死より多いのは、普通に想定されており、実際に日清戦争以来、たいてい「戦死<戦傷<傷病(病気と戦闘によらざる負傷)」の順で多くなりました。これは昔からそうでして、ナポレオン戦争やクリミア戦争の時も同じような按配でした。フランスを出発した聯隊がモスクワに着いたら半分以下になっていたのはザラだったようです。それは「異常」ではなく、どの陸軍でも必ず予め想定していた常識だったと思います。 「補給や医療を「ろく」に考えていなかった」のではなく、「常識」どおり考えていたのですが、戦場の状況と作戰の推移が、「予想外」に展開したので、兵站能力(医療を含む)が破綻したのでしょう。従って「戦死者<病死者」を兵站軽視の根拠とするのは、あまり説得力がないと存じます。「ろくに考えていなかった」が通説になっていくのには大きな抵抗感があって釈然としません。
兵站基地から前線まで兵站線路が続いているかどうか、という問題を作戰状況が否応なしに通り越してしまった時点で「既に負けとなっていた」(碁で言えばどうあがいても目が無く大人しく投了すべき状況)ので、その後の戦場の状況は兵站軽視もくそもなくなった絶望的抵抗精神の世界だったと思います。悲壮なのは、そのように正常な軍隊としての兵站機能が崩壊した後にあっても、戦闘を続行したという事実です。これは欧米式軍隊の常識では考えられないことです。もしあれば、士気が異常に高いとして称賛されるのですが、我が旧陸軍では戦陣訓にもあるように、それが当り前とされていたので、その是非はおくとして、なんとも感想の述べようの無い状況ではあります。米軍は侵攻側なので、その点ずいぶん周到な準備をしていたようですね。
あるめ


素人便乗質問でもうしわけありませんが、日本軍では衛生兵(medical personnel)が戦闘に参加しなかったということでしょうか?それとも衛生兵という兵種自体存在しなかったのでしょうか?
k。


検索してみれば、日本軍の前線部隊にも衛生兵がいたことがすぐわかりますよ。独立の兵科ではなかったと思うが。それから、太平洋地域でかなり多くの軍医が犠牲になっています。そりゃ、米軍の医療設備、資材に比べると貧弱で彼らの基準ではmedical personelと呼べないようなものだったでしょう。それでも持てる状況下で最善の努力は行ってます。例えば、沖縄県富見城町の海軍壕の近くの公園内に当時の地下野戦病院跡が保存されていますが、米軍の激しい攻撃の中で施設・設備は粗末ながらも懸命な医療活動を行っています。
アリエフ


衛生兵に就いて補足
最前線の衛生兵に限って云えば、兵科の通常に武装した兵隊のうち一定の人数が担架術の修業をしており、その「担架教程」(明治42年陸普3695号以来終戦まで改訂なし、昭和18年より改訂研究開始)には担架の操法以外に、簡単な人体生理・解剖学大意・救急法・三角巾繃帯法・傷者の捜索及び運搬法などが入っていました。平時の歩兵大隊では、戰時の補助担架兵要員として、軍曹(ないし伍長)1、上等兵1、中隊ごとに兵卒4が毎年、担架術教育を受けました。
戦場では、隊附軍醫が必要に応じ補助担架兵を各中隊の隊伍より抽出して集合せしめ、その指揮下におき、傷者の収容・隊繃帯所の開設にあたらせました。軍醫と各中隊には、看護卒・看護長と昔は云っていた本チャンの衛生兵が付いており戦闘には参加せず、もっぱら初療・収容活動と軍醫の補助をしておりました。
この他に師團衛生隊担架中隊の一部が軍醫と共に前線に挺身し、傷者の捜索・収容に任じました。衛生隊は自前の規模の大きい繃帯所(後に野戰病院のひとつとなる)を開設し、初期治療を施し、さらに初療を普及・完成するべく後方の野戰病院に患者を後送します。 支那事變の戦訓により、昭和13年には作戰要務令に戦闘救護班が規定され、衛生隊の前線収容要員は火線救護の強化勢力として第一線部隊に配属ないし協力することになりました。
昭和13年作戰要務令制定時点で、陸軍の前線患者収容態勢は合理化され、従来の師團野戰病院(6〜8個)を統括するのが衛生隊、新たに戦闘救護班を新設、従来の担架・車輛の両中隊が患者収容隊にと改編されたのですが、実際には従来の戰時衛生勤務令による旧式編制による運用が昭和19年の師團大増設まで続きました。この旧式編制の衛生隊は大戰前の獨軍方式を輸入したものですが、当時としては他陸軍に比べても遜色の無い患者収容・初療機関であったはずです。
後方には、兵站衛生隊(従来の野戰豫備病院、兵站病院を指揮下に置く)があり、その本部には移動治療班(移動野戰外科病院の機能)が附属していて、優秀な外科医とX線装置を伴う自動車編制を持っておりました。さらに患者輸送隊、野戰貨物廠(従来の野戰衛生材料廠が他の野戰諸廠と共に統合されたもの)衛生材料部、病院列車、衛生飛行機、病院船と、器材補給・患者後送手段が編成されており、内地の兵站基地にある陸軍病院まで兵站線路上を傷病兵は送還される手筈でした。
この一連の患者収容・治療・後送・器材補給の系統のどこかが崩れると、傷病兵はとても悲惨な状態となりました。
軍醫部(日露戦争後、衛生部と改称)員が戦闘もするのかと云えば、從軍手記によれば、しました。それは我が後方に回り込んでくる敵遊撃隊の襲撃を受ければ患者と衛生器材を守るため自衛戦闘として躊躇無く銃撃戦をし、状況逼迫すれば白兵突撃も辞さなかったそうです。衛生隊でも、隊長は必ず兵科佐官で、車輛中隊は輜重兵なので、ホンチャンの衛生兵を除いて兵科の武装をしており、立派に自衛戦闘力がありました。
あるめ


翻訳ページ頼りで正しいかどうか自信はありませんが、救急キット等で戦闘中でも治療できたという事ではないでしょうか?どの程度の治療が出来たかは判りませんが。
ルージュ


日本では欧米からの少ない情報を元に、独自にペニシリン(碧素と呼ばれていた)の開発に成功したと聞いています。最初に臨床投与されたのは呉市の破傷風の少年だったとか。ところで、望月三起也の初期マンガで「日本軍の衛生兵は何でもヨードチンキを付けるのでヨーチンとあだ名されていた」という話があったのですが、これってガセ?
ブラック・タロン


衛生兵を指す兵隊スラングが「ヨーチン」であるのは確かです。
あるめ


アメリカの歴史番組で第二次大戦中捕虜だった米兵の聞いたのですが、その兵によれば、「捕虜のほうが幸運だった面もある。我々は同じく捕虜になっている連合軍の軍医将校の診察を受けられたが、収容所の日本兵には1人の伍長だけで、軍医将校が来るのは1年に1度か2度。」だったそうです。
Vinegar-Joe


すると、その捕虜収容所の兵力は中隊規模以下ですね(収容所警備の分遣隊に衛生下士官が配属されたという状況で)。大隊本部には、軍醫(尉官)がすくなくとも1名はいたのですから。
あるめ


「コンバット!」なんかで見ると、アメリカ兵が負傷すると何はともあれ「サルファ剤」(ペニシリンなどの抗生物質出現前のもっとも有力な抗菌剤)ですが、日本軍ではサルファ剤は使っていたのでしょうか?
大名死亡


昭和12年に第一製薬が国産サルファ剤を発売を発売していますし、検索してみると当時の軍医の方のペニシリンとサルファ剤の効果の比較の発言やチャンドラ・ボース氏の治療内容にサルファ剤の名前が見つかりましたので一般的な物であったのでしょう。
ルージュ  
→ top


【修正】


あるサイトで軍事マニアの人が「ガンダムでやたらと部下を殴る地球連邦軍の軍人は軍事描写がおかしい」という書き込みをしていました。私は今まで軍隊では日常的に上官が部下を殴打する(シゴキ)ものだと思っていたのですが、具体的にどこが間違っているのでしょうか?


他国軍の話は分かりませんが、米軍では上官が部下に暴力をふるう(hazing)ことは厳禁(規律としては)されています。
Vinegar-Joe


一般社会と同じじゃないでしょうか?公には×。実際は、気に入らないヤツ、若手にはパンチ♪!★☆でしょう?みなさんどう思いますか?
ogurenko


自衛隊に入隊して約20年になりますが、殴られたのは一度だけ、殴った事はありません。部隊によって、また個人によって殴る殴られるという頻度は異なると思いますが、少なくとも私自身は「日常的に」殴打する光景というのは見たことがありません。なお自衛隊の場合、私的制裁は禁止されており、殴った事実が判明すれば傷害の疑いで捜査されることを付け加えておきます。
また現在の米軍は殴る蹴るではなく、腕立伏せを延々とやらせるとか、部下の顔の間近で相手の人格、尊厳をこきおろすセリフを怒鳴りつけるとかいった方法でシゴくことが多いようです。
質問者が言われる「軍隊」というのは旧日本軍の事と思いますが、そこでは「日常的」に殴打があった部隊が多いことは御存知のとおりです。他の国の軍隊については、伝聞や根拠のはっきりしない書籍・雑誌の類の情報しか知らないので、私にはコメントできません。


軍隊は一般社会に比べ厳しい規律と統制の伴う社会であり、特に軍事作戦では極限状態の緊張を強いられることもあります。もちろん、いじめやしごきなどの暴力は禁止されているわけですが、例えば、敵に見つからないように物音一つさせないで待機していろ、という命令がかかっている中で、敵の銃声に耐えきれず発砲してしまったり、取り乱してしまうような兵士がいたら作戦は失敗どころか全員を危機に曝してしまうことになります。そういう状態では、上官などが「黙ってろ!」とビンタ食らわせたりしてとにかくおとなしくさせるのも止むを得ない手法だろうと思います。ただ、こうした強制的手段を取る必要がないのに日常的に暴力が展開されている部隊であれば、むしろ規律や上官の管理能力に問題があると考えるべきではないでしょうか?
アリエフ


>やたらと部下を殴る地球連邦軍の軍人
「それでも男ですか!?、軟弱者!!」ですか?、「親父にだってぶたれた事ないのにッー!!」ですか?、ジャブローでの「ビンタを避けるとは生意気な!」(だったか)ですか?、ケースバイケースですから状況をはっきりさせて頂かないと…
与太はさておき、私的制裁については前に質問させていただいたことがありましたが(見つからない)、その後読んだ河野 仁『〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊』(講談社選書メチエ、2001年)の中に、ガダルカナル戦に参加した日米両軍の記述の中にこれに関するものがありました。アメリカ軍の場合、陸軍州兵部隊と海兵隊では規律の厳しさに格段の差があり、海兵隊での懲罰は「訓練中に銃を落としたら、一晩銃と一緒に寝る」、「白手袋で敷居を指でなぞり、汚れがついたら演習場の周囲をマラソン」、「ハンドポケットしたら、ポケットに砂を積め込む」などで、州兵の場合は備品検査不合格の場合外出許可証の制限・発行停止が用いられたそうです。ただどちらも日本軍のような古年兵の暴力による制裁は、ほぼ皆無であったとのこと。
あと他の国の事例は極断片的なのですが、ドイツ軍の場合、良く知っている人のサイトで質問してもはっきり出てこなかった、ということと、旧ソ連軍では相当の数の自殺者が出ていた、と言う記述を目にしたことがあります。
おまけで海兵隊冗談話では、ここが面白かった。
http://www.sorekika.com/dame.jsp?idx=313
では、ビビビビビ…(水木しげるのビンタの擬音)
バツ


Zガンダムでは「修正」と称して士官クラスの軍人が部下を殴りまくってました。ガンダムでは士官(職業軍人)が部下を殴るケースが異常に多いです。普通は古参兵(一等兵〜上等兵)か下士官だと思うんですが。
モーグリ


>私は今まで軍隊では日常的に上官が部下を殴打する(シゴキ)ものだと思ってい>たのですが、時代(あるいは戦時と平時)、国、部隊(あるいは艦艇)、個人の資質によって差異があるというべきではないでしょうか。
同じ帝国海軍の艦艇でも家族的な雰囲気のフネと「鬼の○○」なんてフネもあったそうです。帝国陸軍でも地方の部隊だと「シャバ」に出たときにどういう血縁地縁ができるか解らないので「比較的」とは言えあまり無茶が出来なかったそうですが、そのあたり都会の部隊のほうが厳しいことが多かったそうです。(中野学校に行ってた叔父は一度も殴ったことはなかったそうですが。)Jでは「非公式」にはいろいろあるのかも知れませんが、少なくても外部に漏れたら大問題でしょうし、バブルのころは隊員が辞めないように「体罰」はるか以前のレベルだったらしいなんて話を聞いたことがあります。ただ、得てして「閉鎖空間」であることや「階級社会」であることからモーグリさんが言われるような軍隊や軍人が往々にして存在することは事実でしょうね。
>具体的にどこが間違っているのでしょうか?
「未来の高度なメカを扱うエリート集団でそういう野蛮な行為を行う軍人が出てくるのは可笑しい。」と思えば間違ってるでしょう。「部下を殴打する軍隊や軍人は過去にいた。未来といってもそういう体質の軍人がいても不思議ではない」と思えば間違っていないでしょう。
SAW


旧軍では、伝統的にビンタが容認されていたのは事実です。ただ新兵から自殺者や脱走者がでたりするので、建前上の私的制裁の禁止令がでましたが、実際は奨励されていたようです。
中隊の人事掛特務曹長(のちの准尉)が、内務班長に、最近はだらだら初年兵がたるんどるから、すこしは気合をいれたらどうか、と暗にほのめかす場面もあります。
内務班で古兵が初年兵にビンタをくれたり、いろいろな種類の私的制裁を行うのは、教育手段のひとつとして必要なものと認識されており、戦前ではビンタをはったからといって刑事上の罪に問われることもありませんでした。鼓膜が敗れたり、歯が折れたりすると、内部で問題になりましたが。
初年兵に私的制裁をするのは、若者宿のイニシエーションの慣習が軍隊の内務班に入り込んだからとも云われています。いろいろ試練を課して、肝試しをしたり、年齢序列を保持するために、秩序の違反者には序列を理解するまで厳しく体罰を与える事は、上級者の義務であるとも認識されていたフシもあります。理屈ではなく、体で覚えこませる必要が軍隊教育にはあって、戦場で理屈抜きに反射的に体が動くようにするには暴力的な教育訓練が奨励されていたのでした。
その反面、部隊によっては、全く私的制裁の無いところもあり、郷土の気質と若者教育の伝統のありかたにより大きく左右されたようです。標準的な部隊である東京や大阪の聯隊では、標準的な私的制裁が存在しました。また特殊な部隊では、特殊なありかたが見られ、例えば鐵道聯隊では、初年兵は毎日全員が教練に出場する前に洩れなくビンタを貰うという奇妙な習慣があり、これはレールなど重い器材を扱うので事故が多く、それを避けるには、いつも気を張った状態で作業をさせなければいけないので、娑婆気の抜けない初年兵には常に強烈なビンタをはって気をピンピンさせておくと事故も少なくなるという理由からそうなっていたと云います。これは大きな猛獣のような反抗的な軍馬を扱う輓馬砲兵隊でも同様な理由で、ビンタが盛んだったと聞きます。まことに軍隊は特殊な境涯であるわけですが、実はこのような暴力が教育手段として使われる状態は、軍隊以外の社会(娑婆)でも常時認められており、學校、徒弟教育でも、先生や兄弟子というのは生徒にビンタを張ったり体罰を課すものとされていました。お医者でも外科では、手術中に助手がミスをしそうになると、気付に下駄(術者は下駄履き)で足を蹴ったとは、外科修業をしていた私の親戚の体験談です。浄瑠璃修業でも、兄弟子は新米をどんどん足蹴にして教育したといいます。(人形で手がふさがっているので足を使う)。學校の体育会系クラブのシゴキも有名ですね。アンダーグラウンド集団では、案外にタテ社会の序列や制裁が生きています。つい最近まで、こういう暴力的教育は意外なところで根強く生きておりました。
これが社会の縮図である軍隊の内務班に持ちこまれるのは不思議ではありません。
ただ戦前の軍隊でも、兵隊どうしで、古年次兵が年次の下の兵隊を殴るのは容認されましたが、下士官は上級者になればなるほど、余り兵卒を殴らないし、そういう役目は上等兵や古兵クラスに任せていたようです。将校が兵隊を殴っても咎められませんが、兵隊の評判は悪くなります。上級将校が下級将校を殴るのは、士官學校での上級生・下級生の間柄を部隊に持ちこむ場合は可でしたが、それ以外では多少、異常な光景とみなされるようです。
そのガンダムでしょっちゅう部下を殴っている人は、下士官クラスであれば別におかしくもなく教育義務に忠実なだけであり、将校であったならば下士官に任せておけばよいのを自分で実行するのは多少どこか偏執狂的なところある、という感じでございます。
あるめ


記憶モードですが「修正」というのは海軍兵学校の上級生徒が「鉄拳」で下級生徒を「指導」する用語だったように記憶しています。「用語」の使い方を見ると(作品の方は見ていませんが)ある種の「誇張」が含まれているのではないかと感じます。(フィクションではある種の誇張はつきものですし、アニメの架空の軍隊だからと言ってしまえばそれまでですが)人間ドラマを描こうとしたあまり「誇張」が過ぎ、日常的に士官が部下を殴打する風潮のある軍隊がモビールスーツのような高度な兵器を駆使してして戦闘ができるのかいなと友人は思われたのでは。
>普通は古参兵(一等兵〜上等兵)か下士官だと思うんですが
私もそのような事例が多かったと聞いていますが、「部下の前で副長を殴る艦長」とか「私服外出なのに、街中で敬礼しないと言って下士官を殴る士官」とかトンデモ士官がいたことは事実のようです。
ただ、このあたり軍隊がどうこうというより「個人の資質」いうべきでしょうか。そういえば米軍でも「パットン将軍ビンタ事件」なんてのもありましたね。
SAW


ゴミ。Zは監督に思いきり否定されちゃいましたからねぇ。「なんでこんなもん作んなきゃいけないんだ」という監督の恨みつらみが特に表出しているのでは……。軍人描写がおかしい、という以前に、人間描写そのものが変な作品ではあります。まあ、人類の半数が死ぬような前代未聞の大戦争をやってる世界ですから、精神が荒んでるキャラとか、電波系なニュータイプとか、プルプルプルプルプル〜とか、ちょっとキてる人が多くてもある意味不思議はないかと。
ノースバーグ


与太話ですが、宇宙空間での戦闘って地上とは比べ物にならない位、危険な環境にあるわけですから、ジオン軍に比べて地球出身者が多い連邦軍において「宇宙空間恐怖症」に陥る兵士が多かったりして、みんなピリピリしていたため暴力沙汰が多かったのでは?そもそも、宇宙船の艦内でいつやられるかもしれないのに、宇宙服を着ないこと自体が精神的に非常に良くない環境ではなかろうか? 
アリエフ


あるWWIIドイツ国防軍兵士の回顧録では、銃の手入れが良くない(その他いろいろ怒られることもしている)新兵が教育係に「地平線に向かって匍匐前進」を命じられ、泥たまりの中に突っ込まされるシーンが登場します。
マイソフ


旧海軍の操縦訓練では、前部座席の練習生の頭を、後部座席の教員が棒でバカバカ叩きながら教育したそうです。飛行帽の上から叩くので怪我はしないけれど、痛かったでしょうね。教員の方も命がけなので、遠慮なく叩いたのでしょう。
あるめ


もはやJ隊では殆ど私的制裁はなくなったように見受けられますが、お隣の韓国では今なお続いているようです。ご存知と思いますが、かの国では健康な成年男子は基本的に軍隊に行きます。で、体験談ですが
1、入りたての頃の基礎訓練では基本的に殴られるものである
2、映画「フルメタルジャケット」のようにいつも自分を苛めていた古参兵を撃って自分も自殺しする事件がたまにある。(憲兵隊に配属された人の体験談)
3、他にもいろいろな「シゴキ」がある
4、脱走事件は結構あるが、24時間以内に捕まえたら部隊内で処理できる。が、イジメによる脱走は少ない模様。脱走原因で多いのは女性問題だそうな。(ほんとかな)
らしいです。実際退役間近の将軍の談話で「我が軍にはいまだに旧日本軍内務班の悪習が存在する」とありました。
ウーフー


少年飛行兵だった父に聞いた話です。父のいた学校の陸戦の教官の下士官(実戦経験者の)によく生徒を殴ったそうですが、その理由をこう説明してそうです。「実戦になれば敵を見たらすぐ撃たなければ、お前達が殺される。しかし、初めて実戦に出て躊躇せずに引き金は引けるモノではない。これを克服するには殴ってでも体に教え込み反射的に引き金を引けるようにしなければならない。だから教官はお前達が敵に撃たれる前に撃てるようにするためにを殴るのだ・・」と。撃てる撃てないの真偽はわかりませんが、父は殴られた事を恨んでいる風でもありませんでした。私にとっても説得力のある説明だと思った記憶があります。 父は将校に軍刀を吊る革の紐(グルメット?)で殴られたそうです。裏地の青いフェルトと痛みを時々思い出すと言ってました。
キー67  
→ top


【兵器の應用】


パロディー映画「ホット・ショット」でジェット機の噴射口でソーセージを焼き、パンに挟んで食べるシーンがあります。これはジョークだとわかりますが、実際に軍事兵器が戦闘行為以外で使われた例を教えてください。
あと「フライパンのように熱くなった戦車の装甲で料理を・・・」と聞いたことがありますが、これは本当のことでしょうか?


戦車兵だった恩師のお話では、戦車の排気管にカゴをくくりつけて、サツマイモを放り込み、その熱で焼き芋を作ったそうです。
穂積


まあ非常に有名な話ですが。手榴弾でお魚獲りなんてのも…
あべちゃん


北アフリカの戦車上で目玉焼きを焼く、なんて映像を見たような・・・。
ogurenko


平凡な話ですが、邊境に駐屯中の戦闘部隊は小銃で(非公式に)狩猟をして、蛋白源の足しにしました。五味川純平「人間の条件」にも蘇満国境の守備隊でそうやっている話がでてきます。平時では彈丸一発でも厳しい管理があるので、なかなかできないでしょうね。 また突如時代が飛んでしまいますが、アメリカ西部の邊境に駐屯する騎兵隊が狩猟して糧食の足しにしていたこともあります。
あるめ


↑海軍も似たようなことをやってます。第六戦隊がカビエンで陸戦隊用の小銃を使用して牛狩りを行ったそうです。(「鉄底海峡」光人社:高橋雄次著)
あべちゃん


何か兵器で食い物を作るor入手する話ばっかりですので、それ以外で該当しそうなものを・・・(設問の『軍事兵器が戦闘行為以外で使われた例』って、別に兵器で食い物等を得るというのに限った話じゃないよね?)
昭和30年代頃でしたか、どこの県か忘れましたが、山岳地で転落し崖にザイルで宙づりになってしまった登山者(死亡)の回収のため、陸自に出動が要請され、普通科隊員が狙撃銃等を使ってザイルを狙撃し切断した(らしい)という話&写真を見た記憶があります。まだ陸自でスプリングフィールドM1903A4狙撃銃が使われていた時代の話です。
ブラック・タロン


戦車を溶かして東京タワーの材料にした。駆逐艦を利用して防波堤を作った。退役した軍艦、軍用機を沈めて魚礁にした。特攻用のボートが、戦後、公園の池で遊戯用ボートになった。風船爆弾が雨具、敷物になった。軍艦が丸々博物館になった。ICBMのサイロが、別荘としてリフォーム、売り出された。・・・探すと色々出てきますね。
ツカドン


↑プロペラを扇風機代りのお話たいへん愉快です。食物以外ならば、いろんな人が持ちよれば、そう云えばそう、というのから、えええ!?というのまで、ごまんとありそうですね。廃物利用で知っているのは、
1:砲の殻藥莢を灰皿代りにした。
2:落下傘で花嫁衣裳をつくった。
3:戦闘機の尾輪をスクーターの車輪に使った。(これに乗って出前のアルバイトしていた人から聞いた。終戦直後の東京市電の軌道の凹部に車輪がスッポリ嵌ってしまうので難儀したとの由)
あるめ


朝鮮戦争の頃、バウスラスターの代わりに、駐機中のジェット戦闘機のエンジンを噴射して横須賀港に着岸した米空母があったそうです。
ゴミレス
>ぼくの想像で、真夏に軍事機のプロペラを扇風機代わりにつかった例があるんじ>ゃないのか?
20年ほど前に飛行機好きの米国人社長が自分の執務机を複葉機型にしてしまった映像を見たことがあります。チャント、プロペラを回転させてコックピット?座った社長が涼んでました。(笑)
さらにオモチャの連装機関銃で気に入らない社員?を銃撃してました。(但し、音 と光のみ。)会社は空調会社だったそうですが、「わが社の製品よりペラの風の方が気持ちよい。などと社長は言ってたそうです。(笑)
SA

W A
終戦後に余った防弾タンク用の発泡ゴム材でゴム草履を作った話がありました。
兵器そのものではないですが、戦艦の砲塔バーベットを組み立てる為のコンクリート・ピットが原子炉の組み立てに使われたそうです。映画「未来世紀ブラジル」のラストで出てくる異様なコンクリートの穴が多分それだと思います。
ささき


艦載機の推力をスラスター代わりにするのは1940-50年代の米空母ではよく見られる光景です。映画の「トコリの橋」でも再現されてますが、艦載機のエンジンが傷むので飛行機屋さんは物凄く嫌がってますね。
以下ゴミを追記。ラバウル近海の哨戒任務に就いていた駆潜艇二八号が、ソナーで魚群を探知すると爆雷を投げ込んでせっせと魚捕りをした、という描写を当時の乗組員の方が書いておられました。不審に思った司令部から「敵潜水艦発見セシヤ」と聞かれると、「敵ラシキ反応アリ、現在掃討中」と返信しておいて、魚捕りに励んだとか(笑)。
大塚好古


今まで何度か出している話ですが、南太平洋に展開した F4U の部隊で増槽に風車とミキサーを付け、支給品の濃縮ミルクと砂糖を入れて飛ばしアイスクリームを作っていたそうです。ここまで大仕掛けでなくとも、戦闘任務以外で飛ぶ飛行機にビールや椰子の実を積んで上空で冷やすのは日米ともにやっていたようですね(厳密に言えば規則違反なのでしょうが)。
ささき


昔々「探偵!ナイトスクープ」真夏の熱々のボンネットで料理が出来るか?という話題をやっていましたが見事に出来ませんでした(最後はバーナーで車体を炙りむりやり肉を焼いていた)。PKのお手柄というところでしょうか。
バツ


戦後、解体された「伊勢」の残骸を住処にしている親子の映像を見たことがあります。
YOU


ポーランド国鉄の車両で、翼と後部胴体を外したMiG-15を機首上げ姿勢で台車に固定し、エンジンをふかして線路上の除雪/融雪を行うものがあります。
Schump


さすがに、これはヤラセ映像だったと『ナチスドイツの映像戦略』に書いてありました。 さて、話は変って第三次中東戦争の頃。イスラエル軍が調査を行ったところ、小火器の故障原因に意外な事実が判明しました。中東の砂漠地帯、暑い場所で戦うのですから、どうしても水分の補給は大切です。もちろん、給水は行われていますが、それだけでは足らないので占領地で手に入った清涼飲料水などを飲む兵士たちが、銃の角を栓抜き代わりに使い、それが原因で部品の変形を招いてしまう……ということです。結局、イスラエル軍が従来私用していたFALに代えて採用したガリルには、バイポッドの金具を利用した栓抜きがつけられました。
カール・リヒター


油田火災用消防機材でMiG-21だったかのエンジンを転用したのがあったと思います。湾岸戦争後のクウェートの油田の後始末の際に登場したと記憶しています。
けい


昔、TV番組で陸自の廃棄兵器等が再利用される流れを追った映像が放映されたことがありました。その中では、用廃となった155mm榴弾砲M1が解体・融解されて建築用の鉄骨材になったり、使用済の105mm戦車砲弾用薬莢(真鍮製)が融解されて真鍮細工の原料になる過程が紹介されていました。
ついでにガリルARMの二脚架の基部はワイヤーカッターとして使えます。ただし、水平方向に使用する場合、構造上銃を起こさなければならず、実戦向きかどうかは評価が分かれるでしょう。
ついでにこんなのはどうでしょう。1994年頃のロシアの兵器ショーで、BTR70系の装輪装甲車をベースにした『戦闘消防車』なるものが紹介されていました。旧ソ連軍の主要装輪装甲車を開発してきたGAZ(ゴーリキー自動車工場)の民間向け製品ですが、実態は何のことはない赤と白に塗ったBTR70系の装輪装甲車に22連装式の消火弾発射機を載せた、東宝怪獣映画のポンポン砲みたいな代物でした。ちなみにGAZではBTR80をベースとする民間向け輸送車両をいくつか開発しているそうです。
ブラック・タロン


消火用ということなら森林火災消火機には退役 Warbirds が多く使われていますね。
ささき


105ミリの薬莢を前線基地のトイレ代わりに。(南べトナム政府軍)
開高健「ベトナム戦記」
Soby


TNT爆薬は火をつけるとただ燃えるだけなので、それを使って食事を暖めていたそうです。あと、艦載機をとめるゴムでバンジ−ジャンプをしたとか。
RUPIN


Ans.Qの他の場所でも話題になりましたが、昭和18年に謎の爆沈を起こした戦艦『陸奥』の鋼材が、戦後引き上げられて放射線測定装置の遮蔽材として再利用されているというのは知る人ぞ知る話ですね。極微量の放射線を精密に測定するには、環境中の自然放射線を可能な限り遮断しなければならないため、測定装置の遮蔽材には分厚い鉄材が使われます。が、戦後生産される鉄材には生産過程でコバルト60が含まれてしまっているため不向きとなってしまいます。そこで、戦前に生産された鉄材で作られ、戦後の核実験等による人工放射線の汚染にも晒されていない『陸奥』等の沈没艦艇の鉄材を引き上げて再利用しているというわけです。
ブラック・タロン


今思い出した実例、有名な目玉焼きの話。
サウジアラビアの建設現場で十年近く前、午前中フルに作業したブルドーザーのエンジンカバー上で実験したやつがいました。(触ると火傷確実だったため思いついた?そうで) 結果、黄身は半熟どまりだったとか。なお黒塗りの乗用車のボンネットでも可能とのこと。いずれにせよ食えるもんじゃ無いそうで。(当たり前ですね。)なお実験者は、焦げ付いた白身を掃除させられたとのこと。ブルじゃなくて乗用車のほうだと思いますが。以上、眉につばつけて聞いてください。
タンジェント

九五式軽戦車の砲塔を取っ払ってバスにした例はありますが…
 #ミリタリーマニアにバスマニアが居ない
 #バスマニアにミリタリーマニアが居ない
 #上の二つ,どっちも居るんだけど余りにも下らない事例である以上の理由のどれかが作用して,誰も気にとめません。どなたか,調べてくれないでしょうか(を
長楽寺鶴川


かなり昔ですが、海上自衛隊では5インチや76mm砲弾の空薬きょうを切断して灰皿にした人がいました。現在は管理が厳しいのでありえませんが。
西部


ディスカバリーで見たのですが、TNTかなにかの爆薬で、コーヒーをいれるお湯をつくったそうです。どんな容器を使ったのかは、残念ながら映像がなかったのですが(w
yuu


「激闘戦車戦」には、「先頭部隊の戦車が、数台とまっている。故障車かと思って近づくと兵が牛を分解して、戦車の排気管にくくりつけている。・・・(中略)・・・牛の大きな肉塊を、排気管にしばって、二〜三時間行進すると、ちょうど食べごろに、こんがり焼けるという。」とかいてあります。
第八六七艦隊


以前「特命リサーチ200X」で、ハンガリーかルーマニアの油田消火チームがT34の車体にミグ19のエンジンを載せたもので消火作業しているのを見ました。
キム  
→ top


【不審死(海軍)】


日本海軍において作戦中に死因が明らかでない死者が出た場合、法律的にはどう処理するのでしょうか?現在の日本では医者が見て死亡診断書を作成して(必要な場合は監察医が調べた後に)、役所に提出して埋葬の許可を得るようになっているようですが。海上であれば水葬となると思うのですが、それを規定する法律や慣例はあるのでしょうか?


法律的な「死体」の処理なのか、あるいは戸籍抹消という「死亡届け」の処理なのか判然としませんが、死亡届に関してはこのサイトに纏められています。
http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/199310.html
死体が無い場合ですが、あとこの条文が参考になろうかと思いますんで、追加。
国家公務員災害補償法第19条
「船舶が沈没し、転覆し、滅失し、若しくは行方不明となつた際現にその船舶に乗つていた職員若しくは船舶に乗つていてその船舶の航行中に行方不明となつた職員の生死が3箇月間わからない場合又はこれらの職員の死亡が3箇月以内に明らかとなり、かつ、その死亡の時期がわからない場合には、遺族補償及び葬祭補償の支給に関する規定の適用については、その船舶が沈没し、転覆し、滅失し、若しくは行方不明となつた日又は職員が行方不明となつた日に、当該職員は、死亡したものと推定する。航空機が墜落し、滅失し、若しくは行方不明となつた際現にその航空機に乗つていた職員若しくは航空機に乗つていてその航空機の航行中に行方不明となつた職員の生死が3箇月間わからない場合又はこれらの職員の死亡が3箇月以内に明らかとなり、かつ、その死亡の時期がわからない場合にも、同様とする。」
しかしこれらの法律はいづれも戦後に制定されたものですので、戦時、あるいはそれ以前での法的処理とはまた異なるかもしれませんが、考察する手がかりにはなるでしょう。
補記というよりチャチャその一。
医師が死亡を「診て」いないと死亡「診断」書は書けません。既に死体となっているものを医師が見た場合、これは「検案」といい「死体検案書」を書く事になっています(例外あり)死体がない場合は、もちろんこれらは書きようがありませんので「死亡届」のみとなります。
上記サイトを読めば理解されるかもしれませんが、戸籍抹消に本当に必要なのは「死亡届」であって、止むをえない場合に限りますが死亡診断書(死体検案書)は必要ありません。
追加というよりチャチャその二。
死因ですが、大きく分けて「内因死」(病死あるいは自然死)「外因死」(外傷など)の二つに大別されます。
おそらく「海に投げ出され、あるいは打ち上げられた死体」「爆発などで一部が亡失した死体」といったことを想定されて質問されているのだと思いますが、考えてみれば「銃撃あるいは爆発、火災による外因」「落下物等による打撲」「ロープなどによる絞扼」「高所からの転落」「溺死」「冷水等による凍死」「沈没閉塞による窒息」以外の外因を想定できるでしょうか。死体がある程度残っていれば、このうちのどれかぐらいは推定できます。
「作戦中に死因が明らかでない死者が出た場合」と問われていますが、死因が明らかでないというのは、内因子(病死など)でも外因死(外傷など)でもないことをいいます。そしてこのような死因と見られる死体を異状死体といいます。かような死体が出る事は、考えてみれば稀有だと思うんですが…
なお「異状死体のうち、とくに犯罪と関連性やその疑いがある」これを変死体といいますが、この場合は行政(または司法)解剖にかけられます.
ごるぴゐ


あのーごるびゐさん、僕の知りたいのは、日本海軍さらに戦時下で直接戦闘行為により死亡したのではないと思われる死人が出た場合どのような処理(法律を含めて)がされるのかということなのですよ。
僕の質問の仕方が悪かったのかもしれませんね。なんでそんなことに興味を持ったかというと、海軍は戦闘集団で戦死した場合を想定した法整備はあっても、突発的に例えば脳出血のような場合で船内で死者が出たら、結構適当に処理されてしまうのではないかなと思ったからです。例えばこの突然の脳出血のように、内因死でも既往歴が無いような場合は、さらに船舶などの解剖が出来ないような場合は原因の特定は困難ではないですか?今現在のことうんぬんではなく、出来ましたら往時の事を、何方か教えてください。
すなめり


当時の海軍において訓練中や作業中の事故で死亡したときは殉職です。戦死とは異なった扱いになります。出撃命令による通常の出撃、哨戒飛行でも爆弾を積んで出たときなど、未帰還でも戦死ですので特進があります。
vought


明治の初めに出た通達では、海軍では軍人軍属死亡原因が詳らかでないときには、軍醫が死体の局部解剖をしますから、陸軍省でもよろしくご承知下さい、と云うのがあります。(明治十二年五月十三日太政官より陸軍省へ達)
「別紙海軍省伺、軍人軍属死亡其の原因つまびらかならざる時、死体の局部解剖の義、朱書の通り指令そうろうじょう、このむね心得、あい達しそうろう事。
(別紙)
海軍省上請。 当省軍人軍属諸艦船及び各營その他に於いて醫師の診断を経ずして死亡するものこれあり。しこうして其の死亡の原因詳らかならず。これを詳らかにせざれば退隠令あるいは裁判上處分あいなりがたく、醫官に於いて其の死体の局部を剖觀する時は、これを詳らかにし得ると認むる者は、自今当省醫官をして解剖致したくそうろうじょう、御許可あいなりたく、この段上請そうろうなり。
伺いのおもむき聞届そうろう事。」
軍人恩給の資格・等級認定のためにも死因は明らかにしておく必要があったらしく、この後、海軍では然るべき規程整備が行われたと思われます。しかし私は海軍は専門ではないので、これ以上のお答ができません。海軍の制規を御参照なさると、きっと該当する条文が出てくると思います。
あるめ


うぅ、調べているうちに遅れをとってしまいましたね…
(3)のご疑問ですが、これは全くその通りです。しかしこれは、むしろ法医学自体が普遍的に抱えている問題です。
外因子の場合は、前述したように比較的わかるものですが、このような内因子によると推定される「不慮の急死」となると、検屍だけでは究明困難です。短期間に絶命する疾患はいくつかありますが、本人が持病を隠していたり、身体の異常を訴えていながら診察を受けていなかったりなどして、死に至るまでの因果関係がわからないことが多いのが、主な理由です。このような場合、本当に究明するには解剖しかないわけです。
とりあえず一般に対してのところからアプローチしてみようと、戦後(現在)と戦前の医事法制を比較してみました。
まず死亡診断書(死体検案書)の作成については現在のそれと大差ありません(旧医師法第五条など)解剖は明治時代に、官許が必要である事(旧刑法四二五条)司法解剖について(太政官布告二二)がありますが、「死体解剖保存法」のような体系化した法律はありませんでした。あと現在と異なるのは、監察医制度がなかったことくらいでしょうか。
以上のことから、戦前、確固とした制度はなかったようですが、慣例としては現在のものとそう変わり無いように推測していました。ですから(5)のように積極的な究明を行うための上請があったとは、半ば意外でさえありました。でも残り半ばは、事故などの疑いを究明する必要がある意志を汲み取るならば、これは当然かもしれませんね。
さて…となると、ご質問の回答は「海軍諸例則」などに記載されている可能性がありますね。しかし申し訳ありませんが、私、同書は閲覧できないので、どなたか宜しくお願いいたします。
ごるぴゐ


旧海軍における医務関係の規程としては、「海軍軍醫科士官醫務取扱規程」があります。 例の昭和十六年度版の「海軍諸例則」の「第二十類 醫務 衞生」「第一款」の「海軍軍醫科士官醫務取扱規程」(昭和十六年十二月十八日 達第三百九十二號 改正 昭和十七年第二九號、十八年第二二三號、二〇年第二三號)の内容はちょっと読みにくいのですが、「第一章 總則」」「第二章 鎭守府軍醫長」「第三章海軍病院長」「第四章 各廳ノ軍醫長及軍醫科士官」等があるのですが、本件で関係するのは、恐らく、第三章の第十九條 院長ハ入院患者死亡シタルトキハ死亡診斷書(第二十様式)ヲ調製シ二通(公務ニ原因シタル者ニ在リテハ三通)ヲ死亡者ノ所轄長ニ、一通ヲ所屬鎭守府ノ軍醫長ニ送付スルモノトス
とか、第四章の、
第三十五條 軍醫長ハ患者死亡シタルトキハ死亡診斷書(第二十様式)ヲ調製シ二通(公務ニ原因シタル者ニ在リテハ三通)ヲ死亡者ノ所轄長ニ、一通ヲ所屬鎭守府ノ軍醫長ニ送付スルモノトス 部外委託患者ノ死亡診斷書ハ前項ノ規定ニ順ジ處理スルモノトス
などだと思われます。
また、「第四章 第六節 其ノ他ノ醫務」の
第七十三條 軍醫科士官ハ死體ヲ檢査シ檢視ニ立會ヒタルトキハ死體檢案記{・br>(第二十四様式)及死體檢案書(第二十様式)ヲ調製シ死體檢案書二通(公務ニ原因シタル者ニ在リテハ三通)ヲ死亡者ノ所轄長ニ、一通ヲ死體檢案記{鴻g共ニ所屬鎭守府ノ軍醫長ニ送付スルモノトス (以下今泉略)
とか
第七十四條 軍醫科士官ハ死體ノ剖檢ヲ爲シタルトキハ剖檢記録(第二十五様式)二通ヲ調製シ一通ヲ所屬鎭守府ノ軍醫長ニ送付シ一通ヲ死亡者ノ患者日誌ニ添附スルモノトス但シ變死ノ疑イアル場合ニハ更ニ一通ヲ死亡者ノ所轄長ニ送付スルモノトス
などとあります。
少なくとも、小生の読み落しが無い限り、「海軍軍醫科士官醫務取扱規程」において死亡関連の規定は上記だと考えますので(外部の病院に委託する場合などはここでは引用していません。また「第四章 第四節 戰時醫務 における戦死者関連の規程は、本文脈とは一応無関係と考えます)、死因が不明で云々ということは規程には現れて来ていないと考えるのが妥当です。
では、死因が疑いがある場合に対してどうするかを規定していないかというと、第二十類の「第五款 剖檢」の「軍人軍屬死状疑義アルトキ局部剖檢ニ關スル件」(大正四年六月二十二日 達第八十三號)があり、内容は以下の如きです。
一 海軍軍人軍屬死亡シ其ノ死状疑義ニ渉リ局部剖檢ヲ必要ト認ムルトキハ所轄長ハ所屬長官ノ認許ヲ受ケ軍醫官ヲシテ之ヲ行ワシメ又ハ最寄海軍病院院長若ハ其ノ他ノ軍醫官ニ之ヲ委囑スルコトヲ得
(本文中「軍醫官」の傍には点が打ってある)
二以下、今泉略
この「軍人軍屬死状疑義アルトキ局部剖檢ニ關スル件」は「死状疑義」がどのようなことを想定しているか記すところがないのそれ以上のことは言えませんが、常識的に考えれば死因が明らかでは無い場合のことを想定していることは間違いないように思われますが推測に過ぎませんし、元々の質問にからむ件がこの規程にのみ限られるのかも分かりません。
また、「海軍軍醫科士官醫務取扱規程」や「軍人軍屬死状疑義アルトキ局部剖檢ニ關スル件」以外の周囲の規程に関して小生として知るところが無く、医学や関連法令に明るくない故をもって、「あるところまでの小生の推測」に留め、これをして結論あるいは断定とするつもりはありません。その意味で、もう一段深い法令・規程を調査する必要が在るように思います。
取り敢えず、本情報をもってこの方面に詳しい方の解釈等に資するところがあることを期待し、同時に本件に関して自分なりの疑問点を見出すに至りましたので、以後本件に関して留意する所存であります。
なお、葬儀に関しては、「海軍諸例則 第二十五類 第三款 葬喪 服忌」の「海軍葬喪令」(大正九年六月二十五日勅令第百九十五號 改正昭和一三年第五一四號)に定めるところがありますが、上記の醫務の関連との条文は認められない考えます。ちなみに、水葬は「第九條 水葬ハ陸葬スルコト能ハサル事由アル場合ニ限リ之ヲ行フ」などとあります。
今泉 淳  
→ top


 → top
【免役上限延長】


よくドラマなんかで「親父に赤紙が!」という場面がありますが最終的に何歳ぐらいまで召集されたのでしょうか?40過ぎになると兵隊としてはキツくなると思うのですが?


普通は、40歳以上は兵役免除というか、軍隊とは関係が無くなります、兵隊として使い物にならないので。「親父」というのは20〜30歳代の働き盛りのおっちゃんらを指すのでしょうが、日本男子は全員が補充兵役か予備役(後備役を含む)、國民兵役のどれかに割当てられていて、戦局が進むにつれて臨時編成部隊要員(臨時召集)や欠員補充のために召集されていきます。終戦間際の根こそぎ動員のときに応召した第2國民兵役の38歳の「親父」が、「まさか、二國(第2国民兵)までとるとは思わなかった、と回想しています。おまけに40歳で兵役免除のはずが45歳まで延期となり、もう帝国陸軍もオシマイと実感したそうです。  → top


【徴兵年齢】


現在我が国の「20歳成年制」の起源について調べています。その関連で我が国の徴兵年齢について調べようと思ったのですが、予想外にいい資料が見つからず困っています。
1)我が国の徴兵制度の成立過程、特に徴兵告諭で20歳を徴兵年齢と定めた事情・理由、あるいはそれに関する書籍・資料等をお教えいただけませんでしょうか。
2)この時代(明治初期)の、諸外国の徴兵年齢(あるいは志願兵受け入れ年齢)が分かる資料がありませんでしょうか。
カンタニャック


書籍じゃなくHP参照(しかも毎度のことながら英語HP)で申し訳ありませんが

http://www.teachervision.com/lesson-plans/lesson-5669.html
米国で明治少し前にあたる南北戦争での徴兵年齢は
 北軍:20〜45歳
 南軍:18〜35歳(後に17〜50歳)
ちなみに
WWI:21〜30歳
WWII:21〜35歳(後に18歳から)だそうです。
http://www.let.leidenuniv.nl/tcimo/tulp/Research/Armingzu.htm

ところ変わってオスマントルコでは1834年に軍隊近代化に伴い23〜32歳で徴兵したとの事(それ以前は15〜30歳)。
jas1


jas1さん、ありがとうございます。いつもながら見事な検索のお手並み、感心しております(わたしが検索かけると、大体2000件以上か、一件もありませんになるもので…)。ところで私の方でもある程度分かったので書いておきます。
1880年頃では、
日本(17歳以上志願可) 20歳徴兵
フランス 20歳〜40歳兵役
オーストリア 20歳で徴兵
ドイツ 20歳で徴兵
ロシア(17歳以上志願可) 21歳で徴兵
イタリア(17歳以上志願可) 21歳で徴兵
昔の和書からの孫引きデータなので今ひとつ信用できないと思っています。もし、これらと違うデータがございましたら是非お教え下さい。
カンタニャック


もっと良く調べたかったんですが(特にイギリス、フランス)、調べ方が悪いのか 良いHPが見つけられなくて断念しました(^^; その後わかったのは
日本
 http://cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tyoheirei.htm
 1873:徴兵令布告 男子への満20歳3年間
 http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview/BB00050000.VOL00031/Body/14-1-01.html
 1889:改正徴兵令(17歳以上志願可)20〜40歳 陸軍3年海軍4年間
スェーデン
 http://www.canit.se/~griffon/diverse/miltech/vplhist.html
 1808:18〜25、1812:20〜25、1860:18〜25、1885:21〜32、1892:21〜40
このくらいしか解りませんでした。英、仏、プロシアあたりがもっと解れば良かったんだけど、どうも欧米では時の為政者によってコロコロ招集年齢が変わる感じですね。平時と戦時の違いもあるのかも知れませんが。
jas1


jas1さん、ありがとうございます。こちらは文献で検索していますので、丁度こちらが判らない部分をお教えいただけ大変助かります。
フランス 20歳〜40歳兵役
オーストリア 20歳で徴兵
ドイツ 20歳で徴兵
ロシア(17歳以上志願可) 21歳で徴兵(20歳とする別データあり)
イタリア(17歳以上志願可) 21歳で徴兵(20歳とする別データあり)
ベルギー 20歳
オランダ 20歳(常備兵となる者)
ポルトガル 20歳
ノルウエイ 21歳
スイス   20歳
トルコ   20歳(1870年の軍制改革で20歳になったようです)
うーんやはり、矛盾データが出てきましたね、昔の翻訳資料の場合、原文の満年齢をそのまま記載するか、当時の日本の読者にわかりやすいように数えに換算するかという問題があるので、一歳の違いはおそらくそれに起因しているのではと推定しています。
jas1さん、上の文頭で「j」が、落ちてました。コピー&ペーストするときしくじりました。すみません。
カンタニャック


明治陸軍はフランス式軍制を直輸入したので、最初の徴兵制度は仏式とほぼ同じ(引写し)とみてよいと考えております。20歳が何故徴兵適齢なのかは、フランスの徴兵制度と市民権(共和国に対する義務と権利)の関連でわかるのかなーと思っておりますが、はたしていかがでしょうか。
あるめ


明治初期の普仏戦争の敗北でフランス式軍制の導入はちょっと動揺(お雇い外国人=フランス人軍事顧問の受け入れを一時中断する)しますが、それまでの蓄積や言語の問題で結局フランス式が継続するようです。徴兵制も基本的にはフランス式ですが、有産市民から優先的に徴兵すべきという議論(いってるのは山県有朋、このころは理想主義者だったんだ)や学校教育制度確立後に徴兵制度を施行すべきという議論など、どのような形で近代的な国民兵役制度を移入すべきかについては、真摯な議論がなされています。
 さて、徴兵年齢の問題ですが、あるめさんのおっしゃるとおり、近代国家においては、徴兵年齢・民事成年・選挙権年齢が、一体のものとして考えられるべきだと思います。
 ところが、当時(1870年代)のフランスやドイツの場合、徴兵年齢は20歳、成年年齢は21歳なのです。日本は仏独の制度を承知の上で、徴兵年齢20歳、成年年齢20歳を採用しています。考え方としては両者を一致させる日本式の方が素直です(ただし日本は選挙権年齢については25歳制を採用しますが)。本当はフランス・ドイツあたりの徴兵制度史を調べるべきなんでしょうけど、なにしろ今私が書いているのは「民法」の論文なもので、どこまで手を伸ばすか(ていうか趣味に走ってるヒマがあるか)迷ってます。
カンタニャック  → top


【志願にあらざる下士官】


以前、「本人の意思によらない下士官任官」ということについてレスがありましたが、たしかわざわざ下士官にならないでも平均なような人が下士官になって強制的に下士官をさせられていたということだったと思います。(その過去ログを探したのですがわからずこんなあいまいですみません)それでしつもんは、
?何故強制的に任官させられるのがいたのか?
?それらはどういう基準で選ばれるのか?
?それはいつごろまであったのか?
ということをお聞きしたいのです。


下士官は普通は現役時代に志願して、通常の現役期間が終わってから任官し何年か更に現役で服役します。それが終わってからも、また再役志願して何年か服役し、それを繰返すわけです。本人がもう軍隊をやめたいと思えば再役志願をしなければ除隊となり、豫備役編入となって、娑婆の人間に戻ります。軍のほうで、君はもう軍人に向かないからやめにしたまえと、いって再役志願を受付けず、豫備役編入として(クビということですね)しまうこともあります。だいたい恩給のつく12年間勤めると、たいていは辞めてしまい、それでも曹長や特務曹長をめざして辞めない人もあり、といろいろです。俗謡には「人の嫌がる軍隊に志願で出てくる馬鹿もある。いーえ、再役するよな馬鹿もあるう」とあるとおりです。これは平時の現役下士官を揶揄したものと思われます。ところが、戦争がおきて部隊が動員になると、戦時臨時の部隊編成を組んで定員が何倍にも膨れるため、下士官は現役だけでは不足するので、除隊した豫備役兵を充員召集し、平時に下士官適任とみなされた豫備役上等兵を(自発的な志願ではなく)命令で伍長に任官させてしまうのが、「志願にあらざる下士官」です。召集の兵隊は、なるべく早く除隊になって家に帰りたいので、わざわざ下士官に志願する酔狂な人はあまりいませんでした。しかし、それでは分隊長要員が確保できず戦争ができませんので、戦時にはそういう形で下士官要員を確保しました。そういうわけで、平時現役時代の成績がよいと(一選抜か伍勤の上等兵で現役をおえ、下士官適任証書をもらうと)、豫備役で應召する時には伍長に任官させられてしまいます。軍隊の人事は命令なので、いやだとはいえません。強制的とは、その意味です。 この形はおおよそ終戦まで続いたと思います。いったん下士官になると、除隊になっても、すぐに再び召集がかかり、これが何度も続いて、20歳代のほとんどを軍隊で暮らしたという人が多くいます。
あるめ


なるほど。僕の曽祖父が手帳の履歴をみると、伍長になっていてしかも大正15年ごろだから戦時でもなく、とくになるような理由もないように思えたので質問をさせてもらいました。


一年志願兵の場合は、現役満期になると豫備役伍長に任官しています。おじいさんの場合、その伍長任官が現役満期時と、どれだけ間が空いているか、で任官理由が分ると思うのですが、つまり現役満期前に任官したのか、豫後備役になってから応召任官したのかですね。現役時に任官したのならば志願、除隊後任官ならば志願にあらざるもの、となると思いますが。
あるめ


戦争末期には、現役徴集、現役満期即日召集、予備役伍長任官という。事実上、1日も帰郷することなく志願にあらざる下士官に任官した者も多数いたと思われます。また、中等学校以上の教練検定修了者で幹部候補生に合格した者で、乙種に振り分けられた、いわゆる乙幹伍長も相当数いたようです。
予備役  
→ top


【兵科・得業の決定】


私の祖父は戦時中は内地勤務で、長野県上田市のあたりで何かの建設に関わっていたとのことです。祖父は、当時としては珍しく車の免許を持っており、宿舎と現場の往復の際には隊員の乗ったトラックを運転していたと言っています(荷台に乗せられるのに比べ、運転席は非常に快適だったそうです)
ここで疑問なのですが、部隊に兵士を配備する際、それぞれの持つ資格・技能などは考慮されるのでしょうか?


最近の日経新聞に元・有名ホテルのコック長の手記が載っていたが、彼がまだ駆け出しだった頃、徴兵されて中国戦線に従軍したとき、主に第一線部隊の炊事担当として勤務したそうです。もちろん、時には機関銃を撃つこともあったが。徴兵される前に、前線の炊事業務で苦労しないようにと料理のコツを職場の先輩から特別に教えてもらったり、上等品の包丁を出征祝いにもらったとか。やはり、外国語能力も含めて特殊ないしは貴重な技能・資格はある程度考慮されると思います。
ついでながら上田市のあたりというと、ひょっとして松代大本営建設工事ではないでしょうか?私の父がこの辺の出身で、上田の旧制中学に通っていた頃、学徒動員で松代大本営の工事に狩り出されたという話を聞いた事があるもので・・。
アリエフ


徴兵檢査合格者は、體格性能により兵科兵種が決められますが(背が高くて目がいいのは騎兵、がっちりしてるのは砲兵など)、同時に職業や特技によっても決まります。例えば大工や河船頭は工兵とか。
また入隊後に中隊人事掛は徴兵署より交付される各兵の身上調査書に基づき職業や特技、経歴を把握しており、一期の檢閲が済んで特業・戰時命課を決める時に、それを参考にします。(特業とは、喇叭、衛生、炊事、工務など特技。戰時命課とは、出征部隊における各兵の役割を予め決めておくもの。特に砲兵部隊など、細かい役割分担が重要な部隊では、聯隊長附乗用自働車運轉手や第何番砲の第何番砲手、聯隊段列第何番彈藥車の中馬馭者などと、綿密に決められていた)
自働車免許は、戦前は非常に貴重な資格で、所持者は、だいたい輜重兵部隊や捜索聯隊の自働車運轉手になったようです。(なにかの間違いで歩兵部隊にいくと云う例外もありましたが)
自働車部隊では、免許所持者は即戰力として重宝され、また自働車に触ったこともない初年兵の教育要員としても活用されたとききます。
あるめ


かって友人のお母さんお聞きしたのですが、『知人の医師が、医師として徴兵されるのを拒否して普通の一兵卒として徴兵された事が有る。』とのお話でした。こんな事は、可能だったのでしょうか?有り得たのでしょうか?
roht


実際にあったようです。特に戦争末期には医師免許を持っていながら軍医を志願しないものはあえて一兵卒として招集したそうです。これを俗に「懲罰召集」と呼んでいたそうです。ここら辺のことは「軍医サンよもやま物語」(関亮:光人社NF文庫)に簡単に書いてあります。
TETSU29


昭和始め頃までの陸軍軍醫は、全ての醫師免許所持者のうち徴兵檢査合格者(甲種でなくとも乙種丙種でも合格です)を、すべて軍醫豫備員として短期教育し、戰時に大膨張する衛生部要員の需要に充てる準備をしていました。(歩兵聯隊で1ヶ月間兵営生活を体験させ(軍醫候補生の看護卒・看護手)、軍人としての動作と常識を身につけさせ、さらに「見習軍醫」(一等看護長)として軍醫學校で軍陣醫學の講習を受け、衛戍病院で実務見習の後、豫備役三等軍醫に任官させる。時代により多少、制度に変化あり) したがって、お医者さんといえば、必ず軍醫の資格をもっているのが、當時の常識でした。戰争末期には、軍醫が不足して町医者の老先生まで軍醫少尉で応召されましたが、こういう人は號令が旧式で、「かしらー中」のところを「かしらー右」と云いました。
さて、たてまえ上は、志願の形をとっていたので、軍醫候補生になるのを拒否することもできました。そうすると一般の兵科の兵卒として勤務しなくてはならなくなり、お医者さんの二等兵がいることになりました。もっとも醫師は専門學校以上の卒業生なので、幹部候補生志願(豫備役少尉になれる)もできたのですが、これは現役兵に応募資格が限られている制度なので、補充兵役や國民兵役からの(現役での入營生活を送らなかった)応召兵は、ずーと兵隊さんだったようです。兵隊さんと将校の生活は、雲泥の差があり、それがハタから見ると「懲罰」と受取られたのでしょう。
自己の信念に従って敢えて将校とならなかった人は、軍醫のほかにも、一般兵科にいて、それを描いた小説、有馬さんの「兵隊やくざ」に出てくる関東軍最古参泣く子も黙る4年兵の上等兵殿(幹部候補生試驗受験拒否者)がそれです。落ちこぼれの暴れ者二等兵とコンビを組んで暴れまくる痛快ピカレスクですが、當時の、そういう人の心境を活写していて興味深いです。勝新・田村主演の映画シリーズになって、ビデオがあるので、ご覧になった方も多いと思います。けれども、末期の軍隊では、幹部候補生試験の答案を白紙で出しても合格となった例が多くあり、それだけ初級将校が不足していたのですね。
あるめ


私の祖父は昭和11年に慈恵医大をでてすぐ陸軍にとられました。ただ聞いたところでは、速成教育のあとたちまち北満に配備され、どんどんと、中隊軍医長、連隊軍医長、とやらされたそうです。医者が、特に新しい卒業生の知識が役に立ち、このような結果となったようです。結局20年、足掛け9年で師団軍医長となり、終戦時階級は少佐、ポツダム昇進で中佐となりました。陸軍にいながら殴ったことも殴られたこともなかったそうで、1発の弾丸も撃たなかったそうです。もっとも当時としてはデカイ185センチの大男でしたが。最後はラボールの南にとりのこされ、医者として病院の栄養確保をめいじられ、農家出身の衛生兵とサツマイモつくっていたそうです。海に手榴弾放り込んでサカナ、は、最初成功したけど後でサカナもかしこくなったのかダメだったそうです。
まるき  → top


【海軍徴兵と職業】


ご年配の方には常識以前の質問になるかとは思いますが…。旧日本軍の徴兵制において、当然陸軍に召集される方と海軍に召集される方がいるわけですが、海軍に召集される方は訓練その他の都合上、船員や漁師など海上生活の経験のある方が優先されていたのでしょうか?それとも全くアトランダムに選別されて、訓練で矯正することを前提として樵出身の水兵とか、船頭主出身の陸軍兵卒とか珍しくなかったのでしょうか?
備後ピート


その前に、船員や漁業関係者は徴兵されないと思います。もちろん、志願すれば別でしょうが、特殊技術を持つ者は徴兵検査で合格しても、徴兵されなかったようです。このあたり、資料が残っていないので分からない部分はありますが、商船学校出の船員は予備士官となり、その他船員は一般船舶の運航にあたっており、漁師は漁業にいそしむ傍ら、人間レーダーとして哨戒線を形成していたわけです。
hush


徴兵の基準は身体の健康が優先されます。その結果、水兵の中に泳げない者がたくさんいます。戦後に学校教育で水泳が普及するまで、日本人の大半は泳げなかったのです。
BUN


うですね、海軍兵学校で泳ぎを覚えた人は結構いますからね。そのあたり、昔、自分のページで書いたことがありますが、海水浴場であって、海水泳場でないことが端的に示しています。特殊技術の中には運転免許があり、叔父はこれを持っていたがために徴兵されずにすんでいます。もっとも、徴用はされており、鈴鹿海軍工廠で物資輸送に従事していたと聞いています。
その後、他のことを調べていましたら、50T以上の漁船となっていましたので、漁師がすべて徴兵猶予になるわけではないようです。
hush


陸軍は徴兵制で海軍は志願制が原則で所要人員が足りない場合だけ徴兵となっておりました。陸軍は兵科兵種別を決める時に優先すべき職業を大まかに決めていました(船頭や樵は工兵(渡河や木工)、自働車運轉手は輜重兵など)。海軍は海兵團に入れてから選別してゐたようです。けれど太平洋戰争になると海軍も急膨張して兵隊が不足し徴兵が増えてしまいました。陸軍聯隊區の主宰する徴兵檢査で海軍を志願すればそっちにいくのですが、志願しなくても海軍に入れてしまう事が増えてきて、餘り娑婆の職業とは繋がらない形になってゆきました。
あるめ


フォロー多謝。そういうふうになっていたのですね。
Hush  → top


【豫令】


映画「独立愚連隊」を観ての疑問なのですが、中丸忠雄演じる部隊長が、 着剣のことを「ツケーケーン」と呼んでいた様ですが、どうしてですか? つけ(着け?突け?付け?)剣なる日本語はないですよね。


一般的な日本語ではないですが、少なくとも自衛隊では(旧軍は知らないです)着剣時の号令は「着け剣」です。
nahki

 ちなみに、「着け剣」(ふつう、「ツケケン!」と一息に発音する人が多いですが・・・・・・)の対義語は「取れ剣」です。さらに余談ですが、自衛隊では銃剣突撃に移行する前の着剣は「突撃準備」の号令で別命無く行うことが普通のようです。
居眠り将軍

「ツケー」は動作を斉一にするためのが予令で「ケン」が動令です。我々は昔、そう教わっていました。
蒼空

昭和15年改訂の歩兵操典では、着剣の事を以下の様に規定しています。
◎第一篇 第一章基本 第三節着剣、脱剣、小銃及び軽機関銃の弾薬の装填、抽出
 第二七 着剣セシムルニハ左ノ号令ヲ下ス
    「着ケ剣」(つけけん)
 第二八 脱剣セシムルニハ左ノ号令ヲ下ス
    「脱レ剣」(とれけん)


どうもです。「着け剣」なる言葉があったんですね。しかしながら、着け剣・取れ剣と湯桶読みするよりも、剣着け・剣取れと重箱読みする方がまだ日本語として馴染みやすいのにな。どちらにせよ不思議な用語だ・・・・

不思議と言うよりは、蒼空さんの回答からすればむしろ自然かと思います。日本語的にもいわゆる倒置法というやつで、号令には適しているとおもいます。
元法学部生

命令を受ける兵隊さんの身になれば、豫令と動令は大事で、前置きが長ければそれだけ動作準備ができるわけです。英語の命令でも、「FIX!........」と間を置いて「bayonets!」と云っており、fix「着け」で兵隊は腰の銃劍をまさぐって柄を握り、いつでも抜けるように準備し、號令者はだいたい準備ができたなと思う頃にbayonets「剣」と云えば、兵隊は一齊に銃劍を抜いて銃に取り付けるわけです。この間(ま)をはさんでやらないと、命令受領者はやりにくい。もっとも、英語の場合は定例の慣れきった動作ではなく、不意に必要が起きた時には、さらに親切に「we will fix bayonets!」(着剣準備)と豫令の豫令を出しています。旧陸軍は號令に全てこの豫令と動令を考慮していたらしく、外国軍でも同様です。不意に「気をつけ!」(attention!)ではなく「気を〜〜」と豫令を出し、「つけ!」で一齊に部隊が直立不動となるわけで、豫令で間を置いて心の準備をさせないと、不意の命令とて全員不揃いな動作になってしまいます。英語でも「あてーーーーーん」で間をおき、ころあいを見て「しょん!」となります。すると全員が間髪を入れず靴音も高くかかとを合わせる美しい一斉動作になるわけです。単独の兵隊に號令するときは別に豫令は置かなくともよいみたいです。これが自動車などの車輛部隊でもそうなのですから、面白いです。以下、野戦重砲兵7聯隊の中尉をしていた人の受け売り。重砲を挽く牽引車の運転手に號令する時は、「中隊〜〜、まえに〜〜〜〜〜」とやたらに長い豫令を置き、その間に運転手はギアをいれ発進準備をします。次に「す〜う〜〜〜〜〜す〜〜〜〜う〜〜〜〜めえええええ!」の「え!」が終わったところで、やっと運転手はアクセルを徐々に踏み込んでノロノロと牽引車・砲車が動き出すという按配です。これが6門の中隊が縦列になった隊形でなので、彈藥車など従えてガラガラ行進しているうちに、今度は一齊に(しかも優美に)停止させる時がやってくると、號令も「中隊止まれ!」では不意の號令とて互いにドッチャンガッチャンとぶつかりあったりして見っとも無いことになります。兵隊の期待通りの豫令を出さなければなりません。すなわち「中隊い〜〜〜!」(兵隊:お、停止だな、このときおもむろにブレーキに足を載せる)「とお〜〜〜〜〜〜〜まあ〜〜〜れええええ!」の「え!」でピタリと停止できるようにブレーキをかけていくのですが、そのための時間分だけ號令を引き伸ばしてやらないとドッチャンガッチャンとなりますので、號令を出すほうもテクニクが要るわけです。乗馬部隊や車輛部隊の間延びした號令を歩兵など徒歩部隊の兵隊は奇怪に思っていたようですが、それなりの合理的現実的な理由があったのであります。以上ご参考まで。 あるめ  → top


【合調音語】

横須賀育ちの祖母が、起床ラッパの節(多分……)にあわせて「起きろよ起きろよみんな起きろ、起きないと大将さんに叱られるー」と良く口ずさんでいましたが、ラッパがこういう“替え歌”になっていたという話は聞いたことがありません。本当にこういうのがあったんでしょうか? それとも、うちの祖母の創作でしょうか?ちなみに消灯ラッパ(夜に吹かれていたラッパ)にあわせた「新兵さんは可哀想だー、また寝て泣くのかよー」というのもありました。


私の父は「…班長さんに叱られるー」だったそうです。けっこう知られていると思います。
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/nanyanen/nanya02.html
ここに、トテチテタとあわせて出てました。
MISTY


無弁ラッパ(bugle)はMISTYさんが紹介されているページにあるとおり,ド−ソ−ド−ミソ−...の音列しか使えません.従ってメロディーのヴァリエーションが乏しく,各種の信号に使われるにしても,区別の付きにくい,似たメロディーばかりになります.単調なメロディーに歌詞を載せてみたのは,喇叭手にメロディーを覚えさせるとともに,新兵に信号を早く覚えさせる目的もあって自然発生したものではないでしょうか.試験勉強で年号を語呂合わせで覚えるのに似た感覚だとおもいます.軍隊喇叭は各種信号として以外にも,儀礼用の「君が代」などもあります.これは映画の「トラトラトラ」の最初のシーンに使われていたはず(記憶で書いています)です.
ウマシカオ


ラッパの『君が代』は、こないだの観艦式の時に初めて聴きました。海上自衛隊が使っているラッパの『君が代』は、元は旧陸軍で使われていたものだそうですね。陸上自衛隊と航空自衛隊が使っている『君が代』は、生で聴いたことはありませんが、ネットでMIDIを拾いました。これは海自のものとは違いますが、元ネタがわかりません(;^_^A(苦笑)
ブラック・タロン


私の叔母は、「起きないと将校さんに叱られるー」と口ずさんでおりました。
雪風2


映画「トラ・トラ・トラ!」冒頭で吹奏されたラッパは「君が代」ではなく「海行かば」の筈であります。
現在海自で吹奏しているラッパ「君が代」は、明治18年12月制定の帝国陸海軍喇叭譜の「君が代」です。この「君が代」は陸海軍共通でしたが、吹奏される場面に違いがありました。海軍において、軍艦旗掲揚降下時に吹奏されたのは無論のことです。一方、陸自、及び空自のラッパ「君が代」は昭和25年警察予備隊発足時に新たに作曲制定されたものです。従って「元ネタ」というものはありません。
匿名希望


私の記憶では「トラ・トラ・トラ!」冒頭で吹奏されたラッパは
http://www02.so-net.ne.jp/~imwyd/snd/kimis.html
の2番目が流れていたような記憶があるのですが,この曲が私の家にあった軍歌集の巻末付録の軍隊喇叭「君が代」だったんです.この曲を「海行かば」としてある文献も見たことあるような気がする.ああこういうことはちゃんと記録を取っておかねばいけませんね.それにビデオ借りて来なきゃ.
ウマシカオ


出先なので、正確に確認し得ない部分はありますが。
「トラ・トラ・トラ」の冒頭に流れたのは、同ページ内の
http://www02.so-net.ne.jp/~imwyd/sndbase.cgi?data=umiyu.mid
のほうだと思います。そもそも、海軍礼式令において長官着任に際しての将官礼式においては、「海ゆかば」を吹奏するよう定められておりますので、あそこで流れているのが「君が代」だとしたら、随分昔にここのQ and Aにあったように、司令部の軍楽隊の演奏が「『別の』海ゆかばだった」ことに重ねてのダブルエラーになってしまうと思います。 ちなみに、このページのデータはC(ツェー)管のラッパのようですが、本来のラッパもC管なのですかね。てっきりB(ベー)管だと思っていたのですが。
「君が代」は、阿川弘之「軍艦長門の生涯」に出てくる話で、二年現役主計科士官の学生の教官が、「君が代」のことを「『シュー、シュー、主計長、いいとことったら食うとこねえ』とか聞こえる」って教える、あれのほうですね。
> ちなみに消灯ラッパ(夜に吹かれていたラッパ)にあわせた「新兵さんは可哀 >想だー、また寝て泣くのかよー」というのもありました。
関係ありませんが、これを題材にした問題が「クイズダービー」で出されたことがありました(たしか「後半の部分はどんな歌詞」かというものだったと思います)。その際の詳細は記憶にはないですが、かすかにはらたいらが正解したような記憶があります。でも、「クイズダービー」なんて、知っている人のほうが少数か。
今泉 淳


全て今泉様に先を越されてしまいましたね。私も今泉様の仰せの通りだと思います。 それはともかく、ご紹介頂きましたサイト、早速行って参りました。なかなか興味深いサイトですね。よいところを教えて頂きました。どうもありがとうございました。
匿名希望


その御祖母さんの歌詞は、兵隊さんに喇叭譜を覚えさせるために使った「合調音語」と思われます。陸軍の制度として決っているものではなく、新兵さんが覚えやすいようにと下士官や上等兵が工夫して考え出した語呂合わせで、部隊によってヴァリエーションがあったと聞きます。将校は自らは決して教えようとはしない、兵隊スラングに近いものだったようです。私の知っているので、ポピュラーなのは、
起床「おきろよ おきろ みな おきろー、 おきないと ぐんそ(軍曹)さんに叱られるう〜」
点呼「てんこだ てんこだ てんこだ てん〜」
食事「かっこめ かっこめ かっこめ かっこめ めーし めし め〜しだよ〜」(このメロディー正露丸のコマーシャルにでてきますね)
消燈「しんぺいさんは か〜わいそだね〜〜、 ねてまた なくのかよ〜〜〜」
他にも「會報」「診断」「将官」など、いろいろあったようです。海軍にも同様にあって、例えば
作業にかかる時の喇叭は「いやでも かあ〜かあ〜れえ〜、 また〜 やあすうませるう〜」 なんていう調子で、ユーモアたっぷりですね。
自衛隊でも語呂合わせは使われているので、隊員の方にお聞きになると面白いと思います。
あるめ


ただいま,「トラトラトラ!」ビデオで確認しましたが,私の記憶違いのようです.私は,映画の最初のオープニングタイトルのBGMに「ドーソードドミー」が流れていた様に記憶していたのですが,ビデオではなんやら怪しげな音楽が流れておりました.あの記憶は別の映画だろうか?
ウマシカオ  
→ top


【元帥旗】

日本海軍には大将旗まではあっても元帥旗なるものはありません。元帥という階級は名誉職なので実際に戦場に出ることはないのでしょうが、もし出た場合はどうなるのでしょう。大将旗を使うのでしょうか?


(ゴミレス)「大元帥」たる天皇陛下が御座乗なさる艦(御召艦)には、「天皇旗」を掲げますね。
海機55期


明治31年制定の「元帥府条例」には「陸海軍大将のうち老巧卓抜な者に元帥の称号を賜う」とありますので、「元帥」は称号であり、階級としてはあくまでも陸海軍大将であったようです。従って乗艦した際には大将旗を掲げたのではないでしょうか。階級章も大将と一緒で、「元帥徽章」を付けただけのようですので。(ちなみに正式な呼び名も「元帥海軍大将」「元帥陸軍大将」となります)
nap


ものの本によれば将旗というのは将官がだれでも掲げられる訳でなく「指揮権を有する将官」しか揚げられないそうです。(それから「司令官たる海軍大佐」の「代将旗」)
指揮権を有するというのは具体的には司令長官とか司令官の役職についてる場合だそうですので元帥というだけでは将旗を掲げることはできません。
この点、日本の元帥は、功績のあった大将が元帥府の列せられるということが多かったそうなので将旗を揚げるのは難しそうですね。永野修身大将は軍令部総長の時に元帥になったそうですが、軍令部総長も大元帥閣下を補佐するのが役目で部隊の指揮権は建前上はなかったそうですので、これも将旗を揚げるのは難しそうです。これでは、考え様によっては「なにも揚げなかった。」という回答になってしまいますね。可能性があるとしたら山本五十六連合艦隊司令長官が生前に元帥海軍大将(napさんが言われる通りの制度だったそうです。)に昇進した場合は大将旗を揚げたのではなかろうかということになるのでしょうか。
SAW


半ゴミ
陸軍では、終戦直前に東部軍司令官なる役職に元帥が付いていたそうなので、こちらは「指揮権を有する将官」ですね。陸軍に「将旗」があったかどうかは存じませぬが。
SAW


将旗は、「指揮權ヲ有スル海軍大將、海軍中將、海軍少將」の旗章であり、別のところにも書きましたが、海上勤務の司令官・司令長官にあっては坐乗艦船に陸上勤務の司令官・司令長官にあっては勤務庁に、その階級に応じた旗(大将旗、中将旗、少将旗)を掲揚する定めになっています。
ここでいう「指揮権を有する」は、海軍旗章令の文言を素直に読めば、司令長官、司令官の職にある者でありますので、元帥たる海軍大将であるからといって大将旗を掲揚できるかどうかは、まずは司令長官職にあるかどうか(定員令にて、司令官職に海軍大将を定めている例を知りません)に依存します。したがいまして、軍令部総長たる元帥海軍大将であっても、軍令部総長は参謀官であり(昭和八年九月二十六日附「軍令部令」第九條)、一般に参謀には指揮権はないと解釈致しますので、当該の軍令部総長がその職に依って将旗を掲揚することは認められません。しかしながら幾つかの例外があり、まず指揮権がなくても、
・特命検閲使が検閲艦船部隊の所在地にある場合
・司令長官、司令官ではない、大演習または小演習の統監、及び特別大演習にて勅命により演習を統裁指導する軍令部総長が、演習艦船部隊等の所在地にあるとき
・司令長官、司令官ではない観艦式指揮官が観艦式参列の艦船部隊を指揮する時
の場合は将旗を掲揚することができます。但し、この規定によって掲揚された将旗に関しては、通常(指揮権を有する将官)の場合に適用される規定が一部適用外になることがあります(例えば、着任、解職に関しての将旗の掲揚及び撤去の規定等)。
また、将官が「公式ニ短艇ニノリタルトキ」に限り、その指揮権の有無に拘らず、以下に該当する場合は将旗を掲揚することができます。
・前述の規定によって将旗を掲揚できる者、及び将旗を掲揚できる部隊長
・元帥、軍令部総長、軍事参議官
・外国の艦船又は官庁を訪問する者
また、戦記などに戦艦の艦長(大佐)が少将に進級して退艦する際の描写として「短艇に少将旗を掲げて」などというのがあるかと思いますが、転補された職が司令官であれば指揮権を有するので短艇に将旗を掲げることができると考えられますが、そうでない限りは海軍旗章令に反するかのようの思われます。しかし、ここには例外規定があって、「艦船部隊ノ長海軍少將ニ進級シ解職退去ノ際短艇ニ乗リタルトキ」は短艇に少将旗を掲揚できます。すなわち将旗は、
・単に官階のみできまるのではなく、その職等に応じて掲揚できるか否かが決まる。また、一定条件を満足する者が短艇に乗艇する場合も将旗を掲揚できる。
・掲揚できる者に対して、その官階に応じた旗章を掲揚する。
・元帥は称号なので、あくまでも掲揚できるのは「海軍大将旗」となる。
ということになります。また、元帥、軍令部総長、軍事参議官ならば、その称号や職のみによって短艇に乗艇するときに限り将旗を掲揚することが認められます。
よって質問に対しては、「掲揚できる場合においては海軍大将旗を掲揚する」となります。
今泉 淳


なるほど
SAW


将旗を掲げるのは、禮式令に則って敬禮をする側が容易に視認できて、間違った禮式(ラッパの吹奏回数、号砲数など)をやらないようにするのが大きな機能と思われます。従って特に乗艦しての外国訪問など対外的な場合には掲げないよりは、なるべく掲げた方(元帥ならば大将旗)がよかったのだろう、というのが私の解釈ですが、どんなものでしょう。
あるめ  
→ top


【敬禮】


敬礼の由来、起源について教えて下さい。


私が答えるのもなんですが、先日ウチに来た弾痕鑑定人は何にも武器は持ってないよと言う意味で右手をかざして見せるんだと言ってました。だから手のひらを見せる英仏式の方が本来の目的に合っているのだと(英仏式の敬礼を間が抜けていると言った私の感想に対して)
SHI


挙手の礼は、中世の騎士が鎧の面を上にあげて。相手に顔を見せるしぐさに由来すると伝えられております。さらに他の敬禮も含め、所持する武器を使う意志がない事を表明する機能を持っていたそうです。刀禮などは、剣先を地面に向けるので、そうなりますね。
あるめ


力士が土俵入りで腕を大きく開くのも、「何も持っていませんよ」ということを見せるためのしぐさの名残だとか。
tac


日本の場合だと挙手敬礼は帽子を脱がずにすむというメリットがありますね。私はヘルメットを脱がずに交番で道を訊いたときなどは挙手敬礼ですませています。「ムラの消防団式」敬礼ですけどね(笑)
どんべ


蛇足です。小生の持っている海上自衛隊「礼式参考書」によると、(自衛官が)各個に行う敬礼の方式として、「捧げ銃の敬礼」「銃礼」「挙手の敬礼」「姿勢を正す敬礼」「10度の敬礼」「45度の敬礼」の6種が示されています。世間一般で「敬礼」というと、「挙手の敬礼」のことのみを示すことになっているのはなぜなのでしょうね。
海機55期


蛇足の蛇足: ほんとですねー。あの右手を帽子の鍔に挙げるのは「挙手注目」の敬禮で、ほかにも敬禮はいっぱいあるのは敬禮が必要な本職の方々対外には余り知られていないのは面白いですね。体育大学や体育会出身者は割と禮式が身に付いているようですが。「室内の敬禮」「注目」「挙手注目」「捧銃」などを組み合せて、「室内」「室外(停止間)(行進間)(部隊)(衛兵)(歩哨)」(喇叭吹奏や歩調つき)と、いろいろな場合の敬禮が組立てられるのですが、とてもヤヤコシイので、詳細は「陸軍禮式」を御覧になると詳しく規程してあります。
あるめ  
→ top


【敬禮2(陸海の相違)】


「海軍式敬礼」と「陸軍式敬礼」、それに「海軍式捧げ銃」と「陸軍式捧げ銃」の違いを誰かご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。


敬礼についてだけ。帝国陸海軍の例ですが、普通にイメージされる敬礼が陸軍式。海軍は狭い艦内でのケースを想定されてか、肘をぴたりと体にあてた感じです。
勝井


>普通にイメージされる敬礼が陸軍式。
即ち、上腕が水平あるいは、さらに肘が肩よりも上にあるという事ですね。
roht


「室内の敬禮」では、陸式は終始相手の目を見たままですが、海軍式は目を見ません。
あるめ


4期予備学生だった父親の記憶です。
(1)敬礼
・目を合わせて敬礼した
・肘が身体につくように、と教わった。陸戦へいった同期には「俺は海軍歩兵少尉だ」といって陸軍式に肘をはって敬礼する人もいたが
・1日に何度も会う人に対しては、最初に会ったときに敬礼。あとは黙礼で可
(2)捧げ銃
・指揮をする場合、海軍では「捧げ銃」と号令をかけてから抜刀した指揮刀を口元に持っていく。陸軍では「捧げ」でいったん言葉をきり、刀を口元に持っていってから「銃」という。中学〜大学時代の軍事教練では陸軍スタイルだった。海軍で、教官から「陸軍式では、刀に唾がかかって汚い」と修正された。プロシア式と英国式の違いかな、と思った
机  
→ top

團隊

【衛戍地】


昭和10年代(2・26事件あたり)に、東京にいた歩兵およびその他兵科の連隊が、東京のどこにいたのか(衛戍していたのか)わかるサイト、資料などありましたらお教えください。戦前の、主立った連隊だけで結構です。六本木、麻布、本郷は分かったのですが、その他は検索でも東京、までしかヒットせず(2・26に参加した野戦重砲第7連隊の衛戍していた場所すら不明)、お願いする次第です。(父がこの時期高輪に住んでいたのですが、軍のラッパが朝晩聞こえたと言うので調べ始めたら、行き詰まってしまいました。本人に聞いても「学校のあった麻布にはあったが、他のは…?」と言っています。当時の人でも分からないようなので、こちらにお願いにあがった次第です)


↓こんなところです。他にも陸軍省や参謀本部、憲兵隊、學校・官衙、補給廠の類が市中に散在していました。郷土部隊として市民に親しまれたのは、麻布と赤坂の聯隊。麻布の喇叭は高輪まで聴こえたのですか。たしかに窪地の三田、白金を越して向かい合わせの丘の上になりますね。なるほどー。
1師團司令部 赤坂區南青山南町
1師團軍法會議、近衛師團軍法會議、麻布聯隊區司令部、歩兵1旅團司令部 歩兵2旅團司令部 同上
本郷聯隊區司令部 本郷區真砂町
歩1 赤坂區檜町
歩3 麻布區新龍土町
騎1 荏原郡世田谷町
野砲1、野重4旅團司令部、近衛野砲、野重8 荏原郡駒澤村
工1、近工 北豊島郡岩渕町
輜1、近輜 荏原郡目黒町
東京衛戍1病院 麹町區隼町
同2病院 荏原郡世田谷町
東京衛戍刑務所 豊多摩郡渋谷町
他の1師團部隊は千葉、横須賀、山梨にあり(例えば、野重7は千葉県東葛飾郡市川町)
近衛師團司令部、近衛歩兵1旅團司令部、近歩1、近歩2 麹町区代官町
近衛歩兵2旅團司令部、近歩3 赤坂區一ツ木町
近歩4 赤坂區青山北
近衛騎兵 牛込區戸塚町
電信1 豊多摩郡中野町
飛行5、立川衛戍病院 北多摩郡立川町
あるめ

祖父の記憶モードですが、当時戦艦長門に乗艦していた祖父は横須賀から東京湾に行き主砲を東京に向けていたそうです。大叔父は急遽編成された陸戦隊を率いて芝浦に駐屯した話をしていました。どちらも海軍ですので本題からずれてしまい申し訳ございません・・・ご参考までに。
昔人


>あるめさん
父は高輪消防署の近くに住んでいたので、日常聞いていた喇叭は目黒の輜重連隊のものではないかとおもいます。麻布には中学から通っていたので、麻布には連隊がある、と発言したのでしょう。
>昔人さん
興味深いお話です。高輪の、いまのプリンスホテルのわきの坂をあがったところから軍艦がよく見えたそうなので、おはなしのようなこともきっと見たでしょう。


確証も何も無いゴミレスですが。現在の高輪・高野山別院〜新高輪プリンスの辺りに東京湾要塞の陸上砲台が存在した、と言う説があります。
元むらくも乗員

高松宮邸を陸軍なりが警備してたらありえる話かと(坂登って虎屋の角曲がればすぐですし)
Alphabette

所在地は郡となっていますが、これは昭和7年の市区改正前の旧制名を書いてしまいました。郡部も新設区に編成して市部に組み込んでしまった大東京の区に置き換えてお読みください。例: 渋谷村 → 渋谷区
あるめ  → top


【軍旗祭】


昭和10年代の日本軍についてうかがいます。天皇から軍旗を賜った郷土連隊では軍旗祭というものがたびたびあったそうですが、なんとなく現代の基地解放くらいのイメージしかわかず(兵食のお振る舞い、兵隊さんの行進などのアトラクション等)、実際何をしていたのか、それより「いついつ軍旗祭やります」といった告知はあったのか、89式戦車とかその他兵器の展示やさわらせてくれるなどあったのか国民の反応は、と、気になってしまいました。(実はある小説公募に応募したら最終選考まで行ってコケたので、巻き返しのため努力しております。どうかお助けください)。 A
軍旗祭のパンフレットなどは各地の平和資料館のようなところにも残っているようです。ちょっと検索してみましたが立命館大学の国際平和ミュージアムには何点か軍旗祭関連の資料が展示してあるようです。書籍だと光人社の陸軍よもやま話には軍旗祭の項目があったような気がします。
あひる


年1回の聯隊創設記念日(各聯隊が勝手に決めていた)には、兵營に周辺住民を招待して(その日は、たいてい誰でも入れた。とくに子供は殆どが集まった)、兵隊が運動会や文化祭のようなことをして仲良く遊んだのですが、中隊對抗の假装大会が人氣だったそうです。土人の裸踊に、女装の手踊、模擬建築、模擬兵器などが出て、見物人よりやってる本人どもの方が十分に楽しんだフシがあります。お酒も呑めるし、差入れの壽司・菓子など、食べられるし、将校下士もニコニコしていて、部隊中で楽しんでいた様子です。まあ、地域住民や国民との交流とは建前で、むしろ兵隊さん自身の楽しみのひとつとなっていたようですね。部隊幹部もこういう行事を、うまく兵隊のコントロールに使っていたフシもあります。兵器や内務班見学など堅いのは、あまり無くて、朝の分列行進・聯隊長祝辞くらいでお茶をにごした様子です。雰囲気は最近の学校の文化祭みたいなものですね。兵隊さんは20歳くらいの若者なので、そろってノリもよかったのでしょう。
あるめ  → top


【軍樂隊の地位】


旧帝国陸海軍では軍楽隊はどの程度の「地位」だったのでしょう。やはり「蝶蝶、とんぼも鳥のうち」だったのでしょうか?


まあ、そんなものでしょうね。陸軍は「軍樂部」で、兵科以外の各部に入っていて、幹部の最高位は少佐相當官(軍樂正)ですから、軍の中の位置づけは補助的な分科の域を出ません。陸軍省軍務局軍事課は歩兵・憲兵と一緒に軍樂部の勤務を管掌しており、実施のほうは戸山學校(歩兵學校のこと)軍樂隊で研究・教育を行っていました。士官は下士から特進してきた人に限り、士官學校卒業者や幹部候補生の出身者は皆無(そもそも採用制度なし)、また娑婆の音楽学校卒業生や在校生を幹部に登用する制度もありませんでした。隊員も徴兵ではなく志願で、すべて少年の軍樂生を募集して、叩き上げの樂手を養成したので、普通の兵隊とは異質の存在だったわけです。任期が切れた樂手の多くは無声映画の楽隊に再就職し、ト−キーになると、今度は大都市や放送局の管弦楽団に入りました。作曲家やジャズ奏者になる人もいました。海軍の軍樂兵も同様で、民間の演奏で金管などでどのように長い楽節でも楽々と吹きこなして息ひとつ乱れないのは決まって海軍出身者だったそうです。海軍はもとは海兵隊軍樂科として兵科のひとつでしたが、海兵隊が廃止になって孤児になったまま存続してきたものです。司令部に随伴する軍樂科は、戦闘時には伝令・傷者運搬・看護といった補助業務につき、通常時でも暗号の組立・解読などに従事していました。士官は最高位が少佐で全員が特務士官出身。砲術や航海の戦闘兵種から見れば、蝶々に見えたかもしれません。しかし、軍樂隊とその除隊者が戦前から戦後にかけて日本の音楽界に及ぼした影響は計り知れないものがあります。
あるめ


海軍軍楽隊に関して、参考文献を2点。
『行進曲「軍艦」百年の航跡』(谷村政次郎 著、大村書店、2000年、ASIN: 4756330126)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4756330126/
『海軍軍楽隊―花も嵐も…』(針尾玄三 著,常数英男 監修、近代消防社、2000年、ASIN: 442100622X)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/442100622X/
OPD


私のひいじいさんは吉本光蔵といい、海軍の軍楽隊におりました。「軍隊内での重さ」「○×相当官という階級」とは別に、身内のニュアンスとしては「えらくなった人」というものであったようです。家系内に他に軍人がいないのであいまいな比較になりますが、単なる「少佐」よりもえらいと身内には思われていた感じ、といえばよろしいでしょうか。卑下していたとは伝わっておりません。一例ですがご参考まで。
はたの


うあ、横須賀海兵團軍樂隊長(第四代)の吉本さまですか。「君が代行進曲」をはじめ名曲の数々を作曲なさった明治音楽界の重鎮ですね。畏れ入りました。補足いたしますと、明治期の陸海軍礼式曲、礼式譜、行進曲などは宮内省式部職樂部と共に殆どが陸海軍軍樂隊長以下幹部がその成立に関与しており、隊長が直接に作曲したものも少なくありません。軍の中では員数が少なく、戦闘兵科ではなく、どちらかといえば文官のカテゴリーに入っていると見られていた軍樂隊は、採譜・作曲・作詞・演奏では最上級の実力を持っており、宮中をはじめ民間にも広く出張演奏を行い、軍とは別の独自の世界を持って大きな影響を日本音楽界に及ぼし、これをリードしていたと思われます。ところで、軍樂隊長の位階は、宮内省式部職雅楽部副長(宮廷音楽団の最高位:明治21年当時)とほぼ同等になっており(奏任5等)、軍樂隊長の少佐が上限というのは、そのへんのバランスから来ているのではないかと私は勝手に考えています。
あるめ


皆様ありがとうございました。私の爺様が陸軍軍楽隊の所属で大陸にいたそうなのですが、もっと話を聞いておけば良かったなあ・・・。  → top


【8聯隊の負けた場所】


京都には「またも負けたか8連隊」という言葉が今でも残っているそうです。実際に、8連隊が「負けた」のは、どの戦場のことなのでしょうか。

「またも負けたか8聯隊、これでは勲章9聯隊(くれんたい)」といって、西南役で京大阪の鎮台兵が西郷軍に連続ボロ負けした時から始まりました。歩8は大阪北部の聯隊區からの徴兵で編成したので、豫備将校には商家のボンボンが多く、下士官兵も合理性を重んじ、精神論を信用せず無益な損害を嫌う風潮があり、他の鎮台兵の目には奇怪な部隊とうつったに違いありません。退却するのを恥とせず、「またチャンスあったら攻めていったらエエのんやさかい、しおもない無理しなや」と云う8聯隊には、兄弟聯隊として京都の9聯隊がおり、これがまた一癖もふた癖もある(そもそも大阪商人は近江からの出稼ぎ奉公人が養子となったのが多い)連中で、武家とは価値の置き方が違ったので、このような戯れ唄ができたと思います。
日清日露以降は、「まとも?」に戦っていますが(特に日露の南山の戰闘など)、太平洋戦争では、小隊長クラスの豫備役将校に入院続出が見られ、戰線停滞となると、ただちに「健康恢復」して原隊復帰するというありさまで、下士官兵が専ら奮戦した模様です。その下士官兵も文句タラタラで、小隊長の准尉以下「なんでこんなとこに来て、こんなメエにあわなあかんのや。どあほらし」とボヤきながら聯隊砲の分解臂力搬送などやっていたそうです。ヘンな帝國陸軍部隊だったのですね。大阪人の司馬遼太郎さんが戰車部隊で幹部候補生教育中に、ヘマをして遠くの倉庫まで馳歩を命ぜられた時には、やはり「なんでこんなコトしやなあかんのや、ぶつぶつ、ぶつ」とぼやきながら走っていたとは、一緒に走った同期生の証言です。京大阪人には精神論的な非合理的な行動に理性が耐えられない仕組みとなっているようです。
大阪8聯隊は4師團で、大陸を転戦した後、初期の比島攻略戰では大活躍でした。野間宏が初期の短編連作(?)で、兄弟聯隊の歩37歩兵砲隊の奮戦ぶり(?)を描いています。行軍途中の小休止では小隊長の准尉が巡り合わせの悪い自分の職務をウデウデとぼやくは、コレヒドール突入では、島に突入する発動機艇のへさきで、上等兵が恐怖の余りキャンキャンわめくは、と恐ろしくリアルです。その後タイで終戰となっています。京都9聯隊は、大陸を転戦、特に最近では南京占領部隊ということで注目されました。レイテでも大奮戦。
あるめ


私の父方の祖父が、大阪8聯隊にいたそうです。父がその話しをすると『また負けたか8聯隊(大阪弁なので「ま」にアクセントが来ます。)』とよく言ってます。そのあとがあるとは知りませんでした。ちなみに祖父は兵で、祖父の弟が士官だった為、『弟に敬礼するのは嫌である。』とのことで、上官に頼み他の部隊に転属させてもらったそうです。
ワレアオバ  
→ top


【強い歩兵聯隊は?】


帝国陸軍で「強い」ことで有名な歩兵連隊はあったのでしょうか?またその強さはどのように表現されていたのでしょうか?


定評みたいなのがあって、編成地の名前を聞いただけで、あ、これは強いぞ、と皆が思ってしまうのは、先ず薩摩隼人や川筋気質の荒くれを擁する勇猛果敢な九州6師團12師團の各聯隊、耐久性抜群忠勇無双の東北2師團の各聯隊(八甲田山遭難の青森・弘前聯隊など)、対ソ第一線・軍規厳正・特別な耐寒猛訓練で有名な関東軍隷下諸部隊が挙げられます。鹿児島・熊本・久留米の聯隊などと聞いただけで、いかにも強そうです。
また広島5師團(広島人がプツンした時の暴発ぶりは「仁義なき戦い」で有名になりました)、高知、金沢、北海道の聯隊も評判よく、特異なのは海岸の砂丘地で演習を繰り返していたので抜群に足腰が強いと定評の鳥取聯隊。
個人的感想ですが、邊境の地にある聯隊ほど強いとの評判があり、都会の聯隊は平凡な評価しか得ていません。
聯隊の徴募を担当する聯隊區の県民性により評価が決っているような気もします。撤退命令が出るまで何があろうと現在地を死守するのが粘り強い東北兵、命令もないのに突進を重ねて敵陣を奪取するのが気の荒い九州兵、目立たずソツのない東京兵、など。
あるめ


以前に「軍事研究」に第1連隊、第14連隊、第8連隊が連隊長泣かせの三代難物連隊だったという記事が出ていました。(記憶カキコ)
第1は「火事とケンカは江戸の花連隊」、第14は「無法松連隊」で連隊長は兵隊の手綱を絞るのに苦労する。第8は下スレに出てる理由で連隊長が苦労するという趣旨でした。真偽はともかくとしてこのような風説が当時の陸軍内にはあったのかも知れません
SAW


わが故郷の68連隊も地元では精強と呼ばれております。もっとも地元以外ではそんな話は聞いたことがありません。(^^; が、強さを表現しようとした例として、現職知事のスピーチをご紹介
”当時は特に中国の方の戦争に行ったわけですが、敵方もよく知っておりまして、日本のどの軍隊が来たかという情報が入ってきますね。六八連隊ということを聞きますと、戦わずして向こうが逃げたということなんです。そのくらい強力な軍隊だったんですね。大阪の人がいたらまずいんですけれども、大阪の軍隊はあまり強くなかった。”
http://www.pref.gifu.jp/s11121/kouen/100406.TXT
をぐに

日本軍ではドイツ軍みたいな有名なエリート師団がそんなに知られていませんよね。変な意味では関東軍の部隊は精鋭だったそうです。あの餓島で全滅した一木支隊などは中国戦線で鳴らした日本軍のエリート部隊だったと聞いています。
ベンゼン中尉


東京の歩1は頭號聯隊なので、なにかと目立つので、そのぶん「あほなコトをしてはいかん」と云う矜持があったと思います。けれど東京編成の後備聯隊が日露の時に、露軍の大攻勢に遭って、部隊ごと壊走しており、実力としてはあまり強いほうではなかったです。 美濃、伊勢などの部隊は、名前が出ない割に、強力だったそうです。歩36は、士官學校生徒が卒業時に配属部隊が決る時に、僻遠の地の代名詞にしていたそうです。生徒の愛唱する替え唄にまで鯖江の地名が織りこまれていたくらいです。
ところで、大阪8聯隊名物、深夜の營庭騒ぎというのを御存知でしょうか。
夜中に突然、全兵舎からほとんど全部の兵隊が襦袢袴下のまま營庭に飛び出してきて、喚声を挙げながら駆回り踊り狂い、あわや兵営中狂乱の巷と化すやと見えた途端、あっと云う間に兵隊どもは内務班に帰って原状に戻り、し〜んと、してしまう現象のことです。どこにも記録が残っておらず、けれども聯隊の幹部は皆が知っていて、
曹長「昨晩、アレがあったさうでんな」
特務曹長「へええ、このところ暑つおましたよってにナ。御苦労はんなこって」
と誰も咎め立てしません。普通、出征準備中の部隊にもっと小規模・散発的な形で見られる現象なのだそうですが、平時に周期的に繰り返されていて、問題として取上げられなかったのは、大阪聯隊くらいだと思います。
あるめ


記憶カキコなので歩1ではないかもしれませんが、いづれにしても、東京の下町出身の兵が多かった連隊の風評だったようです。(ベランメエ連隊と書いてあったかも)
歩8については、「丸」にだらだら行軍していて、あとから来た連隊に追い越されたという記事がありましたし、母も、九州の兵が来ると中国兵が逃げるが、大阪の部隊は弱いと見て攻撃されるという話を聞いたことがあるということですので「またも」云々という風評はあったように思われます。ただ、このあたり「御国自慢」の要素が入ってる知れません。
SAW


私が今まで得た知識からまとめた、「東北地方等の辺境の部隊が強かった理由」を書かせて頂きます。
東北地方等はもともとが生産力、経済力等において他の地方に比べて大変貧しい地方でした。そこに冷害等の悪条件がちょっと続くと、若い娘さんを遊郭等に売り飛ばして遊女等にしなくては生き残れなかったような状態でした。「娘の売買相談します」というような張り紙が役所に貼られるような時代でした(もちろん当時は合法的でしたが)。 このような状態では農家の次男坊や三男坊は、穀つぶし的な存在であり、厄介者であり、お米の白飯を腹いっぱい食べる事などなかなか難しい事でした。 そんな時代に、軍隊は三食はちゃんと食べさせてくれる。 衣・食・住 全ての面倒を看てくれてしかも給料までくれる。しかも過酷な生活の中、過酷な労働で鍛え上げられていた身体には軍隊の訓練などそれほど辛いものではない。正に天国(ちょっと言い過ぎか?)のような所だったのです。頑張る気持になるはずでしょう。都会の、ぼんぼんやもやしっ子とは、もともとが違っていたのでしょう。
↑補遺。 作家の三島由紀夫氏が徴兵を逃れる為に、現住所の東京で徴兵検査を受けると合格になってしまうので、東京ではなくて原籍地?の田舎(詳細は失念しました)で、田舎育ちの逞しい青年達と一緒に検査を受けて、無事に不合格となったのは有名な事です。こうなると、はじめから構成員の質が違っていたと言う事でしょうか?
  roht


獅子文六の「大番」の主人公は「住んでる大阪では甲種合格間違いなしだが、故郷の南紀では俺なんか骨筋同然」というので籍を故郷のままにしていたのですが、母親が気を利かして籍を移していたため、哀れ徴兵されています。
山奥の人


近畿圏での例外として丹波篠山の第七十連隊つうのもあります。自称明智光秀に頑強に抵抗した丹波武士の末裔で、峻険な山道で足腰を鍛えているから強かったとか。また、当時の各地の新聞社なんかが郷土連隊の歌を募集していたりしていますね。こういうのを探せば郷土自慢もある程度わかろうものかと(色は黒いが血は赤い、死んでも退かない六師団〜 とか)

先に行軍している歩8を追い越したのは、この連隊(篠山)だったと記事にあったように記憶してます。
SAW


基本的に「歩兵=歩く」ですから田舎育ちでひたすら歩いていた人間が向いているのも道理かと。ちなみに、農家出の兵士の手紙を見ると、
「実家では日の出の前には起きて馬の世話をしないといけませんが、軍隊では起床ラッパの前に起きると殴られます。ひたすら訓練だけで米を食わしてくれるここは天国です。」などの内容が目に付きますね。ですが、東北の農村での満期除隊の兵士の評判は「朝寝坊するし、働かない割には口が奢っている」ともありますので、当時の農村の実情を推察するべきかもしれません。
能登  
→ top


編成
【段列】


自衛隊て今でも「段列」と云う言葉を使っているのでしょうか。英語で(米軍と英軍で)なんていうのでしょうか。たいへん興味があります。
あるめ


「段列」は砲兵、戦車部隊で、歩兵部隊で言う「行李」のことを指す言葉ですので、自衛隊では使用していないと思います。
BUN


段列という言葉、また編成は少なくとも陸上自衛隊では健在です!おおむね旧陸軍と同様の任務を持っていますが、実情としては演習における炊事分隊イコール段列というのが一般的な見方であり、炊事分隊長が段列の指揮官を兼務する場合が多いです。
ヨリ1328990


あるのですね、今でも。それは、砲兵(特科)、戰車部隊に限って編成されるのでしょうか? 歩兵(普通科)や工兵(施設科)部隊では、昔式の編成の考えでいくと、たぶん段列は使わないのかな、と思いますが、しかし普通科でも機甲化されている部隊は、やはり段列もあると考えてよいのでしょうか。それと、現在の段列は、彈藥の方は扱わないのでしょうか。(なんか、そっちの方が主任務のような気がするのですが)
あるめ


「軍事用語辞典(インタープレス’90)」の和英軍事用語辞典の部には段列 train <補>[IP・軍事]とでています。んで、同書の英和の部で train をひくと
1. 段列(補給・後送・整備などの業務を行って第一線部隊の支援に任ずるもの).
2.砲を向ける<射>.
とあります。用例などがありませんので、米英の資料上での用法などはわかりません。同書の性格上、自衛隊が「段列」の語を英語訳するときには、train を使っている、という意味だと思います。もし、自衛隊関係の文書の英訳を考えておられるのでしたら、用法を確認されたほうがよろしいと思います。
ウマシカオ


先に私が申上げた段列は普通科中隊の段列の話ですが、普通科以外でも機甲や特科など第一線職種では中隊ごとに段列を編成していると思います。また大隊以上では段列の任務を管理整備小隊や付隊といった組織が、段列の任務を果たしていると思われますが、私自身で教範などで調べたわけではありませんので悪しからず。なお、一般に段列では糧食以外にも弾薬や燃料も扱いますが、部内のイメージ的には演習で炊事をやっている所といった感覚が強いみたいです。
ヨリ1328990  → top


【戰隊司令部の編成】


旧海軍の戦隊、水雷戦隊レベルの司令部の組織、要員等について調べたいのですが、よい資料が見つかりません。よいHP、地方都市でも手に入りやすい本などありましたら教えてください。


私も海軍はシロウトですが、「海軍制度沿革」と云うのを見ると、年代を追って関係法規が並んでおり、編制のところにご覧になりたい情報が生で載っています。けれど役割分担の細部は、またそれぞれ細則があるようで、そこまでは載っていません。(司令部の水兵や機關兵は、それぞれ科ごとに「計○名」となっているのみで、それぞれの職務までは載っていない、そのうち何名は掌何々と指定あるものもある、というレベル)この本は多巻もので、現在は個人での入手が古本屋さん経由となりますが、有名な本なので、県立図書館レベルなら揃いで蔵書に入っていると思います。とりあえずご参考まで。この後は、きっと詳しい専門の方が、より良い本を御紹介くださるでしょう。
あるめ


質問者がどこまでを求めているかによって回答は若干異なります。「手に入りやすい」については、絶版でなければインターネット経由でも買えるわけで、購入の困難度は地方であるかないかには依存しないと思われます。ただし、適切な書物があるかどうかに関しては、甚だ否定的な見解を持っています。そういう意味で、「手に入りやすい」をここでは「図書館で手にとって見ることができる」という意味まで拡大して解釈いたします。
さて「どこまで」の件は、単に司令部の定員、すなわち司令官以下幕僚や司令 部附等の各職に対して員数や配員されるべき官階などの情報だけであれば、「海軍制度沿革」の「巻十」の「1」と「2」の「定員」に関する記述として掲載されています。例えば「巻十の2」の七五八頁には昭和十二年四月二十三日改正の海軍定員令による戦隊司令部定員表が、第三十三表として、
  ---------------+-----------------+----+----------+-------------         | 幕     僚 | 計 |司 令 部 附|  計    ---------------+-----------------+----+----------+-------------         |         |  |兵  曹 九| 司令官 中少将  |参謀 中少佐   一|士官|主計兵曹 四|下士官十三人     大佐  一|   少佐、大尉 一|三人|水  兵 五|         |         |  |主 計 兵 一|兵六人 ---------------+-----------------+----+----------+------------- のごとく掲載されています(縦書きのものを都合によって横書きにしてありま す。Webに乗っけるとスペースが詰まってしまって、罫線が乱れてしまうかも しれませんが)。なお、この第三十三表は戦隊司令部のみならず「聯合艦隊、艦隊、戰隊司令部定員表」となっており、艦隊(連合艦隊を含む)や戦隊の司令部の定員の原則数 に加えて、艦隊や戦隊の種類に応じて幕僚や司令部附の増員数などを示すものであります(この表は、ちょっと見るとある意味で独特です)。この定員表は、艦隊令に定められる区分としての戦隊を前提としているのか、防備戦隊や警備戦隊は別に表を定めております(それぞれ、防備戦隊令や警備戦隊令によって定められているので、艦隊令で定められる戦隊とは別扱いなのかもしれません)。さて、「組織」「要員」に対してこれで良いのならそれで終りですが、これらはあくまでも定員を示すに過ぎませんので、関連する法令についてたとえば「艦隊令」などを通読する必要はあるかもしれません。もっとも、「艦隊令」から得るところはあまり無いかもしれませんが、何を調べたいか分からないのでここまで言及する必要もあろうかと思いました。
一方、配員の実態に関しては、太平洋戦争期の司令官以上であれば例えば「日本陸海軍総合事典」や、大佐で司令官補職された人が大佐のまま予備役になっていなければ「日本海軍史」の「将官履歴」でも司令官の補職、解職年月日まで把握できると思います(履歴から抜き出すのは大変かもしれませんが)。幕僚の配員までを網羅するとなると、例えば戦史叢書の各巻の本文中、作戦参加部隊の司令部の主要職員が掲載されている他、付表に関係部隊の主要職員一覧がある場合があり、ここに幕僚の補職、解職などの年月日が示されていますが、網羅的かつ正確なものかどうか自信をもっては言えません。また、アテネ書房「連合艦隊海空戦戦闘詳報 別巻1」の「海軍歴代指揮官名簿」には、艦隊機関長や副官なども含めた指揮官や幕僚の在任期間が「図示」されています。しかし、
・補職、解職年月日は記載されていない
・同書に断りがあるように、元々の資料に「記載の誤りや誤記が多い」
・それら誤りを復元にあたって完全に直しているわけではない
・小生として精査に調べたわけでは無いものの、一読して明らかに変だと思われる部分が散見される
など、かなりの問題があるように思われます。これらを補う為には、それなりの知識と、海軍辞令公報等を丹念に追う努力と根気が必要だと思われます(その気になればできない相談ではないですが)。いわゆる幕僚までならばこれでなんとかなりますが、これ以外の司令部附の士官や特務士官・准士官の配員状況は、これまた海軍辞令公報(士官)や官報、鎭守府公報(特准)を追う必要があって、かなり困難を極めると思います。また、下士官兵の場合は公報等には載らなかったはずと記憶しますが、もしそれが正しければそれはその方面からの追跡が不可能であることを意味します。なお、所轄によっては戦時日誌が残されており、これらにその月における司令部職員の職、主務、官階、氏名などが記録されており、幕僚のみならず司令部附の実際の主務も分かりますが、戦時日誌そのものは全所轄の全期間のものが残されているわけではないので、こちらからのアプローチには限界があります。なお、海軍辞令公報や戦時日誌は防研でないと閲覧できないことは言うまでも ありません(行けば簡単に見られますが)。
今泉 淳  → top


【隊の人数】


最近、ふと疑問に思ったことなのですが、軍隊で分隊、小隊、中隊、大隊とかいう部隊単位がありますよね。これって例えば歩兵とかの場合「何人で分隊」とかいう基準があるのだろうと思うのですが、具体的に何人くらいでそれぞれを言うのでしょうか?国によって違うとか、戦車と歩兵で違うとかあると、質問の回答が広くなってしまうでしょうから、とりあえずアメリカ陸軍の歩兵の場合ということで・・・。映画とかでもよく出てくる言葉ですが、人数構成がどうにもよくわからないので、お願いします。


ネットで見つけた米陸軍機械化歩兵部隊の組織編成から抜き出してみました。実際には状況に応じた臨時編制等で増減が加えられるかと思います。
・歩兵分隊 9人
・歩兵小隊 3個分隊と指揮班6人、計33人
・歩兵中隊 3個小隊と本部(12人)、計111人
・歩兵大隊 4個歩兵中隊、1個対戦車中隊(69人)、本部中隊(183人)、計696人
『連隊』についてはデータが見つかりませんでした(;^_^A
ブラック・タロン


小隊以上はそれぞれ本部等の指揮系統が加わってくるのですね。大隊になると700人近くっていうのも予想以上の数でした。隊の単位が大きくなっていくと指揮官の割合も思った以上に増えるのだなぁ、と感じました・・・。


大隊あたりまではそれこそ兵科がいっしょなら他国でもおおむね似た編成になるのですが、その上になるとお国柄が結構出てきます。特にイギリス陸軍が顕著で、なまじ連隊に歴史があるだけに、軍縮で削減しても連隊は残さねばならないといったジレンマがあり、結果的に「実質大隊戦力」な連隊がごろごろしています(一個大隊+一個中隊で連隊名乗ってたりする)。
tac


質問からは少々外れてしまうかもしれませんが、ここのリンクからもいけるmaisov.comさんに、第2次大戦当時のドイツ陸軍の大隊以下の編成についての詳細な解説があります。 また、http://www.100thww2.org/100org/100org.htmlに、第2次大戦当時の米陸軍第100歩兵師団の詳細な編成表が掲載されています(英語ですが)
ヒロじー


英軍の「なまじ歴史があるゆえに、実質大隊戦力だけど連隊扱い」っていうのは面白いですね。得した気分の情報です。リンクの方も観てみます。でも英語のものはきついかも・・・。以前、軍隊関係のページを見たらよくわからなくて、なぜかと思ったら英語の軍隊専門用語らしきものがうまく読めなかったという経験があったりします。我ながら情けな〜い。あとは戦車とか、航空機の編成も興味ありますが、もうちょっと自分で調べてみます。それでもわからなかったらまた質問させていただくかも知れません。でもこの辺りって、意外と調べるのが意外と難しいものですね。本とかも、歩兵装備とか、銃そのものは結構ありましたけど、この手の編成とかは案外無かったです。
マファエロ


ちょっと余談っぽいですが・・・
>部隊編制のお国柄
陸上自衛隊の場合、普通科連隊(歩兵)は大隊編制がなく、4〜6個中隊で1個連隊を編制します。特科連隊(砲兵)には大隊編制があったように思うのですがうろ覚えです(;^_^A
ブラック・タロン


新編成の旅団では、1コ普通科連隊は3コ普通科中隊+迫撃砲+対戦車で、事実上大隊規模といってもいいのではないでせうか?何故「連隊」か・・・・・・有事が起きた時の大増強を期待しておるのか・・・・・・大規模な戦闘団の編成を想定しておるのか・・・・・・一佐クラスが保身のために駆け引きしたのか・・・・・・それともただ単に「慣例だから」なのか・・・・・・ 最後の二つならちょっと不愉快かも。
居眠り将軍


大隊より聯隊のほうが強そうだからじゃないかしらん。
あるめ  
→ top


【編成と編制】


辞書を引くと、
(1)編制:個々のものを組織して、軍隊・団体などまとまったものにすること。「戦時―」「部隊を―する」
<http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%CA%D4%C0%A9&sw=2>
(2)編成:個々のものを集めて一つのまとまったものにすること。「八両―の電車」「予算を―する」
<http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search.cgi?MT=%CA%D4%C0%AE&sw=2>
この様に書かれています。
これらから考えると、
(1)編制とは、指揮系統を持った組織に使う言葉(言わば人事?)
(2)編成とは、指揮系統を抜きにハードウェア等を集団として括る場合に使う言葉
との印象を受けますが、この認識でよろしいのものでしょうか?
<その他参考にしたWebページ>
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo31.html
http://www.kt.rim.or.jp/~kaliy/ORGAN.htm


編制とは、制式の一定な内容を持つ軍隊組織を指し、編成とはそれを行う事。
○○航空隊の「編制」はそれぞれ24機の定数の三個飛行隊を持つが、終戦まで遂に「編成」完了する事は無かった・・・等と使います。軍隊用語で編制を動詞的に使用した例は見られないような気がします。ですからハードウエア、指揮系統等とは無関係に「編制を取らせる事が編成」と考えて良いと思います。
BUN


確か陸軍と海軍では若干のニュアンスや表現の違いがあったはずですが、一応日本海軍に限定します。
「編制」には、上は海軍の年度作戦計画に付随して裁可を得る「年度帝国海軍戦時編制」から、下は例えば「艦内編制令」のような「艦船ニ於テ諸般ノ要務遂行ニ適応センガ為ニ定ル乗員諸物件ノ区分編組」のようなものがあります。すなわち「編制」とは、組織(部隊や庁)の内容や構造を定めるものであり、例えて言えば艦隊や戦隊、艦船や隊などからなる「ツリー構造」そのものだと思えば良いでしょう(艦内編制の場合は、艦長や副長、科長等に置き換わると思えば良い)。
一方「編成」とは、上記の「編制」に従って実際に部隊を創設することそのものや、その作業を指すと見てよいでしょう。言葉遣いとしては、「第一機動艦隊が編成され第一艦隊を解隊した結果、聯合艦隊戦時編制斯くの如きになった」等がその例です。
「編制」と「編成」は見た目に似ており、この手の文章に精通している人でも、自ら書く際には間違えることもあるようなので、違いがあまり認識されないのも無理からぬことではあると思いますが、巷に溢れている各種文献には、この両者を混同しているものが多く見られます。上記のようなケアレスミスであればまだ許されますが、そうかどうかは概ね著者や内容を見ればすぐに識別できるように思っています。逆に、この手の言いまわしのとか意味の違いは、別段難しい本など読まなくても、文庫本なり丸なり100冊や200冊も読めばすぐに身につくものです。
今泉 淳


蛇足: BUN様のおっしゃるように、「編制」は、こうしなさいと、決っているので勝手に変えられませんが、「編成する」ほうは、わりかし現場指揮官の裁量に任せられていた様子です。操典には標準の編成が書いてありますが、例えば歩兵の聯隊旗の護衛はどう「編成する」かは、歩兵操典(軍令陸七號)の第百九十七には、
「聯隊長ハ一等卒五名ヲ選抜シテ軍旗衛兵ヲ編成ス 此衛兵ハ著劍シ其二名ハ旗手ノ左右ニ併ヒ 他ノ三名ハ其後列トナル」とあるのですが、
これは聯隊が行進する集合隊形の場合にとる編成であって、戦闘に入るとまた別の編成を聯隊長が命令してとらせる事になります。
最も編成が詳しく定まっているのは砲兵で、砲手の位置から、砲車・前車のどの座席に何番砲手が乗るかまで操典で決めてあり、戦闘中に欠員が出来た時の砲手補充方法も砲兵の操典に書いてあります。
2・26事件の叛乱軍部隊の出動は、平時編成の中隊が營庭に集合し、中隊長がその場で兵員を「ここから、ここまでの者は、第一分隊、○○軍曹が分隊長」と云う具合に適当に小隊・分隊に「編成した」と、当事の兵卒だった人の手記にありましたが、街路に出て各小隊が別々の襲撃先に分かれていく時に、友達が「おい、こっちに入れ」と手招きするので、ひょいと、そっちの小隊の隊列に移ってしまい、ちゃんとした戰時名簿が作ってあるわけではなし、なんら咎められなかった、と云います。
あるめ


↑それは別に軍規に違反する訳でもなくて、中隊長は正規に任命されるものですが、小隊以下は部隊である程度自由に編成できるものでした。ですから小隊長を務める士官は正式には第何小隊長ではなく、連隊付の士官ということになります。
BUN  
→ top


【Kampfgruppe】


いわゆる「カンプグルッペ」とはどの様な編成単位なのでしょうか。装甲大隊と装甲擲弾兵連隊、それに各種支援部隊を組み合わせたタスクフォースのように思えるのですが、資料の裏づけが得られません。「パイパーカンプグルッペ」とか「カンプグルッペグデリアン」等呼称や単位にも違いがありますし。また、発音は「カンプグルッペ」「カンプフグルッペ」どちらが正しいのでしょう?たしかにfが入っているのですが、発音するのかどうかドイツ語の知識が皆無なので・・・あまりに基本的な質問ですが、長年の疑問ですのでどうかよろしくお願いします。


発音は、カンプ(ふ)っつーかんじです。プのあと、息を抜いちゃう。
カンプグルッペは、日本軍でいう支隊ですね。その場に応じて臨時に編成されるものですから、大きさもさまざま。戦車を含まないカンプグルッペもありますし、バルジでのパイパーカンプグルッペなどは並の一個機甲師団よりたくさんの戦車を持っていたはずです。
まなかじ


学研のWW2シリーズのVol.9「アルデンヌ攻勢」の真中のおり込みに、パイパーをはじめとするLAHの戦闘団のことが書いてあります。本屋さんでのぞいてみればいかかでしょうか。
バウアー中尉


前線の司令官が命令して、本来の編制とは違う臨時混成部隊を編成し、戦況に即応する機能を持たせる方式が、それだと思います。諸兵種混成で、レベルは師團規模もあれば、聯隊規模もあると云った具合です。ドイツ軍のみならず、他の陸軍でも使用されている模様で、米軍の聯隊戰闘團も、これに似ているのかなと類推します(米軍については多少こころもとなし)。英軍は戦争になるたびに、あちこちの大隊を寄せ集めて旅團を編成するので、なんとなく似ているようですが、獨軍のような柔軟性があったかどうか、?です。旧陸軍は、日清戦争時代から、指揮官の名前を冠した「○○支隊」を前線で臨時編成しては、迂回作戦や側衛などに使用していましたが、歩兵聯隊に他部隊の歩兵や他兵科部隊を増強配属した規模のものでした。時代が進むと、旅團、師團規模の支隊もできた模様です。作戦記録など読むと、師團長は隷下の歩兵聯隊を以て2箇の支隊を編成し、左右に分進せしめ、云々とあったりします。(最近のムック本では、カムプグルッペを「戰闘團」と訳す例が多いようですが、やはり旧陸軍式に「支隊」としてほしいなー、と個人的には思っています。お国が違うので、ちょと無理か)
あるめ


ドイツ語の「pf」は「p」が上下の唇を閉じを勢いをつけ息をはきながらで開けるのにたいし、下唇と上の歯をくっつけて勢いよく息を出します。「f」の口の構えで「p」と発音する感じです。音としては気の抜けた「p」になります。このあたりは、ドイツ語のCDつき入門書が2000円未満で売っているのでそれを買うことをおすすめします。そうすればドイツ語では「w」が英語の「v」にあたり、「v」が基本的に濁らず「f」と発音するがdivisionなどの外来語は「ディヴィジオーン」と濁ったりすることも分かります。
いおーじま


場合によってはケンプフとも読まれていますね。ただ、読みとしてはカンプが一般的でしょう。あえて(ふ)を付けた方が分かりにくくなるかも知れませんよ。
かすた


ケンプ作戦集団は、ケンプ将軍が指揮していた軍団以上軍未満の部隊に対して与えられた名称だと思いますが・・・。それと、カンプグルッペは、正しくは日本陸軍の「支隊」よりも広い範囲に適用できます。日本軍の支隊は大隊以上旅団以下の部隊の組み合わせですが、ドイツ軍のばあいは中隊規模のもあれば一個師団まるまるカンプグルッペに含んでいるものもあります。
まなかじ  
→ top


【獨軍部隊名の讀方】


ドイツ国防軍で「III/123 Light Howitzer Abt」は第221軽榴弾砲大隊第3中隊と訳すのでいいのでしょうか?辞典では中隊:companyとなっていますが、
「123 Artillery Kommando」はなんと訳するのでしょうか?Artilleryは大砲などと出ていますが、砲兵コマンダ?ではおかしいと思います。


>「III/123 Light Howitzer Abt」
Abt.はAbteilungのことで大隊を意味します。つまり「123 Light Howitzer Abt」で第123軽榴弾砲大隊となります。で、頭に「III(ローマ数字の3)/」をつけることで「第123軽榴弾砲大隊の3番目だよ」ということを示しています。何が3番目なのかは明示していないわけですが、暗黙の了解事項として第3中隊と解釈されます。
>「123 Artillery Kommando」
Kommandoは「部隊」とでもしておくのがいいでしょう。
ところで「Light」「Howitzer」「Artillery」は英語、「Abteilung」「Kommando」はドイツ語なんですがどうしてこんな妙な記述をするんでしょう?
PT


正式には、ドイツ軍の中隊や連隊はアラビア数字、大隊はローマ数字で番号を表記します。両方アラビア数字で書いている資料も多いのですが、わざわざローマ数字を使っている以上、第221砲兵連隊第II軽榴弾砲大隊のことを指しているのでしょう。第221砲兵連隊はもともと第221歩兵師団に属していました。フランス戦終了後この師団は解隊され、1941年になってこの師団の兵員を中心に、3つの保安師団ができました。第221砲兵連隊にあった3つの軽榴弾砲大隊はそれぞれの師団にひとつずつ配属され、150ミリ重榴弾砲を持っていた第IV大隊は軍直轄部隊として独立しました。ちなみに、このとき第221砲兵連隊司令部も独立部隊となりました。砲兵連隊司令部だけが独立部隊となるのは意味不明に見えますが、スタッフと通信機能を使って、複数の独立砲兵部隊をまとめて指揮するために、この種の独立部隊はたくさんありました。この司令部は最終的にアフリカに渡り、第1アフリカ砲兵連隊司令部と名前が変わって、チュニジアで全滅しています。
話を戻して、第II大隊は第444保安師団に配属され、東部戦線の南方軍集団戦域で任務についていました。この師団は1944年5月に解隊されています。ARKOは強いて訳せば砲兵司令部でしょうか。軍団や軍の持つ軍直轄砲兵大隊などが特定の師団に配属されたとき、ARKOも一緒に配属されて、師団司令部の下で、師団固有の砲兵連隊と独立砲兵部隊を統一的に指揮します。通信器材を持った砲兵士官のチーム、と思えばいいでしょう。
第III大隊は同様に第454保安師団に配属され、南方軍集団戦域で任につきましたが、この師団は1944年7月に全滅しています。
マイソフ


英語圏の軍隊でも、歩兵以外の兵科ではcompanyを使用しないばあいがあると聞いています。ご参考までに。
SAW


うーん、ドイツ軍部隊でローマ数字を使うのは大隊ならびに軍団ですから第123軽榴弾砲大隊第3大隊になってしまいますう・・
「III/123 Light Howitzer Abt」の文中には書き間違いがあるのでは?「123 Artillery Kommando」は第123砲兵司令部が正解だと思います。
ななし


英語の部分と日本語本文で書いてある部隊番号が違うんですよね。英語圏だと、squadron(騎兵中隊)、battery(砲兵中隊)がまず思い浮かびます。辞書によってはsquadronのところに「戦車中隊」とありますが、これは騎兵が戦車を運用した時期があったんでしょ うかね。装甲車だとよくありますが。ちなみに第123砲兵連隊は第123歩兵師団に属し、バルバロッサ当時は北方軍集団、のち1943年秋以降は南方軍集団で戦い、1944年3月に大損害のため解隊されました。
マイソフ


湾岸戦争にも参戦したバリバリの機甲師団ですがなにか?
http://www.grunts.net/army/1stcav.html
米第1騎兵師団
あのう、問題としているのは「騎兵“squadron”」の事であって「騎兵“ Division”」の話はしていないのよ。
現在に於ける『第一“Cavalry”師団 』は“Cavalry”の意味が変質した中に唯一残った“名称”としてのエッセンスが保存されたに過ぎません。擲弾兵部隊とは「擲弾を主たる装備とした兵科」の意味を指すのは遙か昔のことです。
つまり本件におけるマイソフ氏の提起は騎兵の編成をそのままに(つまりその機能発揮を目指しながらも、騎兵の代替に)戦車を以て運用された例があるのだろうか?という意味です。これだからヤンキーは(ブツブツ)。
ナゾの人


多くの国で、騎兵は捜索大隊・偵察大隊として生き残り、その編成中に装甲車や軽戦車を含んでいます。ドイツの場合だとルックス、アメリカの場合だとスチュアートなどはこうした使い方をされた軽戦車ですね。こうした車両を持った中隊ならばsquadronと呼ばれても不思議はないわけです。squadronに「騎兵大隊」という訳語を当てている辞書もあります。アメリカ第1騎兵師団にあったreconnaissance squadronはまさにこれで、士官・兵あわせて編制定数668名(太平洋戦争開戦時)の大所帯です。この騎兵大隊の装備の中には「軽戦車13両」があって、当時は師団唯一の機甲戦力でした。
私が「騎兵は…」と言ったのは、騎兵の伝統を受け継ぐ部隊なら主力戦車を装備する中隊でもsquadronと呼ばれても不思議はないが、そんな中隊はあるんだろうか、ということです。装輪式装甲車や兵員輸送車をマスコミがよく「戦車」と表現してマニアの失笑を買いますが、squadronに「戦車中隊」の訳を当てた辞書の編者も「軽戦車だろうが装輪偵察車両だろうが戦車」という理解をしているのかもしれません。
マイソフ


イギリス軍の戦車中隊はsquadronというようです。少なくともWWIIの英戦車旅団の戦車大隊の中隊はsquadronとなっています。現在はどうなのか不勉強でわかりません。
波タカシ


現在でも Squardron です。たとえば 2nd Royal Tank Regiment は、次の Squardron から編成されています。
 Nero (司令部中隊)
 Badger
 Cyclopsbr>  Egyptbr>  Falcon
合計でおよそ500名の人員と、58両の MBT を擁しています。
tac


皆さんありがとうございます。言われて探してみると、第二次大戦下のイギリス軍戦車部隊については、次のページが見つかりました。
http://www.britwar.co.uk/lists/jsbritoob-a.htm
イギリス戦車部隊の場合、機甲旅団系ではregimentの実戦力は大隊で、歩兵戦車の場合はほぼ同規模の部隊なのにbatallionと読んでいますね。中隊の名称は、どちらもsquadronのようです。面白いのは、対戦車砲中隊が砲兵式にbatteryであることです。それじゃあドイツ軍はどうなのか、と調べ直して見ました。
ドイツ第1騎兵師団が第24装甲師団に改編されたことはご存知の通りです。この師団の場合、装甲擲弾兵連隊と偵察連隊の中隊は、歩兵砲中隊まで含めてSchwadronです。戦車連隊、対戦車大隊、通信大隊の各中隊はKompanieを使っています。砲兵はやはりBatterieです。対空砲中隊は、対空砲大隊にあるものは口径に関わらずBatterie、対戦車大隊に配属された対空砲中隊はKompanieです。歩兵師団偵察大隊の各中隊も、乗馬・自転車・重火器を問わず、Schwadronです。もっともこれらは末期にはKompanieになってしまったようです。
空軍直轄の対空砲大隊でもBatterieを使うようです。もちろん独立突撃砲大隊も砲兵なので中隊はBatterie。対戦車砲大隊の中でも、砲兵対戦車砲(固定)大隊という特殊な部隊があって、原則として71口径88ミリ対戦車砲(PAK43またはPAK43/41)を装備し、牽引車が砲の数の半分しかなく、砲兵科所属です。この部隊にいる中隊も、Batterieであったようです。
マイソフ


このお話は面白いですね。米軍騎兵師團の話がでたので追加しますと、米軍の騎兵隊は、もともとが龍騎兵・乗馬歩兵なので、中隊はcompanyと呼んでいます。西部劇を見ていると、みなcompanyと云ってます(「黄色いリボン」の騎兵中隊は、C company)。龍騎兵は、もともと乗馬銃兵で、成立当初は乗馬で機動し戰闘は下馬して行ったので、歩兵式の組織になっており、鼓手もいれば中隊も12個揃っていたと聞いております。しかし米軍騎兵隊は大隊組織がなく、必要なときに聯隊を区分して臨時大隊を編成するのみで(カスター将軍が戦死した時には、第7騎兵(聯)隊は、カスター直率の本隊と、別働大隊とに区分されていた)、大隊をbattalionといっていたか、squadronと云っていたか、よく分かりません。龍騎兵以外の兵種の騎兵では、中隊をtroop、大隊をsquadron(航空隊では中隊の意に使用)と呼ぶのもあり、どなたか詳しい方、このへんの使い分けをご教示願えれば有難く存じます。
あるめ


米騎兵隊の編成単位ですと、WWII時の機甲騎兵連隊は2つのCavalry Reconnaissance SquadronsからなるCavalry Groupとされていた時期があります。騎兵部隊の編成単位は時期によりかなり変化しているようです。Little Big Hornで全滅した時のカスターの第7騎兵隊につては
http://www.indianwars.org/laststand.htm
http://www.globalsecurity.org/military/agency/army/2acr-history.htm
下のところをみるとCuster's wing of the Seventh Cavalryとかいてあり、上のところでは divided his regiment into four battalions とあり、臨時大隊はbattalionのようですが、カスターの率いていた5個中隊は大隊よりも大きい単位のようです。
波タカシ


↑HP見ました。なるほど〜、5batallionsに区分していたのですね。リーノー大隊と本隊だけかと思っていました。第2騎兵隊は機械化で大隊の名称をtank battalionからsquadronに変えていったところが面白かったです。
あるめ


アメリカの本やサイトを見ると独語と英語が混じった文章が結構多いと思います。←(独語はわかりません)
>英語の部分と日本語本文で書いてある部隊番号が違うんですよね。
そうなんです間違えました。部隊名の数字にはあまり意味はありません。  
→ top


【通信・補給・整備の部隊編成】


通信、補給、整備の部隊編成、役職はどうなっているか教えて下さい。


通信、補給、整備といった部隊は、一つの軍隊の中でもその規模や軍の機構内部での位置付けが様々で、一括りにはできません。例えば通信関係の部隊と言っても、軍通信網の中枢を担うかなりの規模の部隊もあれば、前線の師団の中の通信担当の部隊(規模は小隊位かな)もあり、役割や編成も異なる。補給にしても、補給・兵站の中枢たる補給廠ともなれば、それ自体が駐屯地並みの規模だったりします。その一方で師団付属の補給部隊もあったりするわけで。また、国や時代によって補給・兵站、通信等の機構、システムが異なったりしますので、一般化できません。こうしたことを念頭に置いた上で、時代や国を特定して調べたり、比較してみると軍隊の後方支援に関する各国の考え方の違いがわかったりして興味深いだろうと思います。
確かに本格的に調べて各国比較や時代別の比較やっていくと、一冊の本できるだろうな。そこまでやらずとも、自衛隊であれば防衛白書など基にして、通信、補給等、主要な後方支援部隊の配備状況調べていってみたらどうかな。
アリエフ


まあ別にワタシだけに関して云えば迷惑とは思っておらず、逆に面白がって、単に好きなことを喋っているだけなので、どんどんご質問なさってよいと存じます。忙しかったり、質問が詰らなければ回答が遅れるか、回答しないかとなるだけなので。日本語出版界の中に御質問のような軍事の「基本事情」についての、簡便な纏ったガイトブックがない以上は、皆さんで、こんなものかなー、あんなものかなー、と回答を寄せると、互いに勉強になるのでは。適当する入門書あれば、そっちを紹介することにします。けれど、基本的な入門書のどこにも書いてないことがあって、それを理解するには、ちょっと尋常な手段ではできないものは、ここで簡単に説明するのも面白いと思っています。小さな特殊な質問(調査や確認に存外の時間がかかる)よりも、大まかな質問の方が答えやすい(単に知ってることだけの概略を書けばよいので)こともありますし。


「通信」部隊は、旧陸軍では、軍通信部隊(グンツー)と隊属の通信部隊があり、前者は後方と前線を結ぶ幹線通信網の建設・保守・運用に任じます。後者は師團の通信隊・聯隊大隊の通信班・中隊小隊配属の通信兵などで、師團司令部と隷下部隊との通信線を敷設・保守し通信の運用に任じます。前者がれっきとした工兵であるのに対し、後者は単に通信特技のある兵科の兵隊です。
グンツーでは、工兵の聯隊規模数箇(後方地域の広さにより変化)を基幹とし、必要に応じ独立中隊(たいていは無線)を投入。主通信所を中心に有線・無線の中継所を要所に設けます。聯隊は4個中隊程度の規模で、大半が建設に從事、歩くのと同じ程度の速度で、簡易電柱付き有線を張っていくことが出来ます。無線隊は自ら送受信塔の建設もします。 隊属のほうは、中小隊規模で、ソノ中を有線無線に適当に区分してあり、師團通信隊くらいではグンツーの装備に準じています。聯隊・大隊本部付になると、5人くらいの組でケーブル巻を持って木の枝や地面に電線を這わせて急造の簡易有線網を作ります。特に砲兵は無線の性能を信用しておらず、専ら有線を使用していましたので、断線修繕も重要な役目でした。旧軍は貧乏だったので、ハンディ・トーキーやら小隊用の通信機などシャレタものは持っておらず、装備のよい中隊が通信兵1〜2名の小型通信機・電話機を持っていた程度です。たいていは人間が走る傳令ですませていました。


補給は、編成地の留守隊の所属する師團管區に補給基地が設けられ、そこを経由して内地の大集積地(例えば宇品)に軍需品が送られます。直接に補給廠から送りこまれてくる物資や、現地で軍用商人から直接購買したものも含まれます。物資は輸送船で海を渡り、戦場後方の占領地區に設けられた集積地(例えば北京)に集積され、そこから各軍の要請に従って戰線に輸送されます。
各軍では、軍司令官のもとに「兵站監」(将官)がおり、後方地域を「第何軍兵站管區」と称し、その最も交通至便なところに「兵站主地」と云うメインの補給基地を置き、内地や占領地區から送られてくる物資を集積します。
こうした物資の輸送路を「兵站線路」line of communications と呼び、これに沿って鉄道や道路、航路が敷設されています。一日行程おきくらいに休養・中継用の宿舎があり、通過部隊に食事や医療・修理などサービスを提供します。これは「兵站司令部支部」と称し、兵站線を分担する「兵站司令官」の隷下にある兵站部隊(各兵種混成)が運用しています。兵站司令官は通常、数名おり、要所に「兵站倉庫」を設け、物資の流通に努めます。中には現地物資徴発専門、糧食加工専門、河川輸送専門などの兵站倉庫などがあります。兵站倉庫間は、「兵站輜重」と呼ばれる輸送隊(輜重兵と補助輸卒隊、あるいは現地雇用者からなる)が物資輸送に任じます。
兵站線の終点は、「兵站線路終点」と呼ばれ、兵站管區と戦場の境界となっています。そこから向うがホンモノノの戦場である「前線」となります。そこでは兵站監の権限は及ばず、専ら軍司令官の軍令で動きます。軍司令部の参謀部に後方参謀がおり、補給の計画・実施をまとめています。
前線の部隊は、輸送部隊(輜重隊)を兵站線路終点まで送り、必要な物資を受取って、部隊に配給します。必要に応じ、軍司令官は「野戰倉庫」(太平洋戦争頃には雑多な補給廠支部を統合して「野戰貨物廠」に改組)を設け、当座の物資の集積・配給センターとします。
輜重隊は物資集積所まで物品を運び、各部隊の行李(隊所属の輜重兵、砲兵は段列の彈薬車)が所要量を受領にきます。「行李」が持ち返った物資は、各隊に分配され、兵隊は糧食にありつき、彈薬箱を満たします。
物資のうち最も大量に補給されるものは「糧秣」で、「彈薬」は戰闘が続かない限りは余り流通しません。
「補給」の部隊には、ここには書き尽くせないほど雑多な兵種・職種が含まれており、だいたい、どの国でも同じような部隊の種類が揃っています。というより、どの軍もやってることは同じなので、自然に揃わざるをえなくなります。中には兵站倉庫の防火に任ずる消防勤務隊や、死者の取扱いにうるさい欧米の軍には大量の棺桶を備えた埋葬勤務隊などもあります。米軍の有名女優の慰問公演、獨軍の宣伝中隊なども面白いですね。問題になっている慰安所も軍兵站監部の兵站經理部が民間業者に業務委託したものや、単に営業許可を与えたものや、直営したものなどヴァリエーションがあります。日本軍にないものには、製麺麭(パン)隊や屠獸隊(肉用家畜の飼育・屠殺・精肉)があります。


「整備」部隊は、各部隊に必要に応じて兵器部員が配属され、歩兵では大隊レベルに銃工長(下士官)がいて、手下の銃工兵(各中隊に1人はいた)を集めて修繕・加工をしていました。聯隊レベルでは上等工長(准士官)がいて、兵器掛(将校)を助けて修理工場を運用しました。
独立した整備部隊は、師團ないし獨立混成旅團に「兵器勤務隊」があり、より大きい規模の修理工場を運用していました。戰車部隊には、小規模な修理ユニット(中隊・小隊規模)が編成されており、航空部隊には飛行場大隊などと呼んでいた地上ユニットのなかに整備工場があり、また機付整備兵が日常のメンテに任じました。イスラエルの機甲部隊に附属する整備ユニットは、戦闘中の修繕に任じ、戰車の稼働率の向上に貢献しています。
あるめ  
→ top


兵科兵種
【徒歩砲兵】

Q
日露戦時における日本軍の「野戦砲兵」と「徒歩砲兵」の違いとは何ですか。

A
 おそらく語源となっているドイツ語の”Fussartillerie” と ”Feldartillerie” の違いを考え、また「徒歩砲兵連隊」が攻城砲兵廠にのみ所属しているところをみると、「野戦砲兵」は主として小口径の野砲・山砲を装備し、軽快な機動力を有する部隊であり、それに対して「徒歩砲兵」は、比較的大口径の砲を装備し、あまり機動性を有さない部隊であろう、ということは想像ができます。
 しかしここで問題なのが、攻城砲兵廠に所属する「野戦重砲連隊」です。
 当時の日本陸軍には機動力を有する大口径砲はなかったのではないかと思います。
 にもかかわらずあえて「野戦」をその名に冠する重砲兵部隊が存在するということは、上に書いた「野戦砲兵=軽快」「徒歩砲兵=鈍重」という違い以外に「野戦砲兵」と「徒歩砲兵」には違いがあるのでは、という気がします。
 当時の「野戦砲兵」「徒歩砲兵」「野戦重砲兵」の分け方をどなたかわかりやすく示してはいただけないでしょうか。

A
アジ歴レファレンスコード C05121552500 に臨時徒歩砲兵第一連隊編制表、同じくC02030449300に野戦砲兵の戦時編制案があります。両者を比較すると徒歩砲兵がどんな砲兵部隊だったかがわかると思います。
また野戦重砲連隊が装備した砲は克式十二珊榴弾砲等の分解せずに牽引できる野砲です。
BUN

 要塞砲兵を改編して編成した部隊が徒歩砲兵、ということですか。

Q
克式十二珊榴弾砲については手持ちの本ではくわしいことがわからなかったので、分解せずに牽引できると教えていただけたのは収穫でした。
A
乗馬の欄を比較すると「徒歩」の理由がわかります。
BUN

A
俗に云えば野戰砲兵とは砲車・彈藥車を對にして馬匹牽引で機動し、ついでに砲手も載っけて行くというもので、野戰重砲兵は基本は野砲兵と變りませんが、より大口径の砲を装備する砲兵です。野重砲は昭和時代には馬匹の代わりに自働牽引車で引っ張るようになりましたが、野砲は相變らず馬匹牽引部隊でした。
徒歩砲兵は野戰砲兵とは別の兵種で、攻城砲兵として使用するものです。装備の砲はやたら重い大口径で、いったん陣地進入すると余り動かないので、機動力は必要とされず、砲手は徒歩で移動しました。要塞砲兵は防御が任務ですが、攻城砲兵の必要ができて初めて要塞砲を引抜いてきたりして、巨大口径砲にて臨時に徒歩砲兵部隊を編成したのでしょう。
第三軍の旅順要塞攻略時にはその野重砲聯隊は攻城砲兵司令部直轄で、攻城砲兵廠とは隷属關係が無いのではと思っておりましたが、違いますでしょうか。
1次大戰前の獨軍は要塞にある重砲兵を野戰に随伴し主に攻城に使用するべく徒歩砲兵として軍團直轄にしていたと聞きます。この邊の柔軟な運用を日本陸軍も真似たのでしょう。
あるめ

Q
お二方とも、解説ありがとうございました。 野戦重砲はそれなりに機動力のある装備編成なのですね。
>あるめ さん「攻城砲兵廠」はこちらの勘違いです。「攻城砲兵司令部」ですよね。  → top



職務
【副官】

軍の組織の仕組みについて、ぼんやりとしか分からない私に組織の仕組みを教えて下さい。最初の質問として副官について教えて下さい。副官の選び方、階級、立場等をお願いします。


Adjutant(副官)は、会社でいえば、庶務課長・秘書係長みたいなものです。大隊以上の規模の團隊長には必ず副官が付いており、團隊長附属の事務を取仕切り、團隊の本部・司令部事務室の責任者です。團隊長公印の保管出納・文書の起草授受など、他部署のしない事を、なんでもやります。團隊長のスケジュール管理・随行など秘書業務もします。大きな上級團隊になると、副官は複数おり、旧陸軍では、最先任の責任者を高級副官、次席を次級副官、團隊長の鞄持ちをする若いのは専属副官と称していました。階級は、大隊で中尉、聯隊で少佐〜大尉、旅團以上では佐官が高級・次級副官、尉官が専属副官であるのが一般でした。少将以上の階級を持つ副官はなかったようです。
副官になるのは兵科の将校ですが、それは所属の團隊長が決めるので、明確な基準はありません。ただ「副官適」というタイプがあったようで、あまり頭が固くて融通も気も利かないのは不適であったと思われます。
副官の下には、事務要員として下士官が複数おり、曹長クラスでした。文書の浄書・複写・郵便物の授受など雑務を処理しました。
副官は團隊長のスタッフなので、隷下諸隊に対する指揮権はありません。團隊長が倒れれば副官が代って指揮をとるということはありません。團隊の次級者が團隊長代理として指揮をとることになります。(聯隊ならば、聯隊附中佐、それがいなければ先任の大隊長)
あるめ


今では入手の難しい本ですが、図書館ではよく見かけるので、有名人の副官が書いた回想をご覧になるのもよいかもしれません。
(マンシュタインの副官)
回想の第3帝国(上・下巻)−反ヒトラー派将校の証言1932-1945− 
アレクサンダー・シュタールベルク著/鈴木直訳 平凡社刊20世紀メモリアル(1995)
(ロンメルの副官)
『ロンメル将軍』 ハインツ・シュミット著/角川文庫
マイソフ


海軍の副官業務の実態は良く分りませんが、主計科士官が副官の役目をしていたと聞きます。日本海軍は英国海軍の制度を導入したのでしたが、英海軍には昔から「secretary」と云う職種があって、准士官待遇の文官ないし乗組文官の身分を持ち、提督や艦長の副官業務を行いました。士官が辞令を貰う時には、提督の秘書にアポイントメント仲介や文書作成の手数料を払うのが慣例でした。内実はともかくとして明治初期の日本海軍でも「秘書」として海軍省官制や乗組員編成表に載っています。これを後に經理関係の乗組文官と一緒にして、「主計科」としました。このへんが、なぜ海軍では兵科士官が副官をしないのかの理由と考えています。副官は兵科将校ではないので指揮系統には入っておらず、戰闘は専ら兵科将校たる副長が指揮官を補佐しました。
訂正: 海軍は兵科士官が副官をしないと書きましたが、海軍制度沿革の定員令付表を眺めていたら、兵科士官の副官は明治時代からいたことが分かりました。例えば、鎮守府には、司令長官「秘書」と「軍港司令官副官」とがあるといった具合です。
あるめ


便乗質問ですが、帝国陸軍にも「中隊副官」という役職があったとなにかに書いてあったような記憶があります。これも上記のように「軍事秘書」のような役割だったのでしょうか。ご教示よろしくお願いいたします。
SAW


中隊副官はいませんでした。中隊長の副官的役割は、中隊附の人事掛特務曹長(後の准尉)がしていました。中隊事務室を主宰し、主に下士官兵の人事と馬事を擔任しましたが、将校と下士官兵の間をとりもつ中隊のヌシみたいな存在で、その実力は絶大でした。 戦場では、中隊指揮班長として中隊長副官の役目をしていました。
あるめ  → top


【参謀】


続いて参謀の選び方、階級、航空参謀といった参謀の種類、階級、仕事内容を教えて下さい。


旧陸軍の参謀は、陸軍大学校卒業者でなければなれませんでした。平時は師團司令部・軍司令部と参謀本部にいて、一番偉いのは、参謀總長(大将級)、ついで参謀本部次長(中将級)、各部長(少将級: 作戰、情報などの部がありました)、各課長(大佐)、各班長(佐官級)、ヒラの参謀(大尉以上)となっています。平時師團は参謀長とヒラ参謀が一人くらいしかいませんでしたが、戰時編成では師團司令部に参謀長(大佐)、高級参謀(中佐級)、主任参謀(少佐級: 作戰・情報・後方の各班)、ヒラ参謀など増員となりました。軍司令部は、殖民地の駐屯軍と、戰時編成の野戰軍があり、高等司令部用の編成令に従って参謀部をもっていました。軍司令官ー参謀長ー参謀副長ー各課長ー各主任ーヒラ参謀という命令系統(時代により呼称は少し異なる)でした。例えば、関東軍参謀部作戦課作戰主任参謀辻正信少佐という具合ですね。
海軍の参謀は、必ずしも海軍大学校卒業者でなくともなれたようですが、海軍参謀の種類は過去ログに詳しい説明があるのではないかと存じます。規模や階級は、例えば、大正9年の定員令18表では、鎮守府司令長官(大中将=大将ないし中将)の幕僚として参謀長(少将)と4名の参謀(中佐1・少佐1・大尉副官兼務1・機關中少佐1)がおり、その分掌(航海参謀とか通信参謀とか航空参謀など)は司令部で振り分けていた様子です。また33表では、聯合艦隊司令長官(大中将)の幕僚として、参謀長(少将または大佐)、参謀(中佐1・中少佐2・少佐大尉1・大尉1・機關中少佐1)があり、更に「備考」に参謀として兵科佐官1の増加、戰時事變には兵科佐官2の増加と、参謀長を中将にできるとあります。
参謀の仕事は、歴史的には兵站線の確保と行軍計畫であったのですが、ビスマルク時代の獨逸軍における参謀部が、数個軍の大規模分進合撃作戰を立案して大成功を収めたため、それ以降、参謀部の仕事は作戰立案が主となった観があります。したがって参謀部の筆頭部署は「作戰」で、その次に「情報」「後方」がくるというふうになってしまいました。旧陸軍もこれを継承しているわけです。「作戰」は、文字通り、司令官に戦場の駆け引きを助言することですが、刻々と変化する戦況への対応を事実上主導するのは参謀長と作戰主任参謀で、司令官は参謀長の作ってきた作戰命令を承認すれば、それだけで直ちに命令が司令官名で各部隊に伝達され、戰線が動いていくことになります。ヒラの参謀は作戰圖に彼我の部隊配置を記録し、行軍日程を計算し、命令綴を調製しと、いろいろな事務に忙殺されました。「情報」は兵要地圖の作成から、諜報、捕虜の尋問まで行い、敵情報を収集・分析します。「後方」は、兵站線路終點から前線までの補給を確保しました。 海軍の参謀は、大きな仕事では、日本海海戦・真珠湾攻撃の作戰立案が挙げられますが、ピタリと機械のように聯合艦隊を豫定戦場に動かしていき、實施部隊に戰闘を開始させ、戦果・損害情報を刻々と伝達するという仕事には、なかなか緻密な頭脳とチームワークが必要だったようですね。
あるめ


あるめ様の詳細な記述に寄りかかって、ドイツ軍との異同を記してみたいと思います。 ドイツ陸軍も日本陸軍と同様に、陸軍大学校に当たるKriegsakademieに中尉で入学し、良好な成績で卒業すると、大尉になった頃にGeneralstabsoffizier(参謀本部スタッフ?)となることができました。これ以後、前線と各級司令部を行ったり来たりすることになりますが、何に任じられていてもGeneralstabsoffizierであることは変わらないのです。Generalstabsoffizierはおそらく、参謀業務をほぼ独占していたと思われます。ロンメル元帥やシュトラハヴィッツ大将のように、Generalstabsoffizierでなくても司令官としてどんどん出世してゆく人はいるのですが、そういう人を参謀にはしないようなのです。ただし、第一次大戦で養成過程が中断したことについては、戦中の繰上げ卒業(グデーリアン)、速成コース(モーデル)、戦後の選抜試験による補充(ネーリング)など、さまざまな対策を取りました。マンシュタインは例外中の例外で、グデーリアンと同世代で繰上げ卒業をした形跡がないのに、参謀本部の(日本陸軍で言う)部長職すら務めさせています。あるいはあまりにも当然のことを、略伝の書き手たちが書き落としているのかもしれないのですが。
参謀には基本的に指揮権がないのですが、ドイツの師団司令部にいる補給主任参謀は「師団補給指揮官」とでも訳すべき任を負っていて、憲兵・補給・衛生・野戦郵便関係の部隊に指示を出すことが認められていました。これはおそらく日本陸軍で言う「区処」であって、「指揮」というより、それぞれの専門に応じて実務者が出す指示に近いものだったのだと思います。
マイソフ


マイソフ様の、参謀には基本的に指揮権がない、で、それを書き忘れたことに気がつきました。参謀長以下は司令官には「こうしたら如何でしょうか」「この場合は、こうするべきです。しかし敵がこうきた場合は、云々」といろいろな可能性と選択肢を述べ、司令官が迷っていると「こうしなければ、こうなるから、早くこうしましょう」と意見具申して決断を促すなど、戦局を左右する非常に重要な役割をするのですが、隷下部隊に対する命令権はなく、いくら参謀が部隊長にいろいろ指示を出しても、部隊長がそれに従うことはありませんでした。司令官の「命令」があって初めて部隊長は兵を動かしました。命令は「第何軍作戰命令第何號」(「軍作命」などと略称)という書類の形(口頭で命令を伝達し、書類はあとづけの場合もある)で司令部に保管されます。しかし緊急の場合は、現地指導の形で、参謀が前線に派遣され、部隊の指揮に介入することもあり、この場合は、司令官がそれを委任した事を(文書などで)証明する必要がありました。大きな例では、日露戰役で児玉満州軍總参謀長が大山總司令官の委任状をとりつけ、乃木第三軍司令官の指揮権を停止して自らが指揮を執り、二百三高地を奪取したというのがあります。さて、ここで思い出しましたが、「日本のいちばん長い日」と云う映画で、出動命令を承認しない近衛師團長を斬殺した叛乱将校が、用意していた師團命令書に師團長の机の上にある師團長印を勝手に押し、その場で電話にて隷下部隊に「師團命令!」と宣言して、これを読み上げると、命令をうけた在京の各近衛歩兵聯隊が一斉に出動のため營庭に整列するという場面がありました。途中、この事態に気づいた上級司令部の東部軍管區司令官は、自動車で各部隊を駆回り、聯隊長が出動準備完了を報告するのに対し「馬鹿もん、それは偽命令だ!」と怒鳴りつけながら命令を取消していき、事なきを得るのでしたが、司令官・参謀・隷下部隊との関係は、このようになっていました。
あるめ


ちょうどBuchnerの「The German Infantry Handbook」に、ドイツ歩兵師団司令部の構成が載っていて、あるめ様の記述と照応するので記します。 ドイツでも軍団以上の司令部になると参謀長の他に作戦主任参謀がいるのですが、師団では中佐の参謀長(Ia)が作戦参謀の役目を兼ねます。Iaの下に、大尉の情報参謀(Ic)がいます。大尉ということは、Generalstaboffizierになったばかりということです。通信傍受、捕虜の尋問なども含め敵状の判断を行うのが仕事です。さらに、少佐の後方参謀(Ib)がいます。上の私の書き込みで補給主任参謀と書いてあるのと同一のポジションですが日本陸軍の分類に合わせます。この3人が、Generalstabsoffizierです。師団司令部には軍医、獣医、経理その他の専門性の高い士官や将校相当官がいますが、それぞれ専門の訓練を受けキャリアを積んできた、参謀ではない人たちです。軍団以上になると、工兵、砲兵などのスタッフが司令部にいて、司令官に助言したり、砲兵などは特に直轄部隊と師団所属部隊の統一指揮に当たったりしますが、これらの人たちも(たまたまGeneralstabsoffizierであることはあっても)狭い意味では参謀ではありません。日本語の本ではよく、工兵総監とか砲兵総監とか偉そうに訳されています。
マイソフ

海軍の艦隊・戰隊の参謀の種類は、時期・状況によりバリエーションがあるようです。その時々の編成表により確認するしかないです。私も海軍はよく分りませんので、どなたかご助言戴ければ幸甚です。いったい戰務参謀が何をするのか、見当がつきません。海軍制度沿革定員令付表レベルでは載っておらず、海軍諸例規あたりに標準的な役割分担と名称の付し方があるのではないかと思いますが、以前に覗いた時には、ぴったしのがありませんでした。一番手っ取り早いのは、戰闘經過や艦隊戰隊行動に関する報告・記録類に付いている司令部編成表ではないでしょうか。こういう資料は、大きな圖書館に行くと不二書房あたりの復刻版が置いてあったりするので、重宝します。もちろんご自分でも買える値段です。(御参考までに)開戦前の聯合艦隊司令部幕僚には、首席参謀、作戦参謀、戦務参謀、航空参謀、水雷参謀、砲術参謀、航海参謀、通信参謀、機関参謀、補給参謀がいました。
あるめ  
→ top


【参謀と幕僚】


「幕僚」と「参謀」という言葉は、どう使い分けるのでしょう?(前者は軍事色を薄めたかった戦後の言葉なのかな、と一瞬思いましたが、戦前でも使ってるみたいだし…)


防衛庁では、陸海空各幕僚監部について軍事専門的観点から防衛庁長官を補佐するスタッフ組織と位置付けています。シビリアン(文民)で構成され政策的観点から長官を補佐する内局と共に、東京の防衛庁本庁内にある組織です。
参謀は軍の中枢部及び前線部隊で、情報収集・調査、作戦計画策定、結果評価等を実施する組織であり、師団参謀もいれば参謀本部及び軍令部といった中央の参謀組織もあります。それに対し、幕僚とは軍中央のスタッフ組織であり、その中には参謀もいれば装備・補給・兵站担当の将校もいるわけです。現在の防衛庁の組織は米軍の組織に倣っていますが、この幕僚監部は旧日本陸軍で言えば、陸軍省と参謀本部の各中枢部分の機能を併せ持つものと考えれば良いのでは。
アリエフ


これは、旧日本陸軍と旧日本海軍ではニュアンスが違うものであると認識しますが、例によって旧日本海軍に限定します。
一般に、「幕僚」のほうが「参謀」よりも広い意味を持っていると思って良いでしょう。すなわち、「参謀」は「幕僚」の一カテゴリーと解釈するのが良いと思います。
「幕僚」とは、司令官以上の指揮官の司令部の職員として置かれ、指揮官(司令長官、司令官)の隊務をその各分掌事項に関して補佐するものと認識しております。その際の「幕僚」とは、「聯合艦隊」及び「艦隊」の司令長官の幕僚としては、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が置かれ、司令官の幕僚としては、参謀が置かれ、必要に応じて副官、機関長が置かれています。
ちなみに、これが同じ司令長官でも「鎮守府」になりますと、「人事長」や「法務長」などが加わるなど、若干定員の構成が異なります。
「参謀」という意味では、狭義には司令長官及び司令官の幕僚たる「参謀」がそれに当りますが、参謀長も広い意味の参謀に含めて考えて良いと思います。それ以外の職員は、幕僚ではあっても、参謀(参謀長)という職にない以上参謀でもなんでもありません。
今泉 淳


陸軍の高等司令部の組織表を見ると、司令官のもとに「幕僚」と云う言葉で括って、「副官部」と「参謀部」を置いてありますが、実際には言葉だけで、幕僚長や幕僚部と言う組織があるわけではなく、単に他部と区分するための表題のようなものだったと思います。砲兵隊で、放列部分を戰砲隊と総称するのと似ています。
あるめ  
→ top


装備
【鐵帽】


2.26事件の反乱部隊はなぜヘルメットを装備していなかったのでしょうか。鎮圧部隊は装備していたようです。


当時の鉄帽は野戦用のoptionだったと聞きます。従って叛乱部隊の演習とも警備とも應急出動ともつかない曖昧な形での出動装備としては、赤い軍帽を被っている方がむしろ通常だったと考えられます。鉄帽を被ると、隊内の兵器・被服管理者に対する出動の秘匿ができなくなるおそれもあります。実弾の用意すら秘密裡に行わなければならなかったくらいなので。対する鎮圧部隊は、一戦を交える覚悟で野戦用重装備を以って臨んだのでしょう。
あるめ


隊内の兵器・被服管理者を演習だと言ってごまかすことは出来なかったのでしょうか。それとも、実戦は想定せず、鎮圧部隊の出動は無いとしていたのでしょうか。どちらにしても、ヘルメットの有無は士気に相当影響するものとどこかで読んだことがあります。


鉄帽そのものが個人の装備として完全に配布されていたかどうか、中隊被服庫にもあったかどうか、疑問です。聯隊被服庫に出征用として備蓄されてはいたのでしょうが。日常的には赤い軍帽で教練から演習から実戦まで、すべてを済ませていて、当時の兵隊さんは鉄帽の効能そのものも余り知らなかったのではないでしょうか。むしろ戦闘帽や鉄帽を被っている方が異様であったと思われます。満州事變では赤い軍帽で野戰に出ていて、その後、日支事變に入ってから漸く鉄帽が通常の野戰装備として認識されたようです。叛乱部隊は、要人襲撃と要地占領が戦術目的で、まさか皇軍相打つ事態にまで行くとは想定していなかったフシがあります。出動部隊の兵隊そのものが、何をしに行くのか余り分っていなかった様子で、下士官すら当夜、中隊長室に集められて趣意書を読み聞かされたけれど、難しい漢語ばかりで意味が分らなかったと、参加者の手記にあります。深夜、班長が二年兵を個別に起して營庭集合させ、その装備をつけるのを手伝った初年兵が寝ていると、今度はそれにも集合がかかり、營門を出発したといいますが、これを見送った衛兵司令は夜間演習だと思わされたようです。
あるめ


スチールヘルメットが国際的に普及したのは、WW1です。日本軍も多少は参戦したのですがヘルメットは装備されていません。シベリア出兵でも使われた形跡はありません。ヘルメットに関しても時代遅れだったわけです。それで日本陸軍の誰かが外国の事例を引用してヘルメットがないのは兵の士気に関わるとでも主張したのでしょう。日本軍が最初にヘルメットを使用したのは1926年(昭和2年)の済南事変からです。満州事変ではほぼ全員が着用していたようで http://members22.cool.ne.jp/~syasinsyuu/a2.htm に当時の写真があります。昭和7年には後に戦闘帽といわれるライナーの役割の略帽も制定されてます。従って、反乱軍が赤いリボンの制帽で出動したのはなんらかの理由があると思ったわけです。例えば、鎮圧部隊との識別とかです。しかし、反乱部隊は白襷などで識別も考慮していたようなので、まあ、鎮圧部隊の出動は予想してなく、単に重いからもっていかなかったのではないでしょうか。


シベリア派遣軍にも一部が支給されたと聞きます。また大正期中庸より各國の鐵兜(この時期はまだ鐵帽ではなく鐵兜と呼稱)を輸入して、國産品との比較し檢討を行っており、國軍の鐵兜が他の世界列強に對して遲れてゐたとは思へません。略帽の制定は昭和十三年であり、滿州事變當時はまだ試作品です。當時の鐵帽は「防彈被服」の名稱で近接戰鬪時の機材として位置づけられてゐたために、あるめ樣が言われる反亂部隊では裝備できなかったものだと思ゐます。
ひめみやきりん


鐵帽は、今で云えば扱いが「防弾チョッキ」の類で、個人装備としてあまねく装備されていたわけではなく、満州事變においても赤い軍帽姿の兵隊の写真を見ることが出来ます。例えば、H・シュネー「満州国見聞記」(2002,講談社学術文庫)のp117には、奉天城門での日本軍の隊列がありますが、これは全員赤帽となっていました。出征用個人装備としてではなく、戰地にて特殊被服のひとつとして支給されたのか、とも思っています。 事件当時の写真をみると鎮圧部隊の兵隊が戦闘帽を被っていますが、これは制式となる前のものなのでしょうね。なんにせよ鎮圧部隊の意気込みが伝わってきます。翻って叛乱部隊は、最終的にそう認識される以前は正規の首都警備兵力として自他ともに認めていたわけで、役目が終れば帰營すると簡単に思っていたフシがあり、まさか叛乱軍となって本格的戰闘に至るとは思っていなかったようです。
あるめ


簡単にはヘルメットを持ち出せなかったということでしょうか。安藤大尉の部隊だけでなく、他連隊からの反乱部隊も赤軍帽ですよね。兵籍剥奪された磯部1等主計などは反乱当日に軍服に着替えたようですが、赤軍帽が最も常識的な服装だったのでしょう。
ひめみやきりんさん


まず、済南事件の勃発は昭和2年ではなく昭和3年です。わたしの誤りでした。大日記乙輯昭和02年の9月に 鉄兜交付の件 というのがあり〜左記 (昭和2年)9月19日 鉄兜 一個 通牒 副官ヨリ陸軍兵器本廠長ヘ被服品研究ノ為メ左記器材陸軍被服本廠ヘ交付方取計ハレ度依命通牒ス 〜 とあります。陸軍省より兵器本廠へたった1個のヘルメットが研究用に交付されたようです。シベリア出兵では使われてなかったと思います。現地調達でヘルメットを使ったかもしれませんが、正規のものではないでしょう。本格的使用は済南事変からだと思います。略帽については昭和7年ではまだ試製だったかもしれません。しかし、ヘルメットは満州事変のみならず、上海事件での海軍陸戦隊も使用しています。ライナーとしての戦帽もかなり使われたのではないでしょうか。昭和10年 「來翰綴(陸普) 第1部」 昭和10年02月15日作成 というのに〜演習並營内ニ在ル場合(衞兵勤務及廉アル場合ヲ除ク)ニ限リ軍帽ニ代ヘ委任経理雑品トシテ戰帽ヲ使用シ得ルコトニ定メラレタルニ付依命通牒ス〜 とあります。衛兵など格式の要求される勤務以外での使用が認められたようです。略帽と言う名称で正式化されたのが昭和13年のようです。


> 大日記乙輯昭和02年の9月に 鉄兜交付の件 というのがあり
これは文面に「・・・陸軍兵器本廠長ヘ被服品研究ノ為メ・・・」とあるとおりに、この時點では「兵噐」扱ゐである「鐵兜」を「被服」として研究するために交付した旨を傳へる通牒であって、この時點の『ヘルメット』は後の「被服」扱ゐになってゐる「鐵帽」ではありません。
>シベリア出兵では使われてなかったと思います。
シベリア出兵でも使用しておりますし、大正期中庸から後期にかけて陸軍歩兵學校で國産鐵兜の使用試驗や對彈試驗が行われてゐます。
>ライナーとしての戦帽もかなり使われたのではないでしょうか。
制式ではなく増加試作の形では滿洲事變の戰鬪部隊や關東軍でも多用されてゐます。河原挺身隊での仕樣寫眞が現在でも多見されます。
大正七年から八年にかけて陸軍歩兵學校では、國産鐵兜と輸入したドイツ・フランス等の鐵兜に對しての小銃彈射撃を行っての貫通實驗や、杭に固定した状態の鐵兜に對しての砲彈破片の對抗能力の試驗を行ってゐます。
ひめみやきりん


部隊に「ヘルメット」と戦闘帽の備蓄があったかどうかさえ不明です。当時の營内生活では部隊員総て赤帽を被っているので、戰闘には必ず鐵帽を被って臨むと云う頭がなかったのではないでしょうか。もしあれば、常時から戦闘帽を被っているはずなので。また外地と内地とでは、赤帽と戦闘帽の常用度に温度差があり、日支事變開始後、外地から遺骨宰領で内地に出張してきた戦闘帽常用の兵隊が、内地の兵隊がほとんど赤帽で外出しているのを見て、おもちゃの兵隊みたいだと思ったと云う、有馬さんの小説を読んだことがあります(「兵隊やくざ」だったと思います)こういう混在の時期を経て、鐵帽・戦闘帽が制式化されていったのでしょう。ある時期から斉一的に切り変るということのないのが、陸軍の被服で、昔の軍衣軍帽をつけていても別にとがめられませんでした。
あるめ  → top


【日本刀の實戰能力】


源平戦から大東亜戦に至るまで、我国が関係した多くの戦場で用いられた「日本刀」、その殺傷力、というか実戦能力は如何なものだったのでしょうか?またハード面でも、その製造技術というものが、明治以降の兵器(銃剣等)に活かされた例はあるのでしょうか? 愚問にお答えいただければ幸いです。


日本刀の3大特徴として『折れず、曲がらず、よく斬れる』とよく言われます(実際には曲がりにくい&折れにくいだけど)。斬るという能力に関しては、他国の刀剣と比較しても優秀とよく聞きますが、実際どうなのかは資料不足でわかりません(;^_^A  ただし、時代劇では何十人もの侍を一本の刀でバッサバッサ斬っていくシーンがよくありますが、実際に一本の日本刀で一度に殺せる人間は3〜4人が限度だそうです。その中でも『斬殺』できるのは1〜2人、後は刺殺するか殴り殺すくらいです。
 日本刀の素材に使われる玉鋼(砂鉄から精錬した鋼鉄)が、明治以降の兵器製造に応用されたという話は寡聞にしてわかりません。兵藤二十八氏の著書にあるのですが、戦前の日本の国産スプリング(バネ)は品質が悪く(村田銃を開発した村田経芳も撃針スプリングの製作に悩み、ボーモン銃のV字形バネを参照したとのこと。14年式拳銃も撃針スプリングが非力なため予備が用意されていたという話)、その原因は不純物の多い国産鉄にあったということです(当時の日本は、鉄鉱石の精錬能力の低さから、鉄地金の大部分をクズ鉄輸入に頼っていたらしい)。不純物の少ない玉鋼は、スプリングなどの硬さと粘りを要求される部品の素材として最適であり、応用されなかったのが惜しまれるというのが兵藤氏の見解です。
ブラック・タロン


「私の中の日本軍」山本七平・文春文庫のなかに、このことについて面白い(かなりイタイですが)考察があります。
日本刀は、柄の部分に構造的な弱さがある(目釘一本で支えている)ことから、耐久性において全く劣るというのがまずあります。刀身自体の強度も、いわゆる胴太貫クラスでないと不足で、ふつうの刀ではまともに打ち込んだりすると、曲がってしまいます。ある意味、木刀よりも強度がありません。刀身の反りは、源平時代の太刀を除くと薙ぐにもまっすぐ打ち下ろして食い込ませるにも不足で、実質直刀と変わるところがありません。となると、「斬る」には包丁のような直線上の前進または後退を要することになり、確かに一部の剣法(鹿島流など)ではそうした操法を重視していますが。
こうした一種の欠陥兵器を扱うには、相当な熟練を要します。竹刀や木刀とはまた違った操法がどうしても必要で、道場剣法に優れているだけでは、刀を壊してしまうようなのです。戦前の陸軍将校向け雑誌「皆行」にそれの特集号がありますが、見てみると剣道よりもむしろ居合の要領に近い解説ですね。
まなかじ


平凡社新書「刀と首取り」(鈴木眞哉著)によれば日本刀には構造的な欠陥があったようです。目釘なんか、故障を抱えたものが非常に多かったそうです。
tomo


武士は、むしろ指揮刀ないし咄嗟の護身用として帯刀していた様子です。白兵戦では、「槍一筋」などと云われて、槍・薙刀が主要兵器だったようです。刀は、槍の穂先を逸らせて(短劍術の要領で)懐に敵が押込んできて、槍が操作できなくなった時に、槍を捨て抜刀して対抗したり、組打ち相手に止めを刺したりする時に重宝したようです。ところで、外地駐屯時に、ときどき自分の軍刀で狼みたいな野犬を斬っては(頭をブン殴ると云う方が正確?)、仲間を集めて兵営ですき焼パーティーをしていたと云う豪傑もいらっしゃるので、そう極端に役に立たないと云うほどのものでもないそうです。
あるめ


博物館とかで見てみると良いのですが(東京だと国立博物館や靖国神社とか)一口で日本刀と呼んでも、本当に多種多様というか個性があり装飾品や献上品として用いられた物から本当に実戦用の物まで色々あります。まあ戦国時代とかでは何振りも持っていく人とかも居たそうですから耐久力は無いのだろうと思います(笑)そいや幕末の新撰組とかはどうしてたんでしょう?相手が鎧とか身に着けていなくて、扱う人間が上手ならアレで充分なのかな・・・
SUDO


一人斬るだけなら、きっと問題ないんですよ。沖田さんやら土方さんはどうだったのか知りませんが、近藤総長の「虎徹」は、そりゃあもうごっつい刀でしたな。流山の資料館だったか、国立博物館だったか。
まなかじ


>新撰組
平刺突(ひらづき)という戦術が考案されてます。日本刀というと「斬る」イメージが強いですが、標的を確実に殺すためにはまず「突き」から入るものなのだそうで。
勝井


↑刺突攻撃の最大の利点は「素人でも有効に戦いうる」であり、斬撃より殺傷力が勝るわけではありません。
すいか


初登場です。どうぞよろしくお願いいたします。僭越ながら「日本刀の殺傷力」について、わが家の家伝をご披露させていただきます。
上野戦争に彰義隊の一員として参加したとき、腰に大刀を4本も5本も帯びて行ったそうです。脂が巻いて切れなくなった刀はその場に捨て、次の刀を抜く、という使い方をするためです。同じく彰義隊士だった祖母・曾祖母の実家も同様の身支度だったといいますから、当時は一般的なものだったのでしょう。なお、刀が折れた同輩に腰の刀を1本あげたら、あとで一番良い家宝の刀だったことに気がついた、というオチが付いています。お粗末様でした。
多摩蘭坂


近藤総長の刀は何人斬っても「曲り」を生じなかったのは事実でしょうが、「虎徹」は偽物だったらしい。根拠としては、「虎徹」は新撰組の予算全部注ぎ込んでも買えないほど高いからという事らしい。
ザイドリッツ  
→ top


【背嚢】


長距離を踏破する歩兵隊はでっかい背嚢を担いでいますが、戦闘時にはあれはどうするのでしょうか?防弾着がわりに担ぎっぱなしなのでしょうか?それとも、パッと外してすばやい動きをしやすくするのでしょうか?


行動中にいきなり敵と交戦状態に入ることもあるわけですから、このような場合には担いだまま戦闘を行なうのが普通でしょう。携帯食糧や予備の弾薬など入れた背嚢を外して敵に見つからない所に隠す暇も無ければ、交戦の後、背嚢を置いた所に戻って来れるかもわからない。背嚢を敵に取られてしまったらたまったものではないし。
アリエフ


場合によってはパッと外す事もアリです。 私が所有しているベトナム戦争時の米軍の一部の背嚢や南アフリカ軍の背嚢には即座に装備を解除できる機能がついています。これらは不意の敵襲を受けた場合に離脱行動の妨げとなる巨大な背嚢を放棄し、速やかな敵との隔離を目的としたものです。なお、背嚢を放棄した兵士はすぐにヘリなどで回収される事が前提なので、ヘリによる兵士の回収システムが確立されていないと駄目です。(ここらへんは特殊部隊を扱った映画などでよくある「敵地に長躯侵入した部隊が敵と不意に遭遇し慌てて離脱戦闘をしつつヘリに救出を依頼する」シーンを想像していただければいいかと)
ジョン・ウェイン


第二次大戦中のドイツ軍の場合、毛布やコートなど当座に必要のないものは段列の馬車が預かるわけですが、兵士の荷物を預かる段列(段列には何種類もありました)は連隊レベルでまとまって後方に下げられていました。ですから急に寒くなったりすると、困ったことにもなったようです。
マイソフ


歩兵は戰闘時には原則として背嚢を外し、後方に纏めて置いておきます。これはナポレオン時代の昔から、そうしている様子で、トルストイ「戦争と平和」に露軍歩兵隊が突撃するに際して、背嚢を後方に置いて纏めておく描写がでてきます。重い背嚢を担ったままでの銃劍による白兵戦や一斉射撃は兵の動作が鈍くなるからです。背嚢は、もともと大行李(荷駄)に積載したり、行軍路上に順次置かれる野戰倉庫に蓄積しておくべき数日分の糧食を個人に担わせて、素早い柔軟な(時には敵の虚を突く)行軍を可能にした道具なので、戰闘には邪魔だったのですね。
日本陸軍もそれ式ですが、別段にどの場合に背嚢を外すと云う規定はなく、隊長の命令で適当に処置していたようです。従って、草木で偽装した背嚢を背負った斥候兵もいるし、背嚢なしで肩から斜め掛けした雑嚢に携帯口糧や鹵獲品を突っ込んで、身軽に戰闘に及ぶ兵隊もいるのは、映画や写真でおなじみです。
あるめ


ふるーい話ですが、カエサル著「ガリア戦記」では、「○個コルホス隊をもって敵の追撃にあて、残りを荷物の守備にあてた」という記述が散見されます。何時の時代も基本的な事情に変わりはないようですね。
居眠り将軍


第一次世界大戦のころまで、ひょとするともっと後まで、陸軍軍人にとって最高にすばらしい見物は、敵兵の背嚢であると言われたそうです。
また騎兵が追撃戦で敵歩兵にサーベルで切りかかる場合、「後ろから背中を突くのは背嚢が邪魔、真上から切りつけるのは頭なら円筒帽(シャコー)、肩なら肩章(エポレット)が防ぐ、従って追い越しざまにバックハンドで顔に切りつける」のだそうです。(盲目の乞食が多いのはこの所為とか)
外すのが原則だろうと思うのですが、これで言うと背負ったまま戦闘する場合も多かったのではないかと思います。
タンジェント  
→ top


【歩兵の扱える武器】


第1次大戦〜第2次大戦時の一般的な歩兵は何種類くらいの兵器を扱える事になっていたんでしょうか?例えば、小銃を持った歩兵は歩兵砲や対戦車砲(速射砲)を扱えたのでしょうか?


本人が個人的に持っている知識ならともかく、訓練は受けていないと思いますよ。ライフルマンはライフルを撃つこと(または手榴弾を投げること)が仕事ですし、歩兵砲などの操砲要員は護身目的程度の銃取り扱い訓練をうけていないと思います(たいてい騎兵銃や拳銃程度しかもっていませんしね)。 一般的な歩兵(ライフルマン)の扱える兵器は・小銃・銃剣・手榴弾です。それと、これをいれていいかどうか・・・・・・・スコップ?機銃兵は小銃取り扱いの訓練を受けていたんでしょうか?
居眠り将軍


第二次大戦時のドイツ陸軍では全員にkar98kの使用訓練を施したと聞いたことがあります。
Vinegar-Joe


日本海軍の予科練でも小銃射撃の訓練とかあったらしいですよ。ましてや歩兵では。
SAW


ドイツ軍の場合、歩兵も砲兵もまず小銃の手入れと射撃から訓練しました。「運転手もコックも」戦闘に駆り出す緊急事態に備えて、というのもあったでしょうが、どうも主眼は武器を扱う心構えにあったのではなかったかと思います。個人個人の手入れの良し悪しがはっきり出るので、手を抜いてひどく怒られた兵士がいたと回想で読んだことがあります。その後中習課程ということになりますが、対戦車砲や歩兵砲の要員のための学校があって、ここで専門的な訓練を受けたようです。ですから基本的には、歩兵砲や対戦車砲の操作には歩兵科の中でそれぞれプロが当たりました。対戦車砲のクルーには軽機関銃手がひとりいて、敵歩兵の近接を防ぎます。これは対戦車砲の訓練だけを受けたクルーの中から、ひとりが言いつけられて担当したようです。
マイソフ


本題からはややずれますが、航空自衛隊では新入隊員全員に小銃の扱いを教えるそうです。陸自と海自はどうしているか知りませんが恐らく同様だと思います。
ちなみにここで言う「隊員」は、整備員や基地の設備維持に携わる隊員も含むそうです。 正確には、入隊直後に行軍訓練や小銃の扱い(実弾訓練あり)などを教えた後に専門分野を振り分け、専門教育に移るそうです。ということは、自衛隊隊員は全員(一応)小銃を扱えることになります。
T216


米海兵隊ではEvery Marine a Riflemanの方針のもと、士官、下士官兵を問わずパイロットや戦車兵などの技能職でもまず一流の小銃射手として教育されます。ブーツキャンプでは今でもone shot,one killと教育されています。ベローの森やガダルカナルでもこの方針があったから勝つことができたと信じられているようです。つまり海兵隊では小銃射手がパイロットや戦車兵をかねているという考え方らしいです。・・・野蛮ですね(w
Jabo


防衛医大を出て自衛隊のお医者さんをやってた従兄弟の話では、医師も一応射撃の訓練を受けているそうです。
ノースバーグ


ドイツの場合、分隊で一番(小銃)射撃のうまい兵士を軽機関銃の銃手にしたと聞いたことがあります。
マイソフ


>主旨がちょっと逸れますが 米海兵隊員の場合、一流の小銃射手たれって事は、色々な兵科の兵士である前に、一人前の兵士であれという事なんだとか、どっかで聞いた覚えがあります。だから、パイロットである前に一人前の小銃射手でなくてはいけないというのは、別に野蛮な事では無いのだそうです。
ooi


戦前の日本の中学校や高等学校の場合、配属将校がいたり青年学校でも教練があり、それなりに軍事教練が普及していたそうなので、徴兵検査合格前に小銃を触る経験がまったく無かった人はそれほど多くないのでは?
Navy


旧軍の歩兵部隊では、軍隊教育順次令というのがあって、まず入營後は、どの兵種でも敬禮の仕方、行進の仕方から始って、その徒手教練が終ると、次に執銃教練に移り、歩兵銃(騎兵・輜重兵など乗馬兵種は騎兵銃)の担い方、それを使った禮式と行進、手入れ、分解組立て、彈薬の扱い、なとど進んでいって、狭窄射撃(遮蔽された場所で、模擬彈を使って近距離の射撃を練習)、実弾射撃と移っていき、同時に銃劍術も型の反復練習から防具をつけての木銃での競技、本物の銃劍を装着しての取りまわし方などにいきます。
これで第一期の基本戦技が終り、全員がいちおうの歩兵銃の(射撃術・銃劍術)の使い手になっているわけです。旧軍の銃に対するフェチシスムは極端で、たぶん他の軍隊も新兵教育にあたっては同じかと思いますが、見えないくらいの泥や曇りがあるだけで、その銃を預っている初年兵は古兵のリンチにあって、ギウの音も出ないほどの目にあわされます。そのため銃の手入れ・扱いに念を入れる事では、超一級のプロになるわけです。内務班の銃架は、必ず銃工兵やら古兵やら五月蝿いのが、日夕點呼終了後、全部の銃の引鉄を引いて周り、カチンと音がしたらニッコリ笑って「これは誰の銃だああ、877364番は誰のかっ、ここへ出てこいー」となって、こてんぱんにのされて、「三八式歩兵銃殿、自分が悪くありました」とお百度を踏むことになるわけですね。従って、兵科兵種を問わず(特務兵は除き)小銃の扱いはまさに米軍「海兵隊」なみか、それ以上です。
そこで、一期の檢閲の前になると,中隊の人事掛の特務曹長は、初年兵を観察していて、内務班長(教練の助教を兼ねる)の助言を参考に、こいつはボサーとしてるけれど射撃の成績が中隊いちだから狙撃手、こいつは射撃は下手糞だが銃劍術が巧くて気合が入っているので上等兵候補者、こいつは力が強いから機関銃手(軽)、こいつは頭が良いから衛生兵、こいつは計算が速いから擲弾筒手、こいつは戦技の役に立たないから万年炊事當番、などと決めてしまい、特業(専門)が決ってしまいます。
歩兵分隊は、軽機分隊と擲弾筒分隊があって、それぞれ射手と彈薬手がいるのですが、射手がやられると小銃手兼彈薬手が代りを勤めるので、彈薬手も軽機を撃てるし、擲弾筒の操作もできるように訓練します。第二期以降は、そういう訓練と、手榴弾の投げ方や、銃劍だけで格闘する短劍術やら、コマゴマトした戦技を教わり、一年経つと一丁前の歩兵ができあがるのですが、重機関銃や歩兵砲、速射砲になると、平時からそれ専門の中隊があって、そっちに入ってしまった初年兵は、第二期以降に歩兵としての基本戦技プラス重機関銃やら歩兵砲の砲手としての訓練を受けていくことになり、他の一般小銃中隊の兵隊の真似ができない特技を身に付けることになります。
砲手は、射手・觀測手・彈薬手など一通りの役目は他が倒れた場合に備えて誰もができるように訓練されますが、日本の歩兵砲・重機関銃の場合はこれに人一倍世話のかかる馬の扱いが加わり、兵隊さんの苦労は並大抵では無かったようです。聯隊砲になると山砲そっくりの動作で、山嶽地での分解臂力搬送などやるので、歩兵というよりも野砲兵そのものです。けれど、歩兵砲中隊や機関銃隊の内務班には、ちゃんと人数分の歩兵銃が並んでいましたから、本領は歩兵であったわけで、部隊の特性に応じて、戦況に応じて、歩兵部隊支給の兵器が加わっていき、それを特定の兵隊が扱うように訓練されていたというだけで、扱える兵器の種類数は、限界が決ってはいなかったと考えられます。
必要に応じて現地では鹵獲兵器も扱ったのではないでしょうか。
火炎瓶に始る對戰車訓練の特殊兵器などは将校が歩兵學校にいって集合教育で習ってきたものを、自隊の兵隊に教えました。
歩兵砲中隊や機関銃隊の兵隊には銃劍術も射撃術も他の小銃中隊にひけをとらない猛者がいたようで、いざとなれば中隊長は隊員をホンちゃんの歩兵として使うことも当然できたわけです。
あるめ


本題より脱線しますが、ちょっと補足。
>14.狭窄射撃(遮蔽された場所で、模擬彈を使って〜
模擬彈使用ではなく、狭窄弾による至近距離実包射撃です。
狭窄弾とは: 至近距離訓練用弱装実包。危険性を少なくした弾で、通常弾に較べて下記の相違があります。英語では、Subcaliber Bullet(Ammo)
 ・発射薬量がおおよそ1/10以下で 黒色火薬使用。
 ・弾頭直径は、ほぼ同じ径なるも、弾頭長&重量は共に数分の一で鉛又は、アルミ製。
 ・射距離は、数十m以内の使用。

参考HP、ここの中ほど。
  http://www.japaneseweapons.com/gunyojyu/kyoren/
画像掲示板2に、狭窄弾の断面図をUPしました。
軌跡の発動機?誉


↑subcaliber ammunition といったら弾心のある徹甲弾(APFSDSとか)のことを差すのだと思っていたんですが間違いでしょうか?
Vinegar-Joe


あ、そうです。模擬彈ではなくて、練習用の実包というかんじです。
あるめ


Vinegar-Joeさんへ レス。
米空軍士官養成団少年部(AFJROTC)の少佐殿よりご指摘を受け恐縮です。
私の筆が滑りました(説明不足)。 ご指摘の通りで、subcaliberは、基の口径より、小型化の口径を表しますね。
米英では初期訓練用として、M16小銃他、軍用小銃に.22LRのコンバージョンキットを組み込んで使用する事が、まま有るそうです。 基の銃の口径に対してsubcaliberの意味となり、訓練射撃(訓練弾)の事を比喩的に言う場合が有る様なんですが、いかがでしょうか!! 紹介したHPのところの解説や、米国内民間では、室内訓練射撃用としとて、ギャラリー・プラクティス(GalleryPractice)、ギャラリー・ブリット、フランジブル・ブリット(Frangible)、BBキャップ、ワックス・ブリット(Wax)等の、言い方や弾種も有りますね。又、訓練用の制式弾としては、下記のところが参考になります。 SRTA(Short Range Training Ammunition) や図中の frangible弾 あたりが該当します。
   http://www.fas.org/man/dod-101/sys/land/762.htm
   http://www.fas.org/man/dod-101/sys/land/m862.htm

参考として、7.62mmNATO M160 FrangibleBallの 規格値を記述します。
 ・Velocity : 1320+−50fps (約400m/s)
 ・Buiiet :190gr (約12g)
 ・命中精度 :半径4in以内at 100yd
 ・性能 : 25ydの距離で射撃しても、厚さ3/162in(約0.5mm)のA2024アルミ板を貫通しない事。
   通常弾とは、かけ離れた性能(特徴と言える)ですね。
〜?誉  
→ top


人事・學校
【幼年學校閥】


かって、このサイトで(多分?)、「海軍の高官の出世はハンモックナンバー、すなわち海軍兵学校の卒業時の成績でほとんど決っている」と聞いたように記憶しております?? 一方、こちらも記憶モードなのですが、「陸軍では大将に成れたのは陸軍幼年学校の卒業者に限られており(少なくとも陸軍幼年学校が出来てからは)、そうでないのは陸軍幼年学校の卒業生の居なかった1年のみである」と読んだように思います。また、陸軍幼年学校では、臣民、軍人としての精神教育に重きが置かれたとも読んだように思います。そうなると、一般の旧制中学から陸軍士官学校に進んだ者のほうが、陸軍幼年学校からの進学者よりも一般的に考えて、より広い範囲の学問や教養を身に付けていたのではないでしょうか。陸軍幼年学校の卒業者が陸軍士官学校の卒業時の成績でトップクラスを独占したとは考えにくいのですが。陸軍幼年学校の卒業者は、陸軍士官学校では、なにか特別な扱いを受けたのでしょうか。それとも本当に陸軍幼年学校の卒業者が陸軍士官学校の卒業時の成績でトップクラスを独占したのでしょうか。  それとも陸軍幼年学校の卒業者は、陸軍士官学校卒業後に、なにか特別な扱いを受けたのでしょうか。何を、基準、拠り所、として陸軍大将になる人事は、決められたのでしょうか。 roht


旧軍の将官昇進ルートの類型は、大きく分けて、
1 士官学校のできる前に既に戊辰戰役に参加していて、建軍と共に幹部となった人材。
2 建軍後に兵籍を得たが、士官学校を経ていない人材。(乃木さんは長州閥のヒキで、民間人からいきなり高級将校に任官)
3 既に士官学校生徒の募集をしていたが、そこには行かずに、陸軍嚮導團に生徒として入隊した人材。下士官養成学校だが、成績上位者は将校に任官できた。(昭和軍閥の一翼を担った武藤さんは、このくち)
4 徴兵ないし志願兵の下士官兵から士官学校を受験した人材。(あまりいない)
5 幼年学校→士官学校ルートの人材
6 中学校→士官学校ルートの人材
があります。
5・6に話を限ると、先ず将官になるのに必要な資格は、幼年学校・中学校の出身ではなく、陸軍大学校を卒業しているか否かが決め手となります。幼年学校→士官学校の学歴+有力者にヒキがあっても、陸大を出ていなければ、まず平時では将官になるのは大変に狭い関門となります。将官のポストは限られていて、陸大卒業者だけでその補充が可能なので、一般の無天組(陸大卒業していない組)は聯隊長どまりで、定年となって現役を去る時に優遇措置で少将に任官する(營門少将)くらいです。戰時には部隊増設で将官ポストが不足するので、後方部隊の将官ポストに召集される可能性はありますが。
「陸軍では大将に成れたのは陸軍幼年学校の卒業者に限られており」の意味は、士官学校卒業者は少尉任官すると必ず部隊に配属されるのですが、そこで陸大受験準備をする時に、部隊長の推薦が必要で、部隊長は幼年学校出身者を優先して推薦したからだと思います。幼年学校出身者は、それだけで「優秀」と思われる風潮があり、また軍内では幼年学校出身者が主流を占めていたので、そうなったのでしょう。幼校出身者の親が軍人である場合は、ことさらで、かって親父の部下だった旅團長がわざわざ息子の新品少尉に司令部で会って、「お父上」の話をすると云うふうだったそうです。親父でなくとも、どこかで血縁者が陸軍首脳部にいれば、少尉なりたてでも、たいへんな優遇を受けました。
陸大を受験するには、相当の準備が必要で、何回も落ちてやっと合格となるほどの難関でしたが、隊付で新兵の教官をやったりしていると、とうてい勉強はできないので、部隊長は受験者を副官や旗手といった閑なポストにすえて、受験勉強に専念させました。部隊長は幼校出身者をそうやって優遇するので、このへんで、幼校出身者と一般中学出身者との差がでてきてしまい、確率からいっても陸大出身+幼校出身=大将候補者となります。 陸大卒業者は、陸大を出ていない将校の年功序列進級ルールとは別に佐官時代には先輩を追いぬいての「抜擢進級」の特典を受け、同期生より早く進級して特急出世街道を進み、よほどのヘマをしない限りはすくなくとも少将にはなれるわけですが(将官になるのは年功序列によったので、早く大佐になった方が勝ち)、軍の首脳部は長州閥を打破した幼校・陸大出身者によって固められていて、少将になった後もそのヒキで出世ポストについていき、必然的に階級も上がっていくことになります。将官の進級は年功序列なのに、なぜ階級があがっていくのかというと、邪魔な人物は豫備役編入というのがあって、定年前にリストラとなるので、政治的に上位ポストを空けて、そこに就くことができるわけです。派閥人事でそうすることが可能であったわけで、このへんまでくると、もう幼校出身かどうか以上のレベルとなり、むしろどの派閥に組しているか、が決め手となります。
幼年学校の成績が優秀でも士官学校でふるわないものもあり、士官学校の成績が優秀でも陸大に入らないものもあり、中学校出身者でも士官学校から陸大に入る者もあるので、個人の能力と運により大将になるのですが、人生ゲームふうの確率の設定からいえば、幼校出身者には進級のための初期値が大幅にプラスされていると思わざるをえません。
「陸軍幼年学校では、臣民、軍人としての精神教育に重きが置かれた」のですが、案外にリベラルな教育をしており、軍事訓練は高学年になるほど多くなりますが、低学年はむしろ規則正しい生活と豊富な栄養を施して病気にならない身體をつくることを目標とし、決して無理をさせませんでした。文官(非軍人)の教官は大学助教授クラスの優秀な人材を揃え、軍事学は少なく、むしろ基礎教養と語学(独仏中露)に力点を置いていました。語学は自由に喋れるくらいまでやったそうです。一般の中学には設けていない音楽の科目もあり、むしろ中学生よりもある意味で視野が広かったような気がします。幼校の中退組に特異な人材が豊富なのも、そのへんの事情をうかがわせます。
一般の中学から士官学校に入る連中は幼校出身者からは軽視されました。内務(軍隊での日常生活)も知らずにオタオタしているので、幼校出身者から見ればトロくみえたのでしょうね。自然に校内に派閥ができて、あい反目したこともあったでしょう。また中学出身者は幼校にくらべて世間を知っていると思われがちですが、わざわざ軍人志願をしただけあって幼校よりも軍人らしくなろうとしたところもあったのではないかと思います。 けれど、幼校出身者が兵科決定時に輜重兵(出世ポストが少ない)になる例がほとんどないことから分るように、幼校というのは選抜や抜擢、推薦の場面で諸事優遇されていたのだと考えられます。
あるめ


私は大杉栄ぐらいしか知らないのですが、幼校出身者で民間に行った人にはどのような人がいるのでしょうか。
LittleNemo


纏まった本はワタシも知りませんが、思いつくまま挙げると、幼校出身者で三好達治が士官学校中退、岸田國士が将校となってから依願免官、たしか山中峰太郎が士官学校中退、宇都宮徳馬が幼校中退、ワタシの個人的に存じ上げている方の御父上で陸軍被服廠の高等文官だった人が幼校を剣道稽古中の片目失明事故で中退。
大将進級者の出自では、
http://homepage2.nifty.com/60hp/ron.htm
に載っている中平進二さんの「陸軍大将管見」がぴったりです。数的分析もあって、すごい出来栄えです。
あるめ  → top


【天保銭の識別】


『陸軍大学卒業徽章(いわゆる天保銭)』についてお尋ねいたします。
1)相当に、しっかりとした文献でも、陸軍大学卒業徽章は、終戦まで陸大卒業生に授与されたようなニュアンスで書かれたものもあるのですが、「明治20年10月制定(勅令第53号)〜昭和11年廃止(軍令第3号)」と書かれた資料を見つけました。これは、間違いないと考えていいのでしょうか?
2)上記1)が正しい場合、制度はなくなったが、制度廃止後も慣例として陸軍大学卒業徽章が卒業生に授与(配布?)されたような事はなかったのでしょうか?
3)制度廃止後としても、もしも陸大卒業生でない士官が陸軍大学卒業徽章を着けた場合は、軍法違反とならないのでしょうか?
特別攻撃隊に陸大の卒業生が、おられたかどうか調べていくうちに、上記の疑問に行き当たりました。宜しくお願い致します。

1)は間違いないのではないでしょうか。既付与者が卒業記念章を軍服に着けることまでが禁止されたはずです。何か例外のようなものが見受けられるのでしょうか?形としては昭和十八年十月に設けられた隊長記章と陸軍飛行操縦術習得記章」が「天保銭」と似ていたとのことですが。
BUN


実は、士官学校出身の陸軍航空兵のある中尉さんが、陸軍大学卒業徽章(いわゆる天保銭)を着けておられる写真があるのです。説明文には「右胸(ママ)についているバッチは、陸軍大学卒業者のみが付けることが出来た天保銭といわれる特別章だが・・」とありますが、うまく話しをぼかして陸大を卒業したとは書かれておりません。バッチは、小さくしか写っておりませんが確かに陸軍大学卒業徽章と思います。他のサイトで見た模造品の写真のそれによく似ています。陸軍飛行操縦術習得徽章は、手許にありますが(ただし下士官用か?)これとは違うようです。隊長記章は、見たことがありませんのでわかりません。撮影日時は昭和20年3月25日と思われますが、定かではありません。なおこ中尉さんは、私の調べた範囲では陸大は卒業されてはおられないようです。
何回も何回も観た写真ですが、もう一つ大変におかしい(不思議な?)事がこの写真にある事を、たった今、発見しました。ふつうには有り得ないと、私には思われる事です。心霊写真ではありませんが、なんだかこの写真の持つ謎が解けそうに思われてきました。合掌。


3)は「異装」としてならば黙認されたのかもしれません。将校の身分(終身官)を持つ限りは、軍装違反で送検される事はないと思います。とっくの昔に改正されたのに、昔のままの肩章をつけ、兵科定色のついた立襟軍衣を着けている将校はいましたし(なにか主義があってそうしている場合や、至急の応召者が改正後の軍服を新調する時間がなかった場合など)、廃止された徽章類も自分のでなくとも、周囲の了解のもとに何かの記念や意思表示のために着けている場合があり得たと思われます。将校准士官以上の服制は規則で決ってはいるけれども、原則が私物なので、正規服制の「代用」として着ける限りは、わりとマイナーチェンジや異装がきいたもののようです。
あるめ


『日本陸海軍航空英雄列伝』のなかに、『隊長章』の写真を見つけました。 見比べたましたところ、これに、極めて類似しております。また着用部位も天保銭のその場所ではなく隊長章の着用部位に近いようです。そうだとすれば、話は全く合点がいく事になります。もう少し調べてみます。


当該写真は『陸軍航空隊の記録 第2集』28頁下段の、小西中尉と四宮中尉のものと思いますが、小西中尉が下げているのは第18振武隊長としての「隊長章」であり、陸大卒業徽章ではありません。他の写真では下げていないのに、このカットだけ下げている理由は分かりませんが。
小西氏は昭和18年5月、航空士官学校56期卒業。明野乙学を経て19年はじめ、調布の飛行第18戦隊に配属。そして19年12月5日、振武隊第1飛行隊長(のちの18振武隊)拝命という経歴ですが、陸大には行っていませんし、彼に限らず、56期生の場合には、年齢的にその可能性はないはずです。
残念なことですが、この写真の件だけでなく、『陸軍航空隊の記録 第1集、第2集』のキャプションは、何も知らない(としか思えない)人物が書いたお粗末なもので、真に受けない方が無難ですし、第2集の「B29に馬乗りになった男」という記事は、「作り話」です。それから、「操縦徽章」は「隊長章」とよく似ていますが、戦時には将校は下げていません(下士官は下げていた)。なお、本写真のキャプションには「将校クラブ」などとありますが、これは調布飛行場の将校集会所ではなく、両隊が宿舎としていた「日本郵船飛田給錬成場」の一室です。また、将校集会所にはピアノなどはありませんでした。当方の244戦隊ホームページ http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/ もご参考になさって下さい。
櫻井


桜井さまのページには、昨夜お伺いいたしまして一応拝見させて頂きました。(以前にも何回かお伺いいたしておりましたが、特に問題意識を持たずに拝見いたしておりました。)さらに、桜井様にもご質問のメールをその時点でお書きしたのですが、桜井様が、 『陸軍航空隊の記録』の、誤りを沢山ご指摘しておられのに、この事には一切触れておられなかったので、更に、ご専門家の御意見もお聞きし再考してからと思いメールの下書きに保存いたしました。)この写真に私がこだわった訳は、時間のゆっくりあるときに、ちゃんとまとめてもう一回書かせていただきます。申し訳有りませんが、この徽章が 「陸軍大学卒業徽章」ではなくて「隊長徽章」 であるという状況証拠以外の確証をお持ちであれば、お教えくださいませ。


「状況証拠以外の確証」と言われますと、私もちょっと困りますが、これは、キャプションを書いた当人が一番知っているのではないでしょうか。それはそれとして、小西氏の胸の徽章は、中央の「☆」の小さいことが印刷でもはっきり分かります。しかし、天保銭 http://plaza.harmonix.ne.jp/~ttn/tenpousen_001.htm は、「☆」が隊長徽章より倍ほども大きく、見た目にも違います。また、244戦隊史のために集めた写真の中に隊長徽章の写ったものも数枚ありますが、これらと比較してみても小西氏のものは間違いなく隊長徽章です。飛行戦隊レベルには陸大出などおりませんので、私も陸大に関する知識などゼロに近いのですが、今回、俄勉強の結果、陸大本科の修業年限は3年(専科は1年。ただし大尉、少佐が対象なのでこの場合関係ない)だそうです。そうすると、56期生が乙学を終了した18年12月の時点で陸大に入ったと仮定しても(現実には有り得ないが)、終戦時でもまだ在校中となってしまいます。どうも陸士と海兵を混同しているらしいことも合わせて、このキャプション自体が、ただの「思い付き」か想像で書かれているということが分かると思います。
櫻井  
→ top


【特務士官】

旧日本軍の「特務士官」とは、どのようなものなのでしょうか?


これは士官教育を受けていない、兵隊からの叩き上げで士官の階級まで上がった人のことです。#ノンキャリですな、要するに……
超ベテラン、とほとんど同義です。なお特務士官制度そのものは戦時中に廃止され、叩き上げでも単なる「士官」となりました。
tac


下士官あがりの士官のことではないでしょうか。


海軍の階級で、兵学校出身でない士官を指します。つまり、叩き上げです。一方、士官は兵学校卒のエリートです。命令系統は士官のほうが上になっています。これは特務大尉と少尉でも変わりません。何らかの理由で上級者がいない場合、命令権は少尉が握ることになります。
こうした区別をするのは、海軍の軍制が貴族社会のイギリスをモデルにしていることに由来します。いかに経験があろうと、一般人がエリートに命令することはできないのです。
かすた


陸軍は優秀な下士官を選抜し、1年間士官学校で教育して少尉に任官させてます。実は海軍にも同様な制度はあって、1年間兵学校で教育させて特務士官に任官させるコースもありました。
TETSU29


陸軍には「特務士官」という名稱がなく、下士官あがりの将校は、
1.戰時進級特例により特務曹長から少尉に進級した者。(日露戦争後には、これによる中尉が各中隊に見られた→その後、2.に制度が移った)
2.少尉候補生として特務曹長・曹長(飛行兵は軍曹)から試驗を受けて士官學校學生となり、これを卒業して少尉に任官したもの。(大正9年以降)
3.特別進級により特務曹長の古手が豫備役少尉に任官し、引続き隊で勤務する者。(戰時)
に大別されます。
指揮権などの権限は、兵科どうしならば海軍のような軍令承行令は無かったので、士官學校卒業の将校とまったく同等です。しかし進級は士官學校卒業生が優先され、平時は中尉どまりが多かったようです。日支事變後、大尉以上に進む人が多く出始め、最高級者は中佐です。
あるめ


基本的に太平洋戦争当時のことを前提に書きます。
>これは士官教育を受けていない、兵隊からの叩き上げで士官の階級まで上がった人のことです。超ベテラン、とほとんど同義です。
特務士官とは、兵、下士官、准士官を経て各術科の実務に長じた者を選抜して高等武官に列せられた者を指します。
俗に言う広義の「士官」は、更に細かく分けると士官、予備士官、特務士官に分類が可能であり、一般に正規の教育を受けた者が一番目の「士官」に相当します。例えば兵科、機関科、主計科にはそれぞれ海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校などの「生徒」の学校がありますが、例えば軍医科、技術科(造船、造機、造兵)士官には生徒学校は存在せず、一般大学を卒業後所要の教育を施され、正規の士官の範疇に入ります。また、主計科を始めとする二年現役制度も生徒出身ではないですが、「正規の士官」という位置づけになります。
# もっとも、予備士官から士官への転官などもありますので、これら記述は必ずしも網羅的ではないです。
その意味で、
>海軍の階級で、兵学校出身でない士官を指します。つまり、叩き上げです。
>一方、士官は兵学校卒のエリートです。
は、「兵科将校ならそうだが」となるのですが、厳密にはその限りではありません。
一方特務士官は、兵出身者が下士官を経て兵曹長に任用され、兵曹長から優秀者を選抜して任用するものであり、各術科の実務に長じた者を優遇する制度と位置付けられています。特務士官の配置は、艦内にあっては掌長(掌砲長、掌航海長等)が通例で、科長の命を承け科長所管の兵器、要具、需品等の供給及び整備を掌ります。これら配置は特准(特務士官、准士官)の独壇上であり、いわゆる正規の士官が配置されることはありません(兵学校出身者の少尉が掌航海長などに配置されることはない)。
正規の初級士官の配置(例えば航海士、砲術士、通信士等、兵科なら兵科の系統のどの配置でも有り得る)は特准の配置と一般には重なりませんが、特准でも海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校などに置かれる「選修学生」課程を修了することで、本来なら尉官の配置(砲術士とか機関附等)に就くこともあります。これを「尉官代用」などを称します。また、分隊長に補職されることもあり(「士官代用」などと言われる)、この場合は当直将校の勤務などもあります。
特務大尉の中で成績、人物ともに優秀な者で特務士官から士官(少佐)に任用された者を「特選少佐」「特進の少佐」などを称し、これによって「正規の士官」に組み入れられます。なお、特選の制度は従来「特務大尉→少佐」しかありませんでしたが、予科練出身者(操練、偵練出身者も)に限り特務士官の各官階から士官へ特選によって任用する制度が戦争末期にできています。
>なお特務士官制度そのものは戦時中に廃止され、叩き上げでも単なる「士官」となりました。
これは、昭和17年11月1日に実施された大改正に関する件だと思います。
勅令六一〇号によって特務士官の「特務」の冠称を廃止しましたが、要する場合に限り「特務士官タルモノ」を付記するなど、特務士官の制度は残っていました。また軍令承行令に関しても内令一九八七号にて改正がされていますが、これも特務士官を明確に区別しています。その意味で、名称は統一されていますが、特務士官の制度がなくなったわけではありません。
今泉 淳  
→ top


【ノンキャリア将校の典型コース】


301  旧日本軍では士官学校時代の成績がその後の役職や出世に常に影響したそうですが、成績優秀な出世コースでなく最下位の士官は退役までのほぼお決まりのコースがあったのでしょうか?


士官学校ということは陸軍ですので、そちらの方はよく分かりませんが、海軍でしたら、艦の運用長か、防備隊か掃海隊、駆潜隊等の分隊長あたりで予備役というのが通り相場かなとも思います。もっとも、その防備隊の分隊長から海軍大学校へ入校する人もおりますし、木村昌福のように兵学校の成績は低く、各種学校の高等科を一つも経験しなかったノーマーク組だったのに、中将まで累進する人がいるように、その経過は様々です。
旧日本陸軍の場合は専門外ですが、海軍の場合は、ハンモック・ナンバーによって、自動的に一定のコースを辿るというのはなさそうに思います。
hush


こちらも参考にしてみて下さい。
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j9_1_4.pdf
じゃんご


他にも藤井非三四著の陸軍人事という本があります。
面白い本でしたが、私は門外漢なので正しいかは良く分かりませんが、今の官僚の出世に似ているなと思いましたね。前の期を追い越してはいけないとか。
まぁ、どちらの資料を読んでも士官学校での成績もありますが、陸軍大学校や帝國大学を卒業したかなどの最終学歴が何であったかに左右される世界だったようです。
じゃんご


陸軍では士官學校を卒業して隊附になったあと、陸軍大學校を受驗し合格すれば末は将官と云ふ出世コースに乗ります。陸大に行かなかった人は其のまゝ隊附を續け尉官までは年功序列で一齊に同時進級し少佐から上は抜擢進級となります。陸大出身者が優先して進級し将官ポストも独占するので非エリートコースの人は進級が遅れ長い時間をかけて少佐か中佐まで行き其處で現役定限年齢(定年)を迎え後備役編入が普通となります。運がよければ(事故を起こさず他の人より運がよく能力も優れていれば)大佐の聯隊長になります。大佐になって實役停年(少将に進級する為の大佐の経験年數)を越えていれば定年時に少将になり直ちに待命、後備役編入となります(此れを營門少将と云います)。他の階級でも實役停年が満たされていれば少佐は定年時に中佐、中佐は大佐に進級のうえ停年退職となります。これは恩給額を少しでも多くしようと云ふ事でしょう。
軍人志望の少年が「せめて大佐の聯隊長になりたい」と抱負を述べると大人達から「せいぜい少佐がよいところ」と笑われたのでありました。 他の官吏と比べて官等から見れば大佐は本省課長、中佐は筆頭課長補佐、少佐は課長補佐と云ふところです。
あるめ

 やはり陸軍というのは人数が多いだけに、昇進がきついのでしょうね。  あるいは、これは軍縮期の話であるのかもしれませんが、海軍の場合、兵学校卒業生であり、大過なく健康で普通に勤務していれば大佐になれるというのが内則です。実際、海兵17-47期で少尉に任官した3407名のうち、將官になったもの826名、同時期の陸軍が17547名中2476名、百分率でいうと海軍24.2%に対して14%ですから、2倍近い差があったそうですが、大佐だと、もっと開きがあったのでしょうね。  興味深い情報をありがとうございました。
hush

→ top


その他
【海兵隊】


先般、イラク戦争で二人目の名誉勲章が受勲されましたが、当該海兵隊員は伍長から大尉へ特進しました。単純に数えると13階級(号俸も13段階アップ)も上がったのですが、特進する場合、殉職した状況に応じてあがるクラス違うものなのでしょうか?また、海兵隊の階級は海軍式ではなくて陸軍式に近いのですが、体制上、予算上は海軍でもともとの発祥も海軍なのになぜ陸軍式の階級なのでしょうか?


この人のことでしょうか?
http://www.mcnews.info/mcnewsinfo/moh/ どこにも大尉に特別昇進したとは書かれていませんが。ひょっとしてCpl(Corporal)がCpt(Captain)に見えた?
>体制上、予算上は海軍でもともとの発祥も海軍なのになぜ陸軍式の階級なのでしょうか?
アメリカ海兵隊は海軍の分家ではありません。もともと海軍とは起源が違う組織なので、階級が違うのも当然なのです。
便利少尉


私の見たソース元では大尉に昇進したとあったのですが・・・。
ちなみに、アメリカ海兵隊は海軍省の管掌で予算も海軍と一緒に計上されて、最高責任者も海軍省長官?(正式な役職分かりません)だと思っていたのですが間違いでしょうか? 海兵隊員も乗組員が海戦だけじゃなくて対人戦闘力を拡張していったのがそのうち専門化したものだと聞いていたのですが、違ってるうとしたら起源はどこにあったのでしょうか?


海兵隊は艦艇の警備、陸戦、艦上銃撃戦(要すれば白兵戦)を担当する歩兵で、その他に軽砲を担当する砲兵もありました。艦上での号音(食事や起床、呼集などの合図)吹奏も海兵隊の鼓手が専ら担当しました。水夫の懲罰執行(笞打など)時には、海兵隊員が着剣して整列し、水夫どもを監視しました。水夫(Sailor)は、当初は通常の民間船を徴用して軍艦に使用していたため、その操船要員が主任務でした。艦長以下乗組士官は、この訳の分らない水夫どもが、艦上での秩序を乱さないように、反乱を起こさないように、戦闘時に甲板や持ち場から逃げ出さないように、海兵の立哨を要所に置きました。艦長室の外では海兵が昼夜警備についています。海兵隊は海軍本部の正式な対人戦闘勢力であったわけです。おまけに初期の海軍発展時代においては(というより海軍そのものが私掠船の臨時集合体だったり、かなりあやしい団体であった)陸軍部隊をそのまま海兵として使用すればよかったわけです。その後、水夫どもに先任衛兵伍長(master at arms)が白兵の使用法を教え、掌砲長(gunner)が艦載砲の操法を教えて、戦闘員も兼ねるようになりました。今では水夫も「水兵」として歩兵戦闘能力をつけていますが、18〜19世紀前半では一斉射撃もできず、方陣も組めない烏合の衆として見られていました。本格的な執銃戦闘は海兵の専売特許でした。このため、海兵とその他の乗組員は成立の起源が違っていて、互いに別世界からきた人と認め合っているところがあります。水夫の居住区と海兵のそれとは、別の場所にするようになっていました。
あるめ


 艦内の秩序維持と戦闘力の強化のために、陸兵を船に乗せたのが、海兵隊の起源です。イギリスを例に取れば、17世紀後半に創設されたDuke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot (Admiral's Regiment)」つまり海軍総司令官であるヨーク公の海事歩兵連隊(提督の連隊)が海兵隊の起源とされています。この段階では、海兵隊は海軍総司令官の指揮下にある特殊な陸軍連隊であり階級制度も基本的に陸軍式です。つまり、Marine(海兵)はその起源においてSoldier(兵士)であってSailor(水夫・水兵)ではないのです。ロシア商事(株)さんがおっしゃるように水兵に武器を持たせて陸戦隊にするということは当時からありましたが、これは制度としてのMarineの起源ではありません。
カンタニャック


>私の見たソース元では大尉に昇進したとあったのですが・・・。
英語のサイトをいくつか見てみましたが、どこにも大尉に昇進とは書かれていませんね。 伍長から大尉への特進と言うのは到底考えられないような話です。
>ちなみに、アメリカ海兵隊は海軍省の管掌で予算も海軍と一緒に計上されて、最高責任者も海軍省長官?(正式な役職分かりません)でだと思っていたのですが間違いでしょうか?
これに関しては間違ってはおりません。海軍と海兵隊を統括しているのは海軍長官(Secretary of the Navy)です。
>海兵隊員も乗組員が海戦だけじゃなくて対人戦闘力を拡張していったのがそのうち専門化したものだと聞いていたのですが、違ってるとしたら起源はどこにあったのでしょうか?
すでにお二方の詳しい説明がありますが、海兵隊が海軍から分かれたと言う理解が決定的な間違いです。むしろ船に乗る陸兵と見たほうが良いでしょう。
便利少尉


映画「マスター・アンド・コマンダー」を見ると、帆船海軍時代の海兵隊が軍艦の上で何をやっているのか良く分かります。服装も「船に乗る陸兵」そのものです。
ベアベア  → top


【マーチング・バンドと軍樂隊】

大学祭とかでマーチングバンドとか鼓笛隊の演奏を見に行くとユニフォームが軍服チックです。学校のマーチングハンドってもともと軍隊の軍楽隊をモデルにしているのでしょうか?


はい、およそそのとうりです。
いおーじま


March自体が行進曲ですか軍隊調になります。日本の鼓笛隊(?)の起源は、戊辰戦争の官軍の「宮さん宮さん」で、鼓笛隊の役割も一定歩調で行進させるものだったではなかったでしょうか。
能登


行進という行為自体が軍隊と切っても切れない縁のものですので,まぁそういうことになりますね.
ウマシカオ


トルコ軍軍楽隊のマーチ演奏は、敵を威嚇したと云う話もありますね。以前、某ドラマのテーマに使われた曲は、たしかにそれを感じさせる旋律でした。それと、マーチと云えばこれだろうと思う曲があるのですが、こんなページがありました。
ttp://www.bunko.co.jp/writers/setoguchi-yoshihiro/gunkan-march/
MB


私はこの様な見解に対しては概ね否定的ですがね。軍隊の楽隊をモデルとしている、という限りにおいては確かにそう言えない事も無いのですが、この表現では範囲が広くて実際上意味をなしていません。米国では軍隊の、というよりも19世紀末期の例えばスーザーバンドの様な「軍隊風の」一世を風靡した吹奏楽団の影響の方が強いような気が致しますし、日本のマーチング・バンドの装束は全く無国籍の「(おとぎの国の)軍隊風」の物で もはや起源を軍隊に求めることには違和感があります。例えば日本でも有名な行進曲の「ラデツキー行進曲」も軍楽隊をメインに歴史を紐解くと「ラデツキー元帥にちなんだ墺洪国陸軍『驃騎兵第五連隊行進曲』」という紛れも無い墺国の軍楽曲なのですが、今日日本において吹奏楽団にて一般的に演奏される譜は「英国ブーシー社版『ラデツキーマーチ』であったりします。ここにあっては軍隊のカルチャーとの全く別個のものであって歴史の連続性は有りません。また別の視点から見ると行進曲とは歩兵達の必須の要件であり、歩兵とは確かに軍隊を構成する主たるものなのも事実なのですが、軍隊のカルチャーというものは何も歩兵に留まるものでは有りません。軍隊の軍楽隊の様式とは多岐に渡り、軍隊のカルチャーの外に在る者にとってはモデルとして模倣したものと思い込んでいるものも、実際は極めて限定された一面をモデル化としたものに過ぎない、という事もあります。結果、両者の間には歴然とした差異が生じるのは別段不思議は無いのですが、 この場合、果たして「モデルとした」と評し切れるのでしょうか?私は墺国のトリオを舞曲風に謳い上げる騎兵行進曲としてのラデツキー行進曲の方が好きなのですが、(クラシックの世界でならば原典版が尊ばれるのですが)マーチングバンドの世界ではあまり関係ないようです。欧州ではそもそも人々の生活にこの様な楽隊がそれなりにマッチしていてかつ行進曲も軍隊の専売品ではありません。また「マーチングバンド」が盛んなのは米国と日本といった類いの国や地域であってミリタリーカルチャーの中でレジメンタルなカルチャーが伝統的に根強く残っている国々では現在の軍隊の楽隊よりも古い編制なり様式なりを維持している民間の楽隊も存在しています。何というか、回答になっていませんね・・・(⌒ ⌒;
ナゾの人


↑日本で云えば、ほら貝やら陣太鼓の類と考えればよいのでせうね。
あるめ


私もこちらに賛成です。元祖ないし起源については確かに軍楽隊が元でしょうが、その伝で行きますと「女子高生のセーラー服は、元はと言えば海軍の水兵が着る軍服である。」とか言う人も出そう。(笑)軍楽隊をモデルとして強く意識したわけではないと愚考いたします。
質問された方の意図とは関係ないカキコミをして申し訳ございませんが、MB様の言われたドラマは、NHKの「素直な戦士たち」、トルコの軍歌の名は、「ジュッディン・ディディン(昔も今も)」だと思います。
りんちゅー


↑ 向田邦子「阿修羅のごとく」TVドラマにもでてましたね。
あるめ


すみません!訂正させてください。多分、「素直な戦士たち」は誤りだと思います。あるめ様のご指摘の「阿修羅のごとく」とゴッチャになっていました。ご迷惑をお掛けしました。曲名はあっていると思います。いらんこと書かなきゃよかった・・・。
りんちゅー


↑いやいや、本筋と関係ない話題を持ち出したわしがイカンす(汗)。もうしわけなし。ちなみに記憶にあるのは正に「阿修羅のごとく」。(^^;;
MB


大昔、新橋〜銀座〜京橋の通りを、来日中のトルコ軍樂隊が演奏行進したのをTVで見た記憶があります。沿道に在日トルコ人が大勢、家族連れで並んで声援していましたが、遠く離れた極東の異国の首都の目抜通りで威風堂々の母國陸軍軍樂隊の大編成に接する気持はどのようなものだったでしょうか。なんでも、その時は明治頃にトルコ軍艦が和歌山沖で遭難した現場を訪問して慰霊し、救助に携った現地の人々に謝意を述べるための来日だったと云うことでした。話題のその曲は隊員の合唱付きで、歌詞は「我らが父祖の武勇はかくも偉大なりき、云々」なのだそうです。私は勝手に日本語の歌詞をつけて、時々歌っております。ほら吹き男爵の頃、ウイーンに迫ったトルコ軍も同じ曲を演奏していたのかなあ、と思いますが、確認してません。
あるめ  → top


【龍騎兵の起源】

Q Q
竜騎兵という兵科の誕生はいつで、どのような経緯でできたのでしょう?定義は?なんか馬で移動して降りて戦う騎兵なのか、銃身を切り詰めた銃を持つ騎兵なのか、よく分かりません。
まつおか

竜騎兵の定義は、騎乗して銃を撃つ騎兵のことです。誕生の時期は……16世紀には、すでにシュバルツレイターと呼ばれる騎兵が存在していましたので、このころでしょう。これ以前の銃は重くて大きいので、騎兵には使えなかったはずですから。
かすた


下の質問ともども回答ありがとうございます。私の見た資料では、最初は馬に乗って移動して戦闘の際には馬から下りて戦っていたのだがそのうち馬に乗ったまま戦うようになったとありました。そのシュバルツレイターの持っていた銃は、というかその当時に先込め式でない銃を使っていたんでしょうか。馬の上で鉄砲をぶっ放して落ちたりしないんでしょうか(反動とか馬が驚いたりとか)。私の中では大阪夏の陣の際の伊達騎馬鉄砲隊が一番竜騎兵のイメージでした(なんたって独眼竜だしね)。
まつおか


竜騎兵 (Dragoons)
騎兵の兵種の名称。もともと竜騎兵は騎兵科ではなく、騎馬歩兵、つまり騎乗兵のもつ機動力を有する歩兵としての任務を想定されていて、戦場では下馬し歩兵として戦っていたが、18世紀末にもなると滅多なことでは戦闘中に下馬しなくなり、もっぱら完全な騎兵として運用されるようになった。竜騎兵は中騎兵[Medium Cavalry]として他と区別して分類するか、あるいはその連隊ごとに重騎兵や軽騎兵に分類する場合がある。しかし簡単に言って、エリート部隊を除く大半の竜騎兵は軽騎兵に分類されるべき性格のものであると言え、あらゆる任務に使用された。プロシア流が全盛だった18世紀において竜騎兵は最も重宝がられ、最大の配慮がなされた。彼らは軽装備で馬上での銃撃能力を有し、その由来となったドラグーン・マスケットもしくは騎兵銃、およびピストルとサーベルで武装していた。 だそうです。
紅葉饅頭


彼らが使ったのはホイールロック式と呼ばれる銃で。火蓋を手動できる必要がないため片手で使う騎兵銃に使われたということです。歴史群像グラフィック戦史シリーズの戦略|戦術|兵器辞典ヨーロッパ近代編に写真が載っています。ちょっと大きな図書館に行けば手に入ると思いますので、機会がありましたら、どうぞ。
かすた


余談っぽくなりますが・・・ 昔、騎兵が単発銃を使っていた時代、馬上で一発撃つと再装填が難しいため、肩から襷がけにしたベルトのカラビナ(フック)に銃を引っかけ、サーベルなどに持ち替えたそうです。このカラビナが、騎兵用の銃または銃身の短いライフルの総称であるカービン(Carbine)の語源となったそうです。ちなみにドイツでは、ストックの側面にスリングを備えたライフルを伝統的にカラビナ(カービン)と呼んだそうです。あと、日本の火縄銃には、『馬上筒(ばじょうづつ)』という小型のものがあります。本当に馬上で使ったかどうかは定かではありませんが、いわゆる短筒の銃身を長くしたような代物で(正確な全長の定義は忘れた(;^_^A)、両手で構えて撃つことを基本としたようです。
ブラック・タロン


私の手元にあるウェブスター英英辞典にも、図書館で見たドゥーデン・ドイツ語語源辞典にも、「カービン」の語源はフランス語で、16世紀のフランス語の ”carabin”(騎兵)に由来する、とありました(しまった、せっかく図書館に行ったのならばOEDを引くんだった)。当時の騎兵よりも先に「騎兵銃を引っかけるフック」があったのなら別ですが、普通に考えれば「騎兵」→「騎兵銃」→「騎兵銃を引っかけるフック」となったという方が順当でしょう。おっしゃるように先にフックの方があったのなら、わざわざ「カラビナーハーケン Karabinerhaken」(ドイツではこう言います。英語の ”carabiner”(カラビナ)はドイツ語からの外来語だそうです)などという言葉はできずに、銃の方を「カラビナーゲヴェーア」というようになったのではないでしょうか。ちなみに、フランスでは「カラビナ」という言葉は使わないようです。
大名死亡


雑談・・・イタリアでは“カービン銃兵隊”を意味するカラヴィニエリ(L’Arma dei Carabinieri)が憲兵隊(というより憲兵軍、ですな)の任務(憲兵作用)を担います。というより歴史的に「カービン銃兵隊」が憲兵として位置付けられています。
ナゾの人


米国の騎兵隊は龍騎兵なので、下馬して火線を敷く戦法が西部劇に出てきます。トルストイの「戦争と平和」の最後の方に、捕虜になった仏軍龍騎兵の鼓手が出てきますが、他兵種の騎兵は喇叭手しかいないのに、龍騎兵だけ鼓手がいるのは、下馬徒歩戦法を行うからだと思います。今次大戦初期の獨逸軍オートバイ部隊は、必要な場所に高速で駆けつけて、下車徒歩戰闘を行ったので、現代の龍騎兵と云えなくもありません。(なんとなく、こじつけぎみ)
あるめ


アメリカ陸軍のAir Cavalryは、ヘリコプターから降りて地上で戦闘するから、現代の竜騎兵だ、ってのはもはやこじつけにもなりませんね。ヴェトナム戦争物ではしばしば「空軍騎兵隊」などと誤訳されていますが。
便利少尉


「地獄の黙示録」で、ヘリコプター部隊が出動する時に、将軍が騎兵隊の兵科色(濃黄)スカーフをつけた兵隊にラッパを吹かせる場面が出てきます。「トートートー」と聞えるので突撃喇叭のようです。まあ、御本人たちは、いまだに騎兵隊(龍騎兵)のつもりなんではないでしょうか。
あるめ


いや、あれはアメリカ人が「騎兵隊と龍騎兵」の区別がつかないということを笑うところと思います。滑稽で。
ナゾの人


竜騎兵が顕著に見受けられるようになったのは三十年戦争で、ある本によると、最初にまとまって使用したのはグスタフ・アドルフであるとなっています。竜騎兵は騎兵の速度と歩兵の火力を同時に持つ兵科を指揮官が要求したことで生まれました。竜騎兵とは騎乗した歩兵のことです。初期の竜騎兵は攻撃時には騎兵となって主に剣によって攻撃し、防御のときには馬から下りて歩兵に戻りました。
celetaro  → top


【軍艦マーチの歌詞】


戦中の反戦歌で「ここは お国を 何百里 〜〜」で始まる曲の歌詞が知りたいにですが。あと軍艦マーチの歌詞も教えていただけないでしょうか。お願いします。


講談社文庫「日本の唱歌 下」に「戦友」「軍艦行進曲」ともに収録されています。この本には楽譜と解説がありますので、興味をお持ちでしたら一度ご覧になってみてください。特に「戦友」に関しては歌詞の変遷などについて詳しくかかれています。
「軍艦行進曲」に関しては、明治30年ころ、小学唱歌にあった山田源一郎作曲の「軍艦」の詞(鳥山啓作詞)に瀬戸口藤吉が曲を付けなおしたもので、当初はたぶん「軍艦」と呼ばれていたと思います。後にトリオ(中間部)に「うみゆかば」を取り入れて行進曲に編曲したものが、現在吹奏楽で演奏される形態の「軍艦行進曲」「軍艦マーチ」「行進曲軍艦」です。現在は厳密に区別されているわけではないと思います。歌曲としての「軍艦」でも中間部の「うみゆかば」のところを「うみゆかば...」と歌うことがあります。
ウマシカオ


子供の時見させられた映画版「はだしのゲン」で軍艦マーチのメロディーで「とん、とん、とんからりんの隣組〜」って歌ってたんですけど、アレは何だったんでしょうね。クワイ河マーチを「サル、ゴリラ、チンパンジ〜」って歌うようなモンでしょうか。
k-mine


この歌は、小生は幼稚園の頃には完全におぼえておりました。祖母の愛唱歌でしたから。「戦友」自体は、あるめ氏の御指摘どうり日露戦争頃の軍歌で決して反戦歌ではなかったと思います。ただし、敗戦濃厚となった頃には軍部から 女々しい歌として歌うのを禁止された事もあったと、何かで読んだことが有ります。
roht


軍艦行進曲の著作権は確か大蔵省が握ってると聞いたことがあります。財務省に移管されたんでしょうか。手元にある「軍艦マーチのすべて」と言うCDの解説には1938年から著作権が海軍省に移ってレコードの録音が自由になった、と書いてあります。海軍省は終戦で消滅したので大蔵省に移ったのですね。ちなみにこのCD、ミャンマー国軍の「ミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ」と言う軍歌も収録されてます。節回しがちょっと違うだけで、軍艦マーチそのものです。
石垣


「とん、とん、とんからりんの隣組」は「ドッ、ドッ、ドリフの大爆笑」のメロディーと同じです、と言うか「ドリフ大爆笑」の元歌です(確か)。
チャッピー


上記の隣組みの歌の歌詞は>>
「とんとんとんからりと隣組(ドッ、ドッ、ドリフの大爆笑)
格子を開ければ顔なじみ(爺さん婆さんパパにママ)
廻してちょ〜だい回覧板(笑ってちょうだい今日もまた)
知らせられたり知らせたり(??なんでしたっけ??)」
と、明るい調子の歌です。
チャッピー


その隣組の歌詞で、軍艦行進曲の節を歌うと云うところが、イタズラのイタズラたる所以のようですね。両者とも節廻しはチョット違うのだけれど、歌詞がピッタリあうので。このような子供の創案した替え歌は、いろいろあったようです。
あるめ


♪ドッ、ドッ、ドリフの大爆笑
♪チャンネル合わせりゃ顔なじみ
♪笑ってちょうだい今日もまた
♪誰にも遠慮はいりません
と記憶しているのですが…歌詞番号の違いがあるのかな?
ごるぴゐ


うひゃひゃ、そう言われるとそんな気も!ごるびいさん実は私もウロ覚えなんです。
チャッピー

軍艦マーチの歌詞ですが,司馬遼太郎の『坂の上の雲』に載っています。比較的手に入りやすいもではこれだと思います。
となりの大トロ


軍艦マーチの歌詞ですが「ドラえもん」に掲載してました!(何巻だったかなぁ〜) 内容はドラえもんの「道具」でスネオの「ラジコン大和」を池上で奪取!のびたが「ラジコン大和」を直接乗り込み操舵します。その際、BGM?流れ、ドラえもんが「軍艦マーチが演奏されるんだ」といってました。このシーンは半ページのカットで「大和」が載っておりました。ちなみのその後スネオの操縦する「ラジコンゼロ戦」に雷撃されあえなく轟沈となりました。
いやなつかしい。昭和40年代後半から50年前半にかけて男の子たちは「大和」と「ゼロ戦」すきだったのさ。ちょっとゴミかも・・・・
白熊


スネ吉さん大活躍の『ラジコン大海戦』ですね。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3853/dora/hendora8.htm
で紹介されてます。
じょーぢ


最近ラジコン水上艦による砲戦ゲームって実際にあったりするんだけど、あれを見ているとラジコン技術の発達は物凄いものがあるんだな、と思った次第。 なお、私が海外の模型雑誌で読んだ中で根性が入っているな、と思ったのは「レーダーを廻しつつミリタリーソングをかけながら行進するKGVとヴァンガード」という写真でした(完全なゴミ)
大塚好古



映画「スターリングラード」中に、誤って味方を撃ち、近くの兵士がその兵士に「俺もやった。」と諫めるシーンがありますが、味方兵を過失によって殺害した場合の罰則という物は無かったのでしょうか? また、味方同士の殺害というのはよくあったことなのでしょうか?


歩兵戦から空中戦に至るまで、同士討ちというのは頻繁に発生しています。湾岸戦争の時もアメリカのM1戦車が誤って自軍の車両を攻撃してしまったことがある位ですから。いざ戦闘となると情報の混乱や命令の伝達ミス、敵味方の誤認は付き物であり、もちろん、どこの軍隊もそうしたミス、ヒューマンエラーを減らす努力はしているのですが、完璧を求めるのは難しい。同士討ちをやった兵士の処分については、軍法会議の手続を通じて当事者双方の過失の度合いや、事件発生当時の状況などを調査した上で行うこととなります。その兵士だけでなく、上官に当たる者の管理者責任が問われることもある。また、事件発生の際、悪天候による視界不良等、ミスが発生しやすい状況だったかどうかということも過失責任の判定において考慮される。
アリエフ


戰闘中の味方同士の殺害は、やろうと思えば誰にでもできるので、「彈は前から来るとは限らない」と云う有名な脅し文句があるくらいです。日頃、部下を苛めている上官が戦場にくると途端に大人しくなってしまうのは、こういう状況があるからです。同士討は陸軍刑法に罪として明記されていませんので、目撃者や被害者がいて告発すれば、上官殺害など他の罪名で送検になると思います。けれど、戦場でいちいち、そういうことをやっている暇がないため、また仲間同士でかばいあうため、しかも上手く犯行を実行するため(突撃中に背後から射撃するなど)、だれでも知っているけれど表面には浮び上がってこない犯行は無数にあったはずです。
あるめ


「戦闘行為中の過失による味方誤射を厳しく罰しすぎると、軍人が工場なんかでやっている”無事故・無欠陥運動”みたいなメンタリティになってしまうんだよ。戦争には失敗やミスが多いんだよ。」というコメントが米海兵隊の法務部退役大将によりされているそうです。事実、国連ヘリを間違って撃墜指示したE3のオペレーター・味方LAVを撃破したM1の乗員・味方ウォリアーを撃破したチャレンジャー乗員のすべては軽微な罰則のみで済まされてます。こういった見方はある程度各国共通のようです。
タイ駐在員


戰闘中の故意の殺害は私刑(味方同士の殺害)ですが、発覚した場合は豫審で過失と主張(強弁)し得るので、突撃中の如き切迫かつ証拠収集の不完全な曖昧状況では、なかなかラチがあかないのを利用して、旧陸軍では「ぐてぐて云うとると彈は前から飛んでくるとは限らなくなるぞ」式の暗黙の脅迫が行われていたと聞きます。それが史料に現れるのはシベリア出兵のあたりからで、戦地では兵隊の反抗と上記の如き暗黙の脅迫を恐れて幹部(将校下士)は十二分の統率ができなかったようです。帰還部隊の服装の乱れは著しく、上官に対する言葉つき態度も内地の兵営では考えられない程度に低下していた事に軍首脳部はショックを受けています。表面に出た事件では、中隊の兵隊が大勢で幹部を殴打し胴上げして井戸に放り込もうとしたので、中隊長が平謝りに謝ってその場は収まったなんて云うのもあります。職業軍人の将校は自分の隊に憲兵をよぶのを極度に嫌がって、多少の事は内部で処理し、多少でない事も揉み消してしまう傾向にあります。今後の自分の進級に響くし、すぐに憲兵を呼ぶ隊長は兵隊や幹部の信頼を失い、隊の名誉と団結にヒビが入るからです。「うむ、よおく分っておる、わしに任せておけ、決して悪いようにはせん」式が隊長の器量とされて、困ると何とかしてくれると部下は思うようです。たまたま告発する者があって証拠が揃えば、当然に憲兵隊に引渡されて軍法會議の豫審に持っていかれるのですが、そうなると豫審官の裁量ひとつで重罪に問われることになりましょう。しかし軍法會議の審判記録に、そういう事件の記録があまりなく、専ら敵前逃亡だの、抗命だの、從軍免脱目的自傷だの、後方での用兵器上官脅迫暴行傷害だの、詐欺横領だの、窃盗強姦だの、と云うのが多いので、表面にでてこない私刑事件は多くあったと思われます。 從軍兵士の手記を読むと、戰死者の弾痕を調べると突撃前進中に後ろから来た彈に当ってしまったと思える例が記されており、明らかに味方に射撃されたと判っていても兵隊同士でも深く詮索せず、部隊では頓着なく名誉の戰死と認めてしまうようです。
本筋の同士討ちは、日露戦争を例にとれば、夜間野営中の聯隊が、近くを通過する他部隊を露軍の来襲と誤認して、数時間に及ぶ銃撃乱射をしたと云うのがあり(闇鉄砲のうえ、みな恐慌して照準が定まらず彼我(?)とも損害なし)、また旅順要塞攻略戦では、敵逆襲を退けるため、味方がまだ残存している堡塁への砲撃命令を実行したと云うのもあります。こうなると過失というより、作戰行動の一部となってしまい、部内での査問と處分はあり得るでしょうが、刑法上の罪とはならないようですね。
あるめ


航空隊でもありました。 昭和18年4月24日、飛行第六十一戦隊の伊藤四郎中尉機は、東部バンダ海の哨戒任務中、アル諸島北西部のドボ西方100kmふきんの海上で、水上機らしき彼我不明機を発見し、これを識別しようとしたところ、突如としてこの彼我不明機に急襲され、この急襲の銃撃により、その一弾は正繰従者の三木夏雄伍長(少飛9期)の頭部を直撃し、伍長は操縦桿をにぎりしめたまま即死した。機体も片肺となったが、カイ諸島までたどり着き、密林に不時着、大破、しかし残りの搭乗員は無事であった。このときの彼我不明機は、当時セラム島の西端アンボン港を基地にしていた我が海軍水上機隊の索敵警戒機の1機であったということを、後日、非公式では有ったが伝え聞いた。 「呑龍重爆隊ニューギニア戦記」、丸 昭和51年1月号、元飛行第七・六十一戦隊 新富正清少尉 著
roht


湾岸戦争関係の本によれば、戦闘時の軍人の判断力は、通常時の平均的な高校生の判断力に劣るとありました。
ザイドリッツ  → top


【戰場の音樂放送】


映画「地獄の黙示録」でヘリ部隊(空の騎兵隊)がワーグナーの曲を大音量で流しながら制圧攻撃を行なっていましたが、これは映画の演出で近代戦争で戦場(戦闘中)に音楽を流した例は実際にはないのですか?
昔観たクリント・イースウッドの映画(第2次大戦中、金塊をゲットするしようとドイツ支配地域に少数で進む映画)でも、シャーマン戦車が音楽を流しながら戦闘をするシーンがあり、気になってます。


↑「戦略大作戦」(1970)ですね。怪しげなティーガー(たぶんT-34改造)の出てくるやつ。豪華キャストにふざけたストーリー、悲惨さばかり強調された最近の戦争映画には無い面白さがありました。ちなみに撮影はすべてユーゴスラビア、エキストラもユーゴ軍兵士でした。
本題。
Ju87がサイレンを鳴らして恐怖をあおったのは有名ですが、たぶん音楽などはかけなかったと思います。的になるだけですから。しかしイギリス(スコットランド)が戦場でバグパイプを鳴らしながら戦うシーンを映画で見たことはあります。昔ならともかくWW2の頃に本当に戦場で使われたのでしょうか?
Jabo


心理戦の一種として、スピーカーで敵の戦意を無くし投降を呼びかけるためのメッセージを流すことがありますが、その時に音楽も使われたりします。余談ですが、戦場ではないけど、法的には未だに戦争状態である朝鮮半島の軍事境界線では、韓国側から北朝鮮に向けて音楽とメッセージをかなりの音量で流しています。メッセージの意味はわからんが宣伝放送であることは確か。
朝鮮戦争でヤールー川周辺で中国軍の大部隊が米軍に夜襲をかけたとき、中国軍はチャルメラ鳴らしながら士気を煽って闘ったそうだけど、こういうのは音楽には入らないのでしょうか?
アリエフ

「史上最大の作戦」で空挺部隊が占拠した橋に救援に赴く英特殊部隊がバグパイプを鳴らしながら行進していたように思います。隠密行動を旨とする特殊部隊が鳴り物入りで行進してどうするんじゃ、と思ってましたがライアンの原作にもこの下りがありました。便乗になりますが、こんな場合に音楽を奏することはあるのでしょうか?
山奥の人


↑ スコットランド由来の聯隊は、行進時にバグパイプを吹奏するのが伝統らしいです。たいへん士気が鼓舞されるのでせうね。野戰でも指揮官がスコットランド人聯隊ここにありと、わざと吹奏させる場合があるのでせう。大昔は、軍樂は鼓笛の吹奏で部隊が歩調を合せ前進するのに不可欠だったのですが、今は分列行進か、禮式令の規定にあるか、それ以外は士気鼓舞の目的で指揮官がワザと命令するのだと思います。戦闘中に音楽をラウドスピーカーで流すのは、これは指揮官の私物命令ですね。普通の部隊でそれをやると、その部隊は全体が頗るヘンという印象が強くなって、観客に尋常な状況ではないねーと云う暗黙の前提を強いる効果大です。
あるめ


記憶が定かでありませんが、昔見た、当時のニュース映画で、ドイツのオランダ侵攻のさい、空挺部隊を乗せたJU52が飛んでいるシーンのBGMにワーグナーの例の曲が使われていたような気がします。案外、「地獄の黙示録」のアイデアになったのではないでしょうか?(素人考えですけど)
けーくん


素人考えですが、あのシーンはベトナムの米軍にナチスのイメージを重ねるための演出だと思ってましたが。怪しげな琴の音色にドラが鳴ったら日本、ワリキューレがかかったらナチス、というのがハリウッドのステレオタイプですし。ブルースブラザースとか(笑)。
アナーキャ


空中騎兵と、天駆ける馬に乗って戦死した戦士の魂を導くワルキューレを掛けたんだと思います。記憶モードですが、ワルキューレの騎行は帝国陸軍落下傘部隊の活躍を伝えるニュース映像でもBGMとして使われていたはずです。
sharman


突撃ラッパは音楽になりませんか?
ちはや


喇叭譜は命令伝達の機能を持った信號の一種なので、一般的に云う音楽に意味を拡大できないのではないかと思います。
あるめ


どーやら実際には無いみたいですね。(録音した曲を機械で流したのは)
そーいえば「史上最大の作戦」でバグパイプを鳴らすシーンがありましたね。昔、TV番組でバグパイプを鳴らしている者が敵兵に遭うと自らスカートをめくり(ノーパン)己のガンと勇気を見せ付け、あっけに取られる敵兵のスキを付き逃げる。という説明を見たことがあります。
言われてみれば映画でドイツ兵がワーグナーを聞いているシーンは、よく出てきますね。
以下ゴミ

漫画ネタですけど、全速で敵部隊に向かっている戦車内で「エンジンが悲鳴をあがています」「かまわん。俺にはワレキューレに聞こえる」という会話シーンがありましたが、 これは作者が「地獄の黙示録」や昔のニュース映像に影響うけたんだろうなーと思いました。


あの映画のお陰で一般的なワルキューレのイメージがかなり固定されてしまいましたね・・・ワーグナーもミリタリーも好きな私は複雑な気持ちです。
Take

話が逸れますが。むかしの劇映画やニュース映画では、飛行シーンで「ワルキューレの騎行」を使うのは定番であった、と大先輩の航空ファンに聞きました。それを知っていたので「地獄の黙示録」でも、「おお、お約束」としか感じませんでした。さらに話を逸らしますと。数年前の英国兵器展示会のオープニングに、ワルキューレとローエングリン第三幕への前奏曲が使われていたと、野木敬一氏が軍事研究のレポートで書いていましたね。 英国なのになぜにワグナーと野木氏はいぶかしんでいたようですが。まあどちらも勇壮な曲で兵器展示会にはふさわしいと思いますが。
便利少尉


スコットランド竜騎兵連隊は湾岸戦争にもバグパイプを持ちこんでたのを確認してます。(確認情報)
しかし、戦闘中に吹奏したとは思えません。休息中ではないかと思います。ちなみに米海兵隊はM60戦車の中でメガデスかけながら戦闘してたらしいです。(こちらは未確認)
こわもてカーン


日本の映画でも、「ビルマの竪琴」で石坂浩二率いる小隊が村内で歌を披露している間に敵に捕捉され、こちらが気付いたことに気付かれないよう、総員歌いながら戦闘準備をするシーンがありましたよね。もちろん史実ではないのでしょうが、あの緊張感みなぎるシーンは圧巻でした。
さかな


全く状況が異なりますので、参考にはなりませんが。。。米軍のパナマ侵攻の時、バチカン大使館へ逃げ込んだノリエガ将軍に対して周りを取り囲んだ米軍の心理戦部隊が24時間ぶっ続けで大音響のロックミュージックを流しつづけたそうです。 ノリエガが居辛くするって目的でしょうが、やり方がエゲツナイですねぇ(^^;;
AP1  
→ top


【現地調達】

戦前の兵站関係の資料を読んでいるのですが、どうも旧日本陸軍は、兵站−特に食料−を現地での調達(含む徴発)を前提して計画・行動していた様に思われる記述が多く見られます。
湾岸戦争等のイメージから行くと、軍隊の兵站は、本土からどんどん物資を送り込み、 これを前線まで輸送しているような気がしていたのですが、2次戦当時だと、どこの国でも現地調達というのが一般的だったのでしょうか? 因みに「読んでいる資料」というのは、
『作戦給養作業ノ参考(乙)』(昭和16年8月改訂/陸軍経理学校)という本です。
その中に『判断及計畫』という章が設けられており、13の具体的な兵站上の判断と実例が記述されています。
13項目の内、3つは現地物資の利用そのものの記述、
1つは運搬器具の徴集、3つは現地物資の利用推進に関する記述を含み、
3つには「兵站部隊ノ給養ニハ努メテ現資ニ依ラシム」と記されています。
尚、現地物資に関連する記述の無い3項目は、
・軍作戦計畫ノ例
・軍会戦指導方策ノ例
・師団ノ上陸給養計畫ノ例
となります。


「現地」というのが前線か、それとも占領地域で前線への後方支援のための基地がある所かによって話が異なると思います。
例えば、独ソ戦の時の独軍もウクライナを占領すれば、放棄されたソ連軍の倉庫の物資を活用したり、そこで食糧や資源を入手しているわけです。ウクライナがロシアのパン籠と呼ばれる食糧・資源が豊かな地域であるということもありますが。 どこの国でも占領地域から食糧等が入手できるのであれば遠い本国から高いコストで運ぶ必要は無いし、特に長期戦ともなれば長距離の兵站輸送は可能な限り削減したいわけですから。
ベトナム戦争や湾岸戦争の場合、大規模な米軍部隊の現地拠点となっている南ベトナム、あるいはサウジアラビアでは、食糧生産は自国民の需要をまかなう程度であり(サウジは食糧輸入もしているし)、現地で食糧調達を行うよりも、本国から米軍人の口に合い衛生も保たれている食糧を輸送した方が良いという判断があったからでしょう。もちろん、本国からの長距離の兵站ルートが脅かされていないから可能だったわけでもあるが。
ちょっと本題からずれるが、第二次大戦後の戦争で数ヶ月以上にわたり大規模な軍隊が他国に進出した例として、上記の湾岸戦争、ベトナム戦争の他、朝鮮戦争、それにソ連のアフガン侵攻といったものが思いつくけど、豊富な食糧生産力を持つアメリカは現地友好国での調達どころか、むしろその国に食糧援助やってたりする位。また、アフガンのように現地での食糧生産自体が極めて少ない国もある。
現地調達やる必要性がない、あるいはそれができない、というケースが多いのでは?
アリエフ


「一般的」かどうかはお答えしづらいですが。
例えば北アフリカの英独両軍などの場合、現地調達など思いもよらず、気候の関係でジャガイモを送ってもらえなかったドイツ軍は壊血病患者すら抱えることになったそうです。東部戦線では何でもありだったようなイメージがありますが、例えば大戦中期までは部隊が移動する前にチョコレートを配るなど、ドイツ軍の食糧補給システムは曲がりなりにも本国から前線まで通っていました。また、兵士の家族から軍用郵便で届く食料も少なくなかったようです。
ソビエト軍兵士は黒パン、小魚などいくつかの決まりきった食料品を持っていた、とするドイツ兵士の回想もあるので、ソビエト軍も現地にあるものを手当たり次第に食べるのでなく、規格化された糧食を前線に送り込んでいたと思われます。アメリカの(イギリスが行ったものや、対英援助をソビエトにそのまま振り向けたものは別)対ソ援助のうち、重量で量って47.1%はアメリカが贈与したソビエト船籍の貨物船により、ウラジオストック経由で送られましたが、これは日ソ中立条約により民生品しか積んではいけないことになっていました。したがってこの中身は食料や衣服や産業機械などの両用品であったと思われますが、これらのうちいくらかはそのまま前線に行ったでしょう。
にもかかわらず、中隊以下のレベルでの現地購入、物々交換、あるいは略奪・窃盗が行われたと言う記述は、もちろんあります。
マイソフ


二次大戦時でさえ補給品の半分以上は弾薬・燃料で占められますから、これらは主に本国で加工したものを送り込むことになってしまうでしょう。ただ、その基盤となる資源の方となると話は違ってきて、たとえば独ソ戦遂行にあたってドイツ軍は、「戦争3年目以降は必要な資源は、全て東部で手に入れることによってのみ戦争を遂行できる」と言った文章を作っています。
バツ


旧軍の糧秣補給は、内地の兵站基地より兵站線路を経由して出征軍の兵站管區に内地調達の糧秣を送りこみ、出征軍の兵站管區に置いた兵站倉庫にこれらを備蓄して必要量を前線部隊に逐次輸送し補充する形が基本と考えています。現地の兵站倉庫には、これとは別に現地物資を徴発して加工備蓄する機能もあり、それ専用の兵站倉庫も設けることがありました。主に生鮮野菜・生獣の類は現地調達する必要がありました。部隊単位での現地徴発も可能です(經理部員による軍票の発行によって強制購入)。また駐屯間の部隊は、各隊の炊事軍曹レベルで、現地商人から副食類の購入が行われていたはずです。さらに敵軍の遺棄した糧秣物品を鹵獲して利用することも想定されていました。兵站線路上を流れる物資は、ほとんどが糧秣で、大きな戰闘や前進が生起した、或は予定される場合以外は、兵器の範疇に入る物資(主に彈薬、工兵器材など)や補充人員は大量には流れなかったように考えられます。
時代と作戰地の特徴によって現地調達と内地直送の比率が変化してくるので、同じ軍でも何が一般的(標準)かは定まらないのでないかと思います。
お読みになっている資料の中で「兵站部隊の給養云々」とある「兵站部隊」とは、軍兵站管監部隷下にある兵站管區に所属する部隊のことを指しているのだと思います。即ち、兵站衛生部諸部隊、兵站經理部諸部隊、兵站獸醫部諸部隊、兵站守備部隊などなどです。通過部隊も兵站管區に在る間は兵站司令部から給養を受けるので、含まれるかと勝手に思っています。
あるめ  
→ top


【戰闘神經症の資料】

いわゆる「十五年戦争」中、日本軍では戦闘神経症の研究がある程度すすんでおり、戦後、その症例研究の蓄積に目をつけた米軍が資料を全部接収した、という噂を聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?


> 日本軍では戦闘神経症の研究がある程度すすんでおり
陸軍病院に精神科専門病棟が設けられ、大學醫學部の精神科醫が応召して治療にあたったと聞いております。東日本では、千葉の國府臺陸軍病院の第五内科が有名です。北杜夫氏のお兄さんが軍醫でそこに勤務していたとの由。また井上ひさし氏のお芝居「きらめく銀の星」(でしたっけ?正確な題名がウロ覚え)に國府臺から退院してきた軍曹さんがでてきます。
西日本では、金岡の陸軍病院に精神科があり、野間宏「真空地帯」の主人公が逮捕されたときのラシャ地の軍服を着て陸軍監獄から釈放されて原隊にもどると、事情を知らない内務班の古参兵どもが、ええ服着てるんやなー(古参兵は物資欠乏の折柄、ボロ服しか支給されていない)、長いこと金岡に入ってたんやのー、と勝手に思い違いする場面があります。詳細な症例研究は日露戦争時代から存在していましたが(二十七八年戦役陸軍衛生史などで窺える)、むしろ欧米の軍醫團のほうが第一次大戦当時以来、熱心に研究を進めていたようです。特にシェル・ショック症は民間の流行語になったほどです。
> 米軍が資料を全部接収した
当然、進駐軍は日本軍の資料は押収したのでしょうが、それ以前に日本軍の手で焼却されたものが多く、細菌戰資料のように重要視されたと云う話は私は聞きません。どなたかご存知でしたらご教示くだされば幸甚です。
あるめ


>戦闘神経症
 日本陸軍では戦争神経症など皇軍ではありえないとの見地から「戦時神経症」って呼んでたそうです。たまたま戦時に神経症が発生したに過ぎないとの見方です。
>国府台
諏訪敬三郎軍医少佐(のち大佐)が院長だったそうです。「…全国及び外地の陸軍病院に収容されていた精神病や神経症の患者を全て国府台に集めて治療し、研究し、その対策の資料にしようという構想…」と一億人の昭和史「日中戦争4」内の桜井図南男元軍医中尉(戦争神経症を担当)の記事にありますから、米軍が接収したということであれば、このへんが関わりあるんじゃないでしょうか? 米軍の接収の詳細については私も知りません。申し訳ないです。
じょーぢ


その後、調べてみましたが、終戦時に書類の焼却命令が出て、関係書類は消滅しましたが、生き延びた書類に軍醫が個人的に持ち出した病床日誌約8000件があったそうです。現在は国が保管の模様。進駐軍の接収云々に言及したものは見当たりませんでした。第一次大戦中に獨逸軍の戦時神経症解明は他国より進歩しており、身体原因説派と心因説派の論争の後に結局、後者が主流を占めKriegsneurose として世界に知られるようになったとのことです。体の傷が原因ではなく、心の傷が原因なので、それがどうして起こったか、どうすれば治るか(心の負担を取り除く方法)を解明していこうと云うわけです。先の御回答に出ている桜井國南男軍醫は、軍醫團雑誌に昭和16年12月号より5回連載で戦時神経症概説と症例を公表しておられます。
あるめ  
→ top


【格闘術】


現在の軍隊では軍隊格闘術がありますよね。(サンボや極真空手など)
旧日本軍や自衛隊などではどのような格闘技を学んでいるのでしょうか?特に旧軍の格闘技に興味があります。必修の格闘技などはあったのでしょうか?


陸上自衛隊には『徒手格闘術』という独自の格闘術があります。昭和30年代に日本拳法をベースに組み立てられたもので、総合格闘技的なスタイルながら技の構成はシンプルだそうです(スポーツ格闘技でない実戦格闘術なのだから当然か)。解説本やビデオもいくつか出てます。ちなみに警察の逮捕術も日本拳法を取り入れているようです。あと、『銃剣格闘(銃剣道)』も武器を使用する格闘術の一種と言えなくもないですかね。陸自の銃剣術は旧陸軍と米軍の折衷とか聞いたことがありますが。
ブラック・タロン


旧軍の徒手格闘術といえば、軍學校における柔道くらいで、下士官兵には格別の教練科目はなかったようです。将校は幼年學校その他の軍學校で柔剣道の教育を受け、また豫備士官や徴兵検査で現役入營とならなかった者も、7年制高等學校、5年制中学、2〜3年制実業学校卒業者は柔道か剣道を體操科目で選択して身に付けていたため、中等教育以上を受けた男子の約半数は柔道という徒手格闘技を習得していました。外国人から見て、ほとんどの男子日本人が柔道という不思議な徒手格闘術をやすやすと使うという伝説は、このあたりから出てきたようです。
兵隊さんには、むしろ競技会の娯楽としての相撲のワザや、執銃者以外の兵(砲手など)に教育される銃劍と手を使った短剣術があったくらいです。短剣術は相手が長い着剣銃で迫ってきても、こちらは片手に構えた銃劍の切先を相手の白刃にあわせ絡めて、相手の銃身の方向を外側にそらせ、そのまま銃身に沿って当方の銃劍をすべらせていき、体ごとぶつかって相手の自由を奪い刺殺するという術で、かなりの効果があったそうです。
あるめ


自衛隊は日拳がベースの格闘術なのですね、やはり実戦格闘技としての完成度が高いものなのでしょうね。「銃剣格闘術」自衛隊の叔父から聞いた事があります。旧軍と米軍の折衷ということは、旧軍には「銃剣格闘術」の類は無かったと解釈してよろしいのでしょうか。(ひたすら突くだけ?)
やはり、柔道が基本だったのですね!当時の成年男性は現在の若者より、柔道経験者がはるかに多かったのですね。軍学校の柔道は今のような「スポーツ柔道」ではなく、禁じ手無しの柔道だったのでしょうか。「短剣術」ペリリュー島で銃剣片手に白兵戦を行い大きな戦果を挙げたと聞きます。この技だったのでしょうか。
はにまる


日本の銃剣道は、明治の陸軍創設とほぼ同時期からのものです。もっとも最初は、お手本にしたフランスとドイツのものに近かったはずです。いつ頃から日本式といえるものになったかは不明ですが、十五年戦争時の軍事教練に含まれていますので、それ以前でしょう。(^^;


軍学校の柔道そのものは、そんなに荒っぽいものと云う記述を読んだことが無いので、たぶん世間一般並だったのでしょう。陸軍生徒は将来の国軍を背負って立つ稀少な人材なので、体育面でも無理をさせなかったと云います。けれども当時の世間一般並というのが、かなり荒っぽいものだったのは、近親者の思い出話でよく聞きます。初心者が首を絞められて気絶するのは毎回のことだったそうで。
剣道は、陸式の話をよく聞きます。とにかく実戦本位で、あまり相手を叩くと、相手も竹刀を投げ捨てて「組討ー!!!」と喚いて突進してきて徒手格闘となるので、これは剣道をやっているのか、柔道をやっているのだか、なんだか分からなくなる場合もあったようです。
短剣術は、米軍式の腹を狙って横に薙ぎ払い、返す台尻で頭部顔面部を狙うと云う術にどのように対抗したのかは不明です。よほど沈着で相手の行動を予測して瞬時に隙をつかなくては短剣は有効に使えず、非常な錬度が必要なので、それで戦果をあげたというのは、きっと精兵揃いだったのでしょう。
あるめ


タイトル忘れましたが本有ります。軍事関係のコーナーで探してみてネ。私も柔道弐段頂戴してますが、実戦(ストリートファイト)では相撲の方が役に立ちますね。(ケンカは駄目ですよ!・・なんてね)
ぺっか  
→ top


【血液型】


旅順攻略の名将乃木希典の血液型について教えてください。私の予想では、軍人気質のO型かB型だと思えるのですが.....


もちろん血液型占いのような遊びで言っておられると思うのですが、ちなみにA型、AB型はどんな職業向きの気質なんでしょう?芸能人やテレビ局関係者など硬くない職業向きなんですかね?
アリエフ


世の中には私(B→O)のように後天的に血液型が変わる人間もいます。同類の友達(A→O)と組んで、血液型で他人を分析したがる人間を「じゃあ俺達の人格は断絶したのか」と問い詰めてからかったことがあります。
Schump


「血液型が後天的に変わる人は他人を問い詰めて困らせるような性格だ」と、血液型性格診断の本に書き加えられたりして…。
便利少尉


真面目な話、乃木大将の血液型ってわからないんだろうか?(;^_^A
与太話。わしは血液型が変わったわけではありませんが、『A型だと思っていたのが実はAB型だった』という恐怖体験(笑)をしました(母子手帳にもA型と書いていた)。職場で献血して初めてわかったのですが、生まれてから実に2○年間も間違った血液型を信じて生きてきたわけです(;^_^A
 後で聞いたんですが、B型因子はA型因子に比べて検査で反応が出るのが遅いそうで、故に新生児等でAB型がA型と間違えられるケースがあるんだそうです。
ブラック・タロン


与太話その2。私の血液型がわかったのは小学生の時ケガして入院した病院で検査を受けてからでした。両親がA型なので当然私もA型だと思いこんでいたら、なんとO型。いや、輸血が必要なケガでなくてよかった。 TETSU29


世界には一つの血液型しかない国もあります。
通りすがり


そんな国があったら、国民全員が同じ性格?A型ばかりの国があったならさぞや…。
便利少尉


「血液型性格判断」というジャンルの占いがあるのは日本だけだと聞きますよ。少なくともアメリカでは聞きません(そのぶん占星術が盛んですが)。
ささき


与太話その3
わたしも先年献血したおりにRH(−)であることが判明、母親に「マイナスは数が少ないから輸血の備蓄が少ない。だから自衛隊には行くな」と釘を刺されつづけております。
ペンギン


日本で血液型による性格判断がさかんなのは各血液型の比率のバランスが程々なのが大きいと思います。(概略でA:40%、O:30%、B:20%、AB:10%)逆に各血液型の比率が偏っている国ではこんなこと考えもしないでしょう。現在につながる直接のルーツは1970年に出版された能見正比古氏の「血液型人間学」が発端だそうです。ただ戦前からこの類の話はあったそうで、軍隊の組織化に応用しようという話があったとかいうことを何かで読んだ記憶がありますが、真偽のほどは不明です。
話がそれますが、Rh(-)でもRh(+)の輸血が不可というわけではありません。Rh(-)の人にRh(+)の血液を輸血した場合に50%以上の確率で抗D抗体ができることがあり、この抗体が存在する状態でRh(+)の血液を輸血したときが問題になるので、抗体が存在しなければ 輸血そのものは問題ありません。ただRh(-)の女性が妊娠した場合、胎児はRh(+)の場合が多々あるのですが、この時に母親の血液中に抗体が存在すると、最悪、胎児が死亡することがあります。ちなみに血液もナマモノですからRh(-)に限らず備蓄量は非常に少ないです。むしろ特殊な血液型のほうが緊急時に備えて備蓄の割合は多いという話も聞きます。 (だからと言って安心できるものではありませんけど)
PT


たしかネイティブ・アメリカンは元々ほとんどO型だとか。
けい


そう言えば、血液型による性格占いは広まりすぎて、、もはや日本では「実は因果関係がある」のか「まったく関係ない」のか調べることすら困難だそうです。何故かというと、「A型は几帳面」とか「AB型は変人(?)」とかいうパターンが広まりすぎて、「A型だから元々几帳面」なのか、「A型だから「自分は几帳面だ」と思いこんだせいで几帳面になった」のか判別できないそうで。
まあ、自分としても血液型占いは当てにならないと思いますね。一卵性双生児ですら性格は異なるのに、血液型ごときで性格が決まるというのは理不尽でしょう。
明石耕作


陸軍軍醫團雑誌と云うのに妙に真面目な血液型の統計研究が載っています。それによると、下士に多いのはB型なのだそうで、細かいことを面倒がらずにテキパキ片付けて良く動き、あまり物事に拘泥せず、戰闘に際しては臨機応変、なのだからだそうです。(?ほんとかなー??)次に多いのがO型で、案外少ないのがA型。なんだか意外な感じがしますが。
あるめ


20年ほど前に気になって調べたことがあるんですが、手元に資料類が無いので記憶モードで失礼します。ABO式の血液型と性格の因果関係は日清戦争後の陸軍軍医によって調査されたことがあります。演習中に特定の輸血血がいつも不足することに着目し、仮説を立てたようです。ABO式と性格の因果関係が証明されれば、PTさんのご指摘のとおり、人事や用兵を合理化できるので、軍部も研究結果に期待したようですが、「因果関係認められず」の結論で終わっています。現在流行している血液型による性格分析は能見氏(親)がこの資料を入手し、独自の手法で再調査した、とかって話だったとおもいます。血液型による性格判断というものが、現在日本では占いというより信仰じみた側面があるようで、キモチ悪いものを感じます。生まれてきた子供の血液型が自分と奥さんとの組み合わせでは成立しない、と悩んでいた知人がいるのですが、事情をよく聞いてみると奥さんに「あなた**型よ」と言われたのをそのまま信じていたそうで、病院行ってしらべて安心していました。毎年数件ある輸血時の事故も、こういうしょうもない思いこみが原因だと思います。輸血時には直前に必ず血液検査をする決まりになっていますので、こういう事故で死にたくなかったら血液型は知っていても他人に教えない方がいいようです。
ウマシカオ


献血しましょう。正確な血液型以外にも血中蛋白とか糖分とかの健康指標がわかって一石二鳥です。
ささき


何か・・・・・・話しずれてません? ちなみに私は今年ようやく献血できるようになりました。行くぞ〜!
居眠り


ほほう、献血できる年齢になりましたか。でも、今じゃ表彰はされなくなっちゃったんですよね。とりあえずは200ミリ全血からですか。どんどん社会に貢献して下さい。(現在170回目。今じゃ腕に針の跡がくっきり−針、太いです、 家族にゃ「あんたが一杯献血してるから、輸血の必要がでたときは優先的に回してもらえるよねーきっと」とか言われてる)
勝井


↑献血回数が多いと輸血時に優先してくれる,ということは無いようです.私はバイク乗ってるので,万一の時の貯金のようなつもりでいっぱい献血しました.知らずに輸血されても負い目を感じなくて済む分くらいはあります.古い人なので,表彰状いただきました.今は血圧が高いので医者にとめられています.
ウマシカオ


25年ほど前は、輸血を受けるには、同量の献血がなされた記録のある献血手帳が必要でした。(少なくと大阪府では)いざという時みんなこれを集めるのに苦労していました。
roht  
→ top


【陸海軍の仲】


なぜ各国とも陸海軍は仲が悪かったのでしょう? 同じ祖国を守るのだから一致団結すればより強い組織ができるハズなのに。お互いやっかみがあるんですかね? そう考えれば陸自と海自も仲が悪いのでしょうか? また、組織上、空軍がある場合はどうなのでしょうか?


児島襄の「誤算の論理」に拠れば、日本程にいがみ合う例は珍しいそうです。まあ、日本人が調べたからそう見えたのかもしれないけど。陸軍に言わせると食い物の恨みというのが何処の国でも有るそうです。後、日本の場合、日露戦役迄ずっと海軍は従属的な立場に甘んじてきて、日露戦役の後力を得始めたので陸軍は面白くなかった様です。
Mk


限られた軍事予算、軍需生産力といった資源をどのように陸軍、海軍といった各組織に配分するかという問題をめぐって意見対立が生じるのは当たり前です。そして、経済力、生産力のパイが小さい国ほど、組織間の資源配分をめぐり熾烈な争いが行なわれるということでは。ドイツのように圧倒的に陸軍中心で海軍が小さい国、それに経済力等のパイが巨大なアメリカといった各国と日本の事情とを比較する必要もあると思いますが。 ちなみに、ドイツでも陸軍とナチス(武装SS)との間に資源配分や指揮権をめぐる争いがあったりするわけで。
アリエフ


陸海軍の仲が悪い国が普通でも、DB-601のライセンス生産権を陸海で別々に買った(ヒトラーに日本の陸海軍は仇同士か、と言われたそうです)り、ブローニングM-2のコピーを別々に、しかも微妙に口径まで違うのを生産してた国は日本ぐらいではないでしょうか。
蛍菜


陸軍が仏式から改めドイツに範を取り、片や海軍は万事英国式、という思想の違いもあったのではないでしょうか。
薩の海軍、長の陸軍という藩閥の対立も当然あったでしょう。
上の二つは日本の特殊例です、もちろん(すみません、質問をよく読んでなくて)。確かMkさんの引用された児島襄の本に書いてあったかと思うのですが、海軍は遠洋航海などで外国に行く機会が多くてハイカラ(当然女性にもてたりもする)、陸軍はそんな海軍に反発を持つ、という関係はどの国でもあったことでしょう。
Sampon


陸海軍の対立の激しさを個別のかなり脚色されたエピソードを採り上げて単純に論うよりも、陸海軍が最も激しく対立した点は何処なのか、逆に陸海軍が協同できた分野は何なのか、といった視点で眺めた方が得るものが大きいように思います。
BUN


各国を単純に比較することはできないけど、陸海軍等組織間の戦略方針の違いや政治権力への志向も関わってくるんでは。例えば、ドイツの武装SS及びゲーリングの空軍省なんてナチスの影響力をバックにして、資源や最新兵器の優先配分に便宜を図ってもらおうとするなど、軍全体の作戦運営に介入している。国防軍、特に陸軍としては些か目障りな存在でもあったし、ヒトラーの対ソ戦構想なんて無謀であったわけだが、かといって正面から反発するわけにもいかなかった。こういうケースも仲が悪いといううちには入らんのかな(特に両組織の上層部において)?だけど、日本もドイツも前線や現場では上層部の対立に関係無く、協力し合わないとやっていけないわけ。
また、特に戦略策定や兵器開発をめぐっては、例えば陸軍の方針を海軍が横目で見ていて文句をつける、あるいは同調せずに別のやり方で行くというような組織の違いによる客観的視点が保てることも考えなくてはならない。そのため、どうしても組織間対立や論争が生じるわけだが。でも、特定の組織の中で客観的、批判的意見が通りにくいということが結構あるからね。一致団結というが、特定方針に凝り固まっていればかえってマイナスになることもある。兵器開発において陸海両軍が同種の輸入兵器を元にしていても、開発・生産の手法が陸海軍で考え方が異なり、それぞれに見合ったやり方を選択することはリスク分散の見地からすると必ずしも間違っているわけではない。
アリエフ


米海兵隊員の言葉ですが「空軍はすぐどっかに行ってしまい、陸軍は俺達の後から来る、海軍は俺達と一緒にいるから友軍だ」と言う冗談めかした言葉があります。
まあ、単純に考えて、国が軍備に回すリソースは限られたもの、それをお互いに取り合う以上仲がまるで夫婦の様に良いという訳には行かないのでは無いでしょうか?ましてや米軍なんか士官学校同士の対立意識つーものもあるでしょうし。また、仲が悪いというほどではないにしろ、各軍間の競争意識っつー物もある程度は必要なんでは無いでしょうか?
ooi


空軍はどうなのか、との質問については、英国空軍の誕生には陸海軍の航空兵力を巡る対立を緩和させ、航空兵力を合理的に運用する目的で航空省と空軍が設立されたという側面があります。第一次世界大戦では総力戦を経験せずに済んだ日本で、対米開戦後に第一次大戦時の英国と同じように軍需省が設立され、陸海軍航空統一への検討が本格的に考えられ始めた所が面白いですね。
BUN


身内のはずなのに仲が悪い組織というのは私も関心を持っていました。余り回答になっていませんが、自衛隊に関して
仲が良い例?
防衛大学では1,2年は陸海空共通と聞きます。だから卒業後も自衛隊上層部では同期的連帯感があって結構良いのではと推測します。新聞記事ではこれまで陸海空別に方面隊を編制していたのを近い将来、統合した方面隊にするとか書いてありました。
仲が悪い例?
空自と陸自はわざわざ別種の迷彩服を使っている事。
地対空機関砲で陸自は35ミリのL90と87式自走対空機関砲、空自と海自の基地防空隊は20ミリ弾のVADSを使っていること。階級章の形が陸自と空自は同じ形で色違いなだけだが海自は著しく異なる事。
仲が悪い例とは大げさかもしれませんが、共通化した方が良いのではと思います。
自衛隊では内輪もめとは別に、警察・海保との対立が有るなと原発警備や不審船対処に関する報道を見ていると思いました。
もぐら号


戦前の日本に関して云えば、陸海仲が悪くなったように見えるのは、太平洋戦争に入って物資の配分合戦を始めてからで、それまでは双方とも別予算の(統帥上も)互いに独立した軍隊との認識が強く、目立った軋轢は無かったように見えます。
あるめ


仲が良い例?
>防衛大学では1,2年は陸海空共通と聞きます。だから卒業後も自衛隊上層部で>は同期的連帯感があって結構良いのではと推測します。新聞記事ではこれまで陸>海空別に方面隊を編制していたのを近い将来、統合した方面隊にするとか書いて>ありました。 海だけは「わが道を行く」のように見える。海兵出OBの口出しも強い。(現在は高齢化が進み前ほどではないかも)
某棒大教授談
「伝統墨守唯我独尊」
>仲が悪い例?
>空自と陸自はわざわざ別種の迷彩服を使っている事。
同意。
>階級章の形が陸自と空自は同じ形で色違いなだけだが海自は著しく異なる事。
>仲が悪い例とは大げさかもしれませんが、共通化した方が良いのではと思います。
そのかわり、海J士官の階級章は、ほぼ全世界の海軍(たぶん船乗りにも)に通用するはずです。
海保士官もわざわざ、海J式に変えました。なんでも立入検査してて外国の船乗りから「日本独自の階級章じゃ、どの位の偉さかさっぱりわからん。」なんて言われてしまったらしい。
ちなみに米海軍大佐=英海軍大佐=1等海佐=2等海上保安監=商船船長は基本的に同じ階級章(4リング)です。(米海軍は陸空軍に似たイーグルの階級章も使ってますが) また、商船を除くとどの組織も大型艦(船)のキャプテンも4リングオフィサーが多いようです。(商船は大きさが関係なく船長は4リング)
というか英語では海軍大佐は、そのものずばり「キャプテン」ですね。艦長という役職を表す言葉が階級名になったのでしょう。
>自衛隊では内輪もめとは別に、警察・海保との対立が有るなと原発警備や不審船>対処に関する報道を見ていると思いました。
それは言えてますな。
余談
ちなみに「宇宙艦隊」の階級章も海Jと基本的に同じです。金筋が○や●になってるだけです。ピカードは大佐ですので4リングの代わりに○が4個の階級章です。そしてやはり大型艦の艦長です。スタッフに海軍に関する知識を持った人がいるのでしょうが、言い換えれば、船乗りの世界は国内よりも国際基準に合わせる気風が強いということを示しているように思われます。
SAW  
→ top


【英軍の横隊戰術】


ナポレオン戦争の史料を読んでると、フランス軍の分厚く幅狭い陣形をイギリス軍の薄く幅広い陣形が打ち破る場面が繰り返し出てきます。しかしフランス軍は欧州各地でにたような薄っぺらい陣を散々撃破してきたのでは?イギリス人はどんな魔法をつかったのでしょう?


戦術というのは、いわば長短槍試合です。どんな布陣にも利点と欠点があり、それを生かしたほうが(基本的には)勝てるわけです。分厚く幅が狭い陣形だから打ち破れない、ということはありません。後ろに回りこまれたり、包囲されやすく、潰走した最前線がすぐ後ろの部隊に突入して大混乱に陥ることだってあるわけですから。
かすた


英軍は一斉射撃の錬度が高く、長い横隊は射撃効果を高めるために採用されており、前列・後列が間断なく交代で発射する弾幕は接近してくる敵に恐ろしい打撃を与え士気を阻喪させたというはなしです。平時から丘を越えての横隊の演習が猛烈に繰返され、赤い軍服が細長い隊形をとるさまは、”Thin Red Line”と称され歩兵隊の精華と謳われていました。
對する仏軍は、錬度不足で、人数ばかし多いので、(なにしろ新兵は入隊してから出征する行軍途上で歩きながら小銃の扱方と射撃を古参兵から教えてもらうほどで)、奥行きのある縦隊を組んで、おみこしのように衆を頼んで、しゃにむに銃剣突撃をしました。横隊に較べて縦隊は射撃正面が狭く、一斉射撃の効果があがらず、敵彈を浴びても損害は僅少な前列が倒れるくらいで、かえって損害が少なくなる利点があります。後からあとから革命精神を充満させ押せ押せで前進してくる何十列もの銃剣縦隊の先端が敵陣に到達すれば、敵は混乱して壊走を始めてしまうので、押し切り勝ちとなったようです。
しかし英軍は似たような横隊戦術をとる欧州の軍隊にくらべて、射撃と団結力、日頃の訓練の厳しさの点で優れていたようです。のちのクリミア戦争の時代になっても、沈着冷静な英軍歩兵隊の弾幕射撃がロシアの追撃騎兵隊の襲撃を阻止しています。
あるめ


常識はずれにタフなある将校と彼の”グリーンジャケット”が英軍に勝利をもたらしたのですよ。(笑)
MACの求


回答じゃないのですが、上を見てちょっと思ったこと。『囚人部隊誕生!』の竜騎兵部隊はシャープと闘ったりするんですかね(笑)。どっちが勝つかなぁ。
赤星屋


↑ああいう部隊、ほんとにあったんですかね?英陸軍が刑務所で志願者を募ったというのは聞いたことありますが。NAPOLEONというページで読んだんですが、ナポレオンの部下にはとんでもない経歴を誇る人が多いですね。元帥クラスでこれだから、下級将校ならそれこそ・・・。

ネブラスカ


ウェリントンの戦術を分析するならば、主力を稜線の背後に配置して欧州随一のフランス砲兵の射撃を避けていた点も見逃せません。完全な開豁地で戦った場合、いかに2列密集横隊射撃で火力を集中できるイギリス軍といえども手痛い敗北を喫したでしょう。また、1805年のオーストリア軍、1806年のプロシア軍などは密集横隊で散兵戦術に対抗していたのに対して、1815年のイギリス軍はある程度の軽歩兵部隊を有していたことも勝敗の差に影響してきます。加えて、1813年以降のフランス軍は人的資源枯渇状態にあったのに対し、プロシア軍やオーストリア軍はランドヴェーア(後備兵)の導入によって数的な差を縮めることに成功していました。
アクスブリッジ


ナポレオンがなぜ勝利し、なぜ敗北したかは、一言でかたづけられるものではなく、勝利も敗北も数々の無数のさまざまな要因の総合的な結果です。その中で、縦陣(column)と横陣(line)の戦術そのもの違いは、ナポレオンの勝敗にまったく影響はないとはいえないかもしれませんが、それほど決定的に重要な要因ではなかったかもしれません。 ナポレオンが勝てた数ある要因の中で多くの史家たちは市民革命を第一にあげており、これはしばしばナポレオン個人の軍事的才能よりもさらに重視されています。ナポレオン自身が完全に意識していたかは疑問ですが、他の革命軍の指揮者と違ってナポレオンは市民革命の軍隊の性質というものを、うまく利用する能力がありました。ヨーロッパの他国のアンシャン=レジームの軍隊はもちろん市民革命の利点は利用できないわけですから、ナポレオンに対してはどうしても後手をとることになります。この点において、イギリスの市民革命がいつおきたのかを考えれば、イギリス軍がなぜ強かったのかの考察の一助にはなるかもしれません。
また戦術面に言及すると、英軍との半島戦争の印象のため、一部の史家は一般のフランス軍の攻撃は分厚い縦陣であったと言っています。しかし、現実にはフランス軍は行進には縦陣をつかい、通常戦闘時には横陣をつかっていたようです。いくらかの誤解のもとは縦陣という言葉そのものにあります。縦陣には二種類あって、行軍のための縦陣は正面の狭い長々とした隊形ですが、戦闘時の縦陣はその縦の列よりも横の列の方がずっと長い長方形の形をしていました。ただし、地形が隊形の展開を許さない場合(山岳地、道路上の戦闘、包囲戦など)には行軍の縦陣がそのまま攻撃につかわれました。しかし、フランスが使用していた横陣も訓練度の低下のせいで、1807年以後は縦陣を普通に使うようになったようです。隊列が一端動き出すと、その隊列がすばやく敵に肉薄できるかどうかの成否は味方の砲兵や散兵の適切な準備射撃ににかかっており、隊列が一度動き出すと、それ自身は火力を発揮することはほとんどないかまったくなかったようです。縦陣はもともとそれ単独として機能するのではなく、複雑な戦術組織がいろいろと合わさったなかの一部であり、十分に機能させるためには常に散兵や砲兵などとの協調が必要でした。しかし、1807年から後ではフランスの散兵や砲兵はその仕事を十分に果たせるだけの力を持たなくなっていました。また、多くの史家たちは、ワーテルローのフランス軍の隊形は攻撃のための隊形ではなく、もっと小さな縦陣か、もしくは横陣に変更しようとしたのをイギリスの火力が妨げたとみなしているそうです。
参考文献
Gunter E.Rothenberg,The Art of Warfare in the Age of Napoleon,Indiana University Press,1978
celetaro

縦陣は、横隊となった小隊が梯子状に積層した中隊縦隊が、さらに縦に積層して大隊縦隊を組み、縦長の長方形の方陣を形成するので、基本的には分列行進用ないし戦場における隊形変換機動用の隊形ですが、これを革命当時の士気旺盛なれど訓練未熟の歩兵隊が敵前での複雑な隊形変換運動を避けて(高度な訓練を必要とするので、下手にやると陣形が崩れて敵につけいられ壊走の惧れがある)、縦隊そのままで突撃に応用したと考えております。(例:ツ−ロン攻略戦における歩兵突撃)
celetaroさまご指摘のとおり、ナポレオン大陸軍(グランダルメ)の強さは、むしろ砲兵の機動集中砲火や師團制度導入による分進合撃などの新戦術によるものと大きく考えた方が納得できるようです。
あるめ


その”散兵”というのがよくわかりません。詳しく教えていただけませんか?
赤頭


散兵(Skirmsher)
ナポレオンの時代を扱った一部の書籍では斥候と訳されているものも見受けられますが、この文脈でのSkirmisherは、散兵と訳すのが適切だとおもいます。ここでの散兵とは密集した隊列を組まず、ひろく散開して戦う軽歩兵のことです。革命戦役においてフランス軍の志願兵や徴集兵は訓練を欠いており、それまでのマニュアル通りに戦うことができませんでした。そのため彼らは散兵戦術を採用します。散兵は隊列を組んだ味方歩兵の前方に散開し、覆い隠すように味方の隊列を敵から遮蔽します。散兵は、敵に戦術における適切なタイミングを判断することを難しくし、また敵の部隊の展開を妨げました。
散兵はたとえば次のように使用されました。まず、兵士達は、攻撃縦陣とは区別される行軍縦陣によって射程にはいるまで前進し、そして広く散開して、生垣や溝などを遮蔽物にしながら敵を攻撃します。散兵の火力が敵を混乱させたあと、それまで火力の射程範囲外に控置され密集した隊列を組んでいた多数の兵士たちがすばやく敵に向かって突撃します。この準備射撃と革命軍の前進のすばやい速度は、旧式の軍隊を大いに悩ませました。 散兵もまた他の兵種との協調が必要であり、騎兵や砲兵の援護がなければ敵の反撃に対して脆弱であったようです。整然と密集した隊列を組み、厳格な命令のもとに戦う従属的な兵たちと違って、散兵には兵卒の自主性とやる気が大切になります。市民革命によって、フランスの兵卒は国家の主体である国民によって構成されるようになり、散兵は有力な兵種となりました。アンシャン=レジームの兵卒にはそのような気質は少なく、散兵はフランス軍ほど効果的には機能しませんでした。オーストリア軍やプロシア軍は密集隊形による正確な動きとすばやい射撃速度に重点を置いており、散兵は主に補助的なものとみなされていました。それゆえに、これらの戦術はフランス軍よりも柔軟性で劣っていたようです。
celetaro


輕歩兵隊の行進は速くて、戦列歩兵隊と歩度が違うので、入城する時など出迎えの観衆にはわりかし人気があったようです。
あるめ  
→ top


【特殊部隊】


私は世界各国の特殊部隊を調べているのですがイタリヤ、ドイツ、カナダのがわかりません。どなた様かご存知でしたら御教授のほどをお願いします。ここで言う特殊部隊は軍事SOGのことです。だからドイツのGSG−9など対象外です。よろしくお願いします。


回答がないようなので。
うろ覚えなんですが、ドイツ軍には空挺部隊に特殊部隊があったような記憶があります。ドイツ軍は「好戦的」と言われるのを恐れて特殊部隊に関して神経質な時期があったと聞いたことがありますので、この関係で、あまり軍の特殊部隊に関して情報がないのではないでしょうか。
イタリアのことはよく知らないのですが、精強部隊としてサンマルコ海兵隊や山岳部隊が取り上げられることが多いので、このあたりに特殊任務を果たす部隊がありそうな気がします。純軍事SOGと言えないかもしれませんが、カラビニエリ(警察軍。陸軍の一部から独立軍になるとか。)の特殊部隊もなかなか強力だそうです。
カナダ軍だったら、英SASと米特殊部隊双方にコンタクトがありそうなのですが、どうなっているんでしょうね。
すいませんが、この程度の情報しかありません。
SAW


部屋を片付けていたらひょっこり資料が出てきました。
・イタリア
 アルピニ(山岳旅団)
 山岳旅団、隊員全員が山岳戦闘訓練を受けている、精鋭部隊であってSOGにあたるかというと少々ずれてはいる。
 イタリア海軍特殊作戦部隊「海軍潜水工作・急襲群(COMSUBIN)」
 精鋭を誇るサン・マルコ海兵隊の志願者からなる部隊、実力は折り紙つき。
 イタリアフォルゴーレ(雷撃)旅団
 イタリア陸軍空挺部隊、特殊作戦を担当する大隊と、カラビニエリ(憲兵)大隊を編成に持ち対テロ作戦から敵後方での情報収集・サボタージュ・ゲリラ作戦まで多岐にわたる任務をこなす。

ドイツ
 遠距離偵察中隊
 陸軍の各軍団に配備されている部隊。
 GSG−9
 戦時においては国境警備隊の参加で各種作戦行動に従事するものと思われる。

カナダ
 カナダ特別任務部隊
 カナダ空挺連帯を母体とするSOFで即応軍として世界各地に国連軍支援の為出動する事もある。北極圏での豊富な行動経験を持っているものと思われる。

参考資料
特殊部隊 対テロ戦争−兵士・武器・戦術
ウオルター・N・ラング著 落合信彦訳 光文社発行
イラストレイテット・ガイド:2 現代のエリート部隊
マックス・ワルマー著/宇垣大成訳 ホビージャパン発行(絶版)
※資料がちと古いので今はこうじゃないかもしれません。図書館か大きい本屋を当たれば何がしかの資料は見つかると思います。
  ooi


下のスレでも書こうかな?と思ったのですが、伊国のカラビニエリは警察軍ではなく 憲兵隊、ジャンダルメリーです、、、。やっぱり難しいかな?
ナゾの人


憲兵隊と翻訳すると、一般警察業務を行っていることが判りにくいので、あえて警察軍と書かせていただきました。フランスのジェンダルムリにしても、軍事警察の権限を有するものの、一般警察の業務を行い、旧軍の憲兵業務は陸軍の場合、PMという軍内兵科が行っています。
蛇足
なお、仏陸軍のPMは連隊に15名ほど置かれ、補助憲兵10名正規憲兵5名で、連隊内のとりしまりにあたっているそうです。
蛇足の蛇足
なんでもEUの110は112だそうですが、イタリアで112をコールすると内務省系ポリツィアでなくカラビニエリにつながるそうです。(人数も前者7万人に対して後者11万人) 後者は、英語を話せる隊員も多いそうなので、イタリアで犯罪にあったらカラビニエリを呼んだ方がいいかも知れません。
この手の組織は日本では単純に憲兵と翻訳されることが多いのですが旧軍の憲兵とは業務形態が違い、明治以降の日本に類似する組織がない(旧軍の憲兵も一般警察の権限を有していたそうですが。江戸時代の火盗が一番近い組織かな)のでなんと表現していいのかいつも悩みます。
SAW


韓国併合後、大正8年までの朝鮮における陸軍憲兵隊が、仏式・伊式の憲兵に該当する機能を実行していたと思われます。
あるめ


↑3.1運動を契機に廃止されたのでしたかな。内地でも米騒動の時には憲兵が出動したらしいですね。
さらに蛇足
ベルギーの警察軍は内務省に編入されてしまったようですね。もっとも、仏ジェンダルムリも、平時は内務省や司法省の捜査指揮を受けることが多いようですし、スペインのガルディアシビルも内務省の監督下にある事項が多数あるようです。
SAW


・・・ですから本来は下のスレに書くべきだったんですが、日本語の『憲兵』とは本当はジャンダルメリーに対する訳「語」でそれを日本は西南戦争後、具体的には竹橋事件以降、陸軍の兵科として編制されたのです。
この為、複雑骨折的難解さの様相を呈した国家による暴力機構、警察作用に関する理解の経験的の措置が出来てしまったため今日に至るまで基礎的部分に渡る誤解が生じました。 日本に於いて憲兵科の誕生、というと一般には前述の“竹橋事件”であり同期のに『軍人勅諭』とともに軍紀/規に関する事項、軍事警察の成立についての視点で(のみ)語られています。しかし、これは西南戦争の終結、警視庁“軍”の廃止という国家に於ける“暴力装置の統合”という点で書かれた歴史ではありません。
因みにSAWさんは間違っていないのです。特に
>「・・・の権限を有していたそうですが。江戸時代の火盗が一番近い組織かな)のでなんと表現していいのかいつも悩みます。
という点で明確に読みとれます。
実際、私も歴史主義的にはカラビニエリは“近習・馬廻り衆”とか訳したいのですから。 ただ今日の日本では一層混乱するだろうな、と思って実施していません。マルシャルは征夷大将軍なんだよ、って言っても判ってくれる「西洋史研究者」はあまり居ませんし、、、。(私はテンパッて居たとき、『三銃士』は今風には「憲兵物語」だなあ、と真剣にも思ってしまった事があります・・・)私も同じ悩みに陥っているのです。
ですからSAWさんが間違っている訳ではないのですが、錯誤に陥っている、ということでしょうか?
所管が国防省が持つ警察作用が憲兵隊、その中で警察作用が軍隊に対するものに限定されているものが「軍事警察」。警察軍、若しくは国家警察、武装警察とは内務省若しくはそれに相当する行政機関が所管し、軍に対する警察作用は働かないのです。
ということで日本では歴史的理解では軍事警察が「憲兵隊」として理解されていますが これは『軍法会議』が「特別軍法会議」のイメージで語られる別個のものと入れ替わっているのと同様、そして事実日本での「憲兵隊」とはジャンダルメリーとして警察作用を発揮していたのです。
・・・下に新たに書きましょうか?イヤ正確なものを書かなくては成らないんでしょうね。
ナゾの人


佛・伊式の憲兵隊が面白いのは、本来、内務省警察が行うべき警察業務を代りにやっているところで、田舎の駐在巡査の代りに駐在憲兵がいて、どこにも「おまわりさん」がいない事です。(パリ警察は別として。)これを戦前の日本に当てはめると、日本陸軍の勅令憲兵は内務省警察と仲良く棲みわけをしていた事になります。憲兵隊も民間人を対象として警察業務を行えましたが、内務省警察(町奉行)は軍人(武士)の軍刑法犯罪を取締まる事ができなかったので、権限は憲兵の方が一枚上手です。憲兵は民間にまで手を広げることをしなかっただけと思っています。けれど特別高等警察(思想警察)部門では活発に動いているところを見ると、その気になればできたのでしょう。明治前期に東京の治安が悪化した時、憲兵が抵抗する強盗現行犯をその場で拳銃を抜いて射殺したと云う話を聞きますが、市民は頼りになる憲兵として認識したとのこと。この式の憲兵が各市町村あまねく駐在して、警察業務を行ったのが、軍政時期の外地(植民地)憲兵隊で、仏・伊式にそっくりなのです。その後、總督府の文官警察と交代して駐在所を明渡し、専ら衛戍地や交通要地にて軍事警察に専念するようになりましたが、憲兵の目の前に民間人の強盗現行犯がいればこれを逮捕する事は以前と変りません。ちょうど火盗改の如しです。要は棲み分け方の問題ではないかと存じます。
あるめ


仏国においては、都市の人口によって優先管轄区域を分けており、小都市や地方においてはジェンダルムリーが一義的に警察権を行使している場合が多いようです。一方パリでは、内務省国家警察の一部であるパリ警視庁が一義的に警察権を行使しており、ジェンダルムリーは重要人物や重要施設の警備にあたっていることが多いようです。(他にも大都市には警視庁級の警察本部があるとのこと)以前は、パリ警視庁と他の内務省系警察は別組織でしたが現在は一体化されており、内務省系国家警察もそれなりの勢力で全国展開しているもようです。(CRSという機動隊も保持しています。)又、ジェンダルムリーと国家警察の擦り合わせも進んでいるらしく、先日パリ市内で、白バイ(国家警察)青バイ(ジェンダルムリー)合同チームが橋梁輸送の先導にあたっているのを目撃しました。
一方イタリアの大都市では、内務省系国家警察とカラビニエリが完全並立しており、イタリア人にも両者の違いが良く分からない人がいるような状況のようです。地方でもTVニュースの画面を見る限りでは、両者のパトカーが見られるようですね。(カラビニエリの方が人数が多いので、より地方までカバーしている可能性がありますが。)
なお、仏伊両国とも「市警」が存在する都市がありますが、米国と違い、交通取締り等の限定された業務を行っているようです。
あるめさんの植民地等における憲兵運用の話は興味深いお話ですね。うろ覚えですが、軍隊系警察の任務が、国境警備やテロ及びスパイの摘発になっている国もあったように記憶しています。欧州各国でも、軍隊しか活動できない植民地及び辺境の警察活動や国家そのものに対する警備公安事案の対処を軍隊が行っていた歴史が、軍隊系警察の発達の元になっているのかも知れません。
余談
イタリアでは、カラビニエリが黒バイ。国家警察が青バイのようです。見聞したかぎりでは重要人物の護衛は、黒バイが行っているようです。
(他にも大都市には警視庁級の警察本部があるとのこと)
これは、内務省系国家警察の警察本部です。場合よってはこちらも「警視庁」と翻訳されることがあるそうです。
本題
コンバットマガジンによれば、カラビニエリ空挺大隊は、1996年に空挺連隊になったとのことです。イタリアフォルゴーレ(雷撃)旅団所属のカラビニエリ大隊のことかも知れません。
SAW  
→ top


【米獨立戰争當時の歩兵戰術】


映画「パトリオット」で、アメリカ独立戦争が描かれていましたが、あの当時の戦術について質問があります。「パトリオット」で描写されていた戦闘シーンは、こんな感じでした。
軍楽隊の音楽にのって行軍したアメリカ、イギリス両軍が何も遮蔽物の無い平原で対峙。(事前に両軍の間で何処で対戦するか打ち合わせがあったのでしょうか?)アメリカ側の最前列が号令にあわせてマスケット銃を一斉射撃。イギリス側の最前列の兵士達がバタバタと倒れていきます。不思議なのは、最前列の兵士達は突っ立ったままで、伏せたり 隠れたりしないということです。怖くないのでしょうか?いや、怖いことは怖いのでしょうし、下手に逃げたら将校に射殺されるのかもしれませんけど・・そして、アメリカ側の一斉射撃が終わると、今度はイギリス側が一斉射撃。同じようにアメリカ側の最前列の兵士達がバタバタと倒れていきます。(もしかして、かわりばんこに、一斉射撃をするという了解があるのでしょうか?)そして、お互い何回かこれを繰り返し、最後は騎兵隊や歩兵の銃剣突撃になるようです。
こんな戦争をやっていたということが、理屈ではわかっても中々信じられません。当時の戦術はこのようなものだったのでしょうか?


映画だから脚色もあるのだろうが、当時のマスケット銃はかなりの重量があり、1回撃つと次弾装填に時間と手間がかかる代物です。有効射程も短く(100m程度か)命中精度もあまり良くない。したがって、ばらばらに撃つよりも、一斉射撃を行う方が火力を集中でき効果がある。このようなマスケット銃を持って行進し、合図で弾を装填したり射撃するわけだから、結局、代りばんこに攻撃する形になってしまうのではないでしょうか。 「ワーテルロー」という映画を見たことがありますが、わりと見晴しのよい緩やかな丘陵地での歩兵の密集隊形による戦闘シーンが描かれています。銃を持った歩兵部隊同士が行進しつつ射撃を行うシーンとか、槍を持った密集隊形の部隊がぶつかりあう様子がありました。当時の銃だと、長射程からの狙撃を行ったり、物陰に待ち伏せして攻撃しすぐに退散するヒット・アンド・アウェイ戦法を取ることが難しかったのでは。
アリエフ


米国で、当時の戦闘を再現する行事の映像を見ても、映画と似たような状況のようですね。交互にやるかどうかは別として、一斉射撃で相手をひるませ、最後は騎兵や歩兵の突撃に持ち込むという戦術だったような印象です。当時の銃砲の性能では、敵に大打撃を与えることはできず。最後の突撃戦に備えて隣の戦友が倒れても、じっと我慢の子で密集隊形を維持するという戦術だったのでしょう。又、先込め銃では、装填の時に伏せたままではやりにくいので、現代のように伏射で応戦するということもやりにくかったようです。 フリードリッヒ大王が「兵士をして敵よりも見方の将校を恐怖せしめよ。」という格言を吐いたという記憶がありますが、「じっと我慢の子」を維持させるためだったのだろうと考えています。ただ民兵の米独立軍は、遠くから英軍を狙撃して逃げるという「卑怯」な戦術で英軍を悩ましたようなことが記憶のどっかにひっかかてます。(苦笑)
SAW


密集隊形で我慢の子になる理由はわかりました。「変わりばんこ」に関してですが、はたから見るとそう見えるだけで、お互い了解があるわけでは無いようですね。
ただ、DVDで「パトリオット」のクライマックスの戦闘シーンを観なおしたら、またわからなくなりました。最初の最初にアメリカ側(民兵を中心にしています)が射撃するのですが、その間、イギリス側は突っ立ったままです。イギリス側も既に銃には弾は装填しているはずですから、さっさと撃てばいいのに・・単なる映画的な演出かな?
それと、どう考えても最前列の兵士の死亡率は最後列とは比べ物にならないほど高いはずですよね。やっぱり順繰りで最前列担当は交代していくのでしょうか?

歴史群像(学研)のナポレオン・戦争編を買って読んでるが、ナポレオンがオーダーミックスという縦隊、横隊、散兵の結合編成による戦術上の改革を行う以前のことだからな・・。アメリカ独立戦争の頃の歩兵部隊は、行進縦隊から横に展開して何段もの縦隊を作るのが普通だったのだろうが、徴兵制で規律が取れていないため隊形の変更に時間がかかる。そして、この縦隊は機動性に欠けており、正面攻撃から迅速に側面攻撃に移ることが難しい。密集縦隊が行進しつつ、最前列が一斉射撃した後、直ちに後ろに下がり次の段の部隊がすぐ射撃するという運動を、統制を取って行うことができたのだろうか。もちろん、同時代でも各国によって差があるし、ナポレオン以前でも、こうした複雑な運動を伴う戦術が考えられ訓練も行われていたのだろうが、アメリカ独立戦争の時、これを実践することができたのだろうか。歩兵は地図もコンパスも支給されていなかったろうし、肉声か軍楽隊の太鼓の音くらいしか指示・命令を伝える手段がない。兵站も未発達かその概念が十分認識されていなかったので現地調達が頻繁に行われた。大軍ともなれば、かなりの食糧を保有する農場や農村に宿営しないと兵は飢えてしまう。だから、大会戦は見通しが利く牧場・農地のような所で多く行われたようです(ワーテルローもそのような所かな)。
ともかく、この映画、見てみる必要性あるな。マッド・マックスのメル・ギブソン主演だし・・。
アリエフ


ものの本によれば、米独立軍は、狩猟用ライフル(パッチで包んだ丸弾がライフルで回転する方式と思う。)を使用するものが多く、スムースボアの銃を使用する英軍よりは、遠距離から正確に射撃できたようです。一方スムースボアは、ライフルの2倍の早さで、装填できるそうですが、自分の射程内に近づくまで、やっぱり「我慢の子」だったということでしょうか。米独立軍は、猟師出身者など、集団戦術は不得手でも、射撃は得意な者が多いので、遮蔽物から遠距離狙撃するなど、自軍に適した戦術を取ることも多かった ようです。いわば、「素人戦術」ですが、相手側の英軍や、独立軍を応援した仏軍にも影響を与えたとのことです。
もう一つ、ものの本の受け売りですが、映画での表現はともかくとして、米独立軍が、伝統的集団戦法を行う時は、2列横隊だったそうです。又、フリードリッヒ大王の軍隊では、3列横隊で1列目が膝撃ち、2と3列目が立ち撃ちで、どの部隊から一斉射撃するか順番が決まっていたそうです。すくなくとも、プロ兵士である英軍は一斉射撃をしながら、秩序だって前進できたのではないでしょうか。
SAW


最前列の兵が倒れると、その直後に位置する後列兵が前に進んで、前列の穴を埋めます。 なかなか射撃しないのは、我が有効射程距離まで横隊を前進させるのが優先事項で、有効射程距離の境界で適当に停まって射撃を開始すると効率が悪い(タマは敵にほとんど命中せず、その頭上を飛び越していく、または地面にあたる)からと思われます。なお、当時の兵卒は馬並みの消耗品とみなされており、将校は損害をものともせず隊列を進めたということです。甚だしきは、スペイン戦線で彼我の隊長同士(貴族出身)、そうぞお先に射撃されよ、と優雅に数回譲り合いをしたと、ナポレオン従軍将校の手記にあります。隊列はおみこしのように緊密に組まないと、恐怖から壊走するおそれがあり、そのため横隊の後ろに下士が大勢で「押伍列」(監視)として控えており、これは逃走しようとする兵を斬ったり槍で刺殺するためです。
しかし有効射程距離内での横隊一斉射撃の威力はすさまじく、ちょうど機關銃が薙射をひとつ喰わせるくらいの損害を与えたようです。すくなくとも中隊150名の半数が射撃するのですから、70発程度の彈丸が何の遮蔽も無い暴露列に飛んできて瞬時に前列を薙ぎ倒すことになります。すかさず次の斉射を行い、各中隊協同で緊密な弾幕射撃を続けていけば、敵は耐え切れずに壊走を始めるということになります。これに耐えるのはよほどの精神力ないし厳正な軍規が保持されてないと難しいとされました。ところが予め待ち伏せて隊形を展開し、射撃準備体勢をとっていると、この恐ろしい横隊の接近を撃退することも可能であるようです。敵横隊が有効射程距離に到着して射撃を開始するまでに若干の余裕があり(中隊とまれ、前列膝撃ち用意、目標なになに、狙え、撃て、の号令だけで大分時間がかかる)、その間に当方から一斉射撃を先に開始すれば、うまくいくと敵は志気粗相して後退します。米軍は射撃の練達者が多く、また愛国心に燃えていたので、英軍の横隊が射撃有効範囲に近づこうとやってくる間に沈着な射撃を見舞って相當の損害を与えたようです。米軍将校はなかなか指揮に苦心したようで、有効打を増やすため「英軍兵士の目の白いところが見えるようになるまで撃ってはならん」と指導したということです。
あるめ


私は、昔の騎士同士の戦いや、日本の武士が「やあやあ我こそは・・」とやっていたみたいな、ある種の儀式的なものが残っていたのかと思っていましたが、そうでは無く、あくまで当時としては理詰めで考えられていた戦法だったのですね。

たしか,1750年代イギリスの兵隊さんは相手の白目が見えるまで引き金を引くなと教えられていたはずです.精々,70m程度らしいです.で,独立戦争時,アメリカの銃には,ライフルがあり275m先の人間に当てる事が出来たそうです.
U  
→ top


【接舷斬込】


昔の帆船時代の海戦で、接舷して切り込み!というのをよく学校の資料集などで見ます。 これは、相手が「大砲をぶっ放してこない」という大前提でやれる行為だと思うのですが、接舷してくるのを見たら付き合ってやるというのが海の男の礼儀だったからなのでしょうか?それとも、至近距離で撃つ事が危険だからなのでしょうか?


素人考えですが,帆船の時代には船に動力が積んでいないため,水平射撃しか出来なかったのでは無いでしょうか。大砲も割合に小型でしょうから,あまり遠方には届かなかったと思います。さらに弾もライフリングされていないでしょうから命中精度も低かったものと思われます。かつ,弾は球形でしょうから水面に落下した後,すぐに沈んでしまい,直進して喫水下に命中することは殆どなかったと思います。ご存知のとおり喫水下に穴があかないと船はなかなか沈みませんから,大砲はそれほど効果的な兵器では無かったと考えます。
また,攻撃側も相手船舶の拿捕が最大の目的であったと考えます。相手が軍艦ならば,自分の戦力が増加しますし,価値有る交易品を積載した船舶なら自分の利益になりますね。ですから,船舶はなるべく無傷の状態にしたかったのでは無いでしょうか。ナポレオン戦争の時代,英国海軍の軍艦よりフランス海軍の軍艦のほうが一般に高性能であったため,フランスの軍艦を拿捕した時は喜んだという話を聞いたことがあります。
へたっぴ


大砲は、白兵戦に移る前の準備段階とでも言いましょうか。できるだけ多くの敵兵を殺傷し、あるいは戦意を喪失させて、接舷後の白兵戦を優位に進めるための砲撃です。これは当時の大砲が門数も少なく、船体が木造であったことも手伝って敵船を抹殺するだけの能力をまだ持っていなかったためでもありました。しかし大砲の性能向上や、大量の大砲を搭載できるだけの大型船の建造によってこの海戦構造は終焉を向かえていきます。ガレオンの登場と戦列艦への発展は、海戦が砲戦主体に移行したことを明確に示しています。
勝井


勝井山調べてから書こうね。門数で言うなら戦列艦なら100門以上積んでるぞ。木造船体になら球実弾でも被害は大きいし、ぶどう弾等の特殊弾もあったし、その目的に策具を破壊するというのもあったぞ。砲撃だけで撃沈された例も多数存在するぞ。
#1でへたっぴさんが述べられたように、交戦距離が比較的短かったのが全てです。そして、その短い距離では、多数搭載した大砲でも十分な打撃を与えにくかったのです。当時は帆船ですので、敵との距離を適切に保って殴り合いというのが中々難しく(並走してても風向き次第で位置関係が変わる)よって有効射程が短いという事は、射撃をする時間があまり取れないという事です。接近>有効射程は敵人員の目玉が見える距離>双方はあっという間に有効射程から外れてしまう>何度も繰り返すと被弾等で帆船ですからロープが切れたりとか嬉しくない事が起こる>勝てそうな側は一挙に勝利を決める為に接舷を狙う。とまあ、こういう感じで推移するのです。
勿論、捕獲した場合には賞金が出るというのも大きかったです。撃沈したら賞金にはなりません。捕獲した艦はその艦に与えられる訳ではなく、回航の為に人員も取られますので、決してその艦の乗員には嬉しい訳ではないのですが、何しろ代わりに捕獲賞金が乗組員には支払われるのです。ですから高額査定になる優秀艦や高価な積荷を運んでいた船を捕獲すると大喜びでした。
SUDO


いや、調べてるけど。新紀元社「海の冒険者たち」が参考資料。
後にジョン・ホーキンスの指導によってイギリス艦隊のガレオン船はより一層砲戦主体の艦隊に進化していくそうで。
勝井


それは接舷切り込みに比べて砲戦の比重が上がっただけの話。ナポレオン戦争当時の一般的な海戦における戦列艦の通常交戦距離は600yds以下、射撃間隔は180秒。これで砲戦主体の戦闘が出来ると思う?因みに英艦隊は当時としては画期的な斉射間隔90秒、加えて船体を狙う、という戦法を取ったことにより各所でフランス艦隊を撃破しているけど(他海軍の戦術は索具やマストを狙って足を止めるというもの)、更に言えばトラファルガー海戦で砲撃により戦闘で沈んだ艦が何隻あった?大半が捕獲の後、その後の台風による沈没だよ。
大塚好古


ネルソン提督が艦上で、「小銃」による狙撃で戦死したことからも当時の「砲戦距離」が想像できると思います。なんでもフランス艦の艦長は自艦の砲撃術力の低さを認識してたために最初から接舷切り込みを意図して多数の狙撃兵を配置していたとか(ネタ本は原書房の本だけど現在手元になし。)相手が「大砲をぶっ放してこない」という大前提ではなく「相手が大砲をぶっ放してくる」という大前提で接舷切り込みしてたみたいですね。結局、この時のフランス艦は切り込みにはいたらなかったみたいですけど。
あと英軍においては第二次大戦中くらいまで分捕り船の賞金が将兵に出てたんじゃなかったのかな。この前TVでやってた「ホーンブロワー」でも「本艦から離れた場所で敵艦を拿捕したら、分遣隊だけで賞金が山分けできると知ってて敵艦を拿捕したのか。」とかホーンブロワー君が艦長から言われてました。
SAW


も一つ理由として、「木造帆船を作るのは手間がかかる以上に、資材不足で困難」でした。良質な木材が枯渇してしまうためです。そのため、拿捕した敵の船をそのまま自国艦隊に編入して使うことは珍しくありません。その意味でも分捕った方が沈めるより価値があるんです。沈めたら一隻の戦果ですが、拿捕だったら差し引き二隻の戦果になりますからね。
tac


徹底して相手艦を撃沈しようとするか、どうか、により艦砲の使用方は変化すると思われます。ぎりぎりまで接近して片舷斉射、艦首・艦尾の速射砲による連打など、は合戦でよく見られます。相手艦も接近してきて凄惨な砲撃戰となるのは、本格的な戰艦同士の死闘で、どちらも妥協せず、沈むか、沈められるか、乗っ取られるか乗っ取るかとなります。これに海兵隊の小銃狙撃が雨あられと注がれ(小銃狙撃が有効な距離にまで彼我接近している、双方の艦の間の水上は破壊落下した構造物が大量にぶかぶか浮いている)、近距離なので船體・乗員ともに大損害を蒙ります。ことに檣楼を破壊され、兵員に大損害を出した方は、艦が動けないので決死の覚悟となり抵抗はかえって強まります。(運動戰を伴うと、なかなか決着がつかず、劣勢となった方が頃合を見て逃走に移り、長い追撃戰の後に勝敗はうやむやとなります。)
その一連の過程のどこかで、接舷斬込が双方のうちから惹起されるケースが多く、大勢で自艦に乗り込まれると艦砲を撃っているどころではなく、あっという間に艦上を占拠され殺傷されるので、砲手も白兵をとって迎撃におおわらわとなります。斬込中に相手艦が発砲しても、次の装填を行っている間に、砲甲板に押し寄せたこちらの斬込隊員により砲員を殺傷されてしまい、次が撃てなくなります。指揮官は凄惨な砲撃戰の間も冷静に接舷斬込の戦機を窺っており、彼我の勢力比を計算しています。勝算のある時は躊躇せずに斬込を選びます。そのアテが外れて撃退・逆襲されることもあります。
通商破壊を目的とした小艦による小戦闘では、乗員が捕獲償金を目当として奮戦します。砲撃は檣楼など艦上の構造物を破壊して威嚇するだけで、なるべく船體に損傷を与えず、積荷と共に拿捕する必要がありました。相手艦船が降伏せず抵抗する意図を顕にする場合は、接舷斬込をもって制圧しました。相手艦船が当方より重武装をしていて近づきがたい時は、策略を巡らせて当方の存在を慎重に隠蔽して、数隻のボートに斬込要員を満載し(小砲を舳先に積むこともあり)、長駆挺身、濃霧や夜陰にまぎれ相手艦に接近し、斬込急襲を行うこともありました。寝入りばなを襲われると相手も見えず艦砲を撃つどころではなく、舷側番兵が倒されると、あっという間に艦上を占拠され、あっけなく相手艦の乗員は捕虜となります。
明らかに償金が得られるにもかかわらず、艦長が臆病で、可能な攻撃を行わず、ことに接舷斬込を避けて相手艦船の逃走を許した場合は、逆に命を懸けて奮戦した自艦の乗組員の不満をたかめ、持って行き方によっては叛乱を惹起し、艦長の職権と権威を認めないと云う事態になります。
あるめ


斬り込んで来るのを待ってやるどころか、敵艦の甲板に待機した斬り込み隊を艦砲で掃射して皆殺しにした例もあります。トラファルガーでフランス艦ルドゥタブルはそのような形で白兵戦力を失ったところを英艦テメレーアに逆に斬り込まれ、捕獲されています。
大名死亡


接舷斬り込み戦といえば、日本最初の近代海戦といわれる(らしい)戊辰戦争の宮古湾海戦(1869年)も、榎本海軍の『回天』が新政府海軍の『甲鉄』に強行接舷しての斬り込み戦でしたね。江差で『開陽』を失った榎本海軍が『甲鉄』奪取と起死回生を狙って仕掛けたこの戦いでは、『回天』は米国旗を掲げて単独侵入し直前で日章旗に変更して『甲鉄』に攻撃をかけましたが、『回天』の上甲板は『甲鉄』より3mも高かったそうで、勇を鼓して飛び乗らんとした斬り込み隊は下で刺殺されるか銃弾を浴びせられる羽目に陥ったとのこと。結局戦闘は30分ほどで『回天』の負けとなり退却・・・
ブラック・タロン


接舷後敵艦に乗り移るための器材の変遷、ローマがカルタゴとの戦いに使った、打ち降ろして鈎爪を敵艦に食い込ませる桟橋は、その後どうなったのでしょうか。
補足。クレーンの様に持ち上げられ旋回する、打ち降ろしたときに敵艦に食い込み固定する鈎爪が付いた、桟橋です。
りとるにも


明治初期の日本海軍兵学校のカリキュラムには、艦の衝角での体当りと、接舷斬込が科目として載っています。蒸気船時代にもブラックタロンさまの言及なされたごとく、帆船時代の戦術がちゃんと生きていて制式となっているのですね。(けれど日本刀を振りまわす獰猛な日本海軍には余り斬込されたくないです)
あるめ  
→ top


【警察官のサーベル】


昔の警察(軍隊も?)はサーベル拵の日本刀を使っていたそうですが・・・。
1,日本刀は両手剣でサーベルは片手剣だが、持ち手はどちらに合わせてあったの か、またその形状は。
2,いつからいつまで使われたのか。
について教えてください。


警察の使うサーベールには実際はほとんど刃が入ってなかった、と聞いた記憶がありますが・・・。いわゆる、「指揮刀」みたいなものだったのでしょうか?,br> Soby


Gun誌1994年10月号で大井川武如氏が『日本警察の武器の変遷』について記事を書かれています。
それによると、警察官が警棒に代わる武器として帯剣を認められることになったのは明治15年からだそうで、警部補以上の高級幹部にはサーベル形式の外装に日本刀の刀身を組み込んだものが支給され、一般の警察官は切っ先のみ刃を付けた刺突専用のサーベルを使用したそうです。
この時警察官の武器としてサーベルが選ばれたのは、当時のヨーロッパの警察がサーベルを使用していたことや、明治10年の西南戦争で『警視庁抜刀隊』が大きな活躍を挙げたことがきっかけとなっているようです。
警察官のサーベル武装は終戦まで続けられました。なお、大正時代に入ると、一部の警官はサーベルに替えて短剣を携帯したそうです。
余談ですが、我が父が知り合いから聞いたところによると、警官がサーベルで相手を殴ったら刀身が曲がってしまったことがあったとか。一般警官用のサーベルの製法等がわからないので、この話の真偽は不明です。
 一方、日本軍将校の軍刀は最初サーベル形式(日本刀刀身)でしたが、昭和13年に洋式外装は廃止されて日本刀形式になりました。将校用の軍刀は拳銃と同様に個人負担(私物)が主で、満州事変以降、個人で日本刀拵えにした軍刀を持参する将校が増えたため、軍の規定自体を変更するに至ったと聞きます。
ちなみに、現在の自衛隊の儀礼用指揮刀は旧海軍士官用軍刀(サーベル形式)に類似したデザインだそうです(儀礼用ということで刀身は模造らしい)。
ブラック・タロン

A>
>日本刀は両手剣でサーベルは片手剣だが
警察の事に関しては判りませんが、大日本絵画の『日本の軍装 改定版』に陸軍将校用の両手握りのサーベルのイラストが載っていました。その解説によると、日中戦争初期まで使用されていたそうです。形状ですが、イラストでは判別が難しいのです。
将校用の日本刀形式の軍刀は98式の前に94式(昭和9年制定)があったように思います。
ウエストモーランド


支那事変後期から終戦までの陸軍将校の多くは九五式軍刀を払下げまたは貸与されていたのではないでしょうか。
BUN


1.軍刀に関しては、皆さん御存知のHPも、覗いてみましょう。
  http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage53.html
  http://www.hx.sakura.ne.jp/~troll/jyukahou/sword_05.html
2.K察のサーベルに関しては、ここの3階へ、行って勉強してきてください。
  http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/chosya/hakubutu/hakubutu.htm
紅葉君は東京近在だと思いますので、夏休み期間中の今なら行けるでしょう。でも、一昨年位前に行きましたが、 基本的に非公開主義のK察だから、各種展示内容は、ショボイです。無料だから、文句言えませんが!!
軌跡の発動機?誉


友人の日本軍装マニアによれば、終戦直後、米兵が日本の警察官のサーベルをスーベニールとして譲ってくれ、としつこく頼んでくるのにほとほと困った、という話がありますので、終戦で使用禁止になったわけではありません。うちの父親の記憶によると、その後の制服改定の時という事でしたので、調べたところ1946年7月30日に警察官の制服改定がなされており、この際サーベルが正式に廃止となり、警棒が採用されたようです。ただ警察署によっては改定前にサーベルの吊り下げを止めたところもありますので、終戦時云々も間違いとは言えません。
大塚好古


九五式軍刀は下士官用のみではなく将校向けにも貸与、払下げで大量に使用されたようで日本刀の形態を備えて初めて大量に装備された軍刀は九五式が最初かもしれません。また、九五式軍刀は既に大量に装備されていた三十二年式軍刀から改造されることを念頭に置いて制定されています。九五式に生まれ変わった三十二年式が相当数存在するらしいということ。試作品は当初、サーベル式に作られていますが、これには騎兵にはこの形態が適するという判断があった為のようです。九五式はそういった点からも歩兵、騎兵両用かつ将校刀も兼用する汎用軍刀としての位置にあります。
BUN


私が以前に見た「巡査用」サーベルは、柄はまったくの片手用で、軍用の両手用サーベルと別物のように見えました。又、「警部用」サーベルの方が刀身が長かったようです。(柄は記憶ややあいまいだがやはり片手用だったと思う)片手用サーベルに利き手による違いがあるかどうかは存じませんが、写真などによれば、サーベルは左腰に吊っていたようなので、右手で使用していた可能性が高いように思われます。
補足
大津事件の時に、巡査に切りつけられたロシア皇太子は、重傷を負いながらも助かっていますし、取り上げられたサーベルで切られた巡査も負傷だけですので、巡査用サーベルはブラックタロンさんが言われる程度の殺傷力だった可能性が高いように思われます。
余談
町奉行所同心も犯人逮捕の時には刃引きした刀(刺突しないと殺傷力が低い)を持っていったそうなので、警察サーベルも捕り方の伝統を引き継いだのでしょうか。十手を使用する警察官も戦前までは見られたそうです。
SAW


私、一尺一寸の脇差(新刀)を持ってますが、振りまわしてみると、あれ、完璧に片手用ですよ。剣道は、ほんの少しだけ、かじってましたが、
・竹刀(標準3尺8寸)と日本刀(2尺〜3尺)では長さが違う。
・剣道は「寸止め」の動作が必要。斬撃は振り降ろす動作が必要。
の2点で、剣道の動きと実戦は違うという、個人的な見解です。
刺身包丁(実効寸法は短刀程度)で巻藁切りの真似事をしてみると両手は必要無いような印象を受けます。
エロチカ番長


渡辺真哉(?)氏の「鉄砲と日本人」か同士の他の著作のどれかに他の本のからの引用文を解説して宮本武蔵の言葉として刀は片手で扱う物で両手で持つのは邪道、自分が二刀流を提唱するのも片手で〜(文章は違います)の様なことが書かれていました。長巻とにするような極端に長い太刀は別にして、ふつうの刀を両手で扱うのは江戸期に入ってからの太平の世の道場剣法で主流になったと考えても良いのかもしれません。(足運びも)
素人の空耳モード


警察のサーベルは、右手持ちで、左腰に吊るし、刃をひいてあり、鞘は金属、いじるたびにガチャガチャ音がして、余り実用的とはいえない代物だったのですが、民衆が動揺・騒擾する時に抜刀すると、沈静効果があり、また指揮刀の代りになりました。日本海海戦の時に、露西亜艦の乗組員が大量にボートで漂着してくると、当該海岸の駐在巡査は抜刀して、付近の住民を指揮しました。その後、交通整理の際に邪魔にならないように刀身を短くしたのを吊るしたりしました。警察式のサーベルは、文官の護身用に広く使用されており、監獄職員や旧植民地の文官(小学教員を含む)も時代によっては、これを帯刀していました。
陸軍のサーベルは、正規の服制では将校准士官は「指揮刀」(たいていは刃をひいてある軽い拵えで、実用にはならない)を吊るすことになっていたのでしたが、出征時には日本刀をサーベル拵えにして白兵戦での効果を最大限にするよう工夫したものを吊るしていきました。しかし上等の日本刀はすぐに曲ったり折れたりするので、予備を持っていく必要があったそうです。帯刀本分の下士官兵は、官給の曹長剣・騎兵刀をあてがわれて、これで戦いました。こっちは重くて頑丈で、敵の白兵を撥ね退け、斬撃刺突するに相当の効果があったようです。これは日清・日露戰役の頃の話です。
平時の将校は、服制に従って、席を立って、うろうろしている時には、特に屋外に在るときは殆ど常に帯刀していたので、「重いのはかなわんよ」と、なるべく軽い指揮刀を選んで佩びていたのでしたが、無骨を標榜する将校には、出征部隊でもないのに日本刀を常時帯刀する習慣が流行し、昭和の皇道派青年将校にそういう人が増えました。そのうちそれが戰時服制に採用されてしまったのでしたが、満州事変以降も依然として昔ながらの指揮刀を使用している将校は、なお多くありました。
あるめ


>警察のサーベルは、右手持ちで、左腰に吊るし、刃をひいてあり、鞘は金属、い>じるたびにガチャガチャ音がして、
このために戦前の不良は警官のことを「ガチャ」と呼んでたそうです。
>監獄職員や旧植民地の文官(小学教員を含む)も時代によっては、これを帯刀し>ていました。
脱走犯が工場に逃げ込み、鉄棒を振るって抵抗するのを、看守がサーベルで大腿に切りつけ、工員と一緒に取り押さえたという事例があったそうです。
SAW  
→ top


【海軍の大佐・大尉の讀方】

A
ちょっと教えてください。
既出の質問でしたら申し訳ありませんが、旧海軍の場合、「大佐(だいい)」、「大尉(だいい)」と濁音で読むと伺っています。ですが、大正期の文献や新聞記事を読むと「大佐(たいさ)」「大尉(たいい)」として使われている例が散見されます。
1.併用して問題はなかったのか?(電報ですとカタカナ表記になると思います)
2.半濁音で読むようになったのはいつからでどういう理由によるものなのか?(用語の統一を図る理由が発生したのか)

A
2について
ちょっと気になって調べた事があるのですが、私が見つけられた範囲では、「ダイイ」の初出は、明治13年1月3日の電報です。(アジ歴 レファレンスコード C09114381500)それ以前の文書で海軍大尉の読みがわかるものは、皆「タイイ」でした。(もっとも早いものは明治7年・アジ歴レファレンスコードA03030206500)
アジ歴で「海軍 大尉 ダイイ」でヒットするのは3件、「海軍 大尉 タイイ」でヒットするのは14件で、タイイの14件のうちには陸軍の文書が6件含まれていますが、それを除いても「タイイ」の方が「ダイイ」より多いと言うことはできるでしょう。
同様なやりかたで「ダイサ」を調べると、明治38年の一件のみ(アジ歴 レファレンスコード C09020167400 二件ヒットしますが一件は別の部分のダイイ)。 「タイサ」は32件(陸軍の文書や別の部分のタイイもあります)。こちらは「タイサ」が大部分です。
なお、かつての電報では濁点、半濁点が一文字分として数えられていたため、電文においては、濁点、半濁点の省略が広く行われ、また、明治期には一般の公文書においても、濁点・半濁点を省略することが一般的でしたので、その結果ということも考えてみたのですが、電文を見ると他の濁点は省略されていない事が確認できるものが多く、濁点の省略とは考えにくいように思えます。(ただし、大尉、大佐は「ダイイ、ダイサ」と読むが、電文では「タイイ、タイサ」と書くという慣行があった可能性はあるかもしれません。)
というわけで、「ダイイ」「ダイサ」という読みがあったことは間違いないと思いますが、その読みがいつごろからどの程度普及したのか、また海軍大尉や大佐を「タイイ」「タイサ」と読むのは間違いといっていいのかについては、さっぱりわかりません。
そういえば、大将が「ダイショウ」でないのも不思議です。
カンタニャック

Q
どうも先生にご教示いただきましてありがとうございます。
それほど長い長文を打つわけにも行かないので省略できるものは省略してしまうと思うのですが、同様の発音をする陸軍などとはどのように区別するのでしょうか?
大将が「ダイショウ」でない
それはおそらく「代将」が存在することによるものかと思われます(ただ日本の場合には階級としては存在していないのですから、上記が問題にならないのであれば、こちらも問題にはならないと思います)。

A
いえいえ、興味深い問題提起ありがとうございます。
> それほど長い長文を打つわけにも行かないので省略できるものは省略してしまうと思うのですが、同様の発音をする陸軍などとはどのように区別するのでしょうか?
陸軍の文書や電文に海軍軍人が出てくることはめったにありません。管見の範囲では、海軍大尉あるいは海軍大佐と海軍をつけています。文書作成者もそのことを意識していますから、混乱の生じる可能性はかえって少ないように思えます。
なお、陸軍の文書の中に海軍からの電報が綴じ込まれている場合がいくつかあるのですが、いずれも「タイイ」「タイサ」です。
略語については、明治41年 第七版海軍部内電報畧(略)語表(アジ歴レファレンスコード C08020214200 6ページ以降)を見たのですが、司令長官などの職や鎮守府、兵学校などの機関、艦名などについての略語はあるのですが、階級についての略語はありません。特定分野の略語もあるようですが、階級名についての電信略語は見つけられませんでした。
私の見た電文でも艦名などには略語を使用しているものがかなりあり、多くの電文では略語の横に正式名称が追記されているのですが、そのような電文でも「タイイ」「タイサ」はそのまま記載されています。
また、戦前の法令や判決文などでは「何々すべし」は「スヘシ」と書き、それを「すべし」と読むのですが(他にも「セス」で「せず」など)、海軍関係の電文ではこのような場合にも濁点を使用し「タイイ」「タイサ」では濁点を使用しないものが多く見られます。
以下は私の乏しい知見にもとづく推測に過ぎませんが、「ダイイ」「ダイサ」は、あくまでも海軍部内の用語あるいは読み癖で、海軍内部の人間が「タイイ」「タイサ」といったりすると、汐気が足りないといわれたりするのでしょうが、海軍外の人間が「タイイ」「タイサ」と呼んでもそれはそれでかまわないという、海軍内外の人間を見分ける事ができる隠語に近い業界用語だったのではなかろうかという気がしております。
カンタニャック

A
当時の国語辞典などにはなんと出ているのでしょう。ちなみに手元には戦後のもの(1966年発行)しかありませんが、わざわざ「海軍ではだいいと言った」などと補足説明されていたりします。戦後広まった認識なのでしょうか?
とおり

Q
ご回答ありがとうございます。
>文書作成者もそのことを意識
1名程度ならそうも思えるのですが、宮中行事(晩餐会や観桜会など)や大演習の場合には複数の「大将」や「大佐」が出てきます。宮内省の文書作成者がそこまで気を利かせてくれていたのでしょうか?また逆に自組織の呼び方にこだわりを持つ人間もそれだけ参加者がいれば数名程度はいると思います。
RNR

A
>4
> 辞書
言海しか見ていないのですが、「大将」しかないんです。

> いつごろから海軍外で知られるようになったか?
国会図書館のデジタルライブラリで読める『海軍解説』(杉本文太郎著 東京 博文館刊 明38.6)のルビでは、タイイ、タイサになっています。(ライブラリーの28,29ページ)
このルビの当否の解釈はさておき、この本は海軍志願者向けの解説書ですから、この本を読んで、兵学校その他の諸学校に入学したり、あるいは海軍に入隊した若者達は、海軍(ないし諸学校)に入って初めて「ダイイ」、「ダイサ」という読みを知った筈です。

> 戦後広まった認識か?
戦時中の海軍の大拡張によって、「ダイイ」、「ダイサ」を知る人間は大幅に増え、その結果、戦後の辞書に採用される程度までは広まったというのは、説得力のある仮説だと思いますが、証明は難しいでしょうね。

>5
時々宮中行事や大演習などに関わる文書を見ますが、きちんとした文書では必ず階級の前に「海軍」「陸軍」がつきます。海軍部内の文書でも、公式性の高いものは「海軍大尉」なり「海軍大佐」なりが使用されるのが通例です。
問題は口頭で読み上げられたり紹介されたりするときどうだったのかですが、これはわかりませんねえ。侍従武官もいるわけですが。

> また逆に自組織の呼び方にこだわりを持つ人間もそれだけ参加者がいれば数名程度はいると思います。
これはまったくの推測に過ぎませんが、海軍部外の人間に「ダイイと呼べ」というような士官はスマートじゃないと思われていたのではないでしょうか。つまり一般人のどうでもいいような専門用語の誤りを得々と矯正する専門バカだと。
カンタニャック

Q
>6
ご教示ありがとうございます。私もこの問題には多少興味があって、と言いますのは親戚の元海軍大尉(故人)からそれこそ「海軍ではだいいと言うんだ」と聞かされてまして。残念ながらそれがどれぐらい普遍化できるものなのかは聞きそびれました(ふ〜んで終わってた気が)。ただ、私的には「大尉」を頭の中で「だいい」と発音したことは一度も無いですね。第一読みにくいですし。
さらなる資料が出てくることを期待したいです。

A
質問に対する直接回答ではありません。
私は昭和18年に甲種飛行予科練習生として海軍に入りました。
入隊早々に各階級の呼称についての教育を受けました。
大(だい)中(中)小(しょう)を基本に、大尉(だいい)・大佐(だいさ)と呼ぶように指導されました。大将(たいしょう)だけは、代わりの将との誤解を避けるための呼称と聞いています。
老兵

> 8
お教え、ありがとうございます。
ご厚意に甘えての勝手なお願いですが、老兵様は、戦争中に海軍関係者(出入りの業者あたりまでを含めて)以外の方が「だいい」「だいさ」という語を使うのを聞いたことがおありでしょうか?
簡単なようで難しい質問かとも思いますが、お教えいただければ幸いです。
カンタニャック

>6
ご教示ありがとうございます。ですがやはり消化不良気味です。明治の初期のような祭政一致という奈良時代を思わせるような官制では太政官のような例外はともかくとして、政府全体としては標準語たる清音を好んでいたのではないでしょうか?その意味で言えば海軍は異質な存在になります。
それとも音韻学での国語を表記する場合、1音に1字を当てがうのではなく、1音素に1字を当てがう方式がありますが(昭和12年の内閣訓令第3号にならってダ行の綴りが出来ています)、文部省推奨のそれに海軍は合わせたのでしょうか?今度は陸軍が異質な存在になってしまいます。
RNR

>10
むしろ、明治初期になぜ「ダイイ」を「タイイ」と呼ぶようになったのかと考えるべきかもしれません。
江戸後期から明治期の清音主義は、濁音や半濁音のなかった古代の正しい日本語を復興すべしという、ある種のルネサンス主義(古典復興運動)だったわけですが、ここで問題になるのが、古代に使用されはじめた直後から濁音がある漢語の扱いです。
古代の律令制に戻れというルネサンス主義で律令官制の役職名を復活させても、漢語には濁音がついて回り、兵部省とか弾正台から濁音を追放することは困難です。弾正を「タタスツカサ」、判事を「コトハルツカサ」と読むなどして完全に漢語を追放すれば不可能ではないのですが、明治期の日本人の多くにはそこまでの根性はなかった(あるいは清音主義に無用なエネルギーを浪費しない合理主義者だった)ようです。
律令制では、近衛府に大将、中将、少将が、衛士府、衛門府、兵衛府に、督、佐、大尉、少尉が置かれています。
明治軍制の、大中小将佐尉の制度成立に至る具体的事情はわかりませんが、令制の職名を復活しようという意味でのルネサンス主義の産物であることは間違いないといっていいでしょう。
令制の官職名の「大」は「タイ」と読まれることもありますが、「ダイ」の方が多く、大尉は(訓で「オホイマツリコトヒト」と読まないのであれば)「ダイヰ」です。(ネタ本は岩波の日本思想体系の『律令』のルビなので典拠まではわかりません。)同様に大将も、近衛大将、右大将などの場合は「ダイショウ」と読まれるのが通例だったようです。(なお「大佐」は令制にはありません。)
そう考えると、明治の大将、大佐、大尉は、RNRさんがあげられた太政官や、他には、大臣、大警視、大警部のように、濁音の「ダイ」でよかった筈で、なぜ清音の「タイ」で読まれるようになったのかの方を疑問とするべきでしょう。
まあ、問題を逆転しただけですが、こう考えるといくつかの仮説は立てられます。(以下は私の仮説です。)
1)近衛大将や右大将の「ダイショウ」が、二語の連接によって後の語の最初の音が濁音に転訛する、「連濁」だと思われた。(実は私も最初は連濁かと思ったのですが、冷静に考えると連濁ではないようです。)連濁は清音主義者の主要攻撃対象でした。柳田国男が「ヤナギタ」、折口信夫が「オリクチ」と名乗ったり、秋葉神社が「アキハジンジャ」と称したあたりが典型です。
つまり「ダイショウ」を連濁と思った清音主義者が、「タイショウ」を正音と思いこみ、そこから「タイサ」も「タイイ」も右にならえで清音化した。
2)明治初期の人間にとっては近衛大将よりはるかに身近だった征夷大将軍の「タイショウグン」(これが清音でしかも連濁にならないのが不思議ではあるのですが)から、清音の「タイショウ」が生まれ、以下右にならえで大佐も大尉も清音化した。
3) 1)と2)の相乗効果で、大将、大佐、大尉の清音読みが、一般的になった。
4)しかし、なかには令制の大尉は「ダイイ」なんじゃないかという物知りもいて(あるいは単純に大中小は「ダイチュウショウ」だろうと考えて)「ダイイ」「ダイサ」と読む者も現れ、海軍という一部局の中ではこちらが普及した。
大将がダイショウとならなかった謎については、RNRさんや老兵さんがあげられている「代将」問題が正解かもしれません。
日本海軍には「代将」はありませんが、「代将旗」はありました。
「赤塚源六 富士春日摂津三艦指揮申付候事 但乗込艦江代将旗引揚可申事」 (アジ歴 C09090070600)
ちなみにこの記事は明治3年8月(日の記載なし)。前年(明治2年7月8日)の職員例で海陸軍の大将・中将・少将は定められていますが、大佐以下の階級はまだありません(制定は同年9月18日)。
カンタニャック

>11
ダイは呉音であり、タイは漢音ですので、江戸時代の呉音中心のから明治になって漢音中心になった影響で、大がタイと読まれるようになったのではないでしょうか。
  hush

カンタニック様
当時の私は部外者との接触は殆どなく、部外者がどのように呼んでいたかは承知していません。
老兵

老兵様
ありがとうございます。ご無理をいって申し訳ございませんでした。
カンタニャック

失礼します。亀レスの上に記憶のみでしたのでためらっていました。
大尉・大佐を「だいい・だいさ」と発音するのは薩摩なまりが理由と聞いたことがあります。ただし局所的に使われた言葉で正式には濁らないとのことでした。(この機会にググッてみましたが、小生の記憶範囲以上の記事は見当たりませんでした)
とっくに御存知のことでしたらお忘れください。
タンジェント

海軍は發足當初から薩摩閥だったので、薩摩訛で「だいい」「だいさ」と云い、其れが其儘になっていたと聞いております。陸軍の長州訛で「であります」と云うのと同じですね。
それで民間での其の云い方の普及度と云えば、わたしの曾祖母が大正13年生まれで、ちょうど昭和の年が彼女の年齢と同じなのですけれど、家族も本人も軍隊とくに海軍とは全く縁が無かった(誰も海軍関係者が居なかった)にもかかわらず、海軍大尉を云う時は「かいぐんだいい」と、大佐は「だいさ」と發音して居りました。單なる少女でさえ、それが常識であったらしく、陸軍は「たいい」、海軍は「だいい」と區分して發音するのでした。海軍ではそう云うのが當り前でしょ?タイムマシンで昔に行って、「かいぐんたいい」なんて云ってたらアヤシイ人物になってしまうわよ、と云うノリでした(笑)。
大将は「たいしょう」ですが、これは皆様の御推測通り「代将」と混同しないようになっていたのでしょうね。「大将」が「代将旗」の「だいしょう」では困りますよね。w
しかし、海軍部内でも「たいい」「たいさ」は必ずしも誤りではなく、今次戰爭の終り頃には、根こそぎ動員で掻き集めた應召兵は、子供の頃からの陸式教育の御陰で陸軍式の物云いをする例が多くあったそうです。いわく「です」ではなく「であります」、職名階級名呼捨てではなく「どの」と云う具合です。なのでドラマ等でそう云う場合も、必ずしも時代考證が間違っているのでは無いようです。
あるめ  
→ top


レミニアの軍備

【軍備一般】


レミニアの輸送船の現状、次期戦闘機・爆撃機・戦車・戦艦・空母


御質問の件、軍機密事項に含まれる為詳らかには出来兼ねまするが、大概以下の通りで御座います。

1 輸送船舶總數

海軍固有の輸送船は軍港及び艦隊附属のものにて必要最小限しかありません。別項1の通り。必要ある時(事變變、戰戰時など)に海軍は民間船舶を徴用して輸送船團團を編成し、海上輸送を行います。その概要は別項2の通り。

別項1 海軍輸送船
海兵輸送艦1千噸級3、給炭油艦1千噸級3、給糧艦1萬5千噸級3、補給艦1千噸3、工作艦1千噸級3

別項2 徴用船舶
客船(1萬噸級20、5千噸級5.1千噸級5、5百噸級30)
貨客船(1萬噸級35、5千噸級20、1千噸級12、5百噸級10)
貨物船(1萬噸級80、5千噸級130)
汎用船(4〜1千噸級18、9〜5百噸級44)
帆船(4〜1千噸級1、9〜5百噸級2、4〜百噸級574)
漁船(工船3千噸級15、冷凍母船3噸級10、同2千噸級35、遠洋船5百噸級124、同3百噸級248、沖合船百噸級857、同50トン級857、沿岸船(5噸級51,420)

2 次期主力戰闘機、爆撃機、主力戰車

現用の航空機は複葉機を主としており、次期は單葉機に轉換するべく鋭意研究中。戰車はクリスティー式驅動装置の採用にて十分な高速を實現しているが、更に搭載砲の大型化を行ふべく鋭意研究中。軍事評論家の説に依れば龍騎兵用戰車は88粍砲が標準装備となろうと指摘されている。また槍騎兵用の驅逐戰車、騎砲兵用の自走砲も大型化が進むと推測されている。歩兵用の小型歩兵砲戰車、工兵用の火炎放射戰車、架橋戰車、工作戰戰車、防空用の高射砲戰車なども企劃されている。

3 現在建造中の新型戰艦、空母等

當分は現用の艦船にて間に合ふとの見解が海軍本部より公表されているが、軍事評論家の大方の説に依れば、艦隊決戰主義と海上航空決戰主義の對立が海軍部内に存在し、海軍艦船局にては新型空母の研究に着手したとの情報もある。空母と戰艦を兼ねた新型軍艦の構想もあるとの實しやかな情報も流布されてゐる。


→ top
inserted by FC2 system