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★★わたしの祖先(舊幕以前)★★ family survivals in history

  私の祖先は、もと紀伊(和歌山)の南岸部にある熊野神社を警護する侍でした。また海賊もやっていて、熊野水軍に属していました。當時としては珍しい長距離外洋航行型の海軍で、櫓のある大型の船を用いて琉球との交易に從事しました。熊野水軍は、新熊野神社別當(神社の運營責任者、全國の寄進荘園・社人・山伏を管理し護衛隊司令官も勤める)の指揮するもので、最初は平清盛に味方し、1159年(平治元年)の平治合戰での大勝に貢献しましたが、後には源氏に加擔して、1185年(文治元年)の壇ノ浦合戰に總勢2000人の乗組員と軍船をもって出役しました。司令官は加勢すべきは源氏か平氏かと、さんざん去就に迷った挙句、闘鶏で決めてしまったと云う話は有名ですが、實に適當なものです。
  居住地は、牟婁(むろ)郡三栖庄(みすみのしょう)の西部(現在の和歌山縣田邊市から白濱町にかけての一帯)にありました。この三栖庄は平安期1080年(承暦四年)には既に開設されていた摂關領の古い荘園ですが、十二世紀には、わたしの祖先のいた海岸部は田邊庄として獨立し、熊野三山の本宮の実効支配下にありました。田邊湊(みなと)は天然の良港であり然も熊野三山への参詣路の始發點となっていたので繁盛しました。熊野水軍の親玉は、熊野別當から分岐して田邊別當となり、熊野詣で賑う交通要地を守備して大儲けしました。當時の田邊別當は源平合戰直前、去就に迷った挙句、源氏に味方しましたが、これが判断を誤って平氏に味方していたら、日本の歴史は多少は變っていたかもしれません。田邊別當は神社の氏子の選挙によりその職に就任したので、特定の家が別當職を世襲していたのではありません。そういう政治制度だったので徒黨の結束が固く、鎌倉幕府からも獨立しており、長いあいだ皆な仲良く暮らしておりました。牛若丸ゆかりの武蔵坊瓣慶も田邊庄の出身となっていますが、實在したのかどうかは不明です。
  わたしの直接の祖先である橘姓田邊氏(もとは橘と云う姓で貴人護衛の侍をしていたらしい、主人の所有する田邉荘の地頭代となって都から下向してより田邉を名乗る)は、この田邊庄で編成する熊野本宮護衛隊長のひとりで、熊野の山奥に一族がそれぞれ守備用の山城を築き、また軍船兼交易船を操って、山賊海賊まがいの稼業に日々いそしんでは樂しく暮していました。山城と云っても防御戰闘に適した地形の良い高地に木造の西部劇に出てくるような丸太の砦を作って、その中の小屋や長屋に住んでいました。時々は哨戒や獵に出ました。物見櫓の上から郎黨が近くの熊野詣の参道を監視しており、ちょっと裕福そうな行列が通れば、早速ドヤドヤと出て行って「護衛の榮を賜りたく云々」と巧いことを述べては、縄張りの區間の警備料金を申受けたのでありました。都のやんごとなき方々や大商人は熊野詣が樂しみで仕様が無いから、お金など幾らでも出しました。高貴なお姫様の護衛などに當たると、ギラギラと光る抜身の白兵を殊更に見せびらかしながら、行列の前後左右を固めて足並みも如何にも強そうに得意になって行進しました。
  紀州の此の邊はほとんど平地が無くて、山を降ると直ぐに海岸となっており、そのため洞窟に隠した船と宿直所を持っていました。怪しい商船を見つけると(どっちが怪しいのだか分かりませんが)早櫓で漕ぎ着けて臨檢しました。陸路と同様に警備料金を申受け、抵抗すれば拿捕して目ぼしい人質を釈放する代わりに身代金を寄越せと鄭重無禮な手紙を書きました。なので皆、文字を書くのが割りと得意でした。お姫様を捕まえると海の幸、山の幸で鄭重に持て成しました。それで捕虜はみな釈放となって親許に歸る時には體重が増えて顔も丸くなって居りました。都に居る時は青い顔をして臥せり氣味だった我が娘が「貴女はどなたでしたかな」と見違える程まるまるとなっているのでした。あそこの海賊はものもロクに喰わせない非道い連中と評判が立つと朝廷が討伐軍を差向けてきたり何かと不都合なので、氣を使ったのでしょう。異國との交易や本物の海賊行為のために遠く外洋に出ることもありましたが、得るものも大きい代わりに、相當の損害を覚悟しなければならないので、そう滅多に行くものではありませんでした。
  南北朝期には、熊野神社が南朝方に味方したので、足利氏の勢力と合戰を繰返しました。と云っても天嶮を利用した長期ゲリラ戰みたいなものだったようです。1337年(延元二年、建武四年)に一族の山城のひとつを攻撃したと云う北朝方の軍司令官の提出した軍忠状が残っています。
  1378年(天授四年、永和四年)に、北朝方は、山名義理(よしただ)を紀伊守護に、山名氏清を和泉守護に任じ、1379年(天授五年、康暦元年)の土丸城奪取、隅田(すだ)党討伐をもって紀伊北部の南朝勢を壊滅させました。1380年(天授六年、康暦二年)、熊野神社も室町幕府に降伏し、わたしの祖先は在地のまゝ山名氏の被官(家来)となりました。世は室町期に入り、1391年(元中八年、明徳二年)に起きた明徳の亂で山名氏は失脚し、さらに1392年(元中九年、明徳三年)の和泉國雨山城合戰で敗退、出家して紀伊に逃れ消息を絶ってしまいました。同時に、山名氏に臣從していた、わたしの祖先も主君を失い、敗戰國の軍人となってしまったので、1394年(應永元年)には所領を返上して亡命しなければならなくなり、一族の弟は越前に行って改姓しました。兄のほうは備後(廣島縣東部)までやってきました。なぜ備後かと云いますと、そこは舊主人である山名氏と親しかった宮氏(室町幕府の御家人たる奉公衆で、山名の勢力圏に隣接する大和國宇陀郡に宮氏が所領を持っていました)の勢力圏で、その縁を頼ったのだと推測されます。宮氏の庶流に久代(くしろ)宮氏と云うのがあって鎌倉時代の和田合戰に組した為に備後へ亡命してきて蟄居していましたが室町幕府に奉公して将軍の親衛隊の一員と成り、應仁の亂のあと幕府が解散同然になると公務から解放され俄然領地經營に専心、實力で周邊を併呑して八千石程度の國人領主となって居ました。紀州から亡命してきた私の祖先はその部将に再就職したのです。
  出雲との國境、險しい峠を幾重も聯ねた山奥にある村に知行地を開設し腰を据えてしまいました。帝釈峡西岸の近隣4郡を見渡せる断崖要衝の地に山城を築き、一族で國境守備隊みたいなことをやっておりました。これは紀州に居た頃からやっていた家業みたいなものですから、手馴れたものです。山賊の方は通るのが鹿や熊の類ばかりなので商賣にならないかと思いますが、このあたりは古来たたら製鐡が盛んで、おまけに銀山も近く、材木の搬出も盛んであった交通の要所だったので、峠の一本道に關所を設け通行税を取りました。海賊は海が無いので廢業です。そのうち段々、地元の豪族として勢力を擴げ、一族の山城も増えていきました。
  戰國の世に入ると、主家の久代宮氏は備後山内氏との領土争奪戰を展開、これは未渡神石合戰として後世に傳えられています。黒岩城という要害を一千名の軍勢で攻めた際、敵方三百の守兵はよく防戰し、當方の大将をしていた田邊與三郎と云うのが城門に迫って戰死しています。同僚の大将も同じく戰死、城より突出逆襲してきた敵勢に我が攻城軍は混亂後退、これに乗じ敵方の山内勢は五十人の救援隊を増派、更に總力を挙げて増援ある旨が知れ渡ると、我が攻城軍は占領をあきらめると云う一幕もありました。
またこういう話もあります。備中と伯耆の境界(今の鳥取県日南町あたり)にある松本城に拠る渡邊石見守と云う人があり、その領地を横領せんとて久代宮氏の部将、田邊美作守が少數の手勢を引連れ侵入し、當地の事情に詳しい因幡牢人伊田新左衛門頼次を軍師にして神福の妙見山と云う高所に急造の砦を築いたと云う傳承があります。すわ外敵と松本城の軍勢が押寄せて来たものの、田邊勢は伊田の指揮で山上から用意の大岩を投げ落とし、討伐側は大損害を蒙って退却。田邊側はそこを占領したまゝ越年し、伊田新左衛門から松本側に農繁期に入るからと休戰を提案、両軍の中間點になる野原を選んで和睦の酒宴に及びました。女子供も混じって両者仲良く騒ぎ興じている最中に、かねて謀った通り、田邊勢の増援侵入部隊が三方から領内に進出して完全に包囲網を敷き、不意を突かれた松本側は敗退、松本城を放棄して城主渡邊殿は逐電してしまいました。このような謀略戰は戰國時代では珍しくない出来事だったようです。
  やがて出雲の尼子勢が備中に進出し毛利氏と交戰。このどさくさで備後の地侍どもは右往左往し、その去就慌しいものがありました。とりわけわたしの祖先にとって大きな岐路となったのは、久代宮氏の重臣をしていた田邊美作守が出雲の尼子氏に内通して謀叛を企てた疑いをかけられ追討隊に抵抗して戰死。兄の田邊美濃守は出雲へ亡命と云う事件が起きた事です。毛利氏が戦國大名として進出して来るなか、一族の中でも、謀略に巻込れ亡命した支族や、なんとか領地に居残った支族があるわけです。毛利氏が尼子軍を撃退し備後北部を勢力下に収めると、宮氏もその体制の中に吸収され、やがて家名そのものが消失してしまいます。その為ろくに古記録が残っておらず以上のような消息しか分かりません。
  ところで亡命した田邊美濃守がどこで何をして暮していたかも不分明です。どうやら備中か出雲あたりで蟄居していたらしく、ただ分っているのは備後在住の同族田邊氏をはじめとする主だった郷士とは往来があり、姻戚關係も保たれていたらしく、亡命時點で苗字が變り、行った先の地名をとって現在まで續いていると云う事だけです。
  1600年(慶長五年)の關ケ原合戰に西軍方として参戰した毛利氏は、あっけなく降参してしまい、戰後なんとか存續を保ちましたが、徳川幕府によって減封され廣島から撤退し、周防・長門(現在の山口縣)に去りました。備後(廣島東部)の山奥は徳川方の福島正則の領地に編入され、福島家の改易後1619年(元和五年)に福山藩(水野勝成)領、それも改易となり1698年(元禄十一年)に天領(幕府直轄領)となってしまいました。幕府代官所が置かれ、代官の配下には、田邊一族の者が多く就任していて實質的に地方行政を擔っていたので、その推薦により、新體制下の惣庄屋の職に就くべく、亡命中のわたしの祖先は呼び戻され、昔の所領に戻ってきました。
  十數箇村の經營を擔任する惣庄屋は郷士なので、990餘石の管轄區域を巡回する時は、從者を伴い乗馬帯刀しており、屋敷の蔵には先祖傳來の鎧やら槍、弓矢を備えていました。幕府は直轄領に直参の代官を置きましたが、代官所の實務と各村の經營は現地採用の職員と惣庄屋・庄屋が取仕切る仕組で、それが悉く土着の古い郷士層によって占められていて、その強い結束力を代官は利用し、堅實な天領統治を行いました。代わりに郷黨は安定した身分と収入を得ると云う取引内容になっていたようです。わたしの祖先が属した代官所で云えば、現地採用職員は多數いましたが、その姓は3氏くらいしかなく、各氏は互いに姻戚關係にあり、いってみれば皆んな同族親戚でありました。殊に天領は税の負擔が輕く、一揆などの由々しき問題が起きなかったので、戰亂と陰謀に明暮れた前時代と違って、まことににのんびりとした暮らしぶりで、一族の人間もツイデに、のんびり、してしまいました。それなりに裕福だったようで、家の娘が城下町に行く時は畳敷の駕籠に乗り、從者が警固に附き、幕府の奢侈禁止令が出ている折には、お城に近づくにつれ金銀の簪(かんざし)を結い上げた髪から抜いて袂に仕舞ったと傳えられています。
  横溝正史の「八つ墓村」「悪魔の手毬唄」と云う金田一探偵の活躍する小説は(たびたび映畫になっているけれど、市川昆監督のがよく雰囲氣を傳えています)、ちょうど、わたしの祖先が山城を築いていた渓谷を更に遠く東に踏み入った岡山側の村をモデルにしているらしく、どこの家も同じ苗字なので屋號で區別していると云ったところや、變梃子な古い屋敷があったり、尼子の落ち武者が出てくるなど、よく似ているなあ、と思いました。ただし懐中電燈に獵銃の怪人は、岡山の津山事件とストーリーを一緒くたにしてあって、わたしの祖先とは關係がございませんので誤解無きよう願います。
  二百六十餘年續いた泰平の夢は瞬く間に過ぎ去り、明治の幕が知らぬうちに切って落とされると、近隣村を占拠する一族と同様、かっての惣庄屋は村の山林田畑の殆どを所有する地主として繁榮しました。
  ところが、そのうちに明治大正と時代が下るにつれ、本家は人を得ずに不在地主となって、經濟變動の波に洗われながら徐々に衰微してしまいました。戰後の農地改革で地所は没収解體され、ついに傳統の燈はここに途絶えてしまいました。
  幕藩體制最後の惣庄屋には、弟がいて財産を分與してもらい分家していました。これが、わたしの方の系統となります。この分家には2人の男兒がありました。
  兄の方は、大正期に福山市の吏員(該地の水道創設・整備に功績のあった人で、昭和期に助役を最後に隠退)をしていましたが、男子が生れず、先祖の美質を最も受継いでいたと云われるひとり娘が他家に嫁いだので、そこで本家は途絶えました。そのご娘は家族と共に廣島市で暮らしていたところ、原爆が破裂したので一家中が行方不明となりました。
  弟は放蕩者で、蔵から槍や刀はおろか甲冑まで持ち出しては遊蕩の金に替えると云う有様で、三度も破産し、そのつど財産を分けなおしてもらったのですが、とうとう本家も衰微した後は援助が絶え、そこそこ三度の御飯を食べられるだけの暮しとなりました。この息子はヘンな人で、三度目の破産後はやっと大人しくなり、最後に分けてもらった畑の中に自分で大工道具をふるい家を建ててしまったのですが、なにしろシロウトなので床の間や柱が微妙に正しい方形を取っておらず、冬は寒くて弱ったという話です。とうとう最後は長男(東京に出て鐵道省の下級官吏をしていた)の家に引取られ、今次大戰たけなわの頃に老衰で大往生してしまいました。この長男(通称:東京の伯父さん)は、どんどん家が逼迫してくるので、早くから都會に出て自活しなければなりませんでした。東京に出ましたが高等の學歴が無かったので鐵道省の雇員属官と下積生活を續け、生涯を丸ノ内の官房で地味に勤續しました。次男(わたしの曾祖父)は大阪の丁稚奉公に出ましたが、すぐに東京は神田の明治に入學し英語が巧くなり、途中で早稲田に移り苦學生となって獨立獨行の人生を歩み始めました。ちょうど大正の末(すえ)あたりです。  → top
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