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傳記 biografi, biographies

【ラトニア1世】 Ratonia prima

レミニア最初の王様。もとの名前はラート(ねずみ)。レミニア平原を見渡す丘の端にあるラトニア村に生まれました。お父さんは遥々北方帝國から派遣されてきた第19軍團歩兵で退役時に退職金の代わりに農地をわけてもらった開拓農民。經營の才に恵まれ、幾十も穀倉を持つほど裕福だったので、息子のラートは装備にお金のかかる騎兵となることができました。
古代末期、北方帝國オスタリーチ總督府の第19軍團は、レミニアに支隊を派遣し、開拓民を先住民の襲撃から保護していましたが、ラートはその支隊の騎兵隊を率いる青年将校として活躍していました。
レミニアからオスタリーチに往還する國道は、途中で険しい峡谷を通り抜けなければなりませんでしたが、あるとき欲の深い總督はそこに關所を置き、隊商から關税を取立てることにしました。
レミニアは良い小麥がたくさん採れ、地元の農民はこれをオスタリーチの市場に運んで賣ると、金貨が手に入ったのです。しかし關所ができたおかげで、せっかく手に入れた金貨は半分以上も總督府の役人に取上げられてしまい、レミニアの農民はたいへん困りました。
ラート隊長は、總督府の横暴に怒って、部下の騎兵隊をひきつれて關所を襲撃し、總督府の役人どもを追拂ってしまいました。レミニア駐屯の軍隊は叛亂を起こして、ラトニア隊長を司令官とあおぎ、關所を越えて、國道を進撃、途中のガイツ地方を占領し、オスタリーチに迫りましたが、總督府側の軍團は長い平和に慣れていたので、召集に手間取り、まともな應戰が出来ませんでした。方陣を組む人數が集まらず、あちこちの荘園で小合戰がありましたが、ほんの形だけの戰闘をかわして恭順する砦や、すすんで味方になる領主が續出しました。
慌てた總督府は、オスタリーチ市の城壁の中に閉じ篭って、長期戰の準備を始めました。資金豊富な總督府なので、傭兵を集めるは、レミニア側の将校を買収するはと、あらゆる策謀を巡らせましたが、そのうち秋になり収穫期を迎えたので、掻き集めた臨時雇いの兵士の大半は農場で刈入をするため、契約の更新を断って隊を離れていきました。そして冬になると、もう戰場に出てこようとしません。残った常雇の兵士も寒いので、穴を掘って對陣したまま、めっきりと動きが鈍り、食べるものも不足がちとなってしまいました。そこで、戰争は自然消滅となりました。當時の戰争は、このように餘りけじめのないダラダラとしたもので、途中で戰闘を中断しては和平交渉を積み重ね、なるべく味方の損害を少なくしよう、賠償金をたくさん分捕ろうと工夫したので、簡單に戰争を始めて、長い對陣ののちに取引が纏ると、あっけなく終わるのが普通でした。しかし、これだけ大きな軍勢が長距離を迅速に動いたのは珍しかったので、世間では後世の記憶に留める為これをラート(ねずみ)戰争と名づけました。このため大陸南部で起こった大戰争に勝った強い将軍としてラートの名前が北方帝國の皇帝の耳に届きました。
一人歩きする噂は尾ひれがついて、ラート隊長は大變な豪傑として北方帝國ばかりか、近隣の諸國にまで、その名が轟きました。ラート隊長は新しい軍團を編成し、自らその将軍に就任しました。将軍はなけなしの軍資金を掻き集めて、これを隊商に託しました。隊商は青氷河山脈を越えて北方帝國に遥々到り、皇帝に貢物を献納しました。それは毎年途切れることがありませんでしたので、ラート将軍の忠誠心にいたく感心した皇帝はレミニア地方を王國に昇格させ、ラート将軍をその國王に叙任しました。ラート将軍は自らをラトニア王と稱し、先住民から分捕った大きな寶玉を嵌め込んだ王冠をかぶって、金の王杖を持ち、豹の毛皮のマントを羽織ったので、ひどく滑稽に見えました。しかし臣民どもは王の強力な親衛隊兵士に敬意を表して歓呼の聲を送ったので、とうとうラート王は最後まで自分の威厳に疑いを持ちませんでした。北方帝國はレミニアにとって本國にあたるのですが、皇帝に献納する使いの隊商には護衛がついて、毎年の武術試合で優勝する選りすぐった騎士と、禮儀正しく容貌すぐれた小姓、屈強な親衛兵が大勢行列をつくって街道を練り歩いたので、こういう家来を派遣してくるラトニア王は本當に英雄なのだと、都の市民は信じ込んでしまいました。
ラトニア王は、その後の生涯を領土の擴大と先住民の驅逐にささげ、富國強兵に励みました。ラトニア王朝は古代末期から中世を通じて續き、近世に入ってココ王朝に引継がれるまで、何十代も王位を重ねています。

《参考文献》

「ラトニア王國物語」legend de reghey ratonia

古代より中世にかけてレミニアを支配したラトニア王家の偉業を面白可笑しく叙述した詩篇。辻で遍歴詩人が座興に謡って聞かせた。退屈な日常の静寂を破って急に現れては玄妙な樂器の音と個性豊かな節回しを披露する藝人は、そのような娯樂に飢えた人々の壓倒的な支持を得た。ラトニア王の冒険に就き熱心な問答が交わされ、最後には聴衆の大合唱で締め括られるのが常であった。時と共に様々な挿話が加わり、吟遊詩人組合の文庫には現在まで多くの異本が傳えられている。子供向けに活劇部分だけを人形芝居に組んだ「ラトニア大王の贋ねずみ退治」の臺本や、王の複雑な戀愛模様をこまごまと描いた連作小説本「歴代ラトニア王の秘めたる暮し」など異彩を放つものがあり、當時の歴史風俗研究の一級史料となっている。
初代のラトニア1世王は最初に登場する時には、凛々しい青年騎士の姿であるが、權力を得ていくに從い、豹の毛皮でできたマントをはおり、ゴテゴテと大きな寶玉を嵌めこんだ王冠を頂き、奇妙なヒゲを蓄えて、金無垢の王杖を振り回すという、滑稽な姿に變貌していくのが約束となっており、その後の歴代ラトニア王もそれを觀て我が始祖ながら大笑いを禁じえなかった。

「ラトニア騎兵十人隊のちのラトニア軍團そののちのレミニア軍團は如何に戰ったか」kiel batal la ratonia kavalri: legion ratonia: legion reminia

ラトニア1世王に率いられた軍隊の編成・戰術・兵站について述べた兵書。戰史としては、ベルダン峡谷の總督府關所の襲撃戰、ガイツの占領戰、オスタリーチの攻城戰、先住民驅逐戰、邊境探檢、領内に於ける武力警察活動の經緯が詳細に記録されており、國史の一級史料とされている。


【ツーシン大尉】 Komandant Tsusin, battery commander Tsusin

第一次ニルス戰役の英雄。1780年生まれ。お父さんはレミニア大公の役所に勤める小官吏で十等官(現在の判任官一等)より上には出世しませんでしたので、おうちが貧乏でした。たくさんいる兄弟姉妹を養う為、學費のかかる高等學校豫科を13歳で中退して民兵團の砲兵隊に志願し有給の士官候補生から見習士官となりました。真面目に勤務し、二等大尉の中隊長代理になりましたが、やはりお父さんと同様に、それ以上出世できなかったので、結婚もせず、毎日将校倶樂部に入り浸っては安いお酒を飲んでブクブク太るばかりでした。
東方帝國の軍勢が南の海岸に押し寄せてきて、これを迎え撃たないと首府が占領されてしまうという事態になった1810年、レミニア大公は全軍に出撃命令を發しました。ツーシン大尉の砲兵隊も出動することになり、まだ夜の明けないうちに、首府の郊外にある丘の上に陣地を設けました。名簿上の隊長である少佐は宮廷に出仕していていつも留守だったので、ツーシン大尉が實際上の中隊長をしていました。霧の中で全6門の車輪附青銅砲を並べ終わった頃、遥か右手の廣い農場一帯で戰史上有名な「民兵旅團の突撃」が始まり、長い間そうぞうしい破裂音や喚声が續いていましたが、朝の陽が平地に射し込んで、そこに砲彈穴や死傷者が點々と何處までも散らばっているのを望遠鏡で見ると、なんだかすっかり負けたような氣がして、皆がっかりしたので、ツーシン大尉は中隊全員に自分の酒樽をありたけ抜いて飯盒一杯づつ飲ませることにしました。このため、多少意氣のあがった砲手どもは、大公國万歳を叫び、おりから忍び寄っていた東方帝國の斥候に陣地を發見されてしまいました。
異國の斥候はツーシン砲兵隊が餘り元氣に叫んだり、何か飲んだりしているので、これがレミニア軍の主力陣地であると誤解し、急いで本陣に戻ると、大将にそう報告しました。大将の軍團長は王族の一員であるというだけでその地位に就いていたので、何も分らず、幕僚どもの意見をそのまま採用して、全軍をツーシン砲兵隊に向け進撃させました。確かにツーシン砲兵隊が布陣した丘は、レミニア軍司令部が防衛線を敷こうと企圖した場所であったのですが、手違いが積重なって、部隊の集中に失敗したのでした。
ツーシン大尉は午前中に到着するはずの近衛砲兵聯隊と近衛歩兵聯隊、オスタリーチ聯隊、ガイツ聯隊など主力部隊が展開するのを待っていましたが、それらしき隊列は何も見えず、工兵隊が何やら作業している砂煙が遥か彼方の街道に見えるのみで、一向に豫定陣地が形成されませんでした。そのかわりに東方帝國の大軍團が軍樂の音も騒々しく、途轍もなく大きな方陣で、こちらに迫ってきます。
命令の誤傳によって民兵旅團が拂暁の突撃を敢行してしまい、東方帝國軍の重砲兵陣地を占領したので、東方帝國軍はレミニア軍の豫期せぬ行動にすっかり混亂していました。ツーシン砲兵隊の布陣する丘を手早く占領し、レミニアの主力陣地を一挙に潰そうと前進してきたのです。しかし其處にはレミニア軍主力どころか、酔拂いの野砲兵中隊と護衛の義勇歩兵がいるだけでした。
敵主力と正面から對決することになったツーシン大尉は、命令を仰ぐべき司令官がどこにいるのか分らないので、獨断で砲撃を開始し、6門の青銅砲が間断なく東方帝國軍團の頭上に榴霰彈を浴びせかけました。餘り長時間射撃していたので彈藥箱が空になりかけ、砲身は赤熱して水を掛けて冷やさなければなりませんでした。この連續砲撃によって大きな穴が軍團の中央に開きましたが、さすがに傳統ある勇猛な東方帝國軍です。方陣を維持したまま歩度に些かの變りもなく、賑やかな軍樂と共に尚も砲兵隊に迫ってきます。
「零距離で射撃せい」
ツーシン大尉の命令一下、砲手が砲身を水平にし、各砲は再び赤い火を次々と噴きました。丘を登りかけた東方帝國兵の先鋒隊は忽ち恐ろしい肉塊となって坂を轉げ落ちていきます。何度も齊射を繰返したので、麓の用水路は忽ち屍体で埋まり、さすがの東方帝國軍の方陣もいったん前進を止めました。
長々とした號令と鼓笛の音のもとに東方帝國軍は悠々と方陣の間隔をつめ、態勢を整えると再び前進してくる氣配です。色鮮やかな軍旗が林立し翻っています。あくまで丘を占領しようと云う意志を捨てていません。レミニア砲兵は皆な喉が引きつり、口の中はカラカラに乾いて、指がもつれるほど緊張しました。ツーシン大尉は後ろに控えている護衛の歩兵を振返りました。砲側にもっと近づくよう要請しようとしたのです。しかし臨時に掻き集めてきた義勇歩兵はちりじりになってしまい、あっちにひとかたまり、こっちに横列の残りが座り込んでいるというふうで、まるで役に立ちそうにありません。銃を地面に残して年寄の幹部のほかはすっかり居なくなっている小隊もあります。
「もはや、これまで」 大尉は砲を破壊して後退しようと考え、段列長の曹長を呼び、放列には「射撃やめ」の號令を發しましたが、兵隊はみな連續射撃で耳が半分聴えなくなっていて、次の射撃に備えて忙しく砲側で働いており、こちらを見向きもしません。第3小隊長の學校生徒じみた見習士官などは自分で砲彈を運んだり、信管を切ったりして、脇目も振らず働いています。代りに頭の禿た砲車長軍曹が照準をつけては「ウテー」と號令をかけている有様です。すると、大尉の服の裾を引っ張る者がおり、ふと脇を見ると中隊の鼓手が口をパクパク開けて何か喚いている様子です。大尉自身も耳が半分聴こえなくなっていたのです。鼓手の指差す方角には、龍騎兵の一隊が胸甲をきらめかせ、マントを翻しながら、こちらにやってくるではありませんか。
それは遊撃任務に携っていた民兵團のF騎兵中隊で、昨夜から偶然近くに野營していたのですが、砲聲を聞きつけて救援に驅けつけたのでした。後からはカーメンスキイ公爵の近衛龍騎兵聯隊の赤服が續き、總勢1000騎がツーシン砲兵隊の背後に整列しました。近衛騎兵は行軍速度が迅速だったので、司令部の發した終結地點の變更命令が届かず、ここまで来てしまったのでした。ツーシン砲兵隊は勝手に退却してくるだろう、あるいは既に後退中と司令部は思っていたらしく、殊更に傳令を發する事すら考慮に入れられなかった様子です。そのため砲兵隊は何の援護も無く單獨で敵の主力に対峙せざるを得ませんでした。もしかしたら作戰地圖の上にツーシン砲兵隊は記載されていなかったかもしれません。
ツーシン大尉は更に砲撃を命じました。6門の野砲はそれぞれ勝手に猛射撃を續けており、砲手はみな歯を喰いしばり、眼を剥き出して装塡し、點火し、悪魔のように發射を繰返しました。再び丘を登り始めた東方帝國軍團の方陣は、あちこちに穴が開き始め、丘のふもとには轉げ落ちてくる屍體が溜まり、混亂と悲鳴が沸きあがりました。近衛騎兵の副官が單騎、ツーシン大尉が指揮をとっているところにやってきて、
「騎兵が突撃するから、射撃を停止してほしい」と申し入れました。けれど聞こえないフリをしていると、若い副官はツーシン大尉の腕を掴んで懇願する様子でしたが、民兵團F騎兵中隊からも士官がやってきて、
「貴隊は餘りに敵歩兵に接近し過ぎていて、危險であるから、どうか後退されたい」と説得を始めました。砲聲の中で耳の聴こえなくなったツーシン大尉を相手に喋るのは至難のわざです。
騎兵にとっては敵の方陣がズタズタの襤褸布のようになっていく此の時が、突撃の好機であるのに、悪魔の弟子どものような砲兵は砲の周りに群がった儘いっこうに火蓋を閉じようとしないので、騎兵隊長どもは勲章を貰う機會がどんどん目の前から飛び立って遠くに行ってしまうような氣がして大層焦りました。とうとう近衛騎兵の聯隊長自らこちらにやってくるのが見えました。
ところが、その時に彈藥が切れてしまい、ツーシン大尉は議論にまきこまれるのを免れました。各砲は順次、沈黙して、砲手が押入れた洗悍の焦げる音が「シウシウ」と丘の上いったいの大氣に吸い込まれていきました。 砲撃が中断したのを見て、またとない機會と思った近衛騎兵の聯隊長は、素早く隊に取って返すと、長い軍刀を抜き放ち、空中に一閃させました。
「レミニア大公萬歳! 聯隊、抜刀、前にい〜進めえー!」
各中隊長が同様に喚き、騎兵聯隊は急いで砲の間をすりぬけ、丘を降り始めました。
「突撃〜!」
派手な喇叭が鳴ると騎兵は襲歩に移り、あっと云う間に丘の上から居なくなってしまいました。 民兵團のF騎兵中隊も、
「レミニア萬歳! 吾等が都市に榮光あれ」
と喚声をあげて、一齊に抜刀し、走り降っていきました。
騎兵集團は時速40km近くの猛速度で東方帝國軍團の方陣に激突しました。その結果、不意を突かれた敵歩兵の槍は折れ飛び、軍旗は破れ散り、凶暴な馬蹄を避けようと逃げ惑う兵で、敵方陣の前半部は混亂に陥りました。敵軍團の密集隊列は動揺し後退を始めましたが、騎兵は短銃を取り出すと、手當り次第に撃ち込み、更に鞍から豫備の短銃を抜き放って發砲しました。後退する敵軍團は騎兵の執拗な追撃を受けて大きな損害を出し、ついに壊走するに至りました。
この間にツーシン大尉は兵を督励して後方に置いた段列の彈藥車から装藥や彈丸の補給を濟ませましたが、いざ砲撃再開をしようと望遠鏡を覗いたところ、既に東方帝國の軍團は遥か彼方に後退していくところでした。それに我が騎兵がまとわりついて發砲し、斬撃しています。敵味方入り亂れているところを砲撃するわけにはいきません。ツーシン大尉は司令部からの命令を待ちましたが、それも途切れたままだったので、翌朝の朝まで、丘の上に留まり續けました。
中隊が朝食を整えていると、司令部の中佐が乗馬でやってきて、
「君らは、どこの隊だ」と訊きました。
「こんなところで何をしているのか」とも云うので、ツーシン大尉は
「どこに行けばよいのか、分らんのであります。」と答えました。
司令部では、すっかりツーシン砲兵隊のことを忘れていたのです。というよりも、もともとツーシン砲兵隊という舊式青銅砲の中隊があることすら知らなかった様子です。
ツーシン大尉は後で自分の隊が、この戰役最大の激戰の當事者であったことを知るのですが、それは數年も經って戰史ができた時に初めて明らかにされたことで、大尉自身は長い間、單に大規模な側面援護の一部として参加したものとばかり思っていたのだそうです。そのため勲章と僅かな一時賜金を貰い、一等大尉に進級して、それだけで満足して家に歸ってきました。そして相變らず貧乏な砲兵隊長を務めていました。
ツーシン砲兵隊の活躍は年を經るに從って段々に、その大きな功績が認められるようになり、レミニア大公はツーシン家を勲爵士として待遇することになりましたが、それは戰争のあと10年も經ってからのことです。その前に既にツーシン大尉は退役を願出て、名前だけの名誉隊長となり砲兵隊を去っていました。ところが、この一躍有名になったツーシン砲兵隊の名誉隊長になりたいと云う貴族の馬鹿息子がたくさんいたので、その一人に名誉隊長の位を多額の金貨と引換えに譲ってしまったのです。その後、ツーシン大尉はそのお金を使って戰場近くの地所を手に入れました。相變らずお酒を飲んで、いよいよ太ってしまいましたが、養っていた大家族(兄弟姉妹11人)が貧乏から抜出せて喜んでいるのに、たいへん慰められて、穏やかな生活を送りました。子供がいなかったので、甥が相續しましたが、その荘園はツーシン村として今に續いています。村の地主や農場主にはツーシン大尉の部下だった人が多くいます。ツーシン大尉が招いて入植の世話をしたのでした。

《参考文献》

「レミニア大公國1810年ニルス戰役史」memor de nils bataloy en 1810 d'arkidukey reminia

レミニア大公及びその同盟者の聯合軍が、東方帝國軍をレミニアから驅逐した一連の戰闘を細大洩らさず記録した公刊戰史。以降、戰史記述の模範となる。しかし當時の司令部の無為無能ぶりや、軍隊間の軋轢に原因する故意の戰場到着遅延、命令誤傳など、不祥な事柄は巧みに糊塗されており、その點でも後世の模範となった。

「ツーシン砲兵隊史」histori de tsusin bateri

ツーシン大尉自身はいっさい備忘を遺さなかった。僅かに自筆の報告書、履歴や勲記、書翰、高等學校生徒時代の作文、アルバムに記した落書きなどを妹が編纂したものが公表されているのみである。ツーシン大尉の部下だった者が隊史を作り、その中にニルス戰役の戰闘記録が入っていた為、軍人仲間のうちで評判を呼び公刊される事になったが、その當時の司令部の無能ぶりを暴いた赤裸々な記述の所為で、檢閲を懼れた書肆が差障りのある箇所を削除してしまった。今世紀に入り漸く「稿本ツーシン砲兵隊史」が刊行されて完全版を見る事ができる。

映畫「奮戰ツーシン砲兵隊」batal kuragh de tsusin bateri: sonkinematograf

メトロ映畫撮影所が初のトーキー大スペクタクルと銘打って、1939年に製作公開したもの。ミニチュアと實寫を巧みに組合せて迫眞の戰闘シーンを銀幕上に現出せしめた。殊に騎兵隊突撃シーンは護郷軍の協力を得て、負傷者まで出した凝りようで、監督セルゲイ・ニグリゼイヨの面目躍如と評判を呼んだ。また砲撃の的となる東方帝國軍の手足飛散する惨状描寫には餘りに残虐との理由により檢閲官による削除が多く入った。
主演俳優のヨハン・ガビーニはツーシン大尉が地味な役柄なので一旦は出演を辞退したほどであったが、いざ撮影に入ると、完全にその人になりきって好演した。このためこの作品以降、活劇の悪役専門から轉じて性格俳優として認められるようになった。
大尉の家庭や兵營での日常生活も肌理細かいエピソードの積重ねで鄭重に描寫し、御婦人方の涙と笑いを誘って、一應の成功を見ている。公開當時は折しも北方帝國との全面戰争中であり、銃後の戰意高揚映畫として興行的成功を収めた。

映畫の戰闘場面


【ルブラン中尉】 lewtenant prima L'Blanc, first leutenant L'Blanc

第一次ニルス戰役の参戰者。民兵旅團の突撃に参加し、その體驗を小説に書いて好評を得る。
1792年、ルブラン伯爵家の分家に生まれましたが、頼りとする父親は若くして他界し、本家から僅かな年金を貰って母親と慎ましく生活していました。高等學校を卒業してから、家庭教師や私塾の講師をして小遣を稼いでいましたが、民兵隊に缺員ができたので入隊、有給の士官候補生、次いで少尉補となりました。
ニルス戰役が起こり、東方帝國軍が首府城壁に迫る事態となったので、所属する第1民兵隊A中隊はラトニア區に集結、城壁を出て南に行軍し、郊外の南レミニア村附近で野營しました。第1民兵隊長のA少佐は穀物仲買人だったので、實家から食べるものを豊富に取寄せて、隊員にふるまいました。ルブラン少尉補が将校用酒保の天幕で日頃食べる機會のない焼肉の塊にかぶりついていると、直属の上役の中隊長B大尉がすっかり酔拂って兵隊の賭博に参加していました。大尉は兵隊の中から選挙で中隊長職についた人で、もともとは城壁の近くで野菜をつくる小さな農場主をしていました。
斥候の獵騎兵が哨戒線を抜けてやってきました。遥か彼方のトリアングロ岬では東方帝國軍の重砲兵部隊が上陸し、南レミニア近郷に橋頭堡を築いて巨大な攻城砲を据付け、首府の城壁に照準を合わせているとの報告を齎します。いよいよ明日は最早この命がなくなるのだと、ルブラン少尉補は思い、しばし同僚の将校と語り合った後に飲みなれぬ火酒をあおって眠ってしまいます。
翌日まだ夜の明けきらぬうちに、民兵旅團は隊列を整え、静粛に前進して、敵の重砲陣地に接近しようとします。濃い霧が湧き視界が開けないなか、司令部からの騎馬傳令が攻撃中止命令を傅えようと驅つけますが、その時には既に旅團長の命令一下、六千人の歩兵が銃劍を揃えて前に進むところでした。司令部の参謀長は民兵を全く評価しておらず、訓練未熟な烏合の衆と見ていました。ここぞと云う時に壊走を始め、戰線を崩壊させる主因となるに違いないから、重要な役割はさせられないと決めていたのです。到着豫定の精強な近衛歩兵聯隊とオスタリーチおよびガイツの歩兵聯隊計九千人が揃ってから一齊に突撃を開始し、民兵はその補助に使用しようと計畫していました。ところが近衛もオスタリーチもガイツも一向に到着せず、敵の大軍と我が市壁を隔てるのは民兵隊を掻集めた素人旅團だけとなっていたので、その唯一の防衛兵力を無謀な突撃で四散させ、無防備状態となるのを司令部は何よりも恐れました。いっぽう民兵旅團長ワトスン少将はレミニア大公の古臭い傭兵部隊の鈍重さにウンザリしており、到着豫定刻限となっても一向に現れないよい加減さに堪忍袋の尾を切っていました。少将は司令部からの傳令将校の命令書を受取りましたが、中味を一瞥すると焚火にくべてしまいました。少将は「吾輩は老眼で近眼で亂視じゃから、薄暗い處で命令書の氣取った飾り文字を間違えて讀んでしもうてな、そこには突撃は中止せよではなく、確かに突撃せよとしか書いてなかったじゃ。もう火にくべてしもうたから、讀み直す譯にもゆかんでなー」と後で頻りに嘯きました。民兵旅團の隊列はそのまま前進してゆきました。その頃、精鋭の誉れ高い近衛歩兵聯隊三千名はやっと宮殿前の閲兵廣場に集合して粛々と隊列を整え、長たらしいレミニア大公の演説を謹聴していました。はるばる北から長途加勢にやってきたオスタリーチ聯隊とガイツ聯隊計總勢六千名はやっとベルダン峡谷を抜けて、規定通りの小休止をとりながら、首府北方のアルタシュトーノ村に至り、市壁を臨んで規定通り各中隊の特務曹長が兵士どもに火酒を配給している最中でした。将校の天幕では攻撃は晝頃になるだろうと話合っておりました。
民兵旅團は粛々と前進を續けました。途中で敵の重砲陣地が騒がしくなり、我が夜襲に気附いたらしく、叫喚や武器の触れあう騒音が頻りに起こり、護衛部隊が繰出されてくる様子です。ルブラン少尉補の中隊は突撃縦隊の先頭に位置し急速に前進しつつありました。左右には別の縦隊が並進していました。敵の蛮騎兵の一隊が襲撃してきますが、側方から獵兵が施條銃の精確な狙撃ちで撃退します。しかしこれで我が襲撃隊の位置が明らかとなり、敵は重砲を打込んでくるようになりました。恐ろしい威力で、着彈すると密集していた歩兵の隊列は跡形も無く飛び散り、その跡に大きな砲彈穴が出来ました。この砲撃でルブラン少尉補の所属する縦隊は半部を喪いますが、先頭中隊は歩度を緩めず、恐怖のあまり後退することを忘れ、闇雲に驅足で前進を續け、とうとう重砲陣地の敵兵の顔が見える距離までに迫りました。擲彈兵中隊が堡塁の麓に肉薄して一齊に手榴彈を放り投げます。夜目にもくっきりと白煙が立昇り、獵兵隊と輕歩兵隊が敵の砲手を狙い撃ちする小銃音がひっきりなしに起こります。中隊長は突貫を命じ、まっ先に堡塁に攀じ登って敵兵を叩き斬りました。續く兵士どもは砲兵陣地に充満して銃劍を振るいます。ルブラン少尉補の小隊は敵の護衛兵の一隊と對決し、双方とも銃劔をやたらに振回す大亂闘となりました。それはいつまでも續きましたが、後で考えてみるとほんの十數分程度の事でした。少尉補は足元が定まらず幾度も轉倒し、その都度、地面を埋めた傷者と屍體から流れ出る血の海の中でもがき、滅多矢鱈に軍刀を振回しては跳起きなければなりませんでしたが、突然に他の縦隊が別の方角から亂入してきたので、あっけなく敵兵は制壓され其の大多數は立込める霧の中に逃走してゆきました。
朝陽が差し込み、オリザ河を越えた東の方角から頻りに砲声が聴こえてきます。これは敵の大歩兵軍團を迎撃しているツーシン砲兵隊の射撃音でしょう。中隊毎に集合していると民兵團司令部が進出して来て各隊長集合の軍鼓が鳴り渡り、A少佐が出掛けていきました。特務曹長が手帖片手に點呼を取り始めました。少尉補が堡塁から振返って見ると突撃路には澤山の砲彈穴が無秩序に開いて、驚くべき數の屍体や傷者が散らばっていました。A少佐が命令受領を終えて歸ってくると、今度は中隊長集合となり、敵の逆襲に備えて堡塁の守備配置が決まりました。中隊長のB大尉はさすがに昨夜の博奕を再開する氣分にはなれなかったらくしく、茫然と戰場を眺め廻しておりました。民兵旅團六千のうち五體満足で生残ったのは、三千五百名であることが後で判りました。
ルブラン少尉補は戰後も中隊に留り中尉まで勤めましたが、第二次ニルス戰役の前に病氣となって退役しました。その後は市役所の下級吏員(十一等官)となり、僅かな俸給と年金を得て相變わらず母親とつましい暮らしをしていました。仕事の合間に自分の戰場軆驗を備忘録に拵えていましたが、「愛國記事」と云う雑誌にそれを整理して投稿したところ、これが數回に分けて連載され、大きな反響を呼びました。そこには當時の司令部の硬直さが暴露されていたので大方の讀者を獲得し、一方で民兵の活躍が活冩されていたので國民皆兵の機運が興る愛國的な世相に受容れられたからでした。ルブラン豫備役中尉は第二次ニルス戰役には志願して會計監督として後方補給の任にあたった後、陸軍省の大臣官房で属官を勤め、更に廢兵院の事務官に轉じた後、官を辞し、ある裕福な未亡人を後援者に得て戀愛小説など奇想天外な娯楽讀物の著述を始め案外の成功を収めました。

《参考文献》

参謀本部戰史編纂委員「護郷軍レミニア民兵團の第一次ニルス戰役に於ける戰闘」batal de milic reminia de korp gard heym en la dua milit nils, battles by reminia militia of homeguard corp in the second Nils war
最も詳細な記述で知られる。しかし民兵團の突撃が當時の司令部が作戰計劃を誤った為に生じたと云う經緯が伏せられている。

ガブリエル・ルブラン「覚書」memoray, memoir
民兵團の将校のみが知り得た事柄を記してある貴重な史料。本来は著者の文学作品として出来たのだが、むしろ史料としての価値の方が高い。


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