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【レミニア共和國の成立】

《大同團結》1850

ニルス戰役の勝利を祝うレミニア大公宮殿で、レミニア民族からなる大同團結がなされ、「レミニア共和國」が發足した。参加國は、レミニア南部のレミニア大公國、オスタリーチ候國、レミニア深南部のボオ候國、ランデンドルフ王國、レーベ獅子王國、ジルベリア王國、ザフィア候國、デーモン自由國、撤退した「東方帝國」から獨立したレミニア東部アルジェントリア地方のチエラルク自由國、カルナツイオ自由國、ソヴァージランド自由國、ビッグポンド自由國で、これによってレミニア人種の國々のうち半分が合同して大國家を建設した事になった。残る半分は、西部、北部を版圖とする古い「北帝國」である。

《新軍隊の建設》1850

當時の軍隊は、各地の地方軍を國軍司令官(共和國の盟主たるレミニア大公)が統率し、國軍参謀本部が合同作戰指揮に任じ、新設の陸軍省が制度・人事・軍資金・補給など軍政を擔當していた。
レミニア大公は「模範旅團」を編成して、これに最新兵器を装備し、全國の地方旅團から選抜された兵を隊員として訓練した。この旅團には、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵、憲兵、飛行兵(氣球兵)が揃っており、機關銃、電信、氣球、飛行船など新兵器が大量に取入れられていて、ここから幹部を各地の部隊に訓練教官として派出し、徴兵及び志願兵に短期促成教育をなし豫後備役兵員の蓄積及び軍全體の戰力向上に努力した。
1860年から4年間續いた亜米利加の南北戰争に派遣された観戰武官は、その消耗戰の様相を呈した膠着状態に深い印象を受け、将来戰には國民軍隊の建設と同時に、産業動員の必要性ありと報告した。

執銃訓練

《1874年事變》第1次國境紛争:北帝國の「東方帝國」侵攻

大陸北部に覇を唱える北帝國は、大陸北東部への侵攻に専念していた。レミニアにおける「東方帝國」軍のあっけない敗退を見た北帝國の皇帝は、さっそく大遠征軍を派遣して老朽化した「東方帝國」を難なく占領し、保護國とした。中世以来レミニア民族を悩ませてきた東方帝國のあっけない最期であった。
この時にレミニア共和國の北部を北帝國の遠征軍が無断で通過すると云う事件が起り、再三の抗議を無視されたレミニア政府は、精鋭の模範第1旅團を派遣して戰闘を交え、北帝國軍部隊の通過を阻止した。「東方帝國」侵攻と云う大事な時に無用の紛争擴大を恐れた北帝國は、停戰協定を結んだ。

《1881年事變》第2次國境紛争

北帝國は引續いて舊「東方帝國」領であった「バクテリア」「メロニア」を次々と制壓したが、その途中、再びレミニア國境侵犯事件を引起こし、レミニア陸軍の模範第1旅團と交戰状態となった。戰闘はレミニア軍の惜敗に終ったが、北帝國は再び紛争擴大を臨まず停戰協定が成立した。レミニア陸軍は、この時以来北帝國を假想敵國と見做し、軍備の充實に努める事になる。

《1884年事變》第3次國境紛争

大陸東方を制壓した北帝國は、今度は西方に触手を伸し始めた。大陸西方には強國「ミグルシア」が繁榮していたが、北帝國はミグルシア東部に侵攻し、占領地帯を緩衝地帯となして「ベストラント」諸國を建設、國際情勢の緊張緩和を工作した。國境地帯の安全を確保した北帝國軍は、レミニア西部に威力偵察を試み、レミニア陸軍第2旅團の反撃を受けた。この戰闘でレミニア軍は大敗を喫したが、レミニアの意外に整った軍備に驚いた北帝國軍はレミニア侵攻計畫を練り直す事になった。
レミニアに北進の意圖も實力も無い事を確認した北帝國は、海外植民地の獲得を目指して艦隊建設に励み、東洋方面に進出、列強に伍して清帝國の一角に足がかりを築いた。

《1887年事變》ベルベル族叛亂

北帝國の工作と援助により、東部邊境のベルベル族が叛亂、レミニア軍は大規模な鎮壓戰を行う。叛亂軍は北帝國より得た新式の機關銃・その他小火器を装備し、約7箇中隊(うち機關銃小隊6箇)を数え、これに向うにレミニアの討伐隊は第2旅團(歩兵1箇中隊、騎兵1箇小隊、工兵1箇小隊、信號1箇小隊、輜重1箇分隊、野戰憲兵1箇小隊、爆撃飛行船1)を以て遭遇戰を演じ、3時間にて敵野戰部隊を殲滅。引續きベルベル城塞に突入(敵守備兵力:歩兵1小隊、機關銃小隊3)、爆撃飛行船の援護下、これを2時間にて撲滅、憲兵小隊は住民600を保護。頑強に抵抗する敵別働隊1箇中隊は我が騎兵小隊の攻防5回及び飛行船爆撃により3時間半にてこれを半減せしめた。
レミニア軍の軍備いよいよ充實し来るに驚き、北帝國軍は南進に慎重となり、また舊東方帝國の經營、周邊諸國に對する防備、遠東權益の擴充に専念する事となり、レミニアには長い平和が訪れた。

《北帝國軍の北支進駐》1901

1899-1901年の大清帝國に於ける拳闘團事件に参加した北帝國軍は、天津租界及び北京租界に駐屯軍を置き、黄海沿岸の良港を獲得して99年間租借条約を締結、北支邦の鐡道建設を實施して、鐡道附属地を獲得、ここに守備隊を常置した。

《リゾネシア出兵》1909

レミニアは舊東方帝國のかっての支邦で南洋海上交通を支配する島國リゾネシア王國に居留民保護を名目として突如出兵、第1旅團(歩兵大隊1箇、工兵中隊1箇、信號分遣隊、騎兵小隊1箇、後備歩兵第6聯隊中隊3箇、野戰憲兵隊、飛行中隊1箇)、砲艦1、水雷艇1、補給船1、病院船1を以て首府を占領。
戰闘は頑強に抵抗するリゾネシア軍に對し、敵前上陸、艦砲射撃、空中爆撃、空中戰闘をなし、對空射撃による被弾、重砲射撃、7波にわたる突撃など、全く近代戰の様相を呈した。

《ハーグ陸戰條約發効》1912

1911年レミニアは第二回萬國平和會議に於いて改定された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」Convention concernant les lois et coutumes de la guerre sur terreを批准し、1902年公布。

《マルノブフォント砦事件》1914年1月

北方邊境の砦が突如、山嶽原住民の武装蜂起により占領される事件が起った。後になって北帝國の扇動と援助によるものと判明した。このような謀略事件が國境地帯随所で頻發していたが、砦守備隊(後備歩兵21聯隊補充隊、憲兵分駐隊)が全滅するに至ったため、看過し得ない重大事件と認められ、政府は臨時第1師團を討伐に差向けた。

《山嶽部族移動阻止作戰》1914年2月

レミニア軍は示威を兼ねて、大規模な最初の山嶽原住民討伐を行った。第2旅團(歩兵第1聯隊)、第4旅團(後備歩兵第22聯隊)がソヴァジランド守備、第3旅團(後備歩兵第9聯隊、後備歩兵第10聯隊)、第6旅團(後備歩兵15聯隊、後備歩兵第16聯隊)が原住民移動を阻止。
後備歩兵第21聯隊長を支隊長とする同第1大隊、同歩兵砲中隊、配属飛行爆撃小隊が抵抗原住民部隊を捕捉。北帝國軍提供の近代装備を備えた原住民部隊は歩兵大隊1、工兵小隊3であった。歩兵砲・空中爆撃飛行船による準備砲撃後、歩兵の突撃7波にわたり、最後に空中爆撃によって敵部隊は全滅した。近代的な立體作戰が取られた為、諸外國観戰武官は深い感銘を受けた。

《アルジェント會戰》1914年3月

原住民軍は、主力の3部族聯合部隊(歩兵大隊2、騎兵聯隊1)をソヴァジラントの大平原に集結させ、レミニア第4旅團(騎兵聯隊1、砲兵聯隊1、後備歩兵大隊2、歩兵砲中隊1、工兵中隊1、空中爆撃小隊1、後方部隊として後備歩兵5大隊)と對峙した。
緒戰の騎兵決戰により敵騎兵は全滅、その後、砲兵・爆撃飛行船の一方的な砲撃により、敵の密集陣形は大損害を来し、残部歩兵が果敢にも突撃し来るが、レミニア歩兵部隊の逆襲に遭い全滅した。
2月の作戰を大規模にしたもので、基本戰術は變わらない為、レミニア軍の飛行船を使用する特異な立體戰術は諸外國軍部の評判となった。

《歐州大戰》1914-18

北帝國は聯合國側に加入し、西部・東部の両戰線に數箇混成旅團・輸送艦隊と観戰武官を送った。レミニアは中立を保持したが、義勇兵として聯合國軍や樞軸國軍に参加する者が多數あった。彼等が復員後にレミニア共和國軍に志願入隊し、戰場の新戰術の指導に當ったので、陸軍の近代化は急速に進んだ。

《特別大演習》1915

レミニア陸軍は北帝國の強大化に惧れをなし、國境線の防備を整えたが、一触即發の危機が喧傳され、示威行動として特別大演習が實施された。

《ブラトニア峠事件》1916 第4次國境紛争

北帝國正規軍とレミニア守備隊との小規模な交戰。後備歩兵22聯隊の小隊が舊東方帝國領との國境監視哨に於いて、北帝國軍部隊と衝突、戰線は擴大し、レミニア軍はあわや總動員令を發せんとしたが、外交交渉により終結した。

《ロシア帝國の革命》1917

1917年2月、ロシアに革命起こり、皇帝退位(後に處刑)、勞農政府樹立。11月ソヴェト政權樹立。

厭戰氣分に駈られた兵隊の叛亂から露西亜帝國の崩壊が始まる

露西亜皇帝殺害される

《シベリア出兵》
1918年4月聯合國軍シベリア出兵

北帝國軍は沿海州に進出

1919年3月大軍を以て白色政權を幇助し、西比利亜共和國樹立に參畫。聯合國軍撤退後、北帝國軍は日本軍と共に残留し白色軍と共に赤軍の侵攻を撃退、日本軍撤退後も北帝國軍は軍團規模の兵力を駐留させ、聯合共和國軍が此れを引継ぎ西比利亜派遣方面軍を編成。

白露軍の猛攻

北帝國軍の援護を受けて白露軍は赤色軍の東進をザバイカル湖の線に於いて阻止

《ゴルゴニア第1次出兵》1919年5-8月

ゴルゴニアで赤色革命が起り、隣國たる北帝國とミグルシア、及びレミニアを含む周邊諸國は干渉軍を送り込み、反革命政權白衛軍を援護して赤軍と戰闘、これを制して王制復古を實現。
レミニア野戰軍編成は、第1師團司令部、騎兵第1旅團(龍騎兵第1聯隊・同第2聯隊、野戰重砲兵第1聯隊第2中隊)、後方支援の歩兵第1旅團(歩兵第1聯隊、工兵第2大隊(2箇中隊缺)、輜重兵第3大隊(2箇縦列缺)、飛行第1旅團(飛行第13聯隊(驅逐:第4・第5・第6中隊缺)、嚮導飛行隊驅逐小隊))、第1憲兵隊臨時野戰憲兵小隊からなり、ゴルゴニア赤軍大勢力と會戰し、これを撃滅した。戰果は捕虜25、鹵獲戰車5、戰車撃破85、砲撃破30、飛行機撃墜80。損害は戰死117、戰車損壊13、砲損壊9、飛行機損壊56。
初の大空中戰は、ゴルゴニア赤軍航空部隊と互角に渡り合い、戰死者の半数を飛行兵が占めると云ふ奮闘ぶりで、5回の出撃にて24機の差を開け制空權を掌握。協同出兵航空部隊の爆撃路を確保し、ゴルゴニア赤軍殲滅への途を開く殊勲を樹てた。

《ポーランドの反共戰線》1920

ポーランドはソヴェト・ロシア軍の侵攻を撃退。

《ミグルシアの王政復古》

歐州大戰で枢軸國側に立ったミグルシアは疲弊し、國王は亡命し共和制となったが政情安定せず經濟混亂と同盟罷業、極左極右による暴動が頻發し、これの沈静に成功した軍部はクーデターを決行、王政復古となる。

《後備軍を軍・師團制に改編、特科部隊大擴充、兵役2年に延長》1920

《1920年代陸軍の機械化》

諸國は競って陸軍の機械化に取組み始める。レミニアと北帝國は互いに拮抗して乗馬騎兵を廢止し、騎兵を戰車兵に改編。

《飛行軍の創設》

レミニアは飛行軍を創設。既に北帝國は航空部隊を整備し、また大陸北部のミグルシア王國軍は戰略空軍理論による強力な空襲部隊を編成。

《北帝國の獨裁者、帝政復古、大レミニア民族主義》
北帝國では任期1年間の獨裁官が政府と軍を掌握し、獨裁者として皇帝に即位した。この皇帝僭稱は古くからの北帝國の政治制度を持ちだしてきて根拠としたもので、腐敗した政黨政治に飽きていた國民の支持を得た。皇帝は大レミニア民族主義を唱える。レミニア民族は大同團結して強國ミグルシア及びその他の隣國に對抗すべきである、と云うのがこの主義の主張であるが、それは北帝國のみでは力不足でできず、南部のレミニア共和國と共に周邊侵攻をはかろうという、北帝國によるあからさまなレミニア併合論であったため、レミニア政府は警戒を強め、動員體制の整備を始める。

《1929-30年北方帝國對レミニア共和國の戰争》

1929年11月、愈々レミニア共和國併合を皇帝は決心し、まず迅速にミグルシア、ゴルゴニアと不戰条約を締結した。命令一下、北帝國軍は瞬く間にレミニア國境に殺到し、西南部(ウエルズ・クリートの2縣)と東部(ソバジランド・グランポンドの2縣)に侵入これを占領。
レミニア軍は西北部の山嶽地帯と西部オスタリーチ縣境のオリザ河畔に長大な塹壕線を築き、この防衛線にて長期間抗戰の構えに入った。
レミニア軍の西部海岸地方を守備する師團は全員が捕虜となり、東部戰線に出動した自慢の機動部隊は壊滅した。
北帝國軍も兵站線が延び、機動戰を得意とする北帝國軍の侵攻は停滞し膠着状態に陥った。
西部戰線のオスタリーチ縣と山嶽地帯に敷かれた塹壕戰でのレミニア軍の強硬な抵抗に手古摺り、消耗戰の様相を呈した。
銃後では國家総動員體制が組まれ、産業は軍需品生産が優先され、住民の疲弊が顕著となった。不満分子は秘密警察により逮捕されたが、一掃することができなかった。
1930年5月《停戰》この事態を打開する為に新たに北帝國軍が東部戰線に於いて次期攻勢を準備中に、突如ミグルシアとゴルゴニアが不戰条約を放棄して北帝國の首都に無差別瓦斯爆撃を實施、官民問わず百萬の人命が喪われた。一夜にして政府機能が麻痺した北帝國は政治經濟・交通・産業に大打撃を蒙る。
慌てた北帝國はレミニアと急ぎ停戰して、北方國境の防衛に兵力を集中せざるを得なくなった。

1930年5月《北方防衛戰争》

北帝國に蔓延していた厭戰氣分が一層高まり、ついに穏健派のクーデターが起こった。これにより獨裁皇帝政權が倒れ、その支持者たる對外強硬派が逮捕・亡命により四散すると、レミニアは北帝國と「レミニア聯合共和國」を結成し、軍を北部國境に集中し、ミグルシア・ゴルゴニアの侵攻をくいとめる。
北帝國だけではミグルシア軍とゴルゴニア軍の侵攻を阻止することができないのは明らかであったから、レミニアと共同して外敵にあたる必要があった。これはレミニア側もよく承知しており、速やかにレミニア民族の大同團結は實現した。
この大同團結により、ミグルシア空軍空襲により政治經濟の機能が麻痺した北帝國と、ミグルシア航空機の航續距離外にあってまだ餘力のあるレミニアの合併が實現した。
8月 レミニア民族の統一ははからずもここに完成を見た。この大陸の半部を占める大國の出現により、平和が齎された。現在はレミニア軍と舊北帝國軍の合併により、5箇軍からなる大陸軍と3艦隊からなる大海軍が全版圖に睨みを利かせ、更に2箇空中軍團が制空權を保つ状態となっている。
ミグルシア・ゴルゴニアとの交戰状態は継續しているが、時折砲撃や空中戰を交わす程度である。

1899年ハーグ陸戰條約。
1927年ハーグ陸戰條約改定。
1928年ジュネーヴ議定書(化學・細菌兵器使用禁止)發効。

【欧羅巴】
1804年佛帝國・墺帝國成立。神聖羅馬帝國解體。
1814年佛王政復古。1815年ワーテルローの戰。1830年佛軍がアルジェリア占領。1831年ベルギー王國成立。1834年獨關税同盟。1851年第一次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戰爭。1861年伊王國成立し1870年教皇領を併合し全伊統一。1864年國際赤十字同盟結成。1864年獨:第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戰爭。1866年普墺戰争。1867年北獨聯邦成立。墺洪二重帝國成立。1870-72年普佛戰争。1870年佛第三次共和國成立。1871年獨帝國成立。
1914-18年歐州大戰(北帝國聯合國側にて参戰、レミニア共和國は中立宣言、ミグルシア王國は樞軸側にて参戰)。
1916年愛蘭イースター蜂起。
1917年露革命。露帝國廢止。露二月及十月革命、勞農政府樹立。1918年獨帝國及墺洪帝國解體。
1919-22年希土戰争(希軍がアナトリア侵攻し撃退される)。
1919年愛蘭自由國成立。獨共和國成立。
1920年國際聯盟成立(北帝國・レミニア共和國参加)、ベルサイユ条約批准。
1921年ワシントン軍縮會議。
1922-23年愛蘭内戰。
1922年伊ムッソーリーニ首相就任、蘇聯邦成立。
1923年佛軍白軍のルール保障占領。

【中東】
1878年英が土よりキプロス島統治權獲得
1911-12年伊土戰争(伊軍リビアに侵攻・トルコ本土沿岸部を自由に艦砲射撃・世界初の飛行船空中爆撃及装甲車使用、伊リビア属州獲得)。1912年第一次バルカン戰争(バルカン同盟のギリシャ・セルビア・モンテネグロ・ブルガリアが土軍をバルカン半島及クレタ島から驅逐)。1913年第二次バルカン戰争(ブルガリアがギリシャ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・土に敗戰)。1914年英がキプロス島併合。1919-22年土祖國解放戰争(土軍が希・佛・アルメニア軍をアナトリアから撃退)。1922年オスマン帝國崩壊。1923年土共和國、埃及王國成立。1925年土クルド族叛亂鎮壓。

【西亜細亜】
1804年印度ムガール帝國が英保護下に入る。
1828-29年露土戰争。
1854-56年クリミア戦争。
1857-58年印度大叛亂。英が東印度會社及ムガール帝國を廢止し印度領有。1877年印度帝國成立。
1869年スエズ運河開通。
1877-78年露土戰争。
1882年英軍が埃及占領。

【阿弗利加】
1842年英軍がナタール共和國に侵攻これを併合。1879年ズールー戰争(英のズールー王國併合)。1880-81年第一次ボーア戰争乃至トランスヴァール戰争(英軍大敗しトランスヴァール共和國再獨立)。
1883年佛がマダガスカル占領。1885年獨がトーゴー・カルメン・南西アフリカ領有。1885-88年エリトリア戰争(伊軍がエチオピア帝國軍を驅逐、エリトリアを伊が實効支配)。1889-96年第一次エチオピア戰争(伊軍敗北)。
1898年ファショダ事件(英佛両軍がスーダン南部の勢力境界で衝突寸前に至るが獨勢力牽制の為衝突回避)。
1899-1902年第二次ボーア戰争乃至南阿戰爭(英軍苦戰の末トランスヴァール共和國・オレンジ自由國を併合、英國疲弊し焦土作戰が國際非難を浴びる)。
1905年第一次モロッコ事件(獨皇帝がタンジール訪問し佛のモロッコ支配を牽制、兩國部分動員を發しあわや開戰に至らんとす)。1911年第二次モロッコ事件(叛亂鎮圧の為佛軍出兵し獨は居留民保護名目の砲艦を派遣してこれを牽制、あわや兩國衝突寸前に至る)。1920-26年第3次リーフ戦争(西軍がモロッコ西部ベルベル族のリーフ國軍を辛子瓦斯使用にて驅逐)。

【東洋】
1868-62年第一次佛安戰爭。
1885年獨がマーシャル・カロリン群島占領。1888年獨がビスマルク群島占領。1889年米獨のサモア群島争奪(颱風により兩分遣艦隊沈没した為交戰に至らず島を分割領有)。

【支那】
1840-42 阿片戰爭(清の阿片取締を契機に英軍が広東侵攻、南京條約により清を半植民地化、香港を租借)。
1851-64 太平天國の亂(洪秀全の基督教團軍が南京占領、清軍苦戰、鎮壓完結時に20萬人の信徒を殺害)。
1856-60 アロー戰争乃至第二次阿片戰争(清の英人迫害・アロー號臨檢を契機に英佛聯合軍が北京占領、北京條約により英は九龍半島を得、仲介の露は沿海州を獲得)。
1884-85年清佛戰争。
1894-95年日清戦争(日本軍が朝鮮を占領。清國歳出2倍半の賠償金2億兩を課し台湾併合・朝鮮を保護國とす)。
1899年義和團事件乃至庚子事變・北清事變(英米露佛獨墺伊日聯合軍が北支占領、清國歳出五倍強の賠償金を課し駐兵權を獲得)。
1912年清朝滅亡。中華民國成立。1915年袁世凱臨時大統領が中華帝國に改稱。1916年中華民國に改稱。袁世凱死去。
1916-28年軍閥割拠。1919年寛城子事件(日中両軍衝突)。1921年第一次國共合作。
1926年北伐開始。1927年國民黨軍の南京占領。南京事件(共産黨による外國領事館襲撃)。漢口四三事件(漢口占領の際、國民黨軍が租界襲撃)。上海クーデター(國共合作解消)。南京國民政府(蒋介石)と武漢國民政府(汪兆銘)に分裂。
1927年武漢政府が南京政府に合流。
1928年北伐再開。北洋軍閥張作霖暗殺。山東事變(北伐途上、濟南にて日本軍と衝突)。國民黨軍の北京占領。中東路事變(中東鐵道接収を巡り西比利亜共和國と交戰)。

【日本】
1863年薩英戰争(生麦事件賠償を拒否され英艦隊薩摩藩鹿児島砲撃)。1863年下關事件(朝廷の攘夷令を承け長州藩が馬關海峡閉鎖、米佛蘭船舶を砲撃した為米佛軍艦が長州軍艦を殲滅)。1864年馬關戰争(英佛欄米聯合艦隊が長州砲臺を襲撃破壊、閉鎖解除)。蛤御門の變乃至元治の變乃至元治甲子の變(長州軍の京都出兵を會津・薩摩・大垣・桑名・新撰組が驅逐)。第一次長州征伐(幕軍に長州が降伏、奇兵隊叛亂し恭順派を追放)。1866年第二次長州征伐(幕軍連敗、将軍家茂服喪の為停戰、薩長聯盟成立)。
1867年王政復古。1868年戊辰戰争(朝廷軍が幕軍を驅逐)。大日本帝國成立。
1874年佐賀の亂(佐賀士族の蹶起)。台湾征討(日軍が琉球漁民保護の為台湾出兵、清國撫恤金10萬兩・諸設備費40萬兩支拂)。1876年神風連の亂(熊本敬神黨の蹶起)。秋月の亂(福岡秋月藩秋月黨の蹶起)。萩の亂(山口萩士族殉國軍の蹶起)。
1877年西南戰争(不満士族叛亂を鎮壓)。福岡の亂(福岡士族の蹶起)。
1894-95年日清戦争
1905-6年日露戰爭(日本軍が満洲より露軍を驅逐、朝鮮を保護下に置く)。
1914年日英聯合軍が獨領青島攻略・日海軍が獨領南洋諸島占領。
1918年西比利亜出兵。
1927年南京事件、漢口事件(國民黨軍の租界襲撃)、第一次山東出兵(北伐軍より居留民を保護する為濟南に軍を派遣)
1928年第二次山東出兵(北伐軍再度北上の為、軍6,000を派遣)、濟南事件、第三次山東出兵(1箇師團餘派遣)、濟南事變(日本軍の濟南占領)
1929年濟南撤退。

【越南】
1882年清軍が北越進駐。1883年佛軍小部隊が北越に侵攻、黒旗軍に撃退される。佛遠征軍が越南軍を撃破、廣西軍と交戰。
1884-85年清佛戰争(佛遠征軍2箇旅團と艦隊が清の廣西・黒旗・雲南・台湾軍と交戰、両者手詰の中、佛軍が恐慌して後退し殖民地擴大派政權が崩壊)
1887年天津條約により佛領印度支那聯邦(越南・柬埔寨)成立。
1930年國民黨によるイエンバイ蜂起。

【緬甸】
1818年國王がベンガル東半部割譲を英に要求。1822年緬甸軍ベンガル進駐。1824年第一次英緬戰争(英軍が南緬アラカンとテナセリム占領)。1852年第二次英緬戰争(英軍がペグー占領、南緬を併合)。1885-90年第三次英緬戰争(英が北緬を併合、緬甸王國滅亡、英印緬甸州となる)

【暹羅】
1821年クダ・スルタン國(マレー)を征服。1831年第一次泰越戦争(柬埔寨と南越に侵攻し越南軍に敗退)。1841年第二次泰越戦争(柬埔寨を越南と供有)。
1860-90年ホー戦争(太平天國に呼應蜂起したパン・ゼー殘黨のチン・ホー族のラオスに於ける叛亂)。
1893年泰佛戰争(保護下にあったラオスが佛領印度支那に併合となる)

【北亜米利加】
1861-65年南北戦争。
1867年露よりアラスカ購入
1898年布哇併合。米西戰争(米軍が比島・グアム・キューバ・プルトリコを占領、西班牙は亜細亜・南米より撤退)。
1899-1913年米比戰争(米軍が比共和國獨立を覆滅、長期に亘るモロ族叛亂を鎮圧、原住民殺戮150万以上を數う)。
1915年ハイチ占領。1916年ドミニカ占領。
1917年第一次世界参戰
1918年西比利亜出兵。人種暴動。
1933年ニカラグア撤退。

【南亜米利加】
1818年智利共和國獨立(マイプーの戰にて西軍を撃破)。
1821年ペルー共和國獨立。1825年ボリビア共和國獨立。
1825-28年亜伯戰争乃至ラプラタ・ブラジル戰争(伯の東方州がウルグアイ東方國として獨立、英がラプラタ流域の自由貿易港を確保)。
1839-51年大戰爭(ウルグアイの親伯派と親亜派の内戰、親伯派に伯英佛軍及ガリバルディ赤シャツ隊が、親亜派に亜爾然丁軍が参加、九年間のモンテビデオ包囲を經て親伯派が政権掌握)。
1864-70年三國同盟戰争乃至パラグアイ戰争・ロペス戰争(パラグアイ軍が伯・亜・宇聯合軍に敗退、五十萬餘の人口が半減(男子は1割に減少)、國土の八割は亜人が買収、伯が政治支配、英は参戰國に多額の借款を與え南米支配を強化)。
1879-84年太平洋戰争乃至硝石戰争・硫黄戰争(智が英の支援を得て硝石産地のペルー・ボリビア沿岸部を併合、智利經濟大國となる)。
1899-1903年アクレ紛争(ボリビアが天然護謨産地のアクレ共和國獨立を鎮圧できず伯が介入し200萬英磅・一部領土割譲及び鐡道敷設の賠償を以てこれを自國編入)。


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