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【レミニア大公國の時代】

《第3代大統領レミニア公爵の決断》

レミニア公爵はワトスン前大統領亡き跡を継いで、1822年貴族議會の選挙により第3代終身大統領に就任したが、本人は果断の人で世間を能く學び取る力を持っており、家格も古来より由緒ある名望家であったので、地主貴族層の強力な支持を得、すぐに政體を改め、レミニア共和國を廢止し新たに「レミニア大公國」を興し、共和國大統領職を辞して、大公國憲法を發布、貴族議會を召集して自らそれに署名、レミニア大公爵となってしまった。もともとレミニア公爵は舊共和國内の諸侯が互いに結ぶ封建的主従關係の頂點に立っており共和國が解體しても、レミニアの結束はレミニア公を中心に揺るぎのないものとなっていたので、このような措置に出たのだった。

《レミニア大公の新政策》

さらに國土が幾つかの地方政府に分裂してしまった事態を収拾するため、レミニア大公はオスタリーチ侯國の施策に倣い財閥勢力を牽制し地主貴族の保護政策をすすめる一方、強力な國家統制のもとに産業の近代化を更に押進め、學術を奨励した。
獨特の新政策として、貴族の領地は國家が永久に保護し、その賣買を禁じ、また地方産業の振興に手厚い保護を施したので、大公の人氣はあがった。ことに貴族銀行による没落貴族の救濟、産業總局(のち第二共和政に於ける内務省商工局、現在の第三共和制に於ける農商工省)による財閥の監視操縦と地方振興の奨励により、レミニア地方は驚くべき經濟發展を遂げるに至った。後世より見れば一種の統制經濟政策を敷いたのである。殊に大公の厳格な經濟警察の創設と經濟法整備は資本家を畏れさせた。

≪統一國家再建≫

レミニア大公國は静謐を取戻し、國運は更に發展するかに見えた。しかし、その行く手には試練が待構えていた。「東方帝國」が、レミニア沿岸部の帝國交易拠點都市の保護を名目に、大軍をレミニアに差向けてきたのである。レミニアの混亂に目をつけて、このさい一挙に風光明媚で豊かな大陸南岸部を占領し、かっての榮光を回復しようと云うのだ。


【第一次ニルス戰役】(1825年)     → top

《東方帝國軍の上陸》

元来「東方帝國」は、東方海上を隔てた大陸東端部にあって、古代より大陸南部沿海を支配してきたが、當時は明君を得て第二の勃興期にあたり、大艦隊を編成して西進の構えを見せていた。
これに對抗するレミニア大公の軍備は後れをとっており、戰艦が1隻、海賊船まがいの巡洋艦が4隻、近衛歩兵聯隊1(9中隊)、近衛龍騎兵聯隊1(本来12中隊のところ節約して6中隊のみ)、近衛砲兵聯隊1(宮殿警備の要塞砲兵にて舊式青銅砲16門)、近衛工兵隊、地方の守備歩兵聯隊・砲臺を數箇を持つにすぎなかった。
「東方帝國」上陸軍は、これに對して定數各3,300人の歩兵聯隊5(もっとも、その2/3は馬丁・從僕・從軍商人・軍夫などの非戰闘員から成っていた)、野砲36門を持ち、それらが瞬く間にレミニア南部海岸に橋頭堡を築き上げてしまった。

《民兵隊の突撃》

レミニア大公は當初、自分の近衛隊のみで闘うつもりをしていたが、首都「メトロポリス」の有力市民が各區で編成していた民兵隊に志願者を募り、俄か仕立ての市民軍1箇旅團(歩兵5箇大隊主力。特科數中隊附属)が戰列に加わる事になった。手工業者・商人・農夫牧夫・貧民・學生などが多數集まった。愛國の機運がたかまり、大公國は熱狂に包まれた。この民兵隊は豫備として戰線後方に位置するはずが、總指揮官の命令が誤って傳えられたため(一説では民兵旅團長が敢えて司令部の命令を無視したとも云う)、いざ戰場に進出してみると、右翼の第一線に陣を張る形となってしまった。この時の民兵團は歩兵大隊5箇が縱隊を組み、小雨混りの濃霧が朝になっても晴れない中を軍鼓の響きに歩調を合わせて一齊に前進するうち、前方より砲彈が降ってくるので、やっと「東方帝國」軍砲兵隊の陣地に真っ直ぐ向かっている事に自ら氣づく有様であった。しかし民兵隊は當時の軍事常識にはなかった散兵突撃を敢行し(他の正規隊形は難しくて實行できなかったため、また砲彈の恐怖から逃れるため我勝ちに驅足となったため)、大きな犠牲を拂いながら、「東方帝國」軍砲兵陣地を奪い、砲を鹵獲した。民兵旅團の工兵中隊が橋梁を破壊し、「東方帝國」軍の増援部隊の来着を妨害した。

《砲撃と騎兵突撃》

主力「東方帝國」軍歩兵集團の前進は、我が民兵旅團のツーシン野砲中隊が正面の高地に放列を敷いて猛射し出血を強いた後、近衛龍騎兵隊及び民兵騎兵中隊が突撃を敢行、深く敵陣内に突入して暴れまわり、「東方帝國」軍の硬直した指揮系統を寸断したので、帝國軍は大混亂のうちに陣形を崩し壊走した。

レミニア大公の近衛歩兵聯隊は大公の出陣演説が長引いた為、前線に到達するのが遅れ、遠路来着のオスタリーチ候國歩兵聯隊も規定通りの行軍速度を遵守した為、はるばる増援に驅けつけた時には、既に會戰は終了していた。
しかしレミニア大公は戰勝したが、豫備として温存して置きたかった大兵力の民兵旅團は體當り突撃のおかげで消耗して追撃の餘力が無いため、「東方帝國」軍の残兵は撤退する事なく、依然としてレミニア南岸部を占領し續けた。

東方帝國占領下のレミニア南部地方

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【第ニ次ニルス戰役】(1850年)     →top

《東方帝國占領下の南レミニア》

南レミニア海岸を占領し續ける「東方帝國」軍は冬營に入り、輸送船による補給により再び軍勢を整え、春が来るのを待って北進の構えを見せた。彼我の遊撃隊は盛んに衝突したが、なかでも獵場管理人や森番の志願する獵兵隊は、「東方帝國」軍の巡察隊や輜重隊を襲い、また軍用倉庫に火を放って、敵を弱らせた。此の為「東方帝國」軍は大規模な攻勢に出られず、レミニア軍の遊撃戰を追佛うのに精一杯で、ずるずると何年も無駄に屯營を續けた。

《大レミニア主義と祖國聯合》

此の間にレミニア大公は近隣諸邦に祖國と民族の危機を訴え、折から盛んとなっていた民族主義の風潮に乗り、同一民族の諸勢力、オスタリーチ侯國、ウェルズ公國、クリート侯國とレミニア大公國は軍事同盟を結んで、大レミニア陸軍を編成した。いちど分裂した民族が再び合同する方向に動いた譯は、オスタリーチ候爵が自國内の自由主義を標榜する不満分子の革命を恐れ、南西海岸を領する臆病なウェルズ公爵が東方帝國の上陸侵攻を恐れ、暗愚なクリート侯爵が單に自領の産業經營に自信が無かったからである。
さらにレミニア大公は、東の隣邦ランデンドルフ王國、ボオ候國、獅子(レーベ)王國、ジルベリア王國、ザフィア候國と軍事同盟を結び、同一民族による大同團結、大レミニア祖國聯合を結成した。
参加國間の關税撤廢により流通經濟が伸びやかになり、軍隊の統一は各國の防衛力を格段に向上させた。
《國民皆兵》

新しいレミニア陸軍は、從来の長期志願兵制度から短期現役兵方式に切替え、豫後備兵の備蓄に努め、大量兵力の動員體制を始動した。徴兵制度は戰争のたびに時の政府によって實施されたが、恒久的なものではなかった。今や全國は國民皆兵主義のもとに旅團管區に分けられ、徴兵區が網の目の如く張巡らされた。

《新式装備》

後装式小銃の採用は歩兵の火力密度を高めた。

《参謀本部》

統一陸軍は総司令官の幕僚組織として、参謀本部を創設した。これは軍隊の分進合撃と兵站補給を精密に計劃して、敵の大軍を包囲するべく各隊指揮官に刻々と進退を指令する組織で、當初はその有効性を疑問視されたが、大規模な演習を繰返すうち前線團隊長にもその必要性が認識されだし、次第に陸軍司令部の機能を果たすようになっていく。

《軍用鐵道》

鐵道網の整備は、主に陸軍の積極的な援助により全國主要都市間の幹線と國境方面に伸びる支線が完成した。軍隊の鐵道輸送を専門とする部局が参謀本部に設置され、鐵道の敷設はその許可を要する事となった。現在でも奇妙な走り方をする路線があるのは軍事上の要請から當初の計画が變更されたためである。 これにより大軍の迅速な機動集中がより容易となった。

《海軍》

南西部海岸のウェルズ軍港を根拠地とする海軍は海賊船を寄集めた貧弱なものであったが、潜水艇・水雷艇を増備して、南部海岸の東方帝國海軍及び海上輸送路を襲撃するようになった。

《奇襲》

レミニア南部の「東方帝國」軍は増強を重ねていたが、幾年にも亘る膠着状態の中で軍紀は弛緩し、レミニア軍の襲撃を豫期していなかった。機動演習と見せかけて集結したレミニア野戰軍は、先ず砲兵聯隊の集中砲火により敵の迎撃準備を阻止し、工兵が城壁に忍び寄って爆藥を仕掛け突破口を開けると、歩兵聯隊が突撃を開始した。「東方帝國」軍の前線は崩壊し、レミニア騎兵團の迂回追撃によって大軍が包囲され捕虜となった。      → top


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