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【第一共和制の時代】

《オスタリーチ獨立運動》

この頃「オスタリーチ」は後進地域として、「ガイツ」と共に繁榮から取残されていた。せっかく納めた税金は「レミニア」地方に重點的に投資され、なんら見返りもなかった。
地元の名望家は一致して「オスタリーチ」共和黨を結成し、貴族議會で論陣を張ったが、與黨「レミニア」憲政黨の工作により、いつも敗北した。

《オスタリーチ獨立戰争》あるいは第二次オスタリーチ戰争

不満が高まると共に1816年「オスタリーチ」は突如、獨立を宣言した。獨立軍を編成し、東はサンルージャ駐屯の政府軍部隊を驅逐しガイツ侵攻の勢いを示し、西はウエルズ砦を急襲して西南部の海岸地方を併合した。慌てた政府は軍艦を送り艦砲射撃と海兵隊の上陸により「ウエルズ」港湾を奪回した。この橋頭堡から陸路、鎮壓軍が峡谷地帯を抜けて西部からオスタリーチに向かった。オスタリーチ市西郊の峡谷地帯出口にあるアリ砦に立篭もったオスタリーチ叛亂軍は、鎮壓軍を迎撃して數週間持ちこたえたが、東部のガイツ側から進軍してきた政府鎮壓軍に後背を突かれて敗北した。
東西からオスタリーチ平野に侵入した鎮壓軍は、セーワ町に司令部を置き、オスタリーチ市を完全に包囲した。總攻撃の準備に數ヶ月を要したが、そのあいだ兵糧攻に遭ったオスタリーチ側は戰力が低下した。
總攻撃が開始され、政府鎮壓軍は市壁を取巻いて塹壕を巡らし、突撃隊を次々と繰出して、オスタリーチ要塞重砲兵の猛撃と守備歩兵の銃撃をものともせず、市内に亂入した。ついにオスタリーチは軍門に降り、叛亂者は總て逮捕、處刑された。

ガイツ縣を進軍する政府軍

要塞陥落

《ココ十七世の退位》

オスタリーチ獨立戰争で心を痛めたココ十七世は、まもなく終身大統領職を辞任し、貴族議會より大公爵位を贈られて、田舎の領地に引篭ってしまった。

《ワトスン第2代大統領の産業革命》

1817年、貴族議會で選挙され第2代大統領に就任したワトスン公爵は、産業の育成保護に尽力して、國力を高める事に専心した。
ワトスン公の統治下に、多くの技術高等教育機關が創設され、その卒業生は治水・交通等の土木事業、近代的大工場の運營に活躍した。
産業革命の波がレミニアに押寄せ、農村の貧しい餘剰人口は、都市や鑛山に未熟練勞働者として流入した。首都は大きく發展し、初めて「メトロポリス」の名稱が首府名として公に使われるようになった。國道が主要都市間を貫通し、物資の流通は、ますます盛んとなった。
舊弊な法體系も改められ、残虐な身體刑は自由刑に換られるようになった(監獄が整備され、身體刑の大半が強制勞役に換刑される)。自由主義が知識人の間で流行し、議會にも急進派が登場した。政權は多數派を占める保守的貴族の憲政黨が握っていたが、貿易商人、工場主など新興の資本家層は、その保守的な政策に飽足らず、いくつもの分派を結成しては離散集合しながら、與黨に對抗した。
ワトスン大統領は内務省直属の政治警察を組織して、全國に監視の網の目を張った。この警察は、殊にオスタリーチの分離獨立派(依然としてオスタリーチ共和黨として地下活動が盛んであった)の彈壓に猛威をふるった。それは不満分子の逮捕投獄、選挙干渉、言論彈壓、檢閲と、あらゆる方面にわたったが、逆に抵抗を強めてしまう結果を招いた。
新興資本家は商品作物を生産したり、共同で工場や會社に投資して、巨大化してゆき、議會では彼らの代表たる急進派の勢いが強ってきた。ついに自由競争資本主義の時代がやってきたかに見えた。富める者は益々榮え、舊弊な地主・貴族層は資本家に借金をし、自らの領地さへ抵當に入れる事例が頻發した。

《四分五裂》

壓迫され破産の危機に瀕した地主貴族は政府に保護を求めたが、さすがの大統領も打開策を立てられず、かえって大財閥に操られる始末となった。事態は埒があかない儘ずるずると金權政治に推移していき、不平を抱く地方(これといった産業も無いところ)で叛亂が頻發した。劣悪な勞働条件で貧苦に喘いでいた勞働者層がこれに加わり、さらに不満分子の知識人が扇動役を擔ったので、騒擾は一擧に暴動に發展し、政府覆滅の叛亂に發展するようになった。殊にリモニアの叛亂は、數ヶ月に亘ってガイツ南部に獨立政權が樹立され、その叛亂軍が首府に向かって進軍する途中で政府軍との間に大規模な戰闘が交わされるという事態に至った。また首府の街路に暴徒がいったんバリケードを築くと、軍隊が出動し砲撃を加え、邊境から呼寄せられた獰猛な歩兵隊が突撃して戰闘が數日間も續く事が日常茶飯事となった。混亂の中で、1822年ワトスン大統領は、政敵の放った暗殺者によって刺殺された。

《オスタリーチ獨立》

この無政府状態の隙を突いてオスタリーチ地方の貴族團が再び獨立を畫策した。保守懷舊派の地主階級が名望家オスタリーチ侯爵を擁立しオスタリーチ侯國を樹立した。侯國は困窮していた地主貴族を救濟し産業施設を接収して國營と為した爲、産業資本家は侯國から逃亡した。自由主義者は徹底的な彈壓を受け地下に潜った。貧しいが昔日の穏やかな暮しを取戻したオスタリーチ侯國の様子を見て近隣諸縣も次々と同様な形で獨立を宣言しウェルズ公國、クリート侯國、アルキチェンモント大公國がレミニア共和國から離脱した。レミニア政府は此れを阻止する餘力が無く、唯茫然と事態の推移を見詰めるのみであった。


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