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【ココ朝レミニア王國の時代】

《ココ一世》

「東方帝國」を海岸の交易城塞都市に押込めてしまった「レミニア公」ココ一世は、「レミニア公國」を廢止して、1558年、新しく「レミニア王國」王に即位した。
後繼のココ二世造幣王は商業を奨励し、王權の保護の元に金融制度の整備を行った。商人は王の定めた商法に則り王の發行する紙幣を使用して商取引を行い、複式簿記を採用し株式會社を設立した。
ココ三世闊達王は建築に力を注ぎ、首府に華麗な宮殿と廣大な街路を建て、地方の貴族を集めて舞踏會や狩獵を催した。
ココ四世敬虔王の庇護の下に國教會が組織され宗教勢力の政治關與を制限し此れを厳格な監視下に置いた。異教徒と異宗派は存續を許し迫害より保護した。此の信仰の自由を保證し、宗旨の別無く有能な人材を重用する政策により經濟文化の進展には見るべきものがあった。
ココ五世祝祭王のもとでは王立劇場、王立音樂堂が開かれて、王が演劇・文藝・音樂・美術のパトロンとなり、藝術家を保護したので、諸貴族もそれに倣い、首府は「祝祭都市」と呼ばれるようになった。

《海賊王》

ココ六世海賊王は領内沿岸・島嶼の漁民に私掠特許状を与え、海賊行為を奨励した。快速の假装巡洋艦を驅って遠く南洋まで荒らしまわる海賊どもは、東方帝國の貿易船を襲い戰果の一部をココ六世王に献上したので、王朝の財政は常に豊かであった。

外洋を荒らしまわる海賊

南洋の大酋長と軍事顧問(武器商人)

《軍制の整備》

ココ七世大砲王は從来の正規軍團、貴族私兵からなる豫備軍團のほかに、直属の近衛部隊を創設し最新式火器を大量に装備した。また從来から雑兵扱いされていた無産階級出身の輕歩兵を獵兵部隊として再編成し、精度の良い燧石銃と挽馬野砲を装備して尖兵に使用した。
またココ八世軍人王は徴兵區を全領土に設け、若者を強制徴募して1年間の入營訓練の後、豫備役とした。大量の豫備兵力は戰時に召集されて、後備聯隊として占領地の守備にあたった。
ココ王の近衛隊(歩兵中隊の演練)1

【欧羅巴】1419-34年チェコ・ポーランドに於けるフス改革派の叛亂にて初めて火器が使用され、火縄銃が普及する。1494-1559年イタリア戰争。1542年騎兵用拳銃が實用される。1547年イヴァン四世ロシア帝國を興す。1581年和蘭獨立。1588年英海軍が西班牙無敵艦隊を破る。1561年佛にて新教彈壓に端を發したユグノー戰争始まり40年後に終結。1618年神聖羅馬帝國に於いて諸國間を捲込んだ三十年戰争勃發。1642年英にて清教徒革命後1660年に王政復古。

【西亜細亜】1400年代にはトルコ銃兵イニチェリが活躍。1517年トルコ帝國が埃及を占領。1526年印度にムガール帝國興る。1526年モハーチの戰(土軍が匈牙利王國軍を撃破)。1529年第一次維納包囲(墺軍が土軍を撃退)。1532年匈牙利國境にて土・墺軍對峙。1533年土・墺和睦(ハンガリー分割、土のバルカン領有確定)。1538年プレヴェザ海戰(土海軍が西・ヴェネツィア・ローマ教皇聯合艦隊を撃破し地中海制海權を掌握)。

【東洋】1644年清朝が支那全土を支配し1662年明朝滅亡。極東では1543年日本に鐡砲が傳わる。1592-96年日本が朝鮮侵攻に失敗。1609年日本が琉球王國を併合。1639年日本鎖國す。

【亜米利加】1507年南米にコロンブスが到達。1519年マゼランが世界周航。1533年インカ帝國滅亡。

《ガイツ恢復戰争》あるいは第一次オスタリーチ戰争

1603年ココ九世遠征王は「ガイツ」地方を「オスタリーチ」属州總督府騎士團の勢力下から奪回するべく、新式装備の遠征軍を送り、舊式装備のオスタリーチ側守備隊を驅逐しつつ、短時日でガイツ東部の主要拠點を占領した。

《天災》

「オスタリーチ」属州總督府はココ九世王との和平交渉を進めるうち恐ろしい天災に見舞われた。北アンドロメダ火山脈が突然大爆發を起こし、ガイツを含めたオリザ河沿いの盆地全土が夥しい灰と火山彈で埋ってしまったのである。
折からナシ湖やオリザ河を航行中のレミニア兵1箇聯隊を乗せた箱船が沈没したが、些かもココ九世王の人氣には響かなかった。
《オスタリーチ進駐》

ココ十世太平王はサン・ルージャ丘で自軍の守備隊将校と兵が蛮族に虐殺された事件を契機に、秩序維持を名目として(當時は、まだ蛮族が山地に残存していたのである)「オスタリーチ」に進駐した。オスタリーチ側は抵抗しようにも噴火と地震で財政が壊滅状態であり、軍部隊は殆ど解散状態に等しかったため失職した軍人は逆にレミニア進駐軍に大量に入隊してくるのであった。當時の傭兵軍隊の常識から云えば、それは何ら非難される事ではなかった。

《ウエルズ海岸へ通ずる地峡部征服》

充實したレミニア軍はオスタリーチ西南部のオリザ河を挟む大峡谷に部隊を進め、クローバ、セーワ、アリ、クバアル、クビン、ドウニエと砦を築いて、東方帝國軍の抵抗を排除し奥地の蛮族を壓迫しながらウェルズ海岸(大陸西南部の大港湾を擁し良港として知られていたが、大陸中部への通路が地形複雑で蛮族の勢力圏下にあって、長いあいだ放置されていた)に到達した。

大峡谷

《オスタリーチの衰退》

オスタリーチ市は噴火で破壊され復舊の目途は立たなかった。ココ王朝の海上貿易におされて、衰退の兆しのあった氷河山脈越えの陸上貿易は途絶し、二度と再び立直る事が無かった。

《ココ十五世の活躍》

ココ十五世産業王は、國力充實に努力した。新興の諸都市の商工業者と手を結び、地主階級を保護し、法令を整備した。
大陸南岸での海賊行為から得た富を使って、オスタリーチとガイツに運河を建設した。これによりオリザ河・ナシ湖を囲むオスタリーチ、ガイツの両州は飛躍的に耕地を増やし、大量の米・雑穀生産により農業州として再出發する事ができた。
全國に郡縣制度が敷かれ、守備隊と共に代官が派遣されて國王の威令が全國隅々にまで届くようになった。
農業生産力が高まり、地主階級は餘剰資金を工場や鑛山、貿易に投資し、さらに豊かになった。

當時の歩兵

戰場

近衛兵に選抜された兵卒

《自由主義の脅威》

やがて地主階級の中に立憲主義を説く者が現れ、さらに過激な共和主義者が輩出して盛んに啓蒙活動を展開するに及んで、絶對君主をもって自らを任じていたココ十六世専制王は躊躇無く反動政策をとった。國王の秘密警察が多くの政治犯を流刑に處した。

《ココ十六世王の遭難》

自分の誕生記念祝典の時、ココ十六世は不幸にもテロリストのために爆彈をなげつけられ、その傷がもとで廢人となり、ココ十七世が摂政として國政をみる事となった。

《ココ十七世》

ココ十七世は氣立て優しく、藝術を愛し、静かな生活を好む正直な人物で、一國の君主たりうる強靭さと老獪な知恵は微塵も持合わせていなかった。
そこで統治數年を經ずして、地主階級と地主貴族の集りである貴族團は、憲法を作って摂政にこれを承認させてしまった。
貴族議會が開催され、近代的な政治體制が整備された。
1810年に父王が長患ののち没した時、ココ十七世は貴族議會によって王位を廢され、共和國終身大統領の職を與えられた。政治は貴族議會選出の内閣が執り行ない、産業の近代化が推し進められた。


1650年代 火縄銃が燧石銃に進化。

【歐州】
1664年セントゴットハールドの戰(墺軍が侵攻土軍を撃退)。1670年露ステンカラージン叛亂。1683年第二次維納包囲(神聖羅馬帝國・波蘭・リトアニア・ヴェネツィア聯合軍が土侵攻軍を撃退)。1683-99年大トルコ戰争(神聖羅馬帝國・波蘭・リトアニア・ヴェネツィア・露聯合軍が土軍を撃破、墺が匈牙利・トランシルバニアを獲得、土帝國衰退始まる)。

1701年普王國興る。1740-48年佛西獨墺英露を捲込んだ墺継承戰爭。1756-63年七年戰争(普英對佛墺西の世界戰争、露が皇帝交替により戦線離脱し終戰、佛は北米・印度から撤退、英は財政難に陥り重税政策を取り米獨立戰争を誘發、普は領土擴大)。1773-75年露プガチョフ叛亂。1770年代に英にて産業革命進む。1783年アイスランドのラキ火山噴火、大量の硫黄瓦斯が大氣中に流出し猛暑となり數萬人が中毒死。雹を伴う雷雨が發生し家畜が死亡。1784年寒波襲来、雪融による洪水多發。1785年より作物減収、1788年に大嵐で田畑被害。1789年佛革命。1792年佛共和國成立。1795年波蘭分割(墺普露による)。

【印度】
1757年プラッシーの戰(英東印度會社軍が印度ムガール帝國ベンガル太守・佛東印度會社聨合軍を破り印度を勢力下に収める)。

【支那】
1607-08年金沙の騷亂。1615-16年河套部の侵攻。1618年清ヌルハチの撫順・清河占領。1619年サルホの戰(遼東以東が後金領となる)。1621年四川暴動。1622年山東白蓮教の亂。1628年陝西暴動。1631年李自成・孔有徳の亂。1633年後金軍の旅順占領。1638年清軍の北支侵攻。1642-62年清軍が明軍を驅逐、明滅亡。1661年臺灣獨立(蘭追放)。1673-81年三藩の亂。1675年チャハル部叛亂。1683年臺灣征服。1685-86年アルジン對露戰。1688年ハルハ部救援。1689年ネルチンスク條約(露國境確定)。1690年第一次ガルダン遠征敗北。1691年張河口・大同派兵。1696年第二次がルダン遠征(外蒙古領有)。1697年第三次がルダン遠征(ガルダン部服属)。
1702年運州貉族の亂。1703年ドルベット部服属、湖南紅苗の亂。 1706年李天極の亂。1717-20年西蔵領有。1721年臺灣朱一貫の亂。1723-24年青海羅卜蔵丹津の亂。1727-28西蔵叛亂。1731年ジュンガル部遠征失敗。1732年ツエレン・青海部の北邊襲撃。1733年ジュンガル部遠征。1740年湖南苗族叛亂。1747-49年金川の亂。1750年西蔵叛亂制壓。1755年ジュンガル動亂平定。1757年ジュンガル部征討。1758年回部の亂、ジュンガル部征討。1759年東トルキスタン回部(新疆)平定。1765-69年緬甸軍の雲南侵攻。1771-76年金川の亂。1774年白蓮教の亂。1781・84年甘粛回教徒の亂。1786-7年臺灣林爽文の亂。1787-89年安南征討。1790年緬甸服属、グルカ族のネパール・西蔵侵攻。1791年西蔵動亂。1791-92年グルカ遠征。1795-98年貴州湖南苗族の亂。1796-1805年白蓮教の亂。1802年白號黄號賊討伐。1804-09年福建・臺灣の海賊討伐。1806年陝西・寧陜兵變平定。1810-11年海賊沿岸に出没。1813年天理教の亂。820-30年新疆回教徒ジャハンギルの亂。1821年雲南北廰叛亂。1826年臺灣黄文潤の亂。1829年コーカンド賊カシュガル侵入を驅逐。1831年海南島黎族討伐。1832年湖南貉族の亂。1832-33福建・臺灣の叛亂。1833年四川蕃匪の亂。1836年湖南貉族叛亂。

【朝鮮】
1619年後金討伐。1624年李逅の亂。1627年丁卯の亂(後金軍侵攻)。1630年劉興治の亂。1636年丙子の亂(清軍に降伏、屬國となる)。1710年全羅道農民蜂起。1728年李鱗佐の亂。1733年全羅道流民暴動。1738年平安道人民蜂起。1755年尹志等の亂。1808年端川・北青農民蜂起。1811年洪景來の亂。1813年濟州の亂。

【日本】
1837年大塩平八郎の亂。

【亜米利加】
1775-83年米獨立戰争(米軍に佛西蘭が加勢)。


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