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【レミニア公國の時代】1500-

《ラート王の廢位》

「ラトニア」の宗主國「東方帝國」皇帝は、大陸南部で唯一の安全で貴重な地レミニアを更に意の儘に動かすため、機會を窺っていた。ある時ラート王直系の血筋が絶えたので(ラート十六世が最後、現在のラトニア大公爵は傍系)、さっそくラトニア王座の世襲制を廢止した。
(ラート王國の王位継承者は若くして薨去しているが、これは「東方帝國」派遣太守が密かに毒を盛った為と云われている。)

《レミニア公國の誕生》

「東方帝國」は、1500年に「ラトニア王國」を廢止し、新たに「レミニア公國」を創設した。レミニア公は土着の地主貴族から選挙され、「東方帝國」皇帝が任免する。在任期間は長い者で3年に亘ったが、たいていは1年餘で交代した。すこしでも秀でた者が「レミニア」公に就任して活動を始めようとすれば、體良く公位から追拂われるか、暗殺された。後任には毒にも藥にもならない無能な公が任命された。
また増強された「東方帝國」軍の駐屯地として海岸部に數個の皇帝直轄地が開設された。
こうして「レミニア公國」(旧ラトニア王國)は、いよいよ本来の宗主國「北帝國」の手を離れて「東方帝國」の意のままになる傀儡政權と化していった。

《ガイツの叛亂》1558

この新體制を不満とする愛國者はベルダン地峡を北に抜けて「ガイツ」に亡命した。そこで叛亂軍を組織し、1558年「ラトニア王國」の復活を宣言した。
ただちに「レミニア公國」正規軍が鎮壓に派遣されたが、抵抗は長年月に及んだ。北西國境から「オスタリーチ」属州總督府が介入するに及び、戰線は混亂し膠着状態に入った。
オスタリーチ属州を支援すべく「北帝國」皇帝は傭兵部隊をガイツに派遣した。ブランカイ・リリオイ(白百合)荘園に於いて會戰が行われたが精強なレミニア公國正規軍の猛攻の前に戰線は依然として進まず、冬季に入り再び滞陣状態となった。戰果を挙げられなかった傭兵部隊に對し北帝國皇帝は契約の繼續を打切り次年度の軍費を支給しなかったので、オスタリーチ属州總督の慰留にも拘わらず傭兵司令官ユイク大将は解隊を宣言し、ユイク聯隊、サイド聯隊、コラダイ聯隊、ビィルキン聯隊の各中隊は現地解散して兵員は複雑な西ガイツの地形に紛れ込んで霧散してしまった。レミニア公國軍、オスタリーチ騎士團、ガイツ叛亂軍のそれぞれに雇用されたり、山賊と化したり農場の用心棒に雇われたり、自ら農場を營んだり、商人となったりした。

軍人の決闘

《ガイツ撤退》

長期の對陣に疲れたレミニア公國正規軍は「東方帝國」皇帝の命令を待たずにガイツより撤退した。歸還したレミニア公國正規軍は叛亂を起して、「東方帝國」のレミニア駐在太守を捕虜とした。

叛亂軍の進撃

《ココ将軍の活躍》

レミニア公軍司令官ココ将軍は、「東方帝國」の皇帝直轄地を襲い、東方帝國駐屯軍を驅逐した。海岸の城塞都市に立篭もった東方帝國人はココ将軍と停戰条約を結び、ココ将軍が自らレミニア公に着任すると、それは平和条約に發展した。

《東方帝國の衰退》

何故かくも隆盛を誇った「東方帝國」が簡單にココ将軍に譲歩したか。それは當時の「東方帝國」の當面する國際状勢が厳しいものであったからに他ならない。
レミニアの隣國、大陸中南部の「レーベ」(獅子王國)は衛星諸國(ザフィア侯國、ジルベリア王國、ボオ侯國、ランデンドルフ王國)と共同して、「東方帝國」を南部沿岸から驅逐しようと大規模な戰争を繼續していた。さらに「北帝國」は東方に遠征軍を送り、次々と蠻地を征服し、属州を増していた。その魔手は遂に「東方帝國」の外縁に及んだので、両帝國は長い戰争状態に陥っていた。
「東方帝國」に敵對する諸國は、盛んに海軍を建設し、艦長に私掠特許状を與えたので、「東方帝國」の商船は頻々と襲撃に遭い、交易路が常に危険に曝される状態となっていた。
大陸南岸部の「東方帝國」直轄の各交易拠點は、精鋭軍が「北帝國」との戰争で出佛っているので、第二線級の守備隊で警備されていたが、属國の叛亂軍に襲われた場合は交易拠點の海岸都市に入って篭城戰を行うのが有効な戰略とされていた。しかし叛亂軍に味方する海賊船團が補給路を意圖的に寸断し、篭城側は飢餓状態となるので、攻城戰が膠着状態に陥った時には、叛亂軍と和平条約を結んで相當の譲歩を行い、事態を解決する途が諸方の属州・属國で選ばれた。


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