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北方帝國の歴史


【共和制時代】     → top

「780年の蝗軍襲来」(騎馬蠻族の大規模な侵入)により「メダルスカルト王國」は崩壊した。命辛々逃れた難民のうち、半部が北西のソヴァジランド荒野に逃亡し、北西の山嶽を越え大峡谷を辿り遂にノルダ臺地に安住の地を見いだし此處に都市國家「ノルダ」を築いた。近隣に荘園を開きつましく暮らしていたが、人口が増大するに從って四周の未開地を併合していった。メダルスカルト王國傳來の密集方陣戰法を取る強力な軍團が威力を發揮し、相次ぐ遠征によって領土は急速に擴大、大陸の全北西部を占めるに至った。

遠征軍の奮闘

古代の統治機構

統領   元老院(各州貴族團長)
  神祇長官
    神殿(神官、博士、司書官、諸陵官)
  式部長官
    宮殿(式部官、侍從、女官、典醫、大膳頭、修理頭、樂師)
  尚書
    秘書廰(秘書官、評定官)
    國務廰(國務官、全権特命使、領事、通辞)
    大蔵廰(國庫官、主計官、主水官、主工官、主馬官、主織官、掃部官)
    民治廰(主税官、市場官、判事、執達吏)
  州總督府
   秘書長(秘書、書記、主計使、通辞)
   治部長(治水使、驛驛逓使)
   裁判長(判事、檢事、書記、執達吏)
   郡長(戸籍官、地籍官、収税吏、警吏)
      民會
   軍團
  大将軍
    近衛軍團


【帝政時代】     → top

當初は市民から成る共和政體であったが、經濟規模の擴大に伴い富裕層が構成する元老院のうち多數派の領袖が政權を握る政黨政治に移行し、非常時に於ける短任期の臨時官職であった獨裁官が其の儘常態化するようになった。獨裁官の座を巡って抗争が起きるやうになり、964年遂に最有力獨裁官が帝位に就いた。其の強力な指導のもと帝國は邊境の蛮族を征服し急速に領土を擴大、未曾有の繁榮を享受した。

蠻族と苦戰する分遣隊

内亂


【選定皇時代】     → top

中世には帝位を巡る内亂が頻發し、有力な領主が半獨立國を樹立して帝國は分裂の危機に見舞われた。時恰も勃興し来たった東方帝國の脅威を目前にして長年に亘った戰亂を収束させる為、諸邦が互いに皇帝を互選する支國聨合政體が樹立された。支國の主なものに、ノルダ、ホーク王國、セン、オルニア、ノヴパペルニアがあり、其他多くの邊境領や自治州が附属している。

【東方帝國併合】

1874年、東方帝國の衰退に乗じてこれを侵略占領、属領となした。此の際、北方帝國軍の一部がレミニア共和國領内(東部邊境)を無斷通過した為、レミニア軍と小規模な衝突を起した。(第1次國境紛争事件)

1881年、東方帝國の舊保護國バクテリア、メロニアを侵略占領。此の際、北方帝國軍の一部がレミニア共和國領内(東部邊境)を無斷通過した為、レミニア軍と小規模な衝突を起した。(第2次國境紛争事件)

1884年、ミグルシアの属領ベストラント地方を侵略占領。次いでレミニア共和國領に威力偵察を試みたがレミニア軍の頑強な反撃に遭い兵を退いた。(第3次國境紛争事件)
レミニアの存在により南方進出を保留した北帝國は海軍力の強化に励む。

1887年、レミニア東部邊境に謀略を仕掛け現地ベルベル族の叛亂を誘發させるが、レミニア軍の戰鬪により鎭壓される。(1887年ベルベル族事變)レミニア軍の意外な實力を認めた北帝國は南進意圖を保留し舊東方帝國の經營、周邊諸國に對する防備、遠東權益の擴充に専念する政策に轉じ南部國境に於ける長い平和がもたらされた。

1901年、大清帝國に於ける拳闘團事件(1899-1901年)に参加した北帝國軍は、天津租界及び北京租界に駐屯軍を置き、黄海沿岸のエリシアを獲得して99年間租借条約を締結、北支邦の鐡道建設を實施して、鐡道附属地を獲得、ここに守備隊を常置した。

1909年、レミニア共和國がリゾネシアに出兵、此れを占領し保護國とした。北帝國はレミニアの勢力擴大を懸念し再び南部侵攻計劃を密かに練り始める。

1914年、北帝國の謀略に依りレミニア東部邊境山嶽原住民の叛亂が發生(マルノヴフォント砦事件)、レミニア軍の迅速な討伐により鎭壓される。(山嶽部族移動阻止作戦、アルジェント會戰)其の航空兵力併用の立體作戰は諸國觀戰武官に感銘を與へ、北帝國はレミニアの侮りがたい事を再認識する。

舊東方帝國領に於ける叛亂豫備鎮壓

ホーク軍團の南洋遠征

【歐州大戰参戰】

1914年8月、歐州大戰に聨合國側として参戰、海軍は樞軸國側のミグルシア王國殖民地南洋諸島を占領。本國に於いては隣接する樞軸國側のミグルシア王國と交戰、國境山嶽地帯を突破して、ミグルシア領内に進出するが高原地帯に於いて膠着状態となり終戰を迎える。

1916年、レミニア北部國境に於いて小規模な衝突が生じたが外交交渉により解決。(ブラトニア峠事件)
レミニアは大戰では中立であったが1915年に北帝國を假想敵國に想定した特別大演習を實施しており、北帝國としては油斷のならない存在として意識されるに至る。

1918年、歐州大戰後、北帝國は、もとミグルシア領土であったベストランド地方に民族自決名目のもと緩衝諸國を樹立し防備を固めた。
4月、赤露革命が起こるや陸軍は出兵し露西亜白衛軍のシベリア臨時政權を援助、西比利亜共和國樹立に奔走、4箇軍團(植民地兵力)を西シベリア最前線に駐屯させ對蘇情勢に大きな影響力を持つに至った。

1919年、ゴルゴニアに赤色革命勃發するや干渉戰争を主導してポセイドネシア、ミグルシア、レミニア軍と共に此れを鎮壓、北帝國の名に相應しく大陸を主導するに至った。レミニア軍の航空兵力の發達振を目の當りにした北帝國軍幹部は此れより航空兵力の充實に重點を置く事となる。

【最後の輝き】

1920年、隣國ミグルシアは軍部主導のもと王政復古を遂げる。北帝國は此れに對し相互不可侵條約を結び互恵關係に入る。

1928年、老朽の皇帝は自身の代理者として首相を任期制の獨裁官に任じ政治を一任してゐたが遂に逝去した。獨裁官は綿密な選擧工作を諸選定候に巡らせ後任皇帝に即位した。然し新皇帝は大レミニア主義を標榜しレミニアをはじめとする大陸南部沿岸地方を併合して真の大レミニア實現を目指そうとした。

1929年11月、北帝國軍は突如、レミニア共和國の國境全線に進入し、西部地方のウェルズ縣、クリート縣、東部地方のソヴァジランド縣、グランポンド縣を占領し更に進撃せんとしたが重層する山嶽河川に堰止められ補給線が伸びきり膠着状態に陥った。互角の航空兵力は互いに制空權を譲らず、海軍は機雷線を敷いて敵艦隊の接近を退けた。

1930年5月、國力を最大限に使い切った總力戰の様相を呈し始めた矢先、此れを千載一遇の好機と見て取った隣國ミグルシアは不戰條約を一方的に破棄し北帝國首都ノルダ市及油田地帯に強力な毒瓦斯空爆を敢行した。北帝國の政治機能は一夜にして停止し、此れに乗じたゴルゴニア軍も不戰條約を破棄して北部國境を侵犯、北帝國皇帝のレミミア征服計劃は頓座した。かねてより皇帝に不信の念を抱いていた穏健派はクーデターを起こし政權を奪取、急遽レミニアとの停戰に漕ぎつけた。昨日の敵は今日の友、レミニア軍と共同して北部戰線の侵略軍撃退に成功した帝國は、しかし年餘に亘る消耗戰に疲弊し、首都及び主要工業施設を破壊された為、北部敵對諸國の攻勢阻止を維持するにはレミニア共和國からの合併提案を承諾せざるを得ず、ここに1930年を以て北帝國は終焉を迎えた。(北方防衛戰争)
8月漸く國境外に侵略軍を驅逐し更に敵國領土内に逆侵攻した北帝國・レミニア両軍は、北帝國とレミニア共和國が合併した新生レミアニ聯合共和國のもとに統一軍となった。皇帝の大レミニア主義は皮肉な形で結末したのであった。

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