→ top


★★武官報告:日本陸海軍事情★★
raport de oficir al regney en Japani: staci en arme de Japani


36

陸軍将校教育

将校の補充は地方幼年學校卒業者及び中學校卒業者を中央幼年學校に入學せしめ兵科を決定しそれぞれの専門教育を施す。在校生は部隊に士官候補生として派遣され、短期間で上等兵から軍曹まで進級し、見習士官曹長となる。卒業と共に少尉に任官し部隊の初級士官として勤務する。
この他に曹長のうち試驗に合格した者を士官學校の少尉候補者として教育し少尉に任官させる。また特務曹長のうちから優秀者が豫備役少尉となる。日露戰争に於いて将校不足を補う為に戰時特別進級により特務曹長から現役少尉に任官した者が多數ある。
豫備役士官の蓄積制度は、中等以上の學校を卒業し在營中の費用を自辨する者を一年志願兵とし入營1年後に下士官に進級させ、更に志願して所定の教育を受け此れに合格した者を豫備役少尉に任官させるものがある。
現役将校は勤務3年後に陸軍大學校の入學試驗を受ける資格が出来るが合格率は低い。首尾良く合格すれば参謀将校として教育を受け卒業後は師團以上の参謀勤務となる。大學校卒業生は官衙及部隊勤務も行い、將官候補として優遇されるが、驚いたことに陸軍首脳部を構成する將官教育は陸軍大學校の参謀教育しか無く、相當に偏頗な参謀實務の専門知識しか躯に附いて居らず政治經濟等の教養に缺ける處大である。軍人は政治から隔離されるべきであると云う建前があって、将校の世間知らずは大方の揶揄の對象となっている。
明治期の陸軍首脳部は政治と軍事の双方を深く理解しており、政府・軍部が一致協力して對支・對露の兩戰爭を勝利に導いたが、陸軍首脳部を陸軍大學校の参謀教育しか受けていない視野狭窄の將官が占めるに及んで、軍部は政治と乖離しつゝあるように見受けられる。政府は政黨人が主導するようになり、軍に對する理解が薄弱となりつゝある。


35

内務班
(この記事はwikipedia日本語版の記事「内務班」のうち、當HP作成者armeが執筆した部分を改稿したものです)

古参曹長以上の将校下士官は営外居住で、兵営の外の自宅(外地では官舎もあり、また入居者が維持する若年幹部用の寮もあった。その場合は営内の一画に別棟で設けられている場合が多い。憲兵は通常営内居住であるべき下士官兵であっても隊外に下宿することがある。)で生活し兵営に通勤していたが、一般の下士官兵は営内居住が義務付られており、中隊に数箇ある内務班と称する居住単位に分かれて生活していた。所属中隊外に勤務場所を持つ(部隊本部や医務室、工場など)勤務者も必ず自分の寝台を所属中隊の内務班に持っており、食事と睡眠は内務班に帰ってとるのが原則であった。食事、睡眠、被服・携帯兵器の手入・保管、私物の保管、生活上の躾、朝晩の点呼は内務班で行われた。日露戦争以前は給養班と呼ばれており、給養とは主に食事・被服の配給を意味している。当時の外国軍隊も同様な営内居住組織を持っていた。下士官は兵の大部屋に同居せず、数名ごとに大部屋隣接の下士官室に起居していた。中隊附で内務班に所属しない営内居住の曹長は個室を与えられ、そこで起居していたが、古参の軍曹も空きがある場合は個室を与えられる場合があった。 内務班は兵14人部屋2つで1個班とする説(建築規格からして1部屋の片方の壁際に寝台を間隔を含め7台置けるので)もあるが、実際には人数は決まっておらず様々であった。動員時には部隊に於いて複数の臨時部隊を編成するため大量の応召兵が入隊して来てスシ詰め状態となり、蚕棚と俗称される2段寝台が使用されたり、それでも足りぬ時には寝台を取払い床に布団をぎっしり並べる事すらあった。更に戦時の要員が増えると近所の学校や寺院、民家を借りて分宿することがあった。しかし平時にはカラの内務班スペースができていることが多く、そこに兵を集めて中隊長の訓話など学科(座学)や、天候が悪い時の屋内教練が行われた。班長は軍曹であり、軍曹の下に班附として伍長が二人付いた。戦時にはこの内務班を母体として小隊を構成すると思いがちだが、後述する如く必ずしも内務班そのものが小隊にそのまま移行するというのではない。

兵舎の配置

長方形の箱型2階建木造が兵舎の基本形態で、その規格は陸軍省で決めていたが、明治時代からの古い兵舎や麻布3聯隊(東京市麻布區にあった歩兵第3聯隊)のような3階建以上の鉄筋コンクリート造、荷運搬用エレベーター付の近代的兵舎もあった。しかし大抵は木造2階建瓦葺の規格兵舎で、通常は大隊ごとに4箇中隊が入る大きなものが主流だった。営庭を三方から囲むように兵舎が並んでおり、空いた一角は聯隊本部と正門があるのが標準的な兵営の配置であったが、必ずしもその通り画一的になっていたとは限らず、古い聯隊では江戸時代の城の門を正門としている隊もあったり、兵舎の並び方も部隊により様々なヴァリエーションがあった。一般の2階建木造兵舎の内務班のスペースは各階に設けられていたが、1階には内務班の他に中隊長室・将校室・特務曹長室・曹長室・当番控室・事務室・兵器庫・被服庫・陣営具庫・雑庫などがあった。一般に木造兵舎には数箇中隊が入居していたが、1箇中隊しか入らない小さい兵舎(後から増設された歩兵砲中隊や機関銃中隊、通信隊などが主に入居)もあり、必ずしも画一的ではなかった。営庭に向かった方角を舎前と云い、こちらが玄関口である。厠と面洗所は舎後(兵舎の裏側)に兵舎から離れて建ててあり、そこまでは裏口から石敷・屋根附の渡廊下があった。炊事場、浴場と物干場(『ぶっかんば』と読む。現在の自衛隊でも同じ)は各中隊共同のものがあった。炊事場は定員の多い歩兵部隊などは複数ある場合もあり、1号炊事、2号炊事などと呼んだ。衣食住車両馬匹に関する建物は兵舎の裏側に位置しており、兵営の正門から入ると先ず部隊本部が見え、営庭に進むと周囲に兵舎が見え、他の建物はその背後にあり、弾薬庫は更に遠くに隔離された場所に配置されていると云う風景である。

兵舎の内部配置

長方形の兵舎の真ん中には、長辺の左右方向に貫通廊下があり、廊下の両側に壁で仕切った居住用の部屋があって、廊下を挟んで対面する2部屋が1内務班となっていた。部屋の廊下に面した壁は腰までの高さしかなく、小銃(近衛騎兵は槍が加わる)を並べて置く素通しの横長の銃架がしつらえてあった。営庭に向いた部屋を舎前側、反対側の方を舎後側として、それぞれ硝子窓があり、各部屋の壁際に寝台を並べた。多くの部隊では足が壁に向くように枕を置いたが、これは就寝中の兵の顔を確認するためにそうしてあった。部屋の壁面の上方に長い棚があって、各兵が自分の被服・背嚢・手箱(私物入れ)を整頓して置き、棚の下方に打ってある釘に軍靴・雑嚢などの装具類を吊るした。その置方は決まっており、一糸の乱れも許されず常に整理整頓を心掛けるように指導された。寝具(掛布団は無く毛布)は寝台の上に畳んで置いた。寝台の列に挟まれた中央のスペースには長椅子と長机があり、そこで食事、兵器・被服手入などを行った。部屋の窓際には兵器手入用の油脂容器等を置いた机があることが多い。適当な場所に痰壺や煙管入(吸殻入)が置かれ、照明は天井から吊るした裸電球である。カーテンはなかった。冬にはダルマ・ストーブが置かれ、夏には各人蚊帳を吊った。軍学校・酷寒地を除き部屋と廊下の間には扉はなく素通しである。
消燈時には中隊の兵から交代当番で不寝番を出し、中隊の出入口や兵舎の要所に立哨させ、また各内務班を巡回させた。その監督は中隊の週番士官(夜間泊込み)が行った。早朝に出勤する炊事兵などは、この不寝番の兵が目覚し代りをして起こした。中隊には個人所有のもの以外は時計がなく、必要な通知は部隊本部で吹く喇叭号音によって行った。いわく起床、点呼、食事、集合、消燈の類である。命令系統にある上官、即ち中隊の兵が所属する各級団隊長(師団長から始まって中隊長まで)の官姓名を書いた紙は、これを暗記させるため内務班や1階の玄関口にある石廊下と呼ばれる石敷きの土間に、中隊の標語と共に貼ってあった。軍隊では個人のプライバシーはなく、手箱(私物箱)の中身や書信も上官が勝手に検査でき、居室も立入ができた。兵が遠慮なく閉じこもれる唯一の場所は厠(便所)の仕切の中であった。

班内の生活

点呼

点呼では、全班員が班内に整列し、週番下士官を帯同して巡回してくる週番士官に対し班長が員数報告をする事になっていた。
班長「気を付け!」と号令を掛け、週番士官に室内の敬礼をし、「第〇内務班、総員〇〇名、事故〇名、現在員〇〇名、番号!」班の下士官兵順に番号を唱える。班長「事故は炊事〇、厩〇、医務室〇、計〇名異常ありません」云々の報告を受けて、員数の確認をするのである。
こうして兵が現在どこに居るかは常に完全に把握されていなくてはならなかったので、兵が所用で内務班を離れる時は、行先(要すれば理由も)を上級者に告げる必要があった。特に初年兵(入隊1年目の訓練中の兵)はこれを厳しく躾けられた。トイレに行くにも「〇〇二等兵、厠(かわや)に行って参りますっ」と古参兵に大声で告げてから行くのである。しかし古参兵(在営二年次以上)になると点呼の時にそこに居ればよいので、行先も告げず適当に兵営の中をうろつきまわることができた。

食事は序列の低い兵(たいてい初年兵、初年兵が居ない場合は手すきの兵)が飯上げと称し、中隊週番上等兵の指揮のもとに隊伍を組んで部隊炊事場に取りに行き、主に食缶というバケツ(明治の頃には桶)に入れて内務班に持ち帰った。食事の配膳・分配・食缶の洗浄と炊事場への返納なども内務班ごとに行った。下士官は食事を隣接の下士官室で摂るので、初年兵が盆に載せそこまで持参した。下士官室には扉があり、内務班の部屋を小規模にしたようなつくりで、寝台、棚などの他に事務机と一人掛椅子がそれぞれに用意されていた。班長の軍曹と班付の伍長が2〜3人で居住していたが、曹長は一人で1室に居住しており、古参軍曹は部屋に空きがあると、やはり一人部屋となっており、食事も自室で摂った。部隊の大食堂というものが無いのである。外国軍隊では中隊ごとに食堂を持つところが多い。
食事献立は部隊本部の経理委員が決めるので、部隊により異なっていたが、兵食の定量が陸軍省により全軍一律に定められていて、摂取カロリーに過不足の無いようになっていた。食材は経理委員が駐屯地の民間人より購入した。朝食・昼食とも一汁一菜が多く、夕食は肉類も出た。たまに洋食が出る事もあり、娑婆(民間)で貧しい暮らしをしていた者には初めて口にしたメニュウもあったと云う。正月には雑煮などオセチ料理が出、部隊記念日には酒が配給された。営外に長期間の演習に出る時には携帯口糧(缶詰、乾麺麭など)を支給されたが、隊長の命令がないと食べられなかった。飯盒炊爨の訓練もあったが、大抵は部隊から握飯と沢庵などが届けられた。
酒保は兵用のものがあって、部隊本部の酒保委員が管理運営していた。酒類(日本酒、ビール)、飲物(みかん水・瓶入コーヒーなど)、スナック(アンパン・大福・稲荷寿司・おでん・饂飩など)、日用品(手拭・絵葉書・便箋・鉛筆・チリ紙・褌など)の雑貨を販売しており、酒保当番の兵が店番をする部隊もあれば、民間業者が入っているところもあった。初年兵は最初の訓練期間中(大抵は1期検閲まで)は立入禁止となっており、それが解禁となっても怖い古年次兵が充満しているところには入りがたく、寝台戦友の古兵が代りに菓子を買ってきてやったりした。下士官は別に下士官集会所を持っており、専らそこの酒保を使用していた。また将校は宿泊施設附の将校集会所を持っており、高級司令部の所在地には別に偕行社と云う将校倶楽部があって、安価に軍装などを入手できた。
初年兵は厳しい教練で体格が成長するので食事量が多く常に空腹であったが、逆に古参兵は体格が出来てしまい、それほど食事量を摂らなくとも済むので、食べ残す者さえあって、どうしても残飯が出た。それらは炊事場に返納されるが、部隊ではこれを民間の残飯業者に払下げ、業者は養豚場に卸すが、東京などの大都会では貧民街の残飯屋に卸し、雑炊にしたり、飯だけを量り売りにした。そのため部隊では口をつけた飯と口をつけていない飯を区分して払下げするようにしていた。残飯屋では、それぞれを下等・上等として異なる売値を付けて小売したのである。

掃除

掃除は毎朝、初年兵が一斉に行った。雑巾掛、掃掃除を行ったが、藁を固めたものや石で床を磨く事も行われた。班内掃除の他、週番上等兵が募集する厠掃除、雑草取などの使役に出る事もそうそうあった。蚤・虱・鼠などの害虫退治は、軍医の指示で大規模に行う事があった。
兵舎の衛生状態は当時の民間居住空間と同じ程度であったが、特徴的な事は虱などの害虫が発生しやすい事と、兵舎独特の匂いがする事であった。兵器装具の革・金属部分を油脂で手入するためその匂いが立込め、被服には汗が染みついており(兵は昼間の襦袢袴下のまま就寝しそのまま起きてきて、いちいち寝間着に着替える事はしない)、多忙な初年兵は念入りに入浴をしない為に体臭が加わり、上等兵候補者は間稽古(補習)のため自分の服を洗濯する暇もないので汗の乾いた塩の吹いたものを着ている有様であったため、民間人が兵舎に足を踏み入れると印象に残った事のひとつに、この兵舎独特の匂いを挙げる者が多かった。

兵が内務班で日常着ていた軍服は、何年も着古され修繕されてきたもので、営内服と呼ばれていた。外出時、衛兵勤務に就く場合、演習に出る時、出征する時など、世間の目に触れる場合には上等の服を着るようになっていた。一装、二装、三装と区分呼称があり、一装は新品または新品同様品で近衛兵の儀仗用、二装は程度のよい中古品、三装が着古した中古品で上記の営内服であった。これを譬(たとえ)に使って、「娑婆にでれば(除隊したら)一装(別賓)の嫁さんをもらって云々」とか「特さん(特務曹長)のカカアは二装の乙(中くらい)ってところだな」など云うふうに使った。通常着用する服は各兵が自分で保管手入し、上等の服は中隊の被服掛下士官が被服庫で保管し、更に豫備の服は部隊の経理委員が大きな被服倉庫で備蓄保管していた。服制が変わっても旧制の被服は耐用年数が過ぎるまで着用されていた。そのため日露戦争後も黒軍服を着ている写眞が散見される。今次大戦中に於いても、将校や古参下士官が折り襟ではなく立襟の旧式軍服を着用している例がある。
履物は班内では上靴(スリッパのこと)で、これは古い編上靴を部隊の工場で改造したものである。兵舎から外に出る時は営内靴(やはり工場加工の短靴)、教練、衛兵勤務時、兵営外に出る時は編上靴(これは歩兵の場合。乗馬兵種では半長靴)となる。但し不寝番・週番勤務、武装時などには土足(編上靴や長靴のまま)で兵舎内を往来した。将校は通常、土足であった。靴は靴箱というものはなく、各自が自分の寝台のある所定位置に保管していた。

兵舎内では無帽であるが、兵舎外に出る時には原則として帽子を被らなければならなかった。陸軍礼式令により着帽時と無帽時で敬礼の仕方が違っていた。
革帯(ベルト)や防毒面、鉄帽は被服の範疇に入っている。部隊には経理部の縫工長、靴工長が付属しており、被服工場で各中隊から集めた縫工兵・靴工兵・民間人を使い被服の修繕に従事していた。

内務班の人事管理

中隊の内務班を監督するのは中隊人事掛特務曹長(のちの准尉)と、その配下の内務班長であり、他の将校准士官が口出しする事はなかった。事務を扱う経理掛、兵器掛、被服掛、陣営具掛といった下士官も内務班の運営に口出しはしない。内務班に日常的に顔を出す将校は、朝夕に週番将校が点呼を取りに来るくらいで、他には殆どなかった。下士官兵の生活空間である内務班に将校・上級 下士官が頻繁に顔を出すのは、異常事態と受取られた。将校もその辺は心得ており、教練・学科などで顔を合わす他は兵と直接会話をする機会を自らつくろうとはしなかった。中隊附将校の少中尉は自分に付いた当番兵や教育助手の下士官と接触があるくらいだった。最も兵と接触の多いのは各内務班長の軍曹であり、これを統括する人事掛特務曹長である。人事掛は中隊の兵のみならず下士官の人事管理も行い、各下士官兵の身上調査書を管理し、初年兵の入隊後の面接を行って家族・特技・学歴・性質・生活環境など個人情報を把握し、中隊長とは常に密接に連絡をとって下士官兵の進級序列を決める。内務班長は兵の成績・素行・性質など営内生活の評価を人事掛に報告する。少佐に進級を控えた古参の中隊長や、陸軍大学校出で短期間しか実施部隊に在籍しない腰掛中隊長ともなると中隊の運営は信頼できる老練古参の人事掛に任せきりで、自分は適当に判子を押すだけと云う事もあった。そのため中隊人事掛の下士官兵に及ぼす影響力は絶大で、上等兵進級や特業決定(誰を喇叭手や炊事兵などにするかを決める)、はては野戦部隊転属候補者の選別もその指先ひとつで決った。

内務班の教育体制

2年現役制では、班の兵は二年兵(2年目の現役兵)と初年兵(1年目の現役兵)から成っており、2年兵は初年兵を指導するものとされた。班では上等兵のうちから初年兵掛を任命し、初年兵の日常生活の躾をさせた。班長・班附の下士官は内務班の隣に別に下士官室(数名同居)を持っていて、そこで起居していたが、あまり内務班そのものには出現せず、専ら初年兵掛が班内の統制をとっていた。更に一人の初年兵につき一人の2年兵が「戦友」として割当てられ、隣同士の寝台で起居を共にした。そのため「寝台戦友」とも云った。初年兵は自分の「戦友」の身の廻りの世話を焼き、洗濯・靴磨など雑用を引受けた。古年次兵の戦友も初年兵が出入りを制限されている酒保から菓子を買ってきて差入れたり、私的制裁から保護したりして、面倒をみた。初年兵は礼儀作法、申告のしかた、被服の着方と手入れ、兵器の手入れ、箸の上げ下ろしから、掃除のしかた、被服寝具の畳み方、官給品紛失時の調達法、外出時の遊び方など表ワザから裏ワザまで、兵隊の日常生活に必要なノウハウを内務班の戦友と初年兵掛から教わった。
教練は班ごとと云うのではなく、中隊の初年兵を中隊附将校から出る初年兵掛教官が教育計画に従って行い、最初は中隊の初年兵を適宜に区分して分隊規模、教育期間が進むにつれて小隊規模、中隊規模と進んでいく。大抵の部隊では中隊附将校のうち最下級の少尉がその役についた。班長・班付は助教として教官の補助をし、更に二年兵のうちから助手が出て模範動作をするなどして教育を補助した。これとは別に二年兵を教育する教官もいる。
一年志願兵(のちの幹部候補生)や師範学校卒業者の短期現役兵、原隊入営中の幼年学校生徒などはそれだけを集めた内務班(古兵が2~3名附く)を構成することもあったが、普通の内務班に混入することもあり、兵科兵種、部隊や時代によって異なる。
動員下令時には応召兵が班に入ってくるので、通常の班内秩序が崩壊し、幹部の統制が及ばない混乱が生ずることもあった。また今次大戦の終戦近くなると、根こそぎ動員のため学徒兵と中年ないし体格劣弱の補充兵が大量に班内に起居することになり、幹部もほとんどが老若取混ぜた予備役応召者で、人間関係にさまざまな葛藤が生じた。
内務班は戦時編成小隊や分隊に移行しない

日本陸軍の歩兵連隊(当時は「聯隊」と記した)等においては平時編制では中隊の下の小隊や分隊は存在せず、戦時編制になった時に初めてそれらが編成される。また人数的にも平時では定数の半数程度の人員(職業軍人及び現役兵)のみで構成されている。内務班に所属するのは基本的に徴兵検査で選抜されて兵役を送る現役兵であり、動員が下令され戦時編制となった時点で召集令状(赤紙)によって召集された応召兵が配属されて初めて定数に達する。召集には臨時召集、充員召集、演習召集、教育召集などがあり、令状用紙の色が違っていたのが、部隊の増設が相次いだ今次大戦では、赤い紙を使った臨時召集令状が大量に交付されたため、俗に赤紙が召集令状の代名詞となっている。
組織的には平戦時を問わず、出動する際に中隊長が命令して小隊と分隊が編成される事になる。戦時名簿が準備され、出動兵員それぞれに役割が命令される。小隊長は平時に中隊附となっていた中尉や少尉であり、分隊長は中隊附の下士官である。兵科兵種により部署の割当方に精粗あり、歩兵では機関銃手・擲弾筒手・弾藥手など重火器を取扱う兵を平時から決めてあるが他の兵は一括りに小銃手となっていたり、砲兵では平時より細かく出動の際の配置を予め決めてあり、誰それは何番砲手、何番砲車御者などと砲操作・弾藥補給・砲車弾薬車運転・観測・通信・伝令に必要な要員を即座に組めるようにしてある。幹部が不足している場合は小隊長に准尉(特務曹長)・見習士官(曹長)・曹長をあて、分隊長に古参の上等兵を充てることもあった。応急出動の場合は、中隊長がとりあえず下士官兵を営庭に整列させ、小隊長・分隊長を指名して、それに分属する兵を、ここから何人目までは第1分隊と指名するなど臨機の方法で編成を行った。戦場においては損害の多い小隊分隊どうしを一つの隊に集成することもあった。
内務班に於ける行動規範は、歩兵内務書(1872年、後に軍隊内務書(1888年)、軍隊内務令(1943年)と改められる)で決まっていた。最後の軍隊内務令では17章362条にわたって様々なことが事細かに規定されていた。内務書が詳細になったのは日露戦争後である。この頃から兵営を家父長制の家庭とみなして入隊者を教育しようとする意図が出てきたとみられる。

私的制裁

新兵の躾教育は、この内務班で行われた。内務班で「しごき」と私的制裁が横行したことは良く知られている。部隊の兵は聯隊区ごとに徴兵し同地方出身者のみで構成されるので、私的制裁にも地方ごとの特徴が出ており、東北地方には全く制裁のない穏やかな部隊もあった。また兵科兵種により「しごき」の程度も種類も異なっていた。鐵道聯隊では人身事故防止のため、演習出場のたびに古参兵が初年兵全員にビンタを見舞い緊張させて、注意散漫となるのを防いだと云われている。私的制裁が行われる時刻は、夕方の点呼後、消灯までの1時間程度のあいだであったが、日中に初年兵がしでかした失態の連帯責任を問う形で行われる場合と、以下の述べる「鶯の谷渡り」や「せみ」などを初年兵全員に座興で強制して、その出来栄えが悪い場合に「びんた」をとると云った形で行われる場合があった。
典型的な私的制裁は「びんた」であるが、平手で顔面を殴打する比較的軽微なものから、上靴(革製スリッパ)や革帯(ベルト)を用いるものまであった。左右の頬を交互に殴打する「往復びんた」、二名を対面させて交互に殴打させる「対抗びんた」と云うのもあった。拳を固めたり、蹴ったり、足を払うというのは見られなかった。そうすれば医務室行きの怪我をして 入室し、制裁した者が逆に咎められるおそれがあったからである。
寝台の下を潜らせ、「ホーホケキョ」と云わせ、次の寝台を飛び越えて、再びその次の寝台の下を潜って、再び鶯の鳴き声をさせ(鳴く時に直立不動にさせる事もある)、これを全寝台にわたり行わせるという「鶯の谷渡り」と称するもの。これは身体的な苦痛と共に屈辱感を味わわせる意図がある。
班内の銃架の端にある天井までの太い柱に上らせて、これに取りついたままセミの鳴き声を延々と立てさせる「蝉」もその類である。
銃架を遊郭の格子に見立て遊女の客引きの真似をさせるもの、女性から本人に来た私信を大声で読み上げさせるもの。これは羞恥と屈辱感を味わわせるのが目的である。
長机と長机の間の隙間に立たせ、両手を机について体を浮かせ、足で自転車のペダルを漕ぐマネをさせる「自転車伝令」。これは長時間たつと疲労するが、これに加えて坂に差し掛かったので漕ぐのを早めろとか、子供がいるのでベルを鳴らせと云って「リンリン」と口真似させたり、向こうから上官が来たから敬礼せよと注文をつけて、片手を机から離して敬礼する途端に体が傾くのを慌てて、また支え体勢を立て直す滑稽なさまを見て、見物の古年兵が喜ぶと、いうのもある。
「編隊飛行」は複数の初年兵に一斉に調子を取って腕立て伏せをさせ、そのさい「ぶんぶん」と口で飛行機の爆音を真似させて、一斉動作が乱れると叱責する。
他には、銃の手入・保管が疎かだった者(清掃が不十分、清掃終了時に引金を引いて発条を戻していない等)に捧げ銃をさせて、例えば「三八式歩兵銃殿、お休め申さずして自分が悪くありました、どうかお許し頂きたくあります」と何度も繰返し延々と唱えさせるもの、鼻を銃の槓桿に例えてねじるもの。
班内の古兵や他班を巡回させて、その理由をいちいち述べさせビンタを懇願させるもの。殴られるまでは許されない。その際に屈辱的な仮装や物真似をさせる事が多い。靴の手入が疎かだった者に靴を紐で首からぶらさげ他班を四つ這いで巡回させる、など。
初年兵掛上等兵や古年兵が初年兵全員を班内に整列させて、その日の些細な落度を咎め立てしてはビンタをとる事は日常的に行われた。古年兵の威を知らしめ絶対服従状態に置くためとも、また日常起居動作の緊張を促すためにとも云うのであるが、このような緊張状態に常に置くことで、戦場での困難な状況に対処できる強い精神力をつけさせると云う教育的効果があり、更に戦場に於ける上級者の命令を反射的に実行できるようにするための訓練であるとも云えよう。
これは民間の村落で若衆宿の習慣のある地方では、そのイニシエーション儀式を内務班に導入したものではないかと考えられる。軍隊は若者を鍛える修業の場であり、初年兵時代を切抜けられたら、その後の人生に於いても、どんなに苦しい事にあっても我慢でき切抜けられる度胸がつくと思う初年兵が多かったのではないかと推測される。また戦前の民間社会に於いては体罰やしごきは、徒弟制度とあいまって日常的に見られたものであり、小僧さんや見習職人は上級者からヤキを入れられたりしながら一人前になっていったのである。学校に於いても教師が生徒にビンタをはったり、頭を小突いたり、出席簿で叩いたり、白墨を投げつけたり、水で満杯にしたバケツを両手に提げてそれをこぼさずに廊下に立たせたりなどは当然の教育的指導とみなされ全く問題とされなかった。また気風の荒い中学校(旧制)では生徒同士でも互いに「鉄拳制裁」と称し、軟弱であったり卑劣と看做された者を上級生や同級生が集団で制裁(暴行)する事が別段に問題とされる事なく行われていた。内務班では、ある程度まで私的制裁が進むと、下士官や上級者の止め役がでてきて、「うるさくて寝られんぞ、いい加減に寝かせてくれ」などと云ったり、寝台戦友が出てきて「俺の顔に免じて許してやってくれ」などとなだめて中断させた。また私的制裁の始まる時間(夕方の点呼後消灯までの小一時間)になると班長が初年兵を日替わり交代で下士官室の雑役(寝具の用意など)に呼び、作業終了後も四方山話を口実に(実際は何も雑談らしきものはせず黙っているだけ)タバコ等吸わせて留め置き、制裁が終わった消灯後に初めて内務班に返すと云うように庇護したりした。余り私的制裁が過ぎると、気の小さい初年兵などは脱走したり自殺したりする事もあるので、このような抑制が必要不可欠であった。もし脱走事件や自殺事件が起き憲兵隊が関与する事があれば中隊幹部の考課進級に悪影響が出るからである。

私的制裁の部類に入らないもの、即ち教育上半ば公然と認められていたものとしては、整理整頓が悪い者の被服・寝具を木銃などを使い棚や寝台から叩き落として床に散乱させたり、洗濯していない枕に金魚の絵を色チョークで描いたり(金魚が水を欲しがっている、つまり、洗濯せよ、という意)、教練で失態を犯した者に営庭を駆足で周回させたり遠い弾薬庫まで往復させたり、体前支えや腕立伏、逆立ちなどを長時間強制したり、実包射撃で薬莢を回収しなかった者に薬莢が見つかるまで捜させ内務班に帰るのを許さない、というものがあった。また中隊人事掛が特定の兵を懲戒する目的で連続不寝番や連続衛兵勤務につけたり、外出を制限したりした。野戦部隊では不良兵や弱兵をより条件の悪い他部隊の補充に転属させてお払箱にする事も行われた。
私的制裁は新兵の教育上、必要悪と看做されており、表立って奨励はされなかったが、黙認されていた。しかし古参兵の気晴らしや、私的な怨恨の為に行われると云う側面もあって、どこまでが教育的指導なのか、どこまでが単なる「いじめ」なのかの境界は判然としなかったのが実情である。

呼びかけ方

平時の部隊では、初年兵が古参の一等兵に呼びかける時は、「古兵殿」「何年兵殿」(たとえば相手が在営2年目ならば二年兵殿)と呼び、間違っても「一等兵殿」とは云わなかった。その一等兵の同年兵が幾人か上等兵になっているので、相手の劣等感を刺激して睨まれることになる可能性が大であるから、それはタブーとされていた。相手が上等兵の場合は古兵殿とは云わずに「上等兵殿」と等級名で呼んだ。上級兵が下級兵に呼びかける時や、同年兵どうしは、苗字で呼ぶ。但し、徴兵猶予期限が切れて入営してきた年長者は、非公式に古参兵・同年兵から、さん付けで呼ばれることがあった。
下級下士官一般に対しては「班長殿」、「分隊長殿」(出動時)などと呼ぶが、上級下士官には「曹長殿」「特務曹長殿」(ないしは准尉殿)と階級名で呼んだ。将校には「教官殿」(中隊附の中少尉に対し)、「小隊長殿」(出動時)「中隊長殿」「隊長殿」(中隊長の略称)(大尉殿とは云わない)、大隊長殿、聯隊長殿。単に部隊附の場合は階級名で「少佐殿」「中佐殿」。将官に対しては、「旅団長閣下」「師団長閣下」と補職名に閣下を付けて呼ぶのが一般であった。下級者が上級者に対し、職名に苗字を付けて呼びかけるのは、他者と区別する必要ある場合以外は余り聞かない。
軍人はステレオタイプの軍隊用語ばかり喋っていたと思われているが、民間の呼びかけ方も非公式の場では使用されており、「貴様」「俺」、「おまえ」「自分」、「貴官」「小官」ばかり使っていたわけではないのは留意しておくべきであろう。「君」「僕」、「私」「貴方」、「てめえ、おめえ」「わし」、「貴公」「吾輩」など、階級の上下を問わず私的空間では、言葉遣いは状況に応じて可なり柔軟に変化した。更に方言は遠慮なく使われており、かろうじて明治の建軍時に長州方言を陸軍の標準語として採用したのが、その後の公式の軍隊言葉を特徴づけているだけで、地方の諸部隊の内務班や中隊事務室では遠慮なく方言が日常語として使用されていた。部隊の兵は同一の聯隊區(徴兵管区)から集められ、それ以外の聯隊區からは徴募しないため、大阪の部隊は准士官以下は大阪弁であり、青森の部隊は津軽弁だったりするのである。将校に対する時(将校の所属部隊は出身地にかかわりなく陸軍省の都合で決めるので他地方の出身者である場合が多い)や他地方の部隊と接触する時などには軍隊用語でないと通用しないため、軍人は「であります」調の言葉遣を教育されて、いちおう喋れるのであるが、訛が強すぎて折角の軍隊言葉が他地方の兵には聞取れなかったりする事があった。全国から兵が集まる実施学校の嚮導隊などでは、そういう事が起こった。

参考文献

当節に於ける参考文献の特性に就いて: 内務班に就いての参考文献には旧陸軍の内務を規定した典範令があるが、その変遷を辿れば、陸軍が兵営生活をどのように管理しようとしたかの姿勢を知ることができる。大きな節目は日露戦後の内務に関する規定の改正である。これについての研究は軍事史の研究に於いて所々言及されている事が多いが、纏まった体系的な研究はまだ判然とは成されていない。また内務班生活の実態については実際に兵隊生活を体験した人の手記、聞書き、が残されている程度で、その信憑性に就いては科学的な検証は不可能であるにも拘らず各種の行動様式が(例えば「私的制裁」「衣食住」「教育訓練」「階級等級と人間関係」「遊興娯楽」など)伝説的に今日まで語り伝えられている。しかし時代が経過するにつれて誤伝誤解も付随するようになったので、残されている実体験者の書き遺した文書を渉猟して少なくともこの様であったと云う実態像を纏めて百科事典の項目に残し、後世の人々の参考とする必要があろう。以下に旧陸軍内務班生活を知る上で必読の文献乃至映像情報を挙げておく。項目に記した説明文の足らざるところはこれらのリファレンスを熟読し補われたい。

伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」(番町書房、光人社) 本書所収の「兵営生活の実態ー入営から除隊まで」に内務班生活の系統だった説明が述べられているので内務班生活を理解するための必読文献。(騎兵聯隊の兵営生活)

藤田昌雄「写真で見る 日本陸軍 兵営の生活」(光人社)適切な写真と図を豊富に掲載し、内務班制度を中心に平時の兵営生活を系統だって解説、当該テーマ研究者の必読文献。

棟田博「陸軍よもやま物語」(光人社) 岡山歩兵第十聯隊の兵営生活、筆者の体験記 富沢繁「新兵さんよもやま物語」(光人社) 航空部隊地上勤務の兵営生活、筆者の体験記 西河克己「白いカラス」(光人社) 鳥取歩兵第百四十聯隊及び北支派遣軍の兵営生活 筆者の体験記

春風亭柳昇「与太郎戦記」(立風書房) 赤坂歩兵第百一聯隊の兵営生活 筆者の体験記 一之瀬俊也「明治・大正・昭和 軍隊マニュアル」(光文社新書) 筆者が集めた「入営予定者に内務班での暮らし方を解説する」参考書を時代に沿って紹介したもの。軍隊外から眺めた内務班が展望できる。

歴史探検隊「50年目の「日本陸軍」入門 」(文春文庫) 執筆者は匿名で高度成長期以降に成人した若い世代と思われるが、記述に所々誤りがあるのは御愛嬌で、若い世代にとって内務班をはじめとする旧陸軍がどのように見えるかを知るには格好の文献。重機や山砲の臂力運搬を馬不足の為としていたり、任官支度金の存在を知らなかったり、召集令状は白色があるのに赤と青だけとしていたり、相当の誤解誤伝をその儘記している箇所がある。ただし他の体験記に無いデータの記載は流石にしっかりしていて信頼性大。 埼玉県県民部県史編さん室「二・二六事件と郷土兵」新編埼玉県史別冊(埼玉県史刊行協力会) 二二六事件参加者の体験記を集成したもの。この中に収録された下士官兵の手記には応急出動時の編成実態が具体的に記されたものが幾つかあり、それを見れば内務班と小隊分隊編成との関係が分かる。

野間宏「真空地帯」これは小説であるが、筆者の体験した大阪歩兵第37聯隊歩兵砲中隊の兵営生活を活写しており、特に下士官兵どうしの人間関係や中隊運営の実態がよく分かるため、内務班研究の資料としては一級の価値があり研究者には必読書となっている。 映画(監督 山本薩夫)「真空地帯」新星映画 1952 上記小説の映画化。現在はビデオが入手可。監督はじめ出演者が全員内務班生活の経験者で、ロケも実際の旧兵営で行われた為、リアルな内務班描写となっている。

大西巨人「神聖喜劇」 筆者の体験した對馬要塞重砲兵聯隊の内務班生活を非常に詳細に描写しており、ことに軍隊と一般社会との関連性に言及する箇所は注目に値する。主人公は実際には存在しない類のスーパー知能ヒーローであるが、そのフィルターを通して眺めた兵営の人間模様は今までに無い視点を読む者に齎すので、内務班研究者には必読の書である。

映画(監督 野村芳太郎)「拝啓天皇陛下様」松竹 1963 棟田博の同名小説の映画化。現在はビデオが入手可。昭和初期の内務班生活が鄭重に描写されている。 映画(監督 福田晴一)「二等兵物語」松竹 1955 梁取三義の同名小説の映画化。第一作の「女と兵隊」以降シリーズ化された喜劇映画。内容はドタバタ喜劇であるが、上映当時の男性観客のほとんどが根こそぎ動員を含めた内務班生活体験者であった為、爆笑のうちにもその描写が納得を以って受入れられた。史料価値は高い。 五味川純平「人間の条件」 筆者の関東軍歩兵部隊での体験をもとにしたフィクションであるが、蘇滿國境地帯での内務班生活が詳細に描写されている為、いちおう読んでおく必要があろう。

映画(監督 小林正樹)「人間の条件」松竹 1959-61 上記小説の映画化。後半に終戦間際の関東軍歩兵部隊の内務班生活が描写されている。

映画(監督 山本薩夫)「戦争と人間」日活 1970-73 後半にノモンハン事件当時の関東軍歩兵部隊の内務班生活が描写されている。

他にネット上に貴重な体験記を公表されておられる軍隊体験者が幾人かいるので、検索して参照されたい。


試みにカレーライスなる献立を兵食に供したる某聯隊では、下士兵卒それが昼食に出るを事前に知りて、兵営内の全内務班は興奮し、その余り転倒など事故負傷者続出するを見たりと云う。

不思議な事に、諸部隊の将校集會所に於ける食事は、洋食は「ポークフライ」に決っており、これを「トンカツ」と称して、倦まず弛まず食するのである。市井には、このほかコロッケ、ソテー、テキなどを食堂の献立表に載せたるが 軍隊に於いては洋食は断然トンカツあるのみにして、これは奇妙と云うより他はない。このトンカツは将校会食の専売特許で、兵卒には行渡らない。

兵營内務班の兵卒生活実態(1): 2年現役制度の為、2年兵が初年兵を教育するのであるが、これには暴力・暴言が伴い、中隊幹部は此れを容認し陰に奨励する伝統あり。但し聯隊により実態は異なり、全く其の様な事の無い処もある。兵營生活不適応者には往々にして逃亡者・自死者も出る故、中隊特務曹長は内務班長等をして其の加減の調整を行わしめ、適当する緊張を内務班に常に漲らせるを常とする。動員にて豫備役兵が入営し2年兵が出征すれば、此の状態は一挙に崩壊し、豫備役兵は残留2年兵を苛め、初年兵を甘やかす傾向となる。此れに加えて、既教育・未教育の補充兵多数が内務班に同居するに及び、軍紀風紀は弛緩しがちとなる。事変長期に亘れば、傷病兵の退院者・新設部隊編成要員等、戦場からの帰還者も混交し、動員部隊の留守隊は平時とは全く別種の軍隊の観を呈して、兵卒間の相互関係は非常に複雑怪奇となるべし。以上は親密となりし退営兵より酔余団欒の余興として事情を聴取したるものにして、確度は高なり。


陸軍兵卒間に継承されたる戯れ唄に「満期操典」なるものあり、これが節回しは「覗きからくり」なる見世物の其れより採りしと聞きて、上野に赴き実際に其れを見聞す。帯同の海兵隊喇叭手に採譜せしめ、蝋盤録音に再現したるものを送付す。2部情報課海外班にて分析を乞う。歌詞は後便にて。

「西部戦線異常無し」を参謀本部が購入した理由: 塹壕戦の実態を教育するにあたり其の参考に供したる模様。民間にては未上映なれども、全巻此れ厭戦気分蔓延の傾向ありし故、多分検閲に依り完全なる形での民間公開は不可とならん。
→戻る  
inserted by FC2 system