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傳記 現代の人物 autobiografi, autobiographies

兵科各部索引

歩兵1 歩兵6
驃騎兵 龍騎兵
胸甲騎兵
野砲兵1  野砲兵4  山砲兵  高射砲兵  要塞砲兵2  海岸砲兵  砲兵情報
經理部(炊事)
藥劑部

最終階級等級索引

砲兵一等卒(高)
砲兵軍曹(野)  歩兵軍曹(曹長勤務)  二等炊事長
騎兵特務曹長(驃)  砲兵准尉(山)  砲兵中尉(海)
騎兵大尉(胸)  
砲兵少佐(情)  三等藥劑正  騎兵中佐(龍)  砲兵中佐(野)
大将(歩)

社會階層索引

最下流
  下下下 (孤兒→雑卒志願→将校)
  下下中 (花賣→給仕→女衒)  (採砂雑夫→沖仲仕→掏摸→刑事)
下流
  下中(細民)
       (屋臺飯屋→呼賣商人組合幹部)  (給仕→漫談師→映畫俳優) 
  下上(熟練勞働者)
       (傭農夫→小作人)  (傭農夫→下士志願→将校)
中流
  中下  (會社員)  (會社員→准男爵家令)
  中上  (會社員→重役→庶民院議員・農工商務政務官)  (生藥製造所員→同重役)  (将校→軍司令官)
上流
  上下下  (貴族傍流・護國軍将校)

出身地索引

南部
レミニア縣 ガイツ縣 オスタリーチ縣  ウェルズ縣  クリート縣 ハナフウーダン縣
深南部
ランデンドルフ縣 ボオ縣 ダーリエ縣 デーモン縣 グリュンバルト縣 ティエルライヒ縣 ツーダン州

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映畫俳優      【漫談師になった經緯】
深南部の沖合に出てずーっと南に航海して6晝夜、大きな島に着きます。ぐるりと周囲を廻る丈で2日かかります。全體がツーダン州って云ふ直轄地で何時迄たっても縣に昇格しない卯建(うだつ)の上がらない處です。地圖を見ると眞ん中あたりに白い部分が残ってる程です。其處には大蟷螂が住んでゐて蛇を捕まへては喰うだの、大蟻が羊をさらってゆくだの、昔から變な話が山ほどあります。
そのツーダンの北端にあるビンネンメーア港出身です。親爺が貧乏人の子澤山、6人兄弟の末っ子です。お袋も流石に飽きたと見へてあたしが生れた處で打止めになりました。親爺が氣球の格納庫で整備工やってましたから其處の雑夫に雇って貰ひ小遣稼ぎをしてゐました。レミニアは昔から飛行船擬(もどき)の乗物を使ってましたから其れ用の發着場が彼方此方(あちこち)にあったんです。飛行機なんて其の頃は未だ蚊蜻蛉扱ひで危險な乗物でした。小學校尋常科を出るまで續けて、其れから警察分署の給仕になりました。晝間は御茶汲みや使い走りして、夜は實業補習學校て云ふ夜學の商業科に通いました。日給5銭6厘から始めて學校卒業する時には8銭でした。
分署長がもっと良い口を紹介してやるとて南ツーダンにある海軍要港部士官倶樂部の給仕になりました。衣食住附で日給8銭8厘だから、まあ悪くはありません。白い給仕服を着て食堂で茶を注いだり皿を持って行ったりしました。海軍士官は皆な紳士方だから其の立居振舞や口の利き方を見習って行儀作法を覺へました。ところが意地の悪い先輩がゐましてね其奴をぶん毆ってしまひ、支配人に云ひ附けられ、あっさり馘になったんです。
未だ貯めた金を持ってゐたので港町の芝居小屋に入浸ってゐると、ひょんな事から仲良くなった小屋の若いのが今来てゐる一座が下働きを探してゐるから推薦してやらふと云って、蝙蝠(かふもり)座の傭人になりました。雑用係から始めて大道具の手傳、小道具の揃え方、呼込み、木戸番、洗濯、衣裳の繕いと何でもやりましたね。衣食附で日給9銭6厘。飯は一座の自炊で若輩連中が大鍋のごった煮とか作りました。大入(おほいり)の時は店屋物(てんやもの)を取寄せたりでした。贔屓(ひいき)の旦那が皆に御馳走して呉れる事もありました。まあ大抵は女優目當(めあて)なんですがね。あたしらは氣を利かせて早々に退散したものです。住いはどうしたかって云ふと、巡回雑劇團だから樂屋で雑魚寝です。半月ばかし興業すると荷馬車に道具を載せて他の町や村に行く。暢氣なものです。其の繰返しを1年許り續けて劇團は本土に渡り、南部を巡業しました。曲藝師が他に移ったので穴が開いて、座頭が 「おめえ幕間の餘興にあちゃらかでもやらないか」って聞くから年増の姐さんと組んで短い狂言をやりました。其れが案外にうけて座付作者が酔っ拂った序でに書散らす寸劇や、一人で喋る落し話などを専門にこなす藝人見習になりました。月給で5圓呉れたので裏方見習の倍の儲けです。よせばよかったのに此れが藝人暮しの始りでして、良かったのか悪かったのか未だに分りませんよ。

【現役兵】
3年ほど面白可笑しく舞臺に立ってましたが、20歳になって兵隊に行く事になりました。體は丈夫だったから甲種合格で逃れられない。アルキチェンモントにある山砲兵第1聯隊、です。月40銭の二等卒になり1中隊第1内務班で暮しました。オスタリーチ縣とガイツ縣の北側に聳へる蒼氷河山脈にアルキチェンモント縣があって、此んな山奥にどうして此んな町があるんだと思ひましたが、古代からレミニア地方と北帝國を結ぶ街道が通ってゐて、レミニアで穫れた小麥を運び、北からは塩や織物がやって来ると云ふ繁華な關所があり、此の地を治めた大公の城が小高い處に聳へ其れに續いて城下町もありました。攀山鐵道の支線が兵營まで来てゐて大砲を運ぶには便利でした。然し秋期演習の時は鐵道には載せて呉れず、騾馬の背中に分解した山砲を分載し、兵隊は徒歩で行軍しました。鐵道の使へない時に備えての訓練との由(よし)。
砲兵と云っても最初の3箇月は歩兵の教練です。其の時習った徒手格闘術は街角で無頼漢を追拂ふ程度までゆきました。小銃射撃と乗馬術も面白かったですね。まあ乗馬と云っても主に騾馬の扱いの方でしたが。こいつが仲々強情な奴等で仲良くなるにはコツが要りました。兵隊奉公も2年目になって上等兵に進級しましたが、此れが忙しい役目でして、教練に出て模範動作を初年兵に示さないといけない、週番なんぞに當ると三度の飯上げ引率から朝晩の點呼、不寝番やら厩番の監督とぐるぐる目が廻るくらいで、途中から伍長勤務になって下士の代役もしました。伍長が足りなかったんですね。氣の利いた人なら兵隊より稼ぎの良い職があれば、そっちに轉職しますから。砲兵學校で教育を受けた本ちゃんの伍長は専ら教練に出て、あたしみたいな伍長勤務は中隊の陣營具掛とか下士集會所の掛とか當り障りの無い役を振られました。陣營具掛てのは兵舎に中隊陣營具庫って云ふ部屋がありまして、教練で使ふ練習具だの野營で使ふ天幕、内務班の豫備寢臺とか机椅子、芥箱、痰壺なんぞが積んでありまして、其處の番人です。上役は中隊給養掛曹長で、ちゃんと帳簿があって物品の出し入れや補充修繕なんぞの面倒を見ますが、あんまり流行らなくて暇でした。下士集會所は各中隊から出る當番の兵隊がゐて給仕の代りをやるんですが、此方は下士連中が偶(たま)に宴會をします。曹長だの軍曹だのと威張ってゐても酒が入る途端にだらしなくなります。手に負へない酔拂が次々と出て其の始末をするのが厄介でした。まあ多少手荒に扱っても昨日の事は覺へてない。翌日は下士連中もけろりとしてました。
やっと現役滿期除隊になった時には此れで樂が出来ると嬉しかったです。

【豫後備役】
目出度く退營して夜砂(よずな)座と云ふ旅廻一座に入り直し衣食附月4圓の幕間藝人に戻りました。南部の市町村は全廻りましたね。首都のメトロポリスにも行きました。だいぶん藝の方も達者になって、兵隊暮しをあげつらった漫談が案外にうけまして、これ自分で案を考へて座付作者の先生と一緒に體裁を倣(こさ)へるんですが、20本くらいはありましたか、日曜なんか外出の兵隊さんが澤山觀に来るやうになりました。
27歳になって後備役に編入されましたが此れで軍隊と縁が切れたと思ふのは間違ひで、案の定29歳になった11月に總動員令が下り、充員召集令状を受取りました。北帝國と戰争になったと云ふでせう。除隊した年の秋に演習召集で3箇月原隊に行って「志願ニ在ラザル」伍長にならされてゐましたから此れは滅多な事では戻ってこれないなーと厭な豫感がしましたよ。

【應召 蒼氷河山脈戰線】
取敢えず蒼氷河山脈の上に在るアルキチェンモント町の原隊に驅附けましたら、聯隊は應召兵で溢れ返って大騒動です。第1中隊に入ると即ぐに戰時編成の第3小隊附を命ぜられました。小隊の2門の山砲は2人の伍長がそれぞれ砲車長となってゐます。其れを指揮するのが小隊長ですが其の補佐役が軍曹のあたしです。そうなんですよ、何の間違いか、いきなり軍曹にならされたんです。戰争になったからつべこべ云ってられません。其の頃はレミニア軍も軍制がころころ變ってましたから、あたしみたいな素人(しろうと)でも進級したんです。参りましたね。砲廠から引っ張り出した山砲を分解して騾馬に載せ長い隊列を連ねて營門を出ました。聯隊本部もくっついて来ました。聯隊長は出征の訓示なんか5分で終って急げ急げといきなり駈足行軍です。もう第3大隊は先發して山脈の遠い西方にあるソプニア郡に、第2大隊は東方の氷山方面に行って仕舞ってますから、我が第1大隊だけでしたが、18門の山砲は行軍する裡に分れて彼方此方(あちこち)の陣地に入って行き、とうとう第1中隊も大隊から離れて黒薔薇砦と云ふ變な名前の陣地に向ひ、我が第3小隊は更に中隊から離れて赤宿村に宿營となりました。小隊長は娑婆では山嶽案内人をやってゐる應召の少尉補で何時も此の近在を歩き廻ってゐるから地理にも氣候にも詳しい玄人でした。赤宿村の由来は中世の昔に金のありさうな旅人を泊め歡待しては夜中に寝入った處を殺して金品を頂く宿屋が在った處から其の名が附いたのださふで。
北帝國軍は山脈の向側から攀登って攻めて来るんですが、戰車どころか馬さへ歩くに難渋する急崖だから歩兵しかやって來れません。ぎざぎざの鋸みたいな山稜の要所から其れを山砲で狙い撃ちにします。それでも近くまでやって来れば我が山嶽兵の機關銃が薙倒します。こちらから逆襲して出て行く事もありましたが、敵も山麓に設(しつら)へた陣地から必死で撃ちまくる。到頭これを終戰まで繰返してました。戰線はびくとも動きません。此の蒼氷河山脈戰線で我が山嶽旅團が一歩も退かず山脈の南麓を通る兵站線路を防護したから麓にゐた我が西部戰線塹壕線陣地は彈藥糧食の心配なく西の氷河山脈の途絶える谷間から侵攻して来る敵軍の迎撃に専念出来たのでした。おかげで敵軍は西部戰線を突破して我が首府に迫るのを斷念しなければなりませんでした。
なんせ冬の一番寒い時に戰争したんですから其れはお互い動きも鈍ります。敵兵は着膨れて突撃と云ってもよたよたしか走れない。其れを狙い撃つのだから敵さんも堪ったものではありません。觀測から信號が入ると山砲の部品と彈藥を積載した騾馬を引っ張って山頂邊り迄脇目も振らず登って行きます。小隊長が命令する地點に至れば急いで山砲を組立て射撃します。小隊には山砲が2門ありますが並んで射撃と云ふのは滅多にありませんでした。1門が撃って居る間に他の1門は別の場所に移動する。到着して射撃を始めると今迄射撃してゐた別の1門は移動する、と云ふ具合でした。十何發か撃ったら直ぐに移動します。餘り長く留まってゐると敵が此方の場所を特定して撃って来るからです。移動の度に砲は分解して騾馬に載せます。騾馬も歩けない難處では膂力搬送と云って人力で擔いで行きます。砲躯、砲循、揺架、車輪、彈藥箱なんぞですが、大事な照準器は砲車長が持ちました。下っ端になればなるほど重いのを擔ぎます。まあ砲躯なんそは二人がかりです。それは重いのなんのって山砲兵は體格が無いと勤まりません。小隊の山砲2門はそんな具合でそれぞれ別行動を取るから1門は小隊長が自分で指揮し、別の1門は小隊附軍曹のあたしが指揮しました。
さふ云ふ山の中をうろつき廻って戰鬪してゐたから中隊の炊事車なんかは随いて來れません。食罐に入れたのを運んで来るのは未だマシな方で、其れも到着した頃には凍えて氷菓子みたになってゐます。飯の大體は携帯口糧でしたね。其れを運ぶのは中隊の小行李から派遣の輜重です。輜重車は無くて豫備彈藥と一緒に騾馬に積んで輸卒が引っ張って来るんです。水は水罐と云ふ水筒の大親分みたいなのに詰めて運んでました。罐詰やら重焼麺麭ばかし喰ってゐましたが、火を焚くと煙で砲の所在がばれるからて云ふので酒精(アルコール)燈で飯盒を暖めました。水も半分凍ってるから溶かさないと飲めません。まあ後方に行かない限りは體を暖める温食は摂れませんでした。交代は無しで、前線に出ずっぱりです。あと1箇大隊くらいあれば輪番で後方に退って給養できたんでしょうが、なんせ戰線が横に長たらしい山脈全體に擴がってゐるものだから山砲1箇聯隊(3箇大隊)を展開する丈で手一杯で、貧乏國の軍隊が豫備の交代用大隊を持つなんて贅澤の部類でした。

【武功の由来】
え何で武功章を貰ったかって、其れは勘辨して下さいよ。まあ、あれはね運がよけりゃ呉れると云ふ類のものだから。
或る時、例の通り山の稜線を移動しては砲撃するの繰返しをしてゐたんですが、偶々(たまたま)あたしの指揮する砲車が行った先で向ふの山麓を見下ろすと敵歩兵の大群が雪の中を大きな黒い塊になって動いてゐました。大凡(おおよそ)2箇大隊はあったでせう。小隊長の第1砲車が砲撃を浴びせかけるから、其れを避ける為にに移動してゐたやうですが、山裾の駄々廣い谷間に出てきまして、あたしの第2砲車が辿り着いた岩山の頂上から其れが丸見へでした。で自然と我が山砲は急いで砲を組立て其れを狙って撃ちまくったと云ふ譯で。敵さんは大規模な突撃を企てゝゐた矢先らしく此方に向って機關銃やら歩兵砲を撃って来ました。あたしの方にも多少の損害(負傷)が出ましたが、十何發目かに撃ち出した我が榴彈はどうやら敵の指揮本部を直撃したらしく、ごちゃごちゃと俄(にわか)に混亂して敵さんは逃出しました。あたしらは戰線の防御が薄い箇所にゐたから味方山嶽歩兵の援護も無しです。砲兵も自衛用に騎兵銃くらいは持ってますが、あの敵歩兵の大群が損害を物ともせず斜面を攀じ登って攻めて来たら危なかった。敵さんが此方の防御が厚いと勘違ひして呉れて退却して行ったからよかったものの、下手したら稜線一帯を占領されて戰線に穴が開いてゐたかも知れません。それで小隊は山脈防御支隊司令官(山嶽兵旅團長)から感状を貰ひ隊員一同大いに志氣があがり、あたしには武功章を呉れました。此れはまぐれ當りと云ふやつです。感状てのは民間で云ふ感謝状とか賞状なんですが、これを貰った隊は全員それぞれの功績が1級昇るんです。中隊人事掛の特務曹長が功績簿と云ふのを作ってゐて其處に中隊の兵隊供の功績點が記入してあります。其れが兵隊の成績表なんです。進級は功績點の上位から決って行くので感状を貰ふと隊員それぞれに實利もある譯で、うちの砲車分隊長の伍長は感状の功績點が加わった御蔭で大隊中の他の伍長より功績が上になってゐて早めに軍曹に進級しましたよ。まあ、あたしは應召で職業軍人ではないから功績の多寡に頓着しませんが、聯隊の下士には此の戰争で功績を積重ねて准士官から将校になったのが澤山ゐます。
もひとつ武功章ありますが、此れも似たやうな物です。同じやうな話は御退屈でせうから2度目のは省かせて戴きます。

【ゴルゴニア戰線】
5月に停戰となって復員しました。5箇月間を雪山の中で山砲撃ってたんですが、下手な鐡砲數撃ちゃ當るで武功章を2箇貰ひました。人間てのは不思議なもので、あんな山の中でひと冬越して凍傷にもならず崖から轉がり落ちもせず命長らへたんですから餘程運が良かったんでせう。兵營に戻って熱い湯に入って温かい飯を喰らって毎日を下士室の寢臺に伸びて暮してゐますと、今度はゴルゴニアに出征と来ました。どうして譯の分らない處に出掛けないといけないのかと申しますと、レミニア共和國は北帝國と合併してレミニア聯合共和國となり、敵さんだった北帝國軍と一緒になって新陸軍に再編成したんだそうで、けれど隊號も軍服も軍旗も給料も今迄と變らないから、よいんですが、蒼氷河山脈で戰鬪してゐる間に、ゴルゴニアと云ふ古い野蠻國が隙を突いて北帝國領土に侵入して来まして、其の撃退に北帝國は四苦八苦してゐるから、應援に出掛けると云ふのでした。
聯隊は渋々と鐵道に詰込まれて舊北帝國の中を通り北部の國境近くまで行きました。山嶽案内人の小隊長はゴルゴニアみたいな駄々廣い平地に行くと勝手が違ふらしく、すっかり精氣が失せて 「おい軍曹、萬事任せたから宜しくな」と云ひ天幕に潜り込んだまゝ。放列を敷いて射撃する時だけ出てきて號令を掛けてゐました。戰線が前に動いて北帝國北部のゴルゴニア國境を越へると見事な地平線が見へ、數日前に出發した筈の歩兵聯隊の長い列が未だつい其處に見える位の廣大さでした。
兵隊は早く家に歸りたいと駄々を捏ねる人數が日増しに多くなり、民家に入浸って遊んでゐる連中とか、ふらふら自主徴發に出掛けたまゝ道に迷ったとて何日も戻って来ない猛者とか、其の取締に中隊の特務曹長がおゝ忙しです。たまに下士連中を捕へて 「貴様等の統制が甘いからだ」とお叱りを受けましたが、現役ならいざ知らず、此方は後備だから出世の點數なんぞ氣になりません、あゝさうですか、ははは、と受流してゐましたが、戰場の眞ん中だから特さん(特務曹長)も内地みたいに無闇に毆る譯にもゆかず大分氣の毒でした。

【復員】
30 ■■180G

1級従軍記章・武功章2・砲戰記章・1級ゴルゴニア従軍記章・部隊戰功章2

その裡(うち)1箇月たった7月に、やっと復員となりました。歩兵隊は残って翌年になって戻ったやうで連中からは大いに羨ましがられました。アルキチェンモント町の兵營に戻って来て外泊を貰い、首府の藝人組合に出掛けました。朝早く攀山鐡道で蒼氷河山脈を下りガイツの森林地帯を列車に乗って夕方にはメトロポリスに着きます。退營後の身の振り方を附けないといけないから、先ず組合に顔を出して仁義を切っておく必要があったのです。事務所に入ると受附も書記も給仕も一齊に此方を見るので戸惑いましたが、まさか略綬を5箇並べた砲兵軍曹が佩剣をガチャつかせ乍ら軍帽片手に 「お久しう御座んす。手前只今ゴルゴニア戰線より歸り着きました、姓はなになに、名はなに、藝名をなになにと申します駈出者で御座んす」と捲くし立てるのは變な見世物だったに相違ありません。組合の理事が出て来て、舞臺は何度か觀てゐる、其の藝風なら彼處(あそこ)が良いだらう、話をつけて置く、と推薦状を持たせて呉れました。
御蔭で首府の目抜にある青金糸雀劇場(テアトル・ブルア・カナリオ)の専属藝人(月給40圓)の口にありつけました。専ら前座や幕間用の漫談をやってゐましたが、蒼氷河戰線やゴルゴニア戰線の話を混ぜると意外にうけるので、藝名の前に兵隊漫談師と云ふ肩書が附くやうになりました。住ひはツエントロ・ヴェルダ區獲物街と云ふ場末で、劇場から近くて便利でした。豚饅横丁なる裏長屋にひと部屋借りて暢気に暮しました。ちょっと路地を出ると隣が燻製鰊横丁、更に歩くと虹鱒横丁、干背肉横丁、仔牛横丁、蝦横丁、蝶鮫横丁、熱粥横丁、海鮭横丁と喰物屋が犇めき、大きな遊廓があって人通り絶へず夜通し賑やかな街です。御蔭で此方の頭の中まで賑やかになりました。
34歳の時に漫談の出張依頼が餘り多くなり劇場の演目にきちんと出られなくなったので、其處を辞め獨立の漫談師商賣を始めました。住いも彼方此方(かなたこなた)掛持ちで廻るのに便利な劇場街に移り、酒場通にある今迄の襤褸長屋より少しマシな下宿に移り休む暇なく駆廻って月に50圓くらい稼いて居りました。

【映畫俳優】
其の頃は映畫が流行ってゐて脇役俳優が足りないから来ないかと聲が懸り、漫談師も兵隊ネタはもう古いから何時までも續けられないと思ひ、暗黒映畫社の専属になりました。變な名前の會社ですが、キワモノばかり作る三流撮影所です。何でもやりましたね。俳優が役を選ぶなんで出来ませんよ。監督が 「おい〇さん、今度これやっち呉れ」と云はれゝば二つ返事でやります。顔が不細工だから三枚目だの悪黨の子分だの、行倒れに屍體なんてのも何度かやりました。臺本の科白なんてシーン丈覺えて撮り終ったらすぐ忘れちまいます。なんせ撮り順がばらばらで前後錯綜してゐますから、出て居る俳優も何が何だか分らない。撃たれて死んじゃう處の次ぎは威勢良く酒呑んだり女の子苛めたり強盗したりする處を續けざまに撮ります。監督の云ふ通り演(や)って、はいお疲れ様ー。すっかり撮り終った後で監督が編集してフィルムを継ぎ矧ぎの末、一本出来ると云ふ按配で。悪くすると何々の何番のシーン撮り直しなんて事もあります。30分ばかしの短いのを週に1編くらい作って全國の映畫館に配給します。月に1度くらいは長ひのも撮りました。

【國民兵役 兵役免除】
37歳で國民兵役編入となり此れで戰争になっても前線に引っ張り出される事は無くなったと思いました。39歳の時にメトロ映畫撮影所が本邦初のトーキーをつくるって云ふので出演交渉が来ました。何で悪役専門になってゐた此方に主役が廻って来るんだらうと思いましたが、ツーシン大尉と云ふ大昔の砲兵隊長の役はあんたしか適任が居ないんだと監督に云ひくるめられて出る事になってしまいました。此れで暗黒映畫社とは少し揉めたんですが特別出演料とて興行収入の何割かを納めると云ふから其れであっさり決着がつきました。初の有聲大スペクタクル映畫「ツーシン砲兵隊」は其の大袈裟な宣傳文句にも拘らずたった3箇月で撮り終って公開となりました。存外に好成績で皆な機嫌を良くしました。悪役ばかり演(や)ってゐた役者もファンレターを貰ふやうになって(主に暇な奥さん連からでしたが)新聞や雑誌の記者が記事を作りに訪ねてきまひた。40歳で兵役免除となりまして氣樂になった所為か愈々俳優稼業に熱が入って来まして、あいつ真面(まとも)な科白も喋れるじゃないかと他の監督からも聲がかかって活劇映畫以外も顔を出す機會が増えました。まあ其の邊は割愛して。

【西比利亜戰争】
1941年に西比利亜戰争が始った時に變な奴が訪ねて来まして、名刺を見ると名前しか書いてない、口頭の自己紹介ではKKSDP(秘密警察委員會宣傳部)企畫課の高等官だそうで、今迄は出征軍に給養部と云ふ名前丈の後方機關があって實際は野外浴場と女郎屋の寄り集りなのだが、西比利亜に出征するに當り此れを充實させたいのだ、そこで貴方に慰安掛として義勇志願して貰い度い、と云います。其れは女郎屋の取締とかやるんですかと訊いた處、いあそっちの仕事ではない、演藝場の掛だと云います。聞くところ俳優組合や藝人組合に顔が利くさうではないか、遠く離れた戰地で無聊を囲ふ何萬もの兵士の心を慰めるには軍人も經驗し俳優としても有名な人の力が是非とも缺かせないのだ、と力説します。よせばいゝのに根がおっちょこちょいなんでせうね、ふと誘いに乗って仕舞いました。
「任義勇砲兵軍曹、命第1軍兵站監部兵站給養部慰安掛書記」 さういう辞令を第1軍司令部副官部から7月に貰ったきり、兵營に入れとも云はれないので今迄通り短編の映畫撮影をして忙しく暮しておりましたが、12月に命令が来て西比利亜に連れて行ってやるとてボロディノ港から輸送船に乗りました。なんと大西洋を只管(ひたすら)南下してマザラン海峡を越へたと思ふと俄に太平洋を北上しやっと極東の浦塩港に辿り尽きました。蘇聨を獨逸と挟み撃ちにしやうとするレミニアは怪しからんと、獨逸と戰争中の英國が米國を唆(そそのか)した所為でパナマ運河が通れなかったんです。仕様もない戰争始めちゃってと密かに思いましたが、まあ共産主義をのさばらせて置くと碌な事がありません。此の際、中學生が考へそうな世界同時革命なんぞの企畫は潰して置いた方が世の中の為です。西比利亜鐵道に乗り、動いたり停まったり1週間かけてザバイカル胡に近い赤塔(チタ)に到着しました。兵站給養部の編成は軍人は本部に90名(指揮、經理、工務、炊事、浴場、醫務、宗務、行李)、實働部隊は酒保、時計屋、眼鏡屋、洗濯屋、散髪屋、齒醫者、娼館、劇場から成ってゐて、各掛に尉官と下士兵若干。その他の215名は出稼の地方人でした。一番多いのが洗濯屋の98名、次が娼館の57名でした。内地の稼ぎの2倍になると云ふので應募は競争になったさうで。兵隊は戰地に来ると増俸とて給料が2倍になります。其處で現地の物価も内地の2倍になって軍用商人は大いに儲ると云です。です。

【兵站給養部慰安掛】
慰安掛と云ふのが配属先でした。編制表には附属の「劇場」がありましたが其れは紙の上だけの話で實際は何もありません。支配人、舞臺技手、音響助手、照明助手、道具方、映寫技手、同助手、配属慰問演藝班がある筈なんですが實際は誰も居ません。慰安掛の主任は輜重兵准尉でした。その下に書記の軍曹がゐて其れが此のあたしです。助手の上等兵と傳令の一等卒が附いてゐますが、何をしていゝのが分らないやうでぼ〜と隅に座ってゐます。當分は机を並べて連中を相手に飯を喰ひ酒を呑み骨牌をして暇潰しをしてゐました。
もひとつ編制表には「娼館」が載ってゐて此方は支配人、番頭、帳場方、遣手、玄関番と頭數が揃っおり娼妓の50人を入れて總勢57名。掛主任の准尉は専ら其方の方が忙しく、御客も既に大勢詰めかけて行列を作る有様、驚いた事に憲兵も配属されてゐて押寄せた兵隊供の交通整理をしてゐました。
或る時、樂手長が桃色の肩章に軍刀を吊って現れ准尉に配属の申告をしました。編成表を良く見ると成程、軍樂小隊と書いて在ります。給養部の庭に樂隊が並んでゐました。仕様がないから裏庭に設(しつら)えた空地に茣蓙を敷いて娼館から出てくる兵隊に演奏を聴かせました。書記のあたしが司會をして、序でに漫談などやりました。此れが給養部慰安掛劇場の始りです。
前線の軍が前進するから兵站監部も移動する事になり、我が兵站給養部は鐵道貨車に乗って荒野を何日も進み占領した都市に入りました。其處には古びた劇場があり漸く追及してきた映寫技手に依って即席映畫館となりました。ひょっこりと秘密警察委員會の例の高等官(あたしを西比利亜に誘った男)が訪ねて来て、何の話かと思ったら内地から慰問團を呼ばないかと云ふのでした。其れは考えた事もありましたが資金が無い。すると其の人は秘密警察の宣傳部から費用は必要な丈出す、就いては内地の主(おも)立った演藝人に渡りを附けて呉れないか、との頼みです。そこで顔馴染の誰彼に航空便で手紙を出して見ると向かうでも手が廻ってゐるらしく、あっと云ふ間に慰問團が結成されました。目玉になる人氣女優とは懇意だったので誘ふと秘密警察宣傳部から十分な報酬がでる話を聞いたからと快諾を得ました。
そうなるとあたし丈では手が足りないから暗黒映畫社で製作助手をしてゐた友達を呼びました。此れは後備役の應召で兵站主地を護衛する獨立歩兵大隊にゐたんですが、秘密警察の人に頼んで給養部に轉属させて貰ったんです。本人はもう30歳過ぎたおっさんなんですが喜びました。毎日、夜晝かまわず鐵砲を擔いで兵站倉庫の衛兵をやるのには飽きてゐたし、此んな老兵をこき使ふ軍には居たくないとか散々文句を云って分隊長を困らせてゐたやうですが、原隊も厄介者をお拂箱に出来てせいせいした事でせう。轉属の仕組は簡單です。秘密警察から内閣の書記官長に其の旨依頼すると、其れが陸軍省軍務局人事課に廻り、第1軍司令部副官部に行き、所属部隊の副官が意向を受けて中隊人事掛に轉属命令を出します。
慰問團は部隊の使った輸送船ではなく、飛行船でやって来ました。北極廻りだから1週間もかからずに到着です。荷物と云っても衣装や樂器、ちょっとした小道具くらいです。秘密警察宣傳部の高等官は占領地軍政の宣撫班にも關わってゐたらしく、そっちが忙しいからとて急にゐなくなったりしました。金だけ出して貰へばあとは此方で遣りますから、と萬事あたしの宰領で慰問公演を催しました。人氣女優も人氣の無い藝人も戰地では大受けです。なにせ詰めかけた觀客は前線で何の樂しみもなく殺し合いをしてゐたんだから、聴く曲、見る藝、何でも懐かしい、映畫でしか見た事のない女優が薄衣まとって眼前の舞臺に立って 「兵隊さん本當に御苦勞さまです」と云って呉れるので、1箇大隊全員が感涙に噎(むせ)ぶ、一緒になって唄を歌ふ、と云ふ具合で、前線から下がってきた非番の部隊が連日入れ替り立ち替り見物に押しかけました。此の頃には、あたしが冬山を這いずって山砲を撃ってた頃と違って前線の隊は交代で兵站主地に戻って休養する仕組ができてゐました。風呂に入って垢を落し時計は修繕し蟲歯の手入をし近眼の者は眼鏡を新調し、まともな飯を喰い女郎屋に行き、そしてあたしの慰安劇場で映畫を觀て其處に登場する女優の實物が出てきて挨拶し唄を聴かせて愛嬌を振り撒いて呉れる。それでひと息ついて再び前線に戻ると云ふのです。
或る時、觀客の中に野砲聯隊の中隊長がゐて 「貴公の漫談は昔から聴いてゐて其れがとても面白いので外出の度に通ったものです。」と云ふ冥利に尽きる御言葉を頂戴しました。なんでも少年鼓手から累進して将校になった人で、最近はあたしの出る映畫も缺かさず觀てゐるとか。有難いとは此の事でさ。
そうやって劇場も軌道に乗った處、秘密警察宣傳部の例の人がやって来て他の軍兵站監部にも同様の仕組を普及させたい、就いてはやって来た慰問團を他の軍區にも廻すと云ひだし、俄に忙しくなりました。一介の軍曹が慰問組織の元締みたいな役をやらされて割りに合わないやうな氣がしましたが、此處は御國の為と思ひ、粉骨砕身でしたね。慰問團の手當を釣上げるやう宣傳部の高等官に交渉して、内地の貧乏どさ廻り一座を悉く呼びました。戰地に行くと稼ぎが良い、然も兵隊さんが必ず喜ぶって云ふんで、皆な勇んで来て呉れました。
1年半たって曹長に進級し慰安掛主任代理を命ぜられました。前任者の准尉は轉属してしまひ其の人が扱ってゐた女郎屋の方の面倒も見なくてはいけないくなりましたが、さすがに世界で最も古くからある職業だけあって何もしなくても勝手に動く仕組ができてゐて、萬事女郎屋の主人や番頭が仕切るから此方は檢黴や警備の書類を給養部長の少佐にあげる丈で勤まりました。女郎屋の元締たって良い目に遭った譯じゃありませんよ。此の世界も不思議で商賣ものには手を出さない仕来りがあると云ふんです。まあ毎日十何人も相手にしてゐるんだから自然とさう成ります。

【蒙古戰線】
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1級従軍記章・武功章2・砲戰記章・1級ゴルゴニア従軍記章・西比利亜戰争2級従軍記章・露西亜駐箚記章・1級ゴルゴニア従軍記章・部隊戰功章2

西比利亜には2年半ゐて1944年に復員しましたが、自宅に籠ってゆるゆる休養してゐると、其の年の10月に復た秘密警察宣傳部の例の人がやって来て、今度は蒙古に行って呉れないかと云ひます。まあ乗りかかった船だからと、やはり第1軍兵站監部給養部慰安掛書記の義勇志願曹長で出掛けました。上役の慰安掛主任はやはり應召の少尉でしたが娑婆で真面目一方の勤め人をしてゐた人だからいきなり變梃子な世界に放り出されて西も東も分らない。前回と同じく結局此方(こちら)が一切を取仕切る羽目になりました。兵站監部の開設要員として部隊に先行しないといけないと云ふんで飛行船に乗せて呉れたのから樂でした。北極廻りで赤塔(チタ)に行き其處から一足飛びに蒙古の崑崙です。今度の相手は支那共産黨で、敵兵は姿を滅多に現さない遊撃兵なんださうで、鐵道の途切れるゴビ砂漠の縁に兵站主地が設けられ、其處に以前の通り慰問劇場を開きました。
前線と兵站主地の距離が長くなりすぎたので、巡回野戰給養部を編成し前線の直後を廻って部隊に命の洗濯をさせやふと云ふ事になりました。大砲の音が聴こへる場所まで慰問團も出張しなければならず、此れは此れで仲々の苦勞仕事でした。
3箇月ゐて復員しました。元の暗黒映畫社の悪役俳優で忙しく稼ぐ日々に戻りましたが、蒙古戰線は仲々終結せず、其處に出て行く慰問團の世話もしなければいけませんでした。慰問に行く連中の手當交渉だの、慰問組織の根廻だのと面倒な事務に關わったので、仲々秘密警察宣傳部の例の人との縁も切れませんでした。御蔭で西比利亜に行く前は月50圓だった収入が20圓にまで減ってしまい、秘密警察委員會の機密費からの手當を足さないと暮せないやうな状態でした。

【新疆戰線】
1949年に第1軍は新疆に出征しましたが、あたしも最後の御奉公で巡回野戰給養部慰安掛主任代理の義勇志願特務曹長として附いて行きました。國民黨軍により支那を追出された共産黨軍が新疆に本拠を移そうとするのを阻止する戰争でしたが、此れは1年で片がつき、あしたも自分の作った慰安劇場がちゃんと動くのを此の目で確かめて復員しました。御苦勞さん賃で准尉に任官しましたが、准士官だから別に終身を軍務に捧げる義務もなく、軍刀も拳銃も軍服も特務曹長の時に誂えたもの丈で、それも直ぐに賣拂って仕舞いました。

【其の后】
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1級従軍記章・武功章2・砲戰記章・1級ゴルゴニア従軍記章・西比利亜戰争2級従軍記章・露西亜駐箚記章・新疆事變2級従軍記章・部隊戰功章2

秘密警察の例の人は出世して大佐相當の課長になりましたが、そろそろ後進に道を譲った方が宜しいのではと云ひたいけれど本人に直接は云ひません。御本人は未だ出世して勅任官になりたいらしい。餘り欲張ると阿弗利加の暑い處の現地民宣撫官兼駐在間諜元締とかになって其處で有終の美を飾るんじゃないかと心配です。お互い巧く車の両輪みたいにして軍の慰問組織をつくったのでしたが、思へば奇妙な道程(みちのり)でしたね。
映畫俳優に戻り、もう軍もすっかり退役したので出演に身を入れて御蔭様で収入も月50圓超えるやうになりました。なに軍の恩給なんて附きませんよ。勤務期間は恩給条件の12年には及んでないですから。老後の蓄へを貯めないといけないので、も少し俳優で稼がせて貰ひます。はい毎度お粗末様でした。どうか今後とも格別の御贔屓を願ひます。

【註】
漫談師及映畫俳優として國民大衆に絶大な人氣があり、殊にレミニア初のトーキー映畫「ツーシン大尉」では主人公になりきり人々の記憶に残る名演技を披露した。また義勇志願准士官として聯合共和國の全戰争に於いて陸軍出征兵士慰問團の創設と活動を現地で支へた功績を持つ。

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掏摸掛刑事     → top

【掏摸となった經緯】
深南部の森林地帯にあるグリュンバルト縣ゾンネン郡ツインドルフ村で生れました。砂だらけの川があって親爺は採砂夫でした。砂を採って捏ねて煉瓦を焼くのです。5歳の時から雑夫になって採砂場の手傳をしてゐました。11歳で小學校を卒業し15歳まで夜學の補習科に通ひ小學高等科修了證書を貰ふと、家を出てダーリエ港に行きました。其處で埠頭の沖仲仕をやりました。穴蔵みたいな雑居部屋をねぐらにしてましたが、それでも大家は泊賃を取りました。朝は屋臺で饅頭麺麭を喰ひ、荷役組合の人夫頭から今日は何番埠頭の何と云ふ船だと指圖を貰ひタラップを往き来して荷を運びます。日當を受取って屋臺で飯を喰ひねぐらに戻って寝ると云ふ暮しでした。港だから魚の唐揚なんぞあって近郷から取立ての葱も揃ってゐて榮養は足りてました。ダーリエ市は中世の古くからある港街で頑丈な城塞で囲まれた綺麗な處です。道路は大きな石で舗装されてゐて荷馬車や自働車がひっきりなしに行交ってます。海を見るのが初めてなので毎日愉快でした。
少し金が貯まるともぐりの賭場に行きましたが其處で知合った男に掏摸の眞似事を教はり、驛や目抜通でたまに金のありさふな紳士や高級船員から財布や金時計を失敬しました。仲々腕が良いと煽(おだ)てられ掏摸組合に入りました。然し狭い街の中ではやがて顔を覺えられて仕事がしにくくなると思ひ首府に出ました。

【掏摸組合】
汽船の三等に乗ってボロジノ港に着きました。大きな前照燈の附いた緑色の木造電車に乗り小麥畑の中を快速で走って半時間ちょっと、首府メトロポリスが見えて来ました。ダーリエの十何倍もある大きな都會です。街路は車が6臺並んで走る幅があり巨大な建物が犇めきあって、おちおち歩いても居られないくらいです。その隙間から路地に入ると俄に喧噪が止み静かな裏町が擴がってゐるのでした。其の中の迷路みたいな路地の中にある目立たない小さい下宿屋を住いにしました。古着屋で仕入れた地味な服を着込んでレミニア區の閲兵廣場を稼ぎ場に選びました。大公爵近衛聯隊が衛兵交代の為に樂隊附で行進する處です。見物の田舎者が大勢詰めかけ人垣になり口を開けて煌びやかな隊列に見とれてゐる後にぴったりくっついて懐(かくし)や手提からお寶を頂戴します。そのうち朝晩の満員市電に乗っての箱師稼業に轉じました。此方の方が儲けが良いのでした。
仁義を切ってダーリエの掏摸組合から首府の組合に變はったのですが、盗ったブツのうち金を抜いた後の財布そのものや、印鑑、書類、寶石、金鎖、時計なんぞは組合が買取って呉れる仕組でした。故買の元締をやってゐるんですが、此方も換金に餘分な手間が要らず重寶でした。組合は1年くらいブツを保管してゐて、持主から捜索願が出ると手數料を貰って元の持主に返すやうにしてゐました。由緒ある品物や重要な書類は取戻さないといけませんが、組合を通すと不思議に戻ってきました。どうやって組合と聯絡をつけるのかと云へば、行きつけの床屋の親爺にさう云ふんです。屋臺飯の親方でもよいです。すると何時の間にか掏摸掛刑事の耳に入ってゐます。そして其の刑事が掏摸組合に絲口をつけます。掏摸に限らず置引き、掻っ拂い、萬引、空巣狙ひ、強盗など、大凡(おおよそ)泥棒が盗って来たブツの故買は掏摸組合が専らしてゐますから曰く附のブツを取戻すのは掏摸掛刑事の役目になってゐます。まあ其れ丈組合に顔が利くと云ふ事です。別段に盗難事件となって面倒臭い手續を踏む譯でもなく、日が立つと盗られた物が戻って来ます。時価の何割かの手數料を拂って取戻すんですが、盗られた人も戻って来ないと思ってゐたブツを再び我が手に出来るんだから嬉しい事は嬉しい。掏摸や空巣に盗られる粗忽を反省して其れきり用心を缺かさなくなります。それでも盗人は許せんと云ふ人は警察に訴へて犯人を捕まへて貰ふやうにします。けれど、さうすると殆ど犯人は出てこない。然も現行犯以外は、ブツは金輪際戻って来ません。まあ現金はどちらにしても戻って来ませんが。
掏摸掛刑事も、掏摸を始めとする盗人連中も組合長が誰で倉庫はどこにあるのか、知りません。窓口があちこちにありまして、そこで一切の遣取をします。其れも頻繁に場所や出てくる人が變はるので、一種の秘密組合なんです。まあ掏摸組合なんて可愛いもんです。他に世間を憚る組合には詐欺師だの人攫いだの密輸だの殺しの請負だの屍體抹消だの、もっと酷いのが澤山あります。

【入營】
かう見えてもマメな性質(たち)なので稼業には励みまして、數年前の泥まみれの姿から、ちょいと見れば都會の良いとこ育ちの坊ちゃん然とした恰好に見榮へも變はりました。19になった年に徴兵檢査の葉書が故郷(さと)の村役場から来て歸郷しました。實家は相變らずの貧乏で一番上の兄貴が採砂場で親爺を手傳ってゐました。その他の兄弟姉妹は水呑百姓の嫁に行ったり、製瓦工場の職工したり、地主の下女になったりしてゐました。小區兵事係の引率で檢査會場の小學校に行き甲種合格を貰って、とっととメトロポリスに戻りました。翌年の1月に野砲兵第4聯隊に入營しました。クズトフ港から懐かしいダーリエ港に一日かけて客船で行き、其處から鐵道でジルベリアの山並を越へてティエルライヒの平野に入り、中世の昔から榮えてゐる雅(みやび)な古都ケーニヒスベルクを通り、すぐ南にある賑やかなピアストル町の停車場に降り、ブリキの玩具みたいな市街電車で兵營まで辿り着きました。全部三等だけれど運賃は無料だったので樂ちんです。
砲兵と云っても最初の3箇月は小銃持って歩兵の教練です。射撃が上手いと云ふので褒章を貰いましたが、娑婆で安樂な稼ぎをしてゐた所為であんまり體力がないから、彈藥手を命ぜられました。それでも彈藥車から砲側まで重たい砲彈を持ってゆくのは重勞働でした。砲手が倒れたら其の代りをしないと行けないとて、全部署の訓練をしますから此れでも曲りなりに大砲は撃てます。砲手全部が倒れて我れ獨りとなっても彈を込めて照準して發射出来るやうに訓練します。
ピアストルと云ふ町には陸軍の糧秣廠があり周囲は見渡す限り麥畑です。陸軍の黒麺麭を製造する元締ですね。そればかりか國中の麥を作る臺所みたいな處で、鐵道も貨物列車が引っ切りなしに往来します。此處に駐屯するのは騎砲工輜の特科部隊なんですが、製粉所と穀物取引所以外には何もなくて居酒屋も仲買商人と粉挽職人と百姓で一杯で兵隊の割込む餘地がありません。遊びに行くには汽車で30分ばかりのケーニヒスベルク市迄ゆきます。そこの郊外に第8旅團司令部がありました。日曜には近所の大きな遊廓を目指して兵隊が蟻みたいに集りました。

【演習召集】
21歳の12月に、そつなく現役滿期除隊しました。そそくさとメトロポリスに戻り、復た箱師稼業に精を出しました。下宿もツエントロ・ヴェルダ區蒸汽街に變へました。其處は中央驛がある繁華街で、百貨店、劇場、ホテルが幾つも並んだ大通が交差しており、全國からの旅客が到着します。少し行くと大新聞社の集る區畫、映畫館街、料理屋街、それに遊廓、その裏手に卸賣市場と養豚場があり、此れに貼付くやうに怪しい亂雜な裏町が擴がってゐます。掏摸には打って付けの舞臺です。舊市壁の北門をくぐり城壁に沿って蛇行沿道をゆき、盗賊市場、泥棒横丁界隈にひっそり窓口を開いてゐる秘密の掏摸組合支部で其の日の獲物を換金し、退散廣場から白薔薇横丁に抜けます。其處の飯屋で何時も晩飯を喰ひました。女中のひとりと仲良くなって一緒にならうと約束しました。向うは此方の商賣なんか知りませんから、身なりから何處かの書生か坊ちゃんと思ったのでせう。簡單に段取りがついてしまひました。仕事に精出したから服や飾りを買ってやり旨い物を喰ったり芝居を見たり樂しい毎日を送ったのでした。
11月に演習召集令状が来て、また野砲4聯隊に入營しました。演習は戰時編成(兵員が平時の2倍)でやるから足りない兵隊は豫備役を集めるんです。留守隊ではなく出動部隊になったから堪(こた)へました。行軍、射撃、行軍、射撃の繰返しで、娑婆で樂をしてゐた體が仲々ついて行かない。12月に復員となってほうほうの態で家に戻りました。

【巡査練習所】
女房と晦日の準備をしてゐると掏摸組合の幹部から呼出しがあり、何事と行ってみると、「組合員一同のたっての願いだ、掏摸掛刑事になって呉れ」と云ふから驚きました。目端も利くし、無茶はしないし、ひとあたりも良いから、と煽(おだ)てられ、つい其の氣になりました。組合と警察の橋渡役ですね。女房も亭主がふらふら出歩いて遊んでばかりゐるから、實家からの送金も何時なしになるか判らないので(稼ぎはそいう事にしてありました)、巡査の安月給でも構わない、まともな職に就いて呉れると安心で嬉しいと云ひます。
それで組合幹部の云ふ通りに願書を出して警視廰の巡査練習所に入る事になりました。あとで判ったのですが、掏摸掛刑事は大抵は此の道筋で巡査になるのでした。然し四等巡査の制服を着込んで佩剣を腰に吊るした姿になろうとは自分でも全く豫想が附きませんでした。晝間は法律の詰込勉強と逮捕術などの術科をやります。兵隊あがりだから起居動作しゃきっとしたものです。行進や禮式では模範動作をやる嚮導をやらされました。拳銃射撃術・剣術・格闘術などはお手のも、成績はわりかし良い方でした。寮に住込みだから日曜しか家に歸へれないのですが、それでも長男が生れました。此の時に女房を籍に入れて正式に結婚したんです。

【刑事部總務課】
25歳の1月に練習所を修了し三等巡査に進級、警視廰の建物の中にある留置場の係となりました。刑事部總務課留置掛、と云ふんですが、刑事候補者は必ず此れをやらされます。家も顔見知りのゐないカデート街日曜横丁に引越しました。野菜畑の擴がった郊外です。片道30分ばかりのろのろ市電に乗って通ひます。混んでる時なんかは隙のある乗客を見てムズムズする指を宥めて佩剣の柄を握る毎日でした。最初の年は晝勤で、次の年は夜勤専門となりました。女房は、わりかし美人の類なのですが、亭主が堅い職に就いて安心したと見へ段々と貫禄が出てきました。まあ尻に敷かれた譯ですが、それでも働き者で一擧に減った収入にも拘はず家事を切盛りして亭主は随分樂をさせて貰ひました。
留置場掛は色んな種類の人間を檻の中に閉込めてゐて、悶着が起きない方が不思議なので、餘り氣が抜けません。男女を別にするのは當り前ですが、子供も別にします。夜中に同房同仕で怪しからん事を遣ってゐないか見廻る事も就中(しょっちゅう)です。冬場になると態(わざ)と捕まって留置場を食事附の無料宿泊所代りに使ふ輩もゐます。いっぱしの顔役は三度の飯も出前を取ります。機嫌が良い時には同房の連中にも奢ってやるのでした。面會人の立會をしてゐると、遣取りは此方で筆記するのですが、世間の切れ目が覗いて、若造の駈出し巡査には随分勉強になりました。

【捜査課】 
27歳の時に制服を脱いで捜査1課掏摸係に配属となりました。上役の組長は古参の一等巡査、どうも見ても質屋の番頭さんみたいな物腰で、譬へ隣に住んでゐても刑事をやってゐるとは思へない、その人が細かく仕事を教えて呉れました。 「おめえ、あせったって仕様がない、慌てないやうに日頃から確り見ておいて、見へない處も頭の中でじっくり見ておくんだ。色んな紐で何本も繋がってるんだから、それを頭に入れておけば大して慌てる事もあるめえ」 と云ふ具合で、掏摸掛の第一歩を教わったのでした。顔繋ぎに出歩く毎日でしたが、元掏摸なのに掏摸組合の内側も皆目分らないんです。まあ簡單に分っちゃ秘密組合ではなくなりますが。ある程度の仕組は組長に教えられて初めて成程そう云ふ具合になってゐるのかと納得がいったのでした。なにしろ掏摸の現役時代には單に便利な故買屋くらいに思ってましたから。段々と自分の足で調べるうちに親分筋の人がどこでどう繋がってゐるのかも朧氣乍らに分ってきました。
全體に刑事巡査は自席に居ません。當番で出勤してゐる以外は大抵自分の家にゐて其處から出っ張ってゆきます。もともと舊時代の手先・密偵が進化したものですから、型に嵌った勤務は却って仕事の邪魔になる丈です。係によって其の形態は違ってゐますが、掏摸係も夕方から出歩いたり、晝間は自宅で寝ていたりします。箱師を専門とする人は汽車に乗ってゐる裡に飛んでもない遠方に行って了い署にも家に歸って来ない事があります。刑事部屋では當番が給仕を相手に茶飲み話しなどしてゐます。大きな事件が起った時は捜査本部を臨時に置いて刑事は其處を本拠にします。
29歳でメトロ警察署に轉勤しました。だいたい犯罪組織の仕組を呑込んで掏摸掛として働けるやうになったからでせう。捜査係第2組と云ふ刑事部屋に入りましたが此處は掏摸だけではなく、大凡(おおよそ)泥棒と名がつくのは全部ひっくるめて扱ひます。殺人や強力犯は第1組、知能犯は第3組と、ざっと別れていましたが、大きな事件が起きると分擔には關係なく捜査に當りました。呼出しが掛ると直ぐに驅附けられるやうに署の近くに引越しました。會堂街鐘樓下横丁と云ふ處で、國教會の總本山があり立派な大伽藍の下を坊さんが大勢往き来してゐました。次女も生れて、軍隊も後備役編入となり、何とか刑事も板についてきたかと思いましたが、田舎から充員召集令状が届いてしまいました。官吏は召集されないのが普通でして警察でも制服着て日頃の巡邏をやってる連中は豫後備役でも入營しません。交番や駐在のおまわりがゐなくなったら途端に治安が悪くなりますから。處が刑事部の方は召集が来ます。日頃から自宅でのそのそしてゐるし、戰争もそんなに長くは續かないのが當時の常識だったから、一寸(ちょっと)何箇月か臨時の兵隊で行って来て呉れとなるんです。

【總動員令・出征】
1929年の11月に召集令状片手にボロジノ港から昔懐かしひダーリエ港に汽船で急行し、鐵道に乗継いで野砲兵第4聯隊に入營しました。北帝國が攻込んで来たと云ふので大騒ぎでした。 留守隊7中隊に入り第3内務班で寝起きしました。
此のまゝ内地勤務かと思ってゐたら出征部隊に損耗があった様子で、翌年1月に補充要員で出發、列車に乗って深南部を南下ジルベルハーフェン軍港から輸送船で東部ナイルロコ港に到着。其處からまた列車に乗ってアルジェント縣を北上、ソヴァジランド縣の前線に出てゐた聯隊に追いつきました。グスタフと云ふ荒野の眞ん中にある町に陣地を構えてゐた第2大隊の4中隊段列傳令卒を命ぜられました。段列は炊事車、兵器修理車、兵器部品車、兵器回収車、小行李車を纏めた補給小隊で、傳令卒は段列長の准尉にくっついて其の護衛と傳令をします。准尉は少しも動かず接収した旅宿の廣間で書類を書いたり酒を呑んだりしてゐます。こちらも傍の卓に座って小銃を抱へたまゝ過しました。緒戰で北帝國軍の猛攻に耐へきれず第一線から後退して来た我が聯隊はグスタフ陣地に踏み留まって、やってくる敵軍に猛射を浴びせるべく待機してゐたのでした。

【戰鬪・負傷】
年を越して2月になると北帝國軍の大攻勢が始り、荒野の彼方の見へない處からどしどし大砲を撃ってきました。打鼓状砲撃と云ふやつで間斷無く着彈して来ました。此方は待避壕に潜込んで頭を抱えてゐる他になす術(すべ)がありません。其れが晝夜を分たず何日も續いて、やっと静かになったと思ったら今度は戰車がうじゃうじゃと押寄せて来ました。我が大隊放列は盛んに射撃を始めましたが、敵もさるもの相當の損害を出してゐる筈なのに突撃速度が衰へません。おまけに再び後方から援護射撃が飛んで来ます。砲彈が爆發する中を仁王立ちとなった段列長は 「傳令、小行李に彈藥車の補充をせいと云って来い」と云ひます。後方の小行李に飛んで行って小行李長の軍曹に彈藥車の前進を傳へました。既に空になった放列の彈藥車ががらがら戻って来てゐます。其處に砲彈が飛んで来て爆發しました。盛大な土煙が揚り空中に放り投げられたと思ふと地面に衝突して譯が分らなくなりました。目が醒めると擔架車から降ろされる處で、何だあっけなく負傷したのかと分りました。
なかなか重傷だったらしく聯隊の假繃帯所で繃帯を巻いて貰ひ大きな患者識別票附で再び擔架車に乗って衛生隊の繃帯所迄行き、其處では治せないから野戰病院に運ばれ、やっと手術となりました。1週間たって取出せない破片が澤山あるからとてアルジェントの第2兵站病院に移り、腕の良い應召軍醫が危險な處を切開して命だけは取留めました。細かい處は内地でゆっくり取って貰へと云ふので病院船に乗って深南部ジルベルハーフェン軍港に送還となりました。ダーリエ市の第4豫備病院で5回ほど手術しましたが取り切れない破片は未だ入ったまゝです。冬になると時々傷むので何處に残ってゐるかは判ります。豫備病院は市の公會堂で天井の高い駄々廣い處一杯に寢臺を並べて寝てゐました。時々死人が出ると直ぐ運んで行って其の日の夕方には新しい負傷者が代りに横になってゐました。

【停戰・ゴルゴニア戰線・復員】
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1級從軍記章・砲戰記章・2級戰傷記章・1級ゴルゴニア従軍記章・ゴルゴニア駐箚記章

5月に停戰となり、レミニア共和國は北帝國と合併しレミニア聯合共和國になりました。退院して原隊に戻りましたが、6月に所属の大隊が新しく編成された野戰重砲兵第3聯隊に編入されたので、兵營もランデンドルフ縣バテリエに移りました。5中隊の内務班で暮す裡(うち)、聯隊はゴルゴニア戰線に出動する事になりました。舊北帝國に侵入してゐたゴルゴニア軍を國境外に押し戻さうと云ふのでしたが、行って見るとゴルゴニア軍は何處にも居らず。駄々廣い荒野に露營したまゝぼんやりしてゐました。その頃、野戰給養部と云ふのが出来て、云ってみれば酒保みたいなものです。従軍商人を集めて後方に小さい商店街みたいなものが出来てゐました。其處に行くと、日用品や時計、眼鏡などを買えて、野戰郵便局で貯金の出入れも出来る、飯を喰ったり酒を呑んだり風呂も入れます。掘立の芝居小屋もあり映畫や慰問の芝居、歌をやってゐました。なかでも女郎屋が最大規模でした。兵隊は交代で出掛けましたが、戰争やってゐる氣分はありませんでしたね。偶(たま)に大砲の彈が飛んで来ますが在らぬ處に落ちる。此方もお返しに打返す。獵騎兵が偵察に出てゆく、そんなものでした。1932年7月まで此の面白くもない荒野に駐屯してゐましたが、8月にやっと復員しました。1級砲戰記章2・1級從軍記章・1級ゴルゴニア従軍記章・ゴルゴニア駐箚記章・2級戰傷記章と略綬を6箇附け上等兵に進級して戻って来ました。家族はとーちゃんが軍服にごたごた一杯くっつけて歸って来たと喜びましたが、たった數週間で戰争は終ると思ってゐたら2年11箇月も戻れなかったのですから困ったものです。

【西比利亜戰争】
1934年に第6分署に轉勤となりました。仕事は本署と同じ捜査係ですが掏摸の他に何でも擔當しました。二等巡査にあがっても制服は着ないので相變らず目立たない私服で立廻っておりました。署の近くにゐないと不便なのでレミニア區蠻族街に引越しました。罪人墓地と云ふ變な名前の處でしたが、昔は刑場があった處です。子供は小學校を修へたので實業學校商業科に入れました。親の方も36歳で巡査練習所の甲種練習生を命ぜられ、卒業すると一等巡査になり18分署に移りました。仕事は前と同じです。掏摸専門と云ってゐる譯にはゆかず、こそ泥から強盗まで大凡(おおよそ)あらゆる盗人を扱ひました。時には殺人事件もありましたが此れは本廳から専門の人がやって来て擔當しました。例の通り分署に近いメトロ區細工師街金貸通に越しましたが、此處は陰氣臭さでは前の罪人墓地と同じで、高利貸に借金しやうとする人が夜晝構わずこそこそ歩いてゐる薄暗い處です。
40歳になって今度は警察講習所の講習生を命ぜられ市電に乗って通いました。前の練習所は地元の巡査しか来ませんが、講習所は警保局の直轄なので全國から講習生がやって来ました。それを入れる寮までありました。翌年、講習所を修了し警部補に進みメトロ署の司法主任になりました。刑事の親分なのであらゆる犯罪を扱ふ立場なのですが殺人なんかは其の方面の古手に任せ放しです。兵隊の方も兵役免除になって、息子も實業を卒業して航空會社の貨物航路部門で下働をする事に決り、やれやれです。
ところが1941年7月にレミニア聯合共和國は蘇聨と戰争となり、區役所の兵事係がやって来て義勇志願を勸めました。なんでも上流の紳士方は全員が志願して入隊する、中流の紳士方も其れに續いてほしい。そうすれば國民全體が奮起して此の戰争はすぐに勝てるだろうと云ひます。1929年の戰争の事もあるから短期間で終るなんぞは眉唾ですが、警察暑の幹部やってゐるので、そう大上段にものを云はれるとお手上げです。兵役に従ふ義務はないが、志願して入營する事にしました。署の部下も數人應召するので署長が一緒に入營祝をして呉れ、古巣の野戰重砲兵第3聯隊に入りました。歳寄だから出征はせず、内地の留守隊に留まって副官室の書記助手をやりました。内務班がねぐらでしたが砲戰記章や従軍記章をごてごて附けた老兵に若い兵隊は怖じ氣づいて神様扱いだから居心地は良かったです。戰争は案外長引いて2年5箇月後の1943年12月に終りました。莫斯科は西から獨逸軍、東からレミニア軍と白系の西比利亜共和國軍が挟み撃ちにし、蘇聨共産黨は消滅しました。1944年1月に3級從軍記章を貰ひ伍長で復員、義勇志願を勧誘した區役所兵事係が 「長い間御苦勞様でした。こんなに長引くなんで思いませんでした」と云ふから呆れたものです。

【其の後】
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1級從軍記章・砲戰記章・2級戰傷記章・1級ゴルゴニア従軍記章・ゴルゴニア駐箚記章・西比利亜戰争3級從軍記章

メトロ署から轉勤してラトニア署の司法主任になりましたが、此處は貴族の殿様方が別邸を構へる御屋敷街で、此處から議會に登院します。8箇の街區があり、その間を巡る街路は立派な自働車と馬車が往き来し各街區の中は大きな長い壁を巡らせた屋敷が建ち並び、其の間を人氣(ひとけ)の無い静かな小路が迷路のやうに續いてゐます。他には警察署と停車場のある鼠街と郊外にある氣象臺、放送局、貯水池、大學の演習林と植物園だけです。此れが泥棒供の恰好の活躍場になってゐまして、男女取混ぜ怪盗や妖盗が暗躍するので、なかなか忙しい日々を過しました。侯爵の先祖傳來の寶石が紛失した、公爵の圖書室で中世傳來の稀覯書が行方不明となった、伯爵の庭園で彫像が次々と壊された、子爵の猫が誘拐されて身代金を要求する手紙が来た、男爵の金庫から國事に關する重要書類が盗まれた、准男爵が大掛りな詐欺に引っかかった、田舎から出てきた騎士が他の騎士團の連中と亂鬪騒ぎを起し負傷者多數、など毎月の如く馬鹿馬鹿しい事件が持込まれます。ラトニア區の警察力は本署と3箇分署しかありませんから、仲々忙しい上に、こんぐらがった事件では御屋敷で雇った私立探偵や、陸軍大臣が手を廻した憲兵隊や特務機關、國務院が動かした秘密警察委員會の代理人や秘密調査官、果ては森林警察や税關監視部などが絡んで複雑怪奇な様相を呈する事も錚々ありました。失せ物、捜し物の發見はお手の物でしたが、御家の事情や政治絡みには非常に苦勞しました。
幾つかの事件を解決した後に警部に進み警視廰の捜査1課第1班第2掛主任を命ぜられました。此れは配下に盗犯係と掏摸係がゐる泥棒専門の部署です。云ってみれば首府の掏摸係刑事の親分ですから、掏摸組合の手綱を取りつゝ毎日を過しておりました。處が前のラトニア署からのしがらみで變梃子で内密な事件を持込まれ其方(そちら)で動く事の方が多くありました。ラトニア署時代に知合った幾人かの殿様から来る個人的な依頼も多少は受けざるを得ず多額の報酬と引換に折角の夏休や年末休暇を臺無しにした事もありました。

【義勇志願】
49歳で複雑な事件解決の片棒を擔ぐ日々に多少うんざりしてゐた頃、區役所の兵事係が性懲りもなくやって来て、新疆で支那共産黨撲滅の戰争をするから義勇志願しないかと頻りに勸誘します。此の際、面倒な仕事から離れて氣樂な兵隊暮しもよかろうと、ふと魔がさして古巣の野戰重砲3聯隊に入營してしまいました。女房も娘も 「おとーさん、もう歳なんだからお止めなさい」と諫めましたが、息子が 「やりたいようにさせたらよい」と云ふので、家では渋々壮行會を開いて送り出して呉れました。
今迄とは違い少し張込んで首府のルブラン空港から定期飛行船に乗り、キャビンで天空の景色を眺め乍ら晝飯を喰ったと思ったら、すぐに古都ランデンドルフに到着、列車で兵營に行くと、第1中隊の下士室がねぐらとなりました。今迄の内務班と違って多少狭いが専用の机もあり、同居の班長連は現役や豫備役の若者なので爺さんを大事にして呉れ氣樂に暮せました。留守隊は聯隊本部を其のまゝ使ってゐて、留守隊長の中佐は聯隊長室に陣取ります。副官室には留守隊副官の中尉がゐて、彼の助手となりました。中尉も義勇志願の爺さんで、一年志願兵出身でした。娑婆では長いあいだ競馬場に勤めてゐるのだそうで、面白い話を聞けました。仕事は書類の整理や清書で、茶を飲んだり閑話したり悠長な勤務でした。夕飯のあとは下士集會所で麥酒を呑み乍ら色んな連中と他愛もない話をしました。日曜には街に出て映畫を觀て寄席に行き料理屋で何か喰って歸ってくきます。もう歳寄だから遊廓なんぞには行きません。然し衛戍地のバテリエ町も大砲製造工場ばかりの職工町なので列車に乗ってランデンドルフ市まで足を伸す事もありました。流石は中世の昔から榮えて来た古都です。メトロポリスの雑然さに比べると路地の中に至るまで格式が違ふのでした。ランデンドルフ大公爵の居城近くに馭者相手の屋臺飯店があり、何時も其處で食事をしました。味がよいので満員でした。何でも亭主はローテンベルク龍騎兵聯隊の炊事手をやってゐたとか、その父親もローテンベルク要塞砲兵聯隊で炊事長、今は首府で呼賣商人組合に勤めてゐると云ひます。今度、本廳に復職したら一度訪ねてみやうと思ひました。
翌年の1月に野重砲聯隊の本隊が新疆から復員したので、此方は3級従軍記章を貰い軍曹に進級して除隊しました。

【退職】
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1級從軍記章・砲戰記章・2級戰傷記章・1級ゴルゴニア従軍記章・ゴルゴニア駐箚記章・西比利亜戰争3級從軍記章・新疆事變3級從軍記

54歳で警視に進み警視廰を退職、クラムボン區紙漉街草刈通に小さな家を買い終(つい)の棲家としました。此處は鄙びた處で首府の真ん中を流れる廣いオリザ河の畔(ほとり)にあり、大都會の騒がしさから離れた長閑な風景が擴がる田園住宅街です。なかなか警察、掏摸組合とは縁が切れず偶(たま)に事件に首を突っ込む羽目になりますが、季節によっては昔の戰傷が痛むのでそろそろおさらばしやうと思っております。

【註】
警視廰の刑事として數々の難事件を解決に導いた。聯合共和國に於いて其の名を知らぬ犯罪者はゐないと云はれる。下層の事情に通じると同時に上流階級の知己も多くあり隠退後の現在も公表されない事件に關與する事が多々あるらしい。

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屋臺飯屋     → top

【生れ】
深南部ランデンドルフ縣ランデンドルフ市馬車屋街藥師通の裏長屋に生れました。親爺は呼賣商人。此れは警察の營業免状に載ってる名前ですが朝晝晩と通りに屋臺出して安く飯を喰わせるんです。御客は馭者の連中で繁盛してました。自分で云ふのもなんですが、なにせ味が良いからね。懇意にしてゐる生藥屋から藥味を仕入れて来る。何をどのくらい入れるかは親爺しか知らなかったです。藥屋は藥以外にも香料や茶なんかも扱ってました。まーそいうのも藥のうちって云へばさうなんですがね。荷馬車や辻馬車の馭者、馬丁が三度の飯を喰ひに来る。あたしゃ物心ついた頃から店の手傳してました。皿洗ったり給仕したりで小遣に1日5厘呉れる。其のうち小學校にあがって放課後は新聞賣子をやりました。1日1銭呉れるから店に出てゐるより餘程よいんです。小學校尋常科おへると實業補習學校商業科に進みました。此れは夜學で小學高等科に相當します。新聞の方は續けて學校を卒業する頃には日給5銭貰ってゐました。帳簿の附け方、税金の拂い方など覺へて商業科おへると親爺の店の手傳を再開しました。飯の作り方を修業したんですが、なかなか此れが面白い。息子と雖(いへど)も食附日給8銭8厘と雇人並で其の邊は何處の店でも同じでさ。段々一丁前になって19の歳には日給12銭貰ってました。

【入營・炊事卒】
徴兵檢査受けて甲種合格、翌年の1月に要塞砲兵第2聯隊に入營しました。隣のデーモン縣にあるローテンブルク要塞の中が兵營になってゐて、分厚い長い城壁の内側がずらりと兵室で日の射さない黴臭い陰氣な處でした。中世の昔からある城で長い間かゝって増築を重ね今の巨大な姿になったのだそうで、南に海が擴がってゐます。北から長たらしい川が城と海の間の駄々廣い沼地の中をうねうねと流れてゐます。其の邊は紅土なので御世辞にも綺麗な景色とは云へません。城壁まで赤いんですぜ。大昔から棲み着いてゐる大口の蛭蛇や放飼いのでかい豚がうじゃうじゃしてゝ此んな處で2年も暮さなきゃなんねえのかって、うんざりしました。
最初の3箇月は鐵砲擔いで歩兵の教練でした。其れが終ると特業が決るんですが、身上調査で人事掛特務曹長が 「入營前は、お前何をやってた」 あたし「はい屋臺飯屋手傳であります」 特務曹長「よし炊事卒になれ」 教練の成績も人並だったんでせうね、砲手や觀測手になれなんてひと言も出ませんでした。他に炊事經驗のある初年兵がゐなかったんでせう。4月から大隊炊事場に通ふ毎日になりました。通ふと云っても寝る以外は炊事場にゐましたね。飯もそっちで喰ひました。夜も明けない裡から不寝番が起しに来る。ぼろっちい營内服を着て炊事場に出る。割烹着を羽織って足元は護謨長でさ。野菜や肉を刻んだり煮たりして兵營の朝飯を作る。内務班から週番上等兵の引率で初年兵が飯上げに来る。食罐に入れて置いた飯と黒麺麭と茶を中隊毎に受取らせる。それから賄い飯を搔込むと直ぐに晝飯作りにかゝる。それが濟むと朝と同様に食罐を飯上げ連中に渡して賄い飯を喰って暫し休憩。控室でごろ寝です。そして晝過ぎから晩飯を作り、鍋釜はもとより石敷床も綺麗に洗ひ、日夕點呼が終った後の内務班に戻って来て寝るんですが初年兵を苛める五月蠅い古兵が居ると炊事に居残って遊んでから歸る。時には炊事長が酒を呑ませて呉れます。御蔭で同年兵には碌に顔も合わせず名前もあやふやなまゝでした。内務班の連中から見ると、消燈間際に戻って来て軍鼓が鳴ったら寝て了ひ、朝は寢臺が蛻(もぬけ)の殻で本人も居ない、顔を合わすのは不寝番で明け方に起す時と毎週の炊事車演習で飯盒におかずをよそって呉れる時だけ、と云ふ變梃な兵隊だったと思いますよ。戰友(古兵の身の廻りの面倒を見る)なんてのも免除です。
炊事は蒸汽釜を使ふので餘った火力で風呂も湧かします。炊事場の隣は必ず浴場になってまして毎日そっちの世話もしないといけない。掃除なんかは使役の兵隊がやって来て濟ませますが、湯の温度が決ってゐて、ぬるくは出来ません。さう云ふボイラーの監視は順繰りの當番でやりました。風呂場は兵卒用、下士用とあって、将校は炊事の掛(かかり)ではなく将校集會所に風呂がありました。其處は酒保商人の受持です。
あたしは子供の頃から飯作りは慣れてますから苦にはなりませんでしたが、兵隊飯の大味なのには仲々馴染めませんでしたね。もうちっと調味の工夫をしたらよいにと思ったけれど、そんな事はどうでもよく、要は給糧規定通りに所定量が給輿されてゐるかどうかなんです。いちおう經理委員の将校が試食に来てひと匙食べてから配食となりますが、文句も云はず、うまいとも云はずです。それと陸軍は食中毒が起きた時に檢査する為、食事は一膳分を12時間保管しておく事になってゐました。あたしら炊事要員は賄い飯で餘ったのを適當に掻き込んでましたが、出入の商人や残飯屋なんぞにも喰わせてました。數量は規定で決ってましたが實際は仲々適當でした。
将校は給食對象ではありませんから集會所で會費を拂って酒保商人の厨房で作った晝飯を喰ふ。朝晩は營外の自宅で食べる。准士官のうち准尉も同様。特務曹長は将校集會所で晝飯を喰ふのが窮屈なので下士集會所に行って持参の辨當を喰ふ。週番にあたった将校准士官は食事傳票を切って兵食を喰ふ。此れは其の分だけ給料から天引となります。
陸軍の變梃な慣習(ならわし)で部隊ごとに曜日を決めて全員が野戰食を喫するんです。炊事車演習です。この日になると車廠の炊事車を引っ張り出し、輜重隊から輜重輸卒が出張して来て、炊事手、炊事卒、馭卒(輜重輸卒)、同助手(輜重助卒)で中隊炊事車を編成します。聯隊長以下全員が營庭に立ち並び炊事車から飯盒で豆と肉のごった煮をよそって貰い、黒麺麭を片手にもしゃもしゃ喰ひます。雨が降らうが雪が舞はうがお構いなし。給養掛曹長と週番下士の見張る中を行列を作った中隊150人が炊事車の前を巡って来る。炊事手と炊事卒(あたし)は大シャモジで飯盒に飯を取分け、馭卒が麺麭を渡し、馭卒助手が茶を注ぎ、此れが仲々忙しい。
秋期の師團對抗演習では炊事車も出動します。要塞砲兵だから何處にも行かないんだろうと思ふでせうが、それが要塞から出發してダーリエ縣を北上、北部のグリュンバルト縣 境まで行軍するんですよ。敵が海から攻めて来て上陸、我が要塞が陥落した時には固定した海岸砲の尾栓を抜き閉鎖器も照準器も取外して使へないやうにして聯隊は北に撤退します。列車砲も牽いてゆくんですが、たまに停車して追い来(きた)る敵軍に猛射を浴びせます。敵がデーモン縣の谷間を追っかけて来ると両側に聳へてゐる山地から山砲聯隊や獵兵大隊が挟み撃ちにします。その練習を毎年やるんです。進軍と反對の撤退戰だから中隊の前を炊事車が進む。朝晝の飯を作って給食します。晩飯は民家宿泊なので其處のを食べます。豫め師團から食費込の宿泊料が宿の方に渡ってゐるから酒も出るは若い娘もゐるはで将校も兵隊もちょっとした遊山氣分でした。

【炊事手・豫備役・演習召集・後備役】
翌年の1月に2年兵となり、炊事手を命ぜられました。上等兵相當だからV字形の膂章を附けますが砲兵科から經理部の所属となったので要塞砲兵の橄欖色ではなく經理部の定色で灰色の襟章・膂章です。此處で砲兵ではなくなったんですが部隊は變はらず要塞砲兵2聯隊附です。
仕事も變はらず大隊炊事場で飯炊をしてゐました。兵隊らしくないとお思いでせうが此れでも教練で短機關銃射撃の褒章を貰ってます。炊事車が襲撃された時に備へての自衛戰鬪用なんですが、實際に短機關銃を支給された事は一度もありませんでした。
師團對抗演習では中隊炊事車の炊事手だから忙しかったです。中隊に給食するのはあたしの率いる炊事車だけなんですから。晝飯の支給を終へると次の宿營地まで先行します。夕方前に到着して芋の皮剥や野菜と肉刻みなど濟ませます。もちろん250人分(演習時は戰時編成になってゐて兵隊の數も2倍)を4人ではこなせませんから豫め手配してある臨時傭の民間人を集めて手傳って貰ひます。炊事車は3食分迄の材料なら何とか携行できますが、それが切れると聯隊の糧食集積處から補充します。あたし達は其處に出向きません。代りに大隊大行李の輜重車が運んできて呉れます。集積處には輜重大隊の糧食縦列が軍兵站管區の兵站倉庫から食糧を運んできます。兵隊は飯がないと戰争できないから此れを毎日途切れなく繋いでゆかないと我が部隊は負けて了ひます。中隊炊事車の責任は重い。飯が不味かったり配給が遅れたりすると兵隊が黙っておらず闇夜の袋敲きに遭ふぞと大隊の炊事長に脅かされましたからね。最初は緊張しましたよ。毎日の事ですから段々慣れてきて何とか一丁前の炊事手になれました。

【炊事の四方山話】
あたしら炊事手や炊事卒なんか下っ端ですから旨い目には遭いませんが、これが炊事長になると仲々です。軍の兵食は定量が決ってまして、黒麺麭750g(3銭9厘)、牛肉375g(2銭2厘)、豆250g(2銭2厘)或いは馬鈴薯1,500g(2銭8厘)、野菜125g(1厘)、塩25g(0.04厘)、油1g(0.3厘)、砂糖50g(3厘)、茶または珈琲28g(1銭8厘)、果實108g(2厘)或いは酢10g(2厘)、紙巻煙草1本(1.8厘)などです。黒麺麭は糧秣支廠の製麺麭場(歩兵聯隊所在地に1箇ある、特科部隊の分も其處で製造)が焼立てを毎日運んでくるから數が決ってますが、その他の材料は、例へば豆1人分のうち1粒を減らしても誰にも判りません。平時大隊500人から500粒節約出来るわけで、金額になおせば4銭4厘です。これは30日で19銭3厘、1年で2円32銭3厘、他の材料もその段でいき年に合計78圓48銭が浮きます。月にして6圓54銭、此れは1等給軍曹の月給6圓とほゞ同じで、大隊炊事長は其の氣になれば自分の月給2圓60銭の他に此れだけの役得がある事になります。炊事長は此れを何に使うかと云へば、炊事兵に酒を呑ませる、餘分な特別料理をつくって皆で喰ふ、上役の聯隊炊事長や經理室の主計に挨拶代りの何かを送る、などに使ひますが、それでも自分の懐に入る額はかなりのものになります。炊事長をやれば蔵が建つと云はれてゐますが、表立って蔵なぞ建てる人はいませんや。
初年兵は教練で體を使ふので兵食は全部食べてしまふ。ところが古兵は體も腹も出来てゐるからそんなに喰べません。それで残飯が出ます。此れは食罐に集めて炊事場に戻ってきます。口や汁をつけたものは下等、それ以外は上等、に區分(くわけ)して、残飯屋に卸します。安く買って貧民街で賣る商賣です。ごった煮などに再調理して上等は幾ら、下等は安く幾らと秤賣りします。其の日の喰ふに困ってゐる貧民が買って餓えを凌ぐんです。残飯代は部隊經理室に納めますが、残飯屋は炊事長に幾許か禮金を出します。此の収入も馬鹿になりません。残飯屋の運送人には炊事場で飯を喰はせる習はしですが、それだけ炊事場も恩恵を受けてゐる譯です。
あたしは現役の時は下っ端でしたから、たまに炊事の控室で酒を呑んだり、餘った材料で旨いものを料理して喰ったりする許りで、金は貰った覺へはありませんでした。義勇炊事長で西比利亜に行った時には多少良い目に遭いましたが。

【屋臺飯稼業】
年末に現役滿期除隊となり屋臺稼業に戻りました。親爺は 「おめえ兵隊飯ばかし作ってたから腕が荒れただらう」 と云います、ところがどっこい、すぐに勘を取戻して以前と變はらず味に煩い馭者連中からも文句は来ません。親爺も少しは息子を見直したやうでした。
翌11月に演習召集令状が来て聯隊に行き、師團對抗演習で聯隊が出拂った兵舎で留守隊の連中に飯を炊きました。大切な要塞の防備を疎かにする譯にはゆかないので、現役が出掛けた跡に豫備役が召集されて留守隊を編成、普段と變はらない警備をやるんです。演習が終はると留守隊は解散して豫備役はとっとと家に歸って了ふ。あたしも汽車に乗って峠を越へランデンドルフに戻りました。其の年末に嫁さんを貰ひました。前から仲の良かった近所の子で大して別嬪でもないけれど丈夫が取り得のくちでして、親爺も飯屋の女房はかふでなくちゃと喜んで呉れました。1年おいて女兒が生れ、翌年に男兒。27歳で後備役編入となり、やれやれ軍隊とも縁が切れかかったと思ったんですが、29歳の11月に充員召集令状が来ました。

【經理學校】
なんでも北の隣國が攻込んで来たと云ふんです。汽車に飛び乗って峠を越へ要塞砲兵2聯隊に驅附けると兵舎は應召兵でごった返してゐました。普段は1000人位しか居ない處が俄に3倍越の3000人になっちゃったんだから炊事場もおゝ忙しでさ。應召の砲兵の他に警備の國民歩兵と獵兵、配属工兵に阻塞氣球隊と、ごちゃごちゃ集って狭い要塞の中に同居してゐました。喰み出して營庭に天幕張って寝起きしてゐる隊もありました。いつなんどき要塞正面の沖合から敵の艦隊が攻めてくるかも知れないって云ふので晝も夜も嚴戒警備です。海岸に出掛けてゆく觀測と見張は順繰りに各中隊が當番で出るんですが炊事車が中隊に随いて出かけ彼方此方に散らばってゐる分哨を巡り歩いて飯を配ります。炊事車が行けないやうな足場の悪い處には食罐に入れておいて取りに来させます。要塞内の見張所には夜食の辨當をつくります。ちゃんと寝る暇は餘りなかったですね。
敵艦隊はいっこうに姿を現さない。それも道理で、我が海軍が綿密に機雷網を敷いたので連中は入って来れない。大きな戰艦や巡洋艦なんぞすぐ蝕雷して御陀佛です。隙間を縫って忍び込んで来る潜水艦もゐましたが我が驅逐艦や海防艦、驅潜艇に追返されて了ふ。で要塞は戰鬪も無く暇でした。けれど兵隊は飯を喰はないといけないから炊事の忙しさは變りません。
年が明けて1月に聯隊の一等主計殿に呼ばれて忙しい最中に何の用事だと經理室に行くと、經理學校分遣を命ぜられました。動員で炊事下士が足りなくなったから取敢へず下士に志願しない應召兵も教育しておかうと云ふのでせう。朝から汽船の三等に乗って沿岸を西に進み、夕方には南部のボロジノ港に着きました。のどかな小麥畑が延々と續く中を埃だらけだけれど妙に速い電車で首都に入りました。緑色に塗った木造の二輌聯結なんですが矢鱈と走るからばらばらにならないかと心配した程でした。メトロポリスの偉容が見えて来たと思ったら電車は地下に潜り、暗闇の中を突っ走りました。大きな前照灯を附けてゐたのは此の所為だったんだと思い當りました。地下鐵なんざ初めて乗ります。恐ろしひ轟音で耳が變になりさうでした。澤山の驛にいちいち停まって大勢の客が乗ったり降りたりしました。其の裡、電車は急に地上に出て大きな長い鐵橋を渡りました。南部を縦斷して流れて来るオリザ河です。すぐに巨大な煙突が何十本も並ぶ工場地帯の上を高架で突き進み、あっと云ふ間に目的地のスドフィーノ驛に着きました。此の邊りはもう首都の端っこで、ごみごみした下町の景色が際限無くたらしなく擴がってゐる處です。市電で鐵道操車場みたな處の横を通り其の名も主計街と云ふ停留所で降りると、目の前が陸軍經理學校でした。別に普通の部隊と變はらない處ですが、此處にある炊事長候補生隊で年末まで暮しました。學校は菩提樹の並んだ大通に面してゐて仲々立派でしたが、其處から少し行くと鐡兜組横丁、浪人横丁、筏師横丁と云ふ昔の雇はれ剣士や傭兵供が住んでゐた區畫があり、幾世紀ものあいだ建替をしてゐないらしく、中世の昔に迷い込んだかと思ふ程です。更に行くと洞窟横丁、大喰横丁、巡禮泊など變梃な名前の見窄(みすぼ)らしくも長たらしい町並が續いて、其の裏手には狼横丁、涸谷横丁、徒刑横丁、橇横丁と裏長屋の群が並び立ち、追剥横丁、洗濯船河岸、開花横丁、地獄横丁、奴隷横丁に至ると其處はもふ貧民街そのものです。上等の残飯が出る經理學校の傍に喰詰めた連中が集って来るのでした。
全國各地の部隊から分遣されて来た下士候補の炊事手が同僚で、學科は榮瀁、食瀁、衛生、經理なんぞを詰め込みます。術科は調理、製麺麭、精肉とひと通りあって驚いた事に製菓、醸造なんてのもありました。炊事長は兵隊の飯炊きもしますが、戰場では野戰将校集會所の調理もしないといけませんから、そう云ふのがあるんでせう。時には将軍を招いての正餐會もある。外國の觀戰武官用に献立表を作らないといけない。それで外國語も囓りました。酒の種類にも詳しくなりました。何處で何が採れるかと云ふ糧食地理は外地に出征した時に役に立ちました。
學校にゐる裡に戰争は沙汰止みとなって、敵だった北帝國と我がレミニア共和國と合併してレミニア聯合共和國になってしまひました。なんでも戰争してゐる最中に、相互不可侵條約を結んでゐたミグルシア王國とゴルゴニア國が中立を破って宣戰布告も無しで北帝國に奇襲して来たと云ふのだから國際政治は怪奇千番です。北帝國は首都を毒瓦斯爆撃でやられ軍の最高司令部も政府の役所も全滅、國境に攻込んで来たミグルシアとゴルゴニアを喰ひ止める為にレミニア戰線から兵力を振向けなくてはいけなくなって、レミニア侵攻を斷念。我がレミニア共和國は北帝國と休戰するばかりか援軍を北帝國に送り込み首尾良くミグルシアとゴルゴニアを驅逐して仕舞ひました。北帝國がレミニアに攻込んで来たのは大レミニア主義を唱へる無謀な皇帝がさうすると決めたからなんですが右腕と頼む北帝國参謀本部がミグルシアの毒瓦斯爆撃で全滅、左腕と頼む中央官衙も全滅、かねてから獨裁を嫌ってゐた地方貴族が好機到来とばかりに政權を奪取したから立場を失った皇帝御本人は南米に亡命。それで北帝國新政府はレミニア共和國と合併してミグルシアとゴルゴニアに對抗しやうと云ふ事に決り、レミニア聯合共和國が出来ました。あたしなんかの考へるに、どうもレミニア側がそう云ふふうに巧く持って行ったのだと思ひますね。學校を修了して伍長相當の三等炊事長に任官し原隊に戻った時には、部隊名は要塞砲兵第2聯隊で變りませんが、レミニア共和國陸軍からレミニア「聯合」共和國陸軍になってゐました。別に軍旗も軍服も肩章も變りません。おまけに月給も以前と同じです。少しはあがるのかと思ったけれど、さう巧くはありませんでした。戰争も終ったから御苦勞様と云ふので三級従軍記章を貰ひました。

【西比利亜出征・病院列車】
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3級従軍記章

除隊してから親爺の屋臺飯屋の切盛をしました。子供も小學校を修へると新聞賣子や地主の女中になって按配良く育ちました。37歳で後備から國民兵役編入となり40歳で兵役免除となって目出度く陸軍と縁が切れました。と思ったら、西比利亜戰争が起り、市役所の兵事係がやって来て義勇兵で入隊してくれないかと云ふんです。どこそこの誰さんも義勇志願したとか云ひます。呼賣商人組合の参事をしてゐたので世間體もあって無碍に斷はれない。渋々、久振りに要塞砲兵2聯隊に入營して三等炊事長の軍服を着ました。すぐに西比利亜に出征する第2軍兵站監部にくっついて輸送船に乗り、長い航海の末に極東の浦塩港と云ふ處に到着しました。當時は獨逸と戰争中だった英國が亜米利加を唆(そそのか)してパナマ運河の通行を制限してゐたので、獨逸軍と共同して蘇聨を挟撃(はさみうち)しやうと云ふレミニア軍の輸送船は通れませんでしたからマザラン海峡を越へないといけません。御蔭で赤道祭を二度やりましたよ。船艙の棚に押込められてゐたから碌に海も見えません。飯は船が用意するから陸軍炊事は何もする事がありません。いちにちじゅう轉がって博打をしてゐました。
配属は第2軍兵站管區の患者輸送部第3病院列車指揮班給養掛と云ふんですが、後送患者を載せた列車で西比利亜鐵道を行ったり来たりします。浦塩から西部の前線まで片道2週間はかゝる。列車に聯結した炊爨車で患者の飯をつくるのが役目でした。乗員は停車驛が用意した食事を摂る。患者はあたしの受持つ炊爨車から配給する。怪我人や病人ばかりだから何を喰はせるか工夫がゐりましたね。炊事長はあたしだから何もかも決めないといけない。經理學校で習った食養生の教範片手に献立を考えへました。其の邊は軍醫連中は頼りになりませんね。「炊事長、貴公は經理學校で榮瀁學と食瀁學を習ったんだらう。軍醫よりも良く知ってる筈だ。萬事任せた」 ですよ。
怪我人は精をつけないといけないと云ふんで肉と野菜を鱈腹喰はせました。病人は必ず果物をつけました。生ものは手に入らず罐詰です。鐵道沿線の兵站支部からは臺彎の鳳梨や日本の蜜柑などの罐が配給されましたので其方の罐詰工場は儲ったことでせう。重症者には喰ひ易いやうに特別のスープをしつらえました。

【野戰病院】
2年間これをやった後に、二等炊事長に進級し、3師團の第4野戰病院管理班給養掛に轉属しました。大砲の音が聴こへる處に天幕張の病院があって前線から續々と負傷者を運んで来ます。病院の連中と負傷兵の兩方に飯を喰はせるのが役目でした。前の病院列車はたゞ乗っていればよかったんですが今度は前線の移動に合はせて1週間もたたずに引越するので仲々忙しい。それだけ進軍速度が速かったんですね。其の裡、終戰となり、戻りは獨逸が英國と仲直りし米國の機嫌も良くなった所為(せい)でパナマ運河を通過でき、早めに故郷に戻って来れました。2級従軍記章を貰ひました。前の豫備役應召の時は3級でしたが此れはゐた處が戰地と認められなかったので3級、今度は戰地にゐたので2級です。此れが最前線だったら1級です。

【呼賣商人組合】
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3級従軍記章・西比利亜戰争2級従軍記章

留守の間、屋臺飯の店は親爺と女房が切盛りしてゐました。月給は戰地加俸やら外地在勤加俸、勤功褒賞金など込で平時の倍以上18圓貰ってゐましたが、炊事は忙しひので野戰給養部に出掛けて遊ぶ暇もありませんから、殆ど留守宅渡しです。それで一家暮して居りました。
長女は下女から出世して地主の家で女中頭になってゐました。屋臺を手傳ってゐた長男は徴兵檢査で第1乙種合格なんですが甲種の兵隊丈では足りないとて入營する事になりました。あたしのゐた要塞の裏手にある龍騎兵聯隊です。もう乗馬ではなく中戰車編成になってました。へええ戰車乗りかと思ってゐると炊事卒に割當られ、親爺と同じじゃ詰らないねーと笑いあったものです。何處の人事掛特務曹長も頭が堅くて身上調書に屋臺飯手傳と書いてあれば炊事と自働的に決めて仕舞ふんですね。
あたしは呼賣商人組合の組合長に擔ぎあげられ地元の同業者の面倒を見なければいけなくなりました。警察の營業免許取り、商賣縄張の割當、營業資金の貸附、共濟金の運用、互助事業などなどです。
元来、呼賣商人って云ふのは零細な其の日暮しが多く、そいつらが喧嘩もせず、輿太者に因縁つけられる事もなく、安心して商賣できるやうにするのが組合の役目でして、此の頃は其れに加へ商賣の元手を低利で貸付たり、故障が出た時の保障をしてやったり、健康保險が行渡らなかった頃にはその代りの保險業をしたり、老齢年金がなかった頃には隠退後の積立年金を設けたりしておりました。身よりも無い組合員が歳取って野垂死するのはいけないって云ふんで組合幹部はいろんな仕組をつくって奮闘したものです。

【新疆事變】
49歳の時に支那の邊境にある新疆でレニミア陸軍が支那共産黨軍の掃討をやる事になり、また市役所の兵事係がやって来て義勇志願をしてくれと懇願しました。同業組合の顔役だし、組合員から出征する人も多いので是非にと云ふので仕方なく引受けました。原隊のローテンブルク要塞砲兵2聯隊に入營し二等炊事長の軍服を着て、すぐに隣の町にある第2軍司令部に出頭、經理部炊事掛を命ぜられ、輸送船に乗って退屈な長航海のすえ極東の浦塩港に到着、西比利亜鐵道で赤塔(チタ)まで行き、支線に乗って新疆に。司令部の炊事は要員の飯を炊くんですが、将校集會所の食堂も擔當しました。将校には朝が目玉焼、晝がカツレツ、夜はテキと決ってゐたので、罐詰の果物やら野菜などを付け合せておきます。下士兵はごった煮で炊事手に任せておきます。息子も矢張出征して龍騎兵第2聯隊の飯炊きに来てゐたので顔を合はさうと思へば出来たんですが、忙しいから到頭いちども合いませんでした。1年たって2級従軍記章貰って復員しましたが、もう50歳になってゐたので大分こたへました。あたしの軍歴も萬年二等炊事長、従軍記章3本持ちのまゝ此處で打止めです。

【その後】
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3級従軍記章・西比利亜戰争2級従軍記章・新疆事變2級従軍記章

息子も復員したので飯屋を譲り、あたしは全國組織の聯合呼賣商人組合の仕事に専念する事にしました。本部の共濟課長になったので首府メトロポリスのスドフィーノ區主計街に間借して勤めに出て居りました。女房は初めての首府なので、飽きもせずにあちこち見物に出廻って居ります。昔懐かしい經理學校の近くで筏師横丁と云ふ襤褸っちい下町ですが、あたしにとっては暮しやすい氣兼の無い處です。
金庫課長をしてゐる時、珍しく娘が訪ねてきて、うちの殿様(ランデンドルフ大公爵)の上屋敷に一緒に来て呉れと云ひました。ラトニア區の大公爵街にある駄々廣い屋敷の奥まった部屋で待ってゐたのは大公爵の奥方で、何の話かと思へば密かに大金が必要になったので貸して呉れないかと云ひます。娘は此の時、大公爵家別荘の女中頭をしてゐたので折入って頼まれ口を利いたのでせう。何かこんぐらがった裏の事情があるやうでしたが、面倒臭いので聞きませんでした。此の時にとばっちりで行方知れずになった人まで出たさうです。おおやけになると大公爵の名譽が危なくなる醜聞らしく其の後始末に金が要ったのでした。まあ組合の金庫番のあたしが内緒に餘剩資金から融通したので奥方の抱へた負債は清算され、此方から融通した金も幾度かに分けて密かに返濟されたんですが利子はありません、奥方は娘に大いに感謝し、娘はあたしに大いに感謝しました。此のあと娘は奥方の推薦で或る領主屋敷の女中頭に出世しました。此れが利子代り。貴族屋敷の女中頭と云へば其處に勤めている女召使の總監督です。隠退した後も御殿の中に寝室・居間の附いた個室を貰い専用の女中も附いて衣食小遣の不自由なく安樂に暮せます。娘は子供が無いから老後はどうするんだらうと心配してゐましたが、此れでひと安心です。あゝ此れは内緒に願いますよ。別に組合に損害を與へた譯でもないし、あたしが儲った譯でもありませんが、ちと内緒の筋道なもので。はい。

【註】
深南部地方ランデンドルフ市で飯屋の親方をする傍ら呼賣商人組合を結成し零細な呼賣及露天商人の生活保障に大きな貢献をなした。現在は全國組織の聯合呼賣り商人組合の幹部として活躍中。

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女衒     → top

【生れ】
深南部でいちばん大きな港はダーリエですが、そこの中央驛の待合室で生れましてね、おふくろは街娼してましたが何の間違いかあたしが出来ちまって餘程困ったんでせうね、暫くは街娼組合の宿に身を寄せてましたが、あたしが育つとヒモと一緒に何處かに行ってしまひまして。
たゞで喰わせては貰へないので、花賣をし宿賃稼いでおりました。親方が女の子の着物を貸してくれるんですよ、それで夜の盛り場を巡り歩いて酔客に花を賣ります。寄る店の姐さん方とは顔馴染でお客に花をねだって呉れる。男の方も良い顔をしたいから割高の花を買ふ。賣れた分だけ割符を店に出しておく。あとで親方が符と引換に幾らか割前を店主に拂ふ。店主は上前をはねて残った金を姐さん方に適當に分ける。そう云ふ仕組でうまく廻っておりました。
6つになったから小學校に通いました。行かないと市役所がうるさい。お巡りさんがやってくる。だからどんなに忙しくても子供を學校に行かせました。教科書はたゞで新しいのを呉れました。紙や鉛筆は自前でしたね。これは今でもそうでせう。親方んちで辨當を持たせてくれましたが、黒麺麭に何か挟んだやつで、茶は學校の沸かした大きな藥罐から汲みました。讀み書き算盤を習って遊戯や唱歌もやる。たまに講堂で幻燈なんか見せましたね。なかなか樂しかったですよ。運動會とか學藝會もありました。親方んちに歸ってくると晝寝して夜になると花賣に行きます。
さうやってゐるうちに11になって小學校も卒業しました。暫くして親方が、そろそろお前も女の子に化けてゐる年頃でもあるまいから」とて埠頭ホテルの住込ボーイの職を世話してくれました。月21銭の給金でしたが、雑居部屋で寝起きして、三度の飯を喰い、御仕着せを年2回仕立てくれ、それは皆たゞでした。風呂も週2回はいれました。お客の荷物を持って部屋に案内したり雑用をすると心附を貰えました。時には給金より多いくらいで。ダーリエは開港場なので外人の泊り客が多かたです。で、簡單な外國語も覺えました。支配人がボーイを集めて擧措動作、口の利き方を五月蠅く教えました。夜は補習學校に通いました。法律で雇主が學資を出すやうに決ってゐました。あたしは商業科で帳簿の付け方、金の貸借り、税金の拂ひ方、商用文の書方、外國語なんかを習いました。1年ごとに給金もあがって15になる時には月25銭で給仕小頭でした。御客の心付を足すと50銭くらいになりました。補習學校を卒業すると小學校高等科相當修了の免状を貰いましたが、これがないと軍隊で下士になれないと云ふので、餘程の浮浪兒でなければ大抵の子供は此の免状を持ってゐました。

【兵隊暮し】
19の夏に市役所から徴兵檢査に出て来いと葉書を貰い、公會堂に出掛けました。素っ裸になってぐるぐると躯體檢査の各係を巡った擧句、演臺に座った髭の聯隊區司令官殿から「甲種合格」と御墨付を貰い歸って来ました。年末に入營通知葉書を貰ひ翌年の1月に南部地方のオスタリーチ市にある高射砲兵第2聯隊に入りました。支配人には「お前はのっぽだから高射に廻されたんだ」と云はれました。朝早くダーリエ港から汽船の三等に乗って夕方にはレミニア縣のボロデノ港に着き、そこから電車でメトロポリス市に行きました。中央驛の近くにある木賃宿に泊り、首府見物がしたいなと思ひましたが、入營時刻が迫ってゐたので、駄々廣い大通をちらちら見た丈で翌朝ツエントロヴェルダ中央駅から汽車に乗り三等の木の椅子に腰掛け北の峡谷を抜けました。詰らない漠々した田舎をひたすら走り抜け、晝過ぎにオスタリ−チ市に到着しました。そこから市電に乗って營門前迄行き、既に營庭に集ってゐる入營者の群に加わりました。机を地べたに置いて下士が名簿を見ては名前を呼びます。指定された中隊の列に加わると、やがて中隊毎に内務班の割振りがあって、それぞれ班長が引率して兵舎に連れてゆきます。あたしは1中隊の第2班になりました。
月40銭で衣食住たゞと云ふホテルのボーイと大して變はらない待遇でしたが、兵隊はなかなか體を使ふから、あたしみたいな軟弱な暮しに慣れてゐた二等卒はたゞ無我夢中で教練に励んだのでした。腹が減るから飯をがつがつ喰ひ體もなんだかひと廻り大きくなりました。2年兵になると一等卒に進級しました。月50銭でしたが、うっとおしい古兵が退營して自分らが古兵になったので、気兼なく樂しく暮しました。聯隊のあるオスタリーチと云ふ處はレミニア南部地方では最古の町なのだそうで、その割りには退屈な處で、外出先と云へば、酒場、劇場、女郎屋をひと巡りすると、もう他には見物先が無いのでした。
あたしは高射重機關銃の射撃がうまくて戰争になったら小隊指揮班高射重機關銃手をする事になってゐましたが、さいわい平和に21歳の12月に満期除隊しました。

【演習召集・女衒】
ダーリエ市港に戻ると船員會館の給仕小頭の口があって多少給料がよかったので、そこに鞍替へしました。船員は長い航海で不自由してゐるから、會館は女郎屋も兼業でした。そこで仲良くなった男が女衒を生業(なりわい)としてゐて、あたしも何時までも給仕やってゐても詰らないからと云ふので弟子入する事になりました。23歳になった11月に演習召集がかかり、オスタリーチの聯隊まで出掛けて、秋期演習の手傳とて留守隊要員をしました。12月にダーリエに戻って来た時には、もう給仕を辞めて女衒ひと筋でゆく心算になってゐました。
女衒の手始めは師匠の助手で田舎に出掛けました。小作人や傭農夫で貧乏してゐる家から女の子を買って、それを女郎屋に賣ると云ふのです。買ふと云っても人身賣買はお上に禁じられてますから、奉公の前貸金と云ふ名目で100圓ばかし親に渡し、證文を女郎屋に割増しで譲り渡し、その差額をこちらの儲けとします。女郎屋は女の子の身柄を引取って下働きに使い、給金は拂はず其の分だけ前貸金の額を減らします。客を取れるやうになると、客から貰った花代は女郎屋が取り其の分だけ前貸金の額を減らします。もちろん手數料の名目で上前をはねます。その間の衣食住は女郎屋が負擔します。そうやって前貸金がすっかり返濟となった時に女郎の年季が明け後は自由に稼ぐか隠退するか身の振り方は女郎本人が決めます。まーそういう仕組なので、卒業する女郎が多く新入女郎を探してくる女衒の役割も缺かせないのでして。
女郎屋は警察の管轄で、營業の許可と取消から始り、女郎の登録、衛生檢査はみんな所轄の警察暑の手を煩わせます。女郎は決った日ごとに警察の衛生係まで行って花柳病檢査を受けます。何月何日檢査濟の手札を貰って歸ってきます。病氣が見つかると指定の病院に入れて治します。特效藥がありまして、そいつを呑めば直ぐに治ってしまひます。ご存じでせう。深南部ジルベリア縣の山奥で採れる藥用蛇を煎じたやつ。高価(たか)いけれど費用は店が出すんです。ところがお上も心得たものです。衛生警察指定の病院では9割の補助がおりて安く濟みます。残念乍ら此の藥はレミニア人種にしか効きません。外人との混血の割合によって効目が薄れるんで、獨逸移民が多い深南部の此の邊りでは半分くらいしか効きません。そいうのはサルバルサンや高熱療法も使って治します。

【總動員令・西部戰線】
27歳になって豫備から後備役に編入となりました。なんか區切の着いた氣分になりましてね、馴染だった遊廓の女を身請して女房にしました。それで貯めてゐた金は使い切ったんですが、女も早く堅氣の暮しがしてみたかったのだと大層喜びまして、ダーリエ驛の近くの長屋に所帯を持って暮し始めました。ところが29歳の11月に市役所の兵事係が召集令状を持って来て「お目出度うございます」と云ふもので女房は腰を抜かしました。取るものも取敢えず汽船・汽車と乗り繼いでオスタリーチの高射砲聯隊に驅付けると營庭は應召者で溢れていました。下士が名簿を見て「お前は1中隊だ」と云われ懐かしい兵舎に入って2階の4班に落着きました。もう後備兵なので留守隊の配属になったんですが、見知った顔も大勢ゐて同窓會をやってゐるやうなものでした。雑用は教育中の初年兵がやるので、ごろごろして暮してゐました。歳を越した1月に前線配属となり、オスタリーチ市郊外の高射砲陣地に移り第3中隊第2小隊第1砲車信管手を命ぜられました。丘の上に陣どってゐましたから目と鼻の先に敵の第1線が見へます。我が歩兵聯隊の塹壕がそれと相對して延びてゐます。敵が突撃を始めると高射砲を水平にして榴彈を撃ちます。戰車が出てくると徹甲彈で狙い撃ちです。御蔭で敵の我が西部戰線の左翼は一度も突破されませんでした。まあ突破されるとオスタリーチ市に敵が雪崩れ込んで来ますから此方も懸命です。飛行機が飛んで来ると高射砲を本来の位置に直して撃つんですが、なかなか當らない。味方の迎撃機と空中戰闘になると味方に當てゝはいけないから撃つのを止める。毎日そいう事を3箇月くらいしてゐました。
4月になるとレミニア西南部地方を占領してゐた敵の1軍團が軍勢を整へ地峡を辿って膠着してゐた戰線の増援にやって来ました。高射砲陣地の最左翼にゐた我が第2小隊は敵の輕戰車隊が闇雲に丘を這い登って来るのを撃退していましたが、向こうも必死の形相で齧り附く。護衛の歩兵部隊は耐へきれずに後退する。到頭、第2砲車の陣地が敵輕戰車に乗っ取られたのを見てあたしのゐる第1砲車も皆浮足立ちました。戰車はやたら機關銃を撃ち放ち乍ら、あっと云ふ間に此方に迫って来ました。後から敵歩兵がぞろぞろ随いて来ます。あたしは命あっての物種と一散に駈けだして背後の斜面を登りました。振返ると陣地の端に小隊長が穴だらけになって倒れてゐます。片手に拳銃を握ったまゝでしたが、そんなもので戰車に勝てる筈はありません。軍曹があたしを追いかけて来ましたが背中を撃たれたらしくゴロゴロと麓に點がり落ちてゆきました。うちの砲車長は敵歩兵が群がって銃劍で串刺しにして了い、逃遅れた第1砲手は戰車の下敷になってすっかり平らになり其の血で地ベタが黒く滲みた眞ん中に汚れた煎餅みたに倒れ込んでゐました。
あたしは斜面から山に分け入り無我夢中で走りましたが何時までたっても山の中から抜けられず味方の第2防御線に着かずじまいでした。背後で派手な爆音が續いて起ったと思ふと我が重砲兵の彈幕射撃で其れに壓倒され敵は折角占領した陣地から撤退したやうです。けれどもう戻る氣も無く夜になり藪の中に轉がって水筒の茶を飲み、やっと明け方に霧だらけの廣い處を歩いてゐると山羊が草を喰ってゐます。夕方に獵師じみた毛皮を着込んだ男に出遭いました。此のあたりの山奥に棲む土民らしく茶色い顔をして言葉も片言しか通じません。親切にも雑嚢から出したかちかちの堅餅を焼いて喰はせて呉れました。戰争をしてゐる事も全く知らず、暮しもいつも通りだと云ふので、暫く其奴と一緒に野宿の暮しを送りました。兎を獲っては焼いて喰ひ、湧水を飲んで尾根から尾根へ渡り歩く毎日です。今更、原隊を追及する必要もないだらう、折角戻っても敵前逃亡の容疑で捕まるのがおちだと思ひ、此のまゝ土民にならうと思ったのでした。後から聞くとあたしのゐた戰線は何とか持ち堪へたやうですが、もう原隊には還れません。

【戰後】
3090■★■
1級従軍記章・砲戰記章・1級戰没名譽勲章

それからですかい? 此れは秘密にしておいて下さいましな。露見すると憲兵隊に捕まりやすからねえ。アンドロメダ山地の中をうろついてから北側の平地に轉がり出まして、軍服なんかは疾くに土民服と交換して誰だか分りやしない。港で沖仲仕をやって少し金を貯めてから、貨物船でこっそりダーリエまで歸って参りました。女房は貯金も使い果して女郎屋の遣手婆をやってましたが、驚いたのなんの。戰鬪中行方不明の公報を貰い、良くて捕虜にでもなったか、悪くて五體四散し此の世から消滅したか、と思ってゐたところだったそうで。それが逃亡兵で戻って来たのだから笑いますよね。とにかくもう居ない人になったのだから、此れから一緒に誰も知った人のない遠くに逃げてしまはうと相談しました。その矢先に休戰となり、北帝國と合併してレミニア聯合共和國になると新聞に載ってゐるのを見て、さうだ、北帝國にゆかうと決りました。あたしは髭を伸して誰だか分らないやうになりました。ごそごそ準備をしてゐると12月になって役場があたしの戰死認定を送って来て(だうして戰死となったのか分りませんが多分行方不明者は皆さうなったのでせう)、女房は一時恩給58銭4厘を貰い、1級砲戰記章・1級従軍記章・1級戰没名譽勲章を預りました。恩給と云っても「一時」恩給だから、1回きりしか呉れないんです。此れで正式にあたしは居ない人間になりまして、それにしても58銭は住込女中のひと月分の給金ですぜ、戰死してそれきりしか呉れないんだから吝(けち)だねえ陸軍も。まあ兵卒なんてそんなもんです。
北帝國の首府ノルダ市は今度の戰争でミグルシア軍の毒瓦斯爆撃を受け偉い人は皆な死んでしまったんですが、建物は残ってゐます。その一角を借りて商賣を始めました。戰争未亡人を集めた倶樂部です。女郎屋遊廓とはひと味違った處でして、御蔭様でそこそこやっております。全滅したノルダ市も段々もとに戻って来て人も増え近頃は賑やかになりました。前借りで縛ったりしない、店の取分もそんなに多くはない、働いたら働いた丈自分の財布に入る、そ云ふ店です。喰ふに困ったらうちで働けばしのいでゆける、あたしも女房も最低限暮してゆける。ね、よいでせう。

【註】
北部地方ノルダ市にて私娼斡旋業を營(いとな)む其の筋の大親分。従来からある公娼組合との長い係争を經て自由私娼組合を育てあげた。現在は公娼組合への献金に依り平和を保ってゐる。

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砲兵中佐の回想     → top

【孤兒院】
物心ついた時にはハナフウーダン縣ハナフウーダン市の孤兒院にゐた。言葉が喋れ手足も動くやうになると其處で掃除や洗濯、使走りなどの雑役をし乍ら暮した。後で聞かされたが、籠に入れたまゝ門前に置いてあったそうだ。親は未だに不明である。三度の飯は喰わせて呉れるが、豆と野菜のごった煮に黒い堅麺麭ばかりで週にいちど魚の切れ端が出た。ずーっと同じ味の魚だったが何と云ふ名前なのか到頭分らずしまいだった。貰った着物はもとは色が附いてゐたのだと思ふが餘り洗ふので灰色になってゐる短い古着で脚は丸出し10日ごとに行水があって寝床は藁蒲團だったが、他の暮しを知らないので其れが普通だと思ってゐた。孤児の暮しは人並より少し低い程度になるのが當時のきまりで、そうでないと皆が食扶持減らしに子供を棄てに来るからだ。雑用の駄賃はきちんと計算して支給されたのはよかった。壱時間で1厘、7時間働いて7厘だった。院内に教師が居て小學校尋常科の課程を教えたが、それに出るやうになって1年ごとに1厘づつ昇給した。世間ではそうなってゐるから、其處でもそうなのらしい。5年生の時には時給で6厘、然し放課後の4時間くらいしか雑役が出来ないので日に2銭4厘、日曜土曜は休みだから月に52銭くらいだった。これで鉛筆や紙、本を買ったりしたのである。世の中に出る時の仕度が要るだろうからと給金の2割くらいは天引貯金になってゐた。

【入營】
さて11歳になると孤兒院を出て働きに出ないといけない。丁稚や徒弟の口があったが、自分は比較的に體が大きかったので陸軍の雑卒に志願しないかと云われ、何の考えもなく砲兵第1聯隊に入營した。當時、隊はレニミア縣シムパニウス郡レオニア村なる處に駐屯しており、わざわざ出迎えに来た喇叭長の軍曹と一緒に初めて汽車に乗込んだ。軍曹も笑いながら此方を見て「その襤褸服とも今日でお別れだ」と云った。寸足らずの衣服の裾から食みだしてゐる自分の裸の脚が恥ずかしかったが、軍曹はその太腿をぴしゃりと叩いて驛で買った辨當を呉れた。魚ではない大きな豚肉の塊と玉葱を麺麭で挟み内側には酢辛子を厚く塗ってあった。驚いた事に麺麭は白い小麥で出来ていて黒でもなく灰色でもなく褐色でもなかった。初めて口にするものばかりで驚いた。「よく噛んで喰え、腹を壊しちゃいかん」と軍曹は云い自分も同じ辨當を手に持ったが言葉とは裏腹にいやに早喰いだった。瓶入の茶を啜り乍ら景色に見とれてゐるうち、列車は駄々廣い畑の中を進み停車場に着き、また動き、此れを繰返して午后遅くにレオニアに到着した
驛から乗合馬車に乗った。旅廻りの商人が二人乗ってゐる丈で貸切り同然だったが誰も何も云わず軍曹は何か他の事を考えている様子で、野原の中をのろのろと轍の音を響かせ乍ら妙に駄々廣い田舎道を進んでいった。 軍曹の両腕には緑色のVの字が三本重なって附いており其の上に喇叭の形の赤い徽章が載っていた。帽子の鉢巻部分も軍服の襟も緑色、此が砲兵科の定色なのだそうだ。下士なのに半長靴で軍刀を提げてゐた。砲兵は馬に乗るので普通の兵隊とは違ふのらしい。塀が延々と續く大きな古ぼけた兵隊屋敷が見えてきて門の前で降りた。
小銃に着剣した兵隊が立っており軍曹を見ると氣をつけの姿勢となった。軍曹は衛門の脇にある衛兵所の下士に「志願者を連れてきた」と告げ、正面の大きな2階建の建物の中に入って行った。後になって分ったが其處は聯隊本部だった。
軍曹のあとを随いて長い廊下を歩き端にある階段を半地下に降りた。案外廣く大きな部屋が並んでゐる、そのひとつに入った。退屈そうな兵隊が山積みにした被服の脇に座ってゐたが軍曹を見ると直ぐ立上がって頭を下げた。それが渡してくれたのを抱えたまゝ別の部屋に行った。そこが鼓手笛手の内務班であった。人が居らず寢臺が壁の左右に並んでゐて、その間に長机と腰掛が置いてあった。寢臺を指定され、棚に被服を置くと、早速着替へるやう云はれた。襦袢袴下靴下を身につけ上着の釦を嵌め、すっかり兵隊の恰好になった。軍靴の穿き方や軍帽の被り方など細かく手取足取り教えて呉れた。孤兒院の服は送り歸すと云ふので貰ったずだ袋に詰めた。着替えた軍服は繼ぎ剥ぎだらけで色も褪せた代物だったが生地が厚く今迄の襤褸に比べれば數段上等だった。作業や教練で汚れるので普段の營内では此れを着て暮すと云ふ。なにしろ暖かくて氣分がよかった。
そのうち夕方となり何やら太鼓と笛、次いで喇叭も加わった音が聞えて来たが、國旗を降ろす儀式だと後で分った。三々五々と鼓手や笛手が勤務を終えて戻って来た。大人みたいな背の高いのから自分と變らないのまで子供の種類が順繰りに揃っていた。軍曹が皆に紹介して呉れた。敬禮をするのかと思ったが室内では頭を下げる丈でよいとて、その遣方を實施に教わった。軍曹はそれで用事は濟んだとばかり早々に隣の下士室にひっこんでしまった。
緊張して突っ立ってゐると、隣の寢臺の鼓手が「此れからお前とは寢臺戰友だ」と云い、心得を述べた。それによれば、困った事があれば何でもすぐに相談せよ、戰友の身邊の雑用は年下の方がやる、今夜は何もせんでもよいからゆっくり旅の疲れをとってよく眠れ、明日洗濯石鹸を貰ったら自分の枕覆と下着を洗って置いてほしいとの由。
何處かで太鼓が鳴ると當番が食罐を運んできて夕食をしたためた。飯は旨かった。隣の席の年長者が「お前よく喰ふなあ、娑婆で碌なものしか喰ってなかったみたいだ」と云ふ。確かに孤兒院の食事よりは格段によかった。滅多にお目に掛かれなかった肉が此處では澤山入ってゐる。しかも魚ではない。今から思えばそれは初めて食ふ牛肉の塊だった。漬物も大鉢に山盛になってゐて幾ら取ってもよかった。麺麭は黒だったが妙に大きかった。何時も食べていた2倍くらいあったが全部食べてしまった。茶もお代り自由だった。これからずっと此の飯が喰えるのかと思ふと志願してよかったと幸福になった。

【點呼】
内務班は數えると26名で、其處に居ない4名は衛兵勤務だった。營庭から再び太鼓の音が聞こへ、「點呼〜!」と班の先任者が叫ぶと、我々は長机と椅子を片付けて寢臺の前に整列した。下士4名が下士室から出て来る。自分を連れてきた軍曹は聯隊喇叭長だった。あとは伍長で大隊喇叭長だそうだ。聯隊喇叭長軍曹が「番號!」と叫ぶと、端から順に番號を云い、自分も最後尾で最後の番號を大聲で云った。軍曹は自分を見て片目を瞑って密かに合圖しようとしたらしかった。しかし大袈裟に顔面が動き、ちょっと目には恐ろしい形相となったので、居並ぶ班員は皆吹出しそうになるのを必死で堪えているらしかった。軍曹は改めて云った。「26番、聲は他の大きさに合わせろ。今のは大きすぎる」廊下で「點呼!」と誰かが叫び、喇叭長軍曹は班員に「氣をつけ!」と命令した。週番の襷を掛けた将校が片手に紙挟を持った週番下士を連れて班内にやって来る。喇叭長軍曹は週番将校に室内の敬禮をし「鼓笛班總員30名、事故4名、現在員26名」と告げ、整列した班員に再び「番號!」と命令した。皆が順繰りに番號を叫び、自分が最後尾の番號「26」を音程に氣をつけて云い終ると、喇叭長軍曹は「事故の4名は週番司令室勤務2、衛兵勤務2、異常ありません」と告げる。週番将校は整列した小僧供の前を顔を見乍ら通ってゆき、最後尾の自分の前で立ち停まると此方を睨みつけ「お前は本日入營したのだな」と訊く。「はい、さうであります」と自分は覺え立ての兵隊言葉を使ふ。将校「よし確り御奉公せい、何かあったら直ぐ上官に相談するのだぞ」と諭すと、くるりと向きを變え急ぎ足で週番下士を従え班を出て行った。こうして自分の入營初日の儀式は完了した。

【寝臺戰友】
消燈になるまで皆てんでに過してゐる様子で、長机に向って何やら本を讀んでゐたり、書き物をしてゐたり、針と絲を器用に操って繕いものをしたり、喋ったりしてゐた。自分は何をしてよいやら解らず、寝る迄は寝轉がってはいけないので、ぼ〜と寢臺に腰掛けていた。隣の寝臺戰友が戻って来て「なんか要るものあったら代りに買ってきてやるよ、取敢えず此れ丈持って来た」と云い新品の歯磨刷子と手拭を呉れた。「代金は次の給料日に返して呉れ、利子はとらん、ははは」と云ふ。十四五の鼓手だったが小太りでチビなので十二くらいにしか見えなかった。
何處から来たんだと聞くので隣縣のハナフウーダンと答えると、御前あんましあの邊の人間には見えないなー。志願してもう本物の兵隊になってるが、御前にそっくりなのがゐてね、その人は北にあるオスタリーチ縣から来たと云ってたよ。先祖にそっちから来たのがゐたんじゃないの、ま、いいや、俺はメトロポリスのスダフィーノ區機關庫街枕木横丁だ。鐵道の横に此れから取替えるのか、もう取替えちまったのか知らないが枕木を山に組んで積んであるだろう。あれを2〜3人で夜中にひとつ擔いで来て急いでばらばらにしちまうんだ。堅くて骨が折れるが手頃な大きさにして他に行って叩き賣る。すると結構これが高く引取ってくれる。もとではロハだからよい商賣だ。ところがその邊りを仕切るのがピンハネを始めたから、仲間のなかには戰争してそいつを追出しちまおうて勇ましいのもゐたが、子供と大人じゃ勝負にならない。で早々に退却して今度は軍隊に入ったんだ。
處で今度骨牌教えてやらう。貧乏なシロウトにはインチキは使はない、なんせ俺と御前は戰友だからな、などと相手をして呉れた。やっと何處かで太鼓の音が聞え消燈になったから蒲團に入った。毛布2枚に藁蒲團だが途端に慣れぬ長旅をした所為で眠ってしまった。

【起床 飯上げ】
朝も太鼓の音で起き出した。厠は地下の長い通路の行止りにあった。面洗所(洗面所の軍隊用語)も隣にあって顔を洗い口を漱いで班に戻ると小さな連中で班内と廊下の掃除をした。大きな年長者はたゞのんびりとして其れを見てゐる丈だ。
週番上等兵がやって来て其の引率で數人と共に隊列を組み朝食を取りに行った。大きな鬱蒼とした2階建第1大隊兵舎の後ろ側にある1號炊事場と云ふ煙突の立った建物に入って行き、窓口で重い食罐を幾つか受取り此れは體の大きなのが持った。自分は麺麭の函を抱えた。班に戻るとシャモジでそれぞれの皿に罐からごった煮をよそい、大きな麺麭を配った。食べ終った食器と罐を洗うのは小さな連中の役目で自分も先刻の面洗所の隣にある流し場でたわしと洗粉を使った。綺麗に洗って戻さないと炊事兵にぶん殴られると脅かされ、ぴかぴかにした。「おまえなかなか慣れてるな」と云われた。孤兒院で毎度やってゐたから上手いのは當前だ。

【教會】
笛手と云ふ職だから砲兵の雑卒だとばかり最初は思ってゐたが同じ雑卒でも實際の身分は宗務部聖歌手と云ふのだった。教會の坊さんの後にくっついてゐる小僧さんである。聯隊喇叭長が先ず連れて行って呉れたのが營内にある教會だった。
御堂の後ろにある事務室に入ると金色のVの字をごてごてと腕に附けた肥えた従者長(特務曹長相當)が奥の机から立上がって来て「おう新入りか、よろしくな」と云ふ。此んな辛氣臭い處で働くのかと憂鬱になった。従者長は書類を捲って自分の名前と年齢、出身などを見てから二重顎をしゃくって「ちょうど輔祭殿がおられるから申告に行かう」と自分を連れて廊下に出た。輔祭長とは大尉相當で聯隊附の三人の輔祭(中少尉相當)と従者(下士相當)及聖歌手(雑卒)を率いる教會のヌシである。
向ひ側の部屋に入ると案外と廣い處に金色の肩章襟章袖章を光らせた無髥の肥った士官がゐて従卒がストーブに石炭を入れるのを見てゐるところだった。「今日は寒いから多めに入れて置いて呉れ」と軍隊らしからぬ柔らかい口調だった。従者長を見ると「やあ」と云ふ。従者長しゃっちょこばって「輔祭長殿、新しい笛手が申告の為参上しました」司祭長は初めて氣が附いたと云ふ風に自分を見やって「よろしい」と頷く。従者長に促されて豫め喇叭長に教えられた通り申告した。「陸軍雑卒○○○○は1911年1月1日を以て砲兵第1聯隊附聖歌手を命ぜられました。茲(こゝ)に謹んで申告致します。」司祭長は目を細めて自分を仔細に眺めてゐたが「うん、よろしい。聖歌手○○○○は1910年1月1日を以て第2中隊笛手兼務を命ずる。中隊では確り軍務に励み教會では確り勉強して呉れ」と云ったきり、机に戻って腰掛け御茶を飲んでゐる。
そそくさと輔祭長室を出て事務室に戻ると、従者長は教會での日課を教えて呉れた。日曜は禮拝日だから聖歌合唱に来る、平日は朝から小學高等科の授業を受けに来る、もし教會附に選ばれたら輔祭長や輔祭の執り行う祭式に助手として出る、と云ふのだったが、自分は輔祭長の御眼鏡に叶ふ程の美童ではなかったから教會附には選ばれない。御陰で輔祭にくっついて祭式の燈明を捧げ持つ小僧さんの役はしなくて濟んだ。

【笛手の教練】
聯隊本部の建物に歸へると大隊喇叭長から長い頑丈な横笛と吹口を與へられた。ピカピカに磨いてあって、これからは自分で磨くのだ。肩から負革で掛けた鞘に入れて持歩く。
自分と前後して入隊した新米の笛手5人が揃ふと教練第一日目が始まった。喇叭長伍長に教へられ初めて笛を吹いてみたがピイピイと雛のような音が出る許りでこゝろもとない。「お孃さんじゃあるまいし、吹く前にもっと息を吸っておくんだ」伍長の指導で何とか大きな音が出る様になった。指で幾つかの穴を塞いだり離したりして音階を出し、簡單な節を吹けるやうになると午后は挙措動作を教えられた。
直立不動、敬禮、歩き方、分隊行進などはすぐに覺えた。そんなに澤山の事をいっときに習得できるのか、けれど他に考える事もないから不思議に出来てしまった。3日もたつと笛でいろいろな號音を奏でる練習が進んだ。5日で全部の號音を覺え、どの場合にどの曲を奏するかを勉強した。鼓手や喇叭手の新米と一緒に合奏する練習もした。幾つかの笛で重奏するのも覺えた。
今迄奏樂とは縁がなかったが、やってみると面白かったので直ぐに上達した。陸軍の號音は限られた數しかないので譜を覺えるのは案外に樂だった。他の笛手が大勢の兵隊の先頭に立って堂々と行進譜を吹鳴らすさまを見學してゐると自分の職に對する誇りが湧いてきた。

【中隊配属】
2週間たつ頃に試驗があって、命令に應じて譜が吹ける事を證明し、それに合格すると第2中隊に配属となった。
中隊事務室に聯隊喇叭長と共に行った。其處は大きな部屋で机が10箇ばかり並んで兵隊が熱心に書き物をしたり算盤を彈いてゐた。窓を背にした大き目の机に座る人事係特務曹長の前に立つと、お前は今日からうちの中隊笛手だと告げられた。髭のはえた無愛想で恐そうな親爺さんだ。今になって考えると老人の部類にはまだ遠いのだが、當時の自分には聯隊の誰も彼も年上だから下士は皆歳寄に見へたのである。特務曹長は腕に階級臂章のV字が幾つも重なってゐて何本あるのか數えても解らないくらいだ。聯隊喇叭長は「では宜しく願います」と云って歸って行った。
自分は此の時から寝起き食事は今の鼓笛内務班でするが仕事はこの第2中隊に通ってする形となった。特務曹長は立上がって来て自分の廻りを歩き上から下まで眺め服装に緩みはないか、鼻水を垂らしていないか、髪の毛は撫付けてあるか、顔付に變な處は無いか目付は規定通り前を真っ直ぐ向いていて、きょろきょろしてないか、下手に笑ったりしないか、などを檢分した。それが終ると自分を従えて廊下に出て斜め向いにある部屋に入った。
窓際の机に髭の将校が座り悠々と煙草を吸ってゐて、あとはストーブと應接の圓テーブルと腰掛があった。よく観ると壁際に書類棚、その隣の帽子掛に外套や軍帽がぶら下がっていた。脇に刀掛もあり軍刀が置いてあった。他には何もない。特務曹長が姿勢を正して「本日、笛手着任致しました。申告させやうと思います」と述べ、自分には「中隊長殿に申告せい」と促した。自分は氣を附けの姿勢を取り室内の敬禮をして豫め教えられた通り申告した。「申告致します。陸軍聖歌手〇〇〇〇は1911年1月15日附を以て砲兵第1聯隊第2中隊附を命ぜられました、謹んで此處に申告致します。」すると将校は立上がって来て自分の前に立ち「中隊長の〇〇大尉である。上官上級者の云ふ事をよく聴き、立派に職務を果せ」と云った。自分は「はい」と元氣よく返答して室内の敬禮をした。

【當番控室】
それから特務曹長と廊下に出て當番控室に連れてゆかれた。自分の仕事は其處に一日中待機してゐて、號音吹奏命令が出たら鞘から笛を抜いて豫鈴を吹く。次に鼓手が加わり本格的に號音を打つから其れに追随吹奏する。鼓手が居なければ一人で號音を吹く。然し營内の中隊で號音を鳴らす事はなかった。聯隊の衛兵所に喇叭手・鼓手・笛手が各中隊から廻り番で出てゐて、それが部隊の號音を専ら鳴らすからだ。
號音はひとつあれば足りる。では中隊の鼓手・笛手は何をしてゐるかと云へば、事務室の向いにある當番室に詰めて御茶を淹れて給仕に出たり掃除をしたり、冬ならストーブをくべたりするのだ。年上の鼓手がゐてやり方を教えてくれた。湯を沸かすストーブと長机があり、暇な時はそこの椅子に腰掛けて勉強してもよいと云われた。
朝出てくると、先ず御茶を淹れるのが自分の役目だ。茶碗を並べて大きな急須から注ぎ分け、盆に載せて事務室に持って行き勤務兵の机にそれぞれ置いて廻る。曹長と特務曹長が出勤してくると、再び熱い茶を入れて持って行く。兵器庫と被服庫の各軍曹と勤務兵にも持って行く。中隊長と其の他の将校が出てくると、そちらは鼓手が茶を隊長室と将校室に持って行く。従卒が居なければ代りに外套を衣桁に掛けたりスト−ブをくべたりする。給料だけで食べてゐる将校は私費で従卒を雇ふ金が無いので實家が裕福でない限り従卒はゐない。その代り砲兵隊だから官費の馬卒が附いてゐる。然し専ら馬の世話をする許りで将校の世話をする役ではないから、轡を取って隊に到着すれば、さっさと乗馬を連れて厩舎に行ってしまふ。其處で馬の毛に櫛を掛けたり、飼葉を與へたり水を呑ませたり馬具を磨いたりするのだ。聯隊本部や贅澤好きの教會に行くと佐官や輔祭長の従卒がゐたが中隊内には有産身分の将校はゐないと見へ従卒と云ふ人種には出征時にしかお目に掛からなかった。出征部隊には准士官以上に官費で従卒が附くのだ。
自分は朝の御茶淹れが濟むと聯隊教會の小學高等科の授業に出て、戻って来れば10時の御茶を淹れ、午后の教練に出て3時に御茶を淹れてストーブをくべ終業時に掃除をした。将校は4時過ぎに歸宅して了ふから准士官・下士・兵卒も締切のある仕事を抱えてない限りはさっさと中隊本部から居なくなって了った。自分は此の隙間に宿題を濟ませたり典範類の暗記をして過す。單調だが慣れれば居心地の良い暮しが出来た。

【入浴】
1號炊事場の横手に浴場があり、週に2回は其處の浴槽で熱い湯に漬けられた。レミニア人はもともと風呂嫌いなので有名だが陸軍はそうではなかった。廣く大きな深い箱形の處に満々と湯が張ってあり濛々と湯氣が湧き立つ、火傷しさうな熱い新しい湯が蛇口から湧き出し、排水口に古い湯が吸込まれて行き、湯垢の浮く隙も無く循環してゐるのだ。湯函は2箇あって地獄の谷間のやうに沸き立ってゐた。
第一の函の中に大勢が詰込まれ首まで湯に漬って肩を並べ口々に喋り合ってゐた。週番上等兵が見張ってゐるから出ようにも出られない。よい加減に茹だった頃合に笛が鳴って皆が洗い場に上がり持参の石鹸で體をこすり頭を洗ふ。蛇口から出る綺麗な湯を桶に汲んでざぶざぶと浴びそれから第二の湯函に漬かる。これは第一の函の時より短かかった。週番上等兵の笛が鳴って洗い場に上がると再び蛇口から出る綺麗な湯をかぶって、脱衣場に戻る。棚に置いた持参の手拭で水氣を拭い服を着て、やっと風呂修業は完了する。
自分は孤児院で大きな浴槽に慣れてゐたから餘り驚かなかったが然し軍隊の湯の熱さには降参だった。此れに比べれば孤児院の湯は冷めた茶みたいなものだ。最初の頃は變な話だが茹だった肌から垢がぼろぼろ取れて困った。脱衣場の鏡を覗くと色が白くなり體が水氣を吸って膨れたやうで氣味が悪かった。然し冬は翌日になってさえ體が暖かく過ごし易かった。妙に爪が綺麗になった。
どの部隊に行っても炊事場の横に必ず浴場が何故あるのかと云えば、煮炊に使ふボイラーの蒸汽が剰るから其れで風呂を沸かすのである。芋も人も同じと思ってゐるやうだ。
處で大きな浴槽の向ふに赤い色の小型の函が置いてあって其れも矢張り浴槽らしかった。後で分かったのだが其れは傳染病に罹った者が専ら使ふ用なのだった。外出して悪所で遊んで病氣を貰って来る事がまゝあったから隔離したのてある。

【野外食事】
まことに奇妙な事に毎週1回だけ晝食を野外で食べた。營庭も野外だから其處に完全軍装の部隊全員が並んで炊事車から野戰食を飯盒によそって貰い立ったまゝ掻き込むのである。聯隊長以下将校も全員が乗車・乗馬のまゝ麺麭を囓る。雨の日も雪の日も此を缺かさない。強い風の時には砂を吐き出し乍ら食べた。豪雨の時は雨衣を着込んで水っぽくなった豆と風呂に漬けたスポンジのやうな麺麭を囓った。聞けば陸軍の全部隊が此を實行してゐるのだった。1852年に編成された歩兵第1聯隊が始めたのだが、1857年編成の砲兵第1聯隊も此れに倣い現在に至るのだそうだ。自分には不可解な行事だったが、週に一度の遠足と思へば樂しい。
野外演習に出ると必ず炊事車も随いて来た。食事時になると列を作った兵隊に炊事手と炊事卒が白い前掛にシャモジを振回して食事を飯盒に入れて呉れるのだ。同じごった煮でも野外で食べると美味しいと思った。たまに給養掛曹長が携帯口糧を配った。石みたいに堅い乾麺麭と得體の知れない太い短い黒い棒を貰ひ、噛み切るのに苦勞した。人の食い物とは思えなかったが戰闘中で炊事車が来ない時は此が食事になるのだそうだ。その後、此の評判の悪い口糧は改良されて牛肉の罐詰に變った。煙草や銀紙に包んだドロップも附くやうになった。然し當時の口糧は兵隊が道傍に捨てるのを鳥が咥えて飛んでゆき、其れを見て軍隊が出動したのが判る位だった。

【聖歌手】
3箇月たって兵營暮しにも慣れて来ると、外出が許された。それに先だって何時も着てゐる古服に加えて、外出用の綺麗な軍服を支給された。わざわざ體の寸法を採って被服庫からぴったり合うのを選んで呉れる。世間様の目に触れるから營内服の襤褸は着て歩けないのだ。おゝ流石に陸軍の少年兵だ。立派な軍服に磨いた靴を履いて綺麗じゃないか。と云われるやうに服装と挙措動作には矢鱈五月蠅かった。外出時には必ず服装點檢があった。外出以外には衛兵勤務、營外演習の時にも此の第二装と云ふ上等の見榮の良い服を着るのだった。第一装は總司令官の閲兵及出征時なのだそうだ。聯隊の大きな被服倉庫に仕舞ってある。自分は本来の職が聖歌手なので襟章は宗務部の黄金色、肩に笛手を表す赤白だんだら模様の房飾が付いてゐた。鼓手は宗務部員ではなく砲兵科の雑卒だから同じだんだら模様の肩飾だが襟章が砲兵科色の緑だった。
笛手を3年やると鼓手になって兵科に編入となるのだ。それまでは宗務部の雜卒が本當の身分で笛手の方は兼務となってゐた。然し笛手が聖歌手を兼ねて宗務部所属になってゐるのは名目上の事であって、實質の人事權は兵科の方にあった。昔の軍隊は粗暴で悪徳が横行してゐたので年少者を荒くれた兵隊から保護する避難所の機能を従軍増に託してゐたのが今も續きてゐるのだろう。宗務部は聯隊附従軍僧である輔祭長(大尉相當)、輔祭(中少尉相當)、従者(下士相當)、聖歌手(雜卒相當)からなって居り、20人ゐた。此の聖歌手と云ふのは文字通り聖歌を合唱する聲變り前の子供なのだが、適任は笛手しかゐないので兼務になってゐた。それで自分も第2中隊笛手兼聯隊本部宗務班聖歌手なのだった。笛丈吹くのなら樂な暮しなのだが、聖歌も覺えて毎週の禮拝日には聯隊の教會で歌はないといけないから、その練習がなかなか大變だった。輔祭に音樂に熱心な人が居ると毎日1時間は練習に呼出され、覺えきれない程澤山の聖歌を綺麗に合唱する稽古をしなければならなかった。聯隊には正規の聯隊長の他に名譽聯隊長と云ふのが居て日頃は顔を出さないが廉ある式典の時には満艦飾の正装で出てきた。聯隊に縁のある領主である事が多い。聯隊に氣前良く指定寄附をして呉れるのだが其の科目のひとつに部隊教會の調度や聖歌隊の御仕着せがあり、自分も名譽聯隊長御指定の聖歌手服を着込まないといけなかった。櫛を入れて撫付けたおかっぱ髪に白い長衣、頸から懸けた大袈裟な金鎖と云ふ奇妙な恰好をして合唱してゐた自分を思い出すと今でも笑い出しさうだ。
聖歌手服は週に一度の禮拝に着るだけだが、月に一度は洗濯に出した。聯隊には附属の洗濯屋がゐて幹部(士官准士官下士官)は軍服を其處で手間賃を拂って洗濯させるのだ。親方がゐて徒弟が9人、日雇の洗濯女は仕事量によって増えたり減ったりした。染み抜きや火熨斗までして呉れる。聖歌手服は名譽聯隊長の寄附の御陰で無料だった。
宗務部では歌の練習の他に教室で小學高等科の授業を受けた。毎朝1時間半くらいで數學、語學、博物、地理歴史などを勉強し15歳で高等科修了資格を貰えた。然し年限を過ぎても卒業試驗に合格できない者もゐて夜や休日の補習を受けないといけなかった。教師は輔祭が兼ねるが、多忙な時には他處から出張して来る文官の嘱託が擔任する事もあった。自分が面白かったのは數學で、情動に乏しい性格に合ってゐたらしく、數式や圖形をいじくって正しい答えが出ると爽快だった。暇な時はたびたび頭の中で問題をでっちあげては、その解答を幾つか考え愉しんでゐゐた。そのため定期の試驗では滿點を取る事がたびたびあった。それに興味を持った或る輔祭が問題を集めた本を呉れたりしたので其れを讀んで遊ぶのが樂しかった。

【衛兵勤務】
衛兵勤務は5週間に1回くらい廻って来た。中佐少佐大尉の中から週番司令が輪番で出てきて、此れが夜の聯隊長となる。その下に週番副官、週番下士、各中隊の週番将校(准士官も含む)、週番上等兵がゐる。衛兵は各中隊が輪番で當る。今週は第○中隊が衛兵勤務だと云ふ具合で成績の良い者が日替りで衛兵に出る。しかし中隊に鼓手と笛手は一人宛しかゐないので、笛手の自分は毎日出ずっぱりとなった。衛兵勤務の2箇分隊を出して衛門と裏門、火藥庫など要所に立哨を置き、正門の衛兵所に衛兵司令の下士、控の兵卒、喇叭手、鼓手、笛手が座って待機するのだ。交代で、立哨、控、休憩(夜間は假眠)と勤務を組んであり、飯も衛兵所の休憩室で交代に食べる。裏側に營倉が附いていて、其處に入ってゐる者の飯も出す。夜間は通常の號音吹奏は省略するので鼓手と笛手は夜の點呼時間が過ぎれば鼓笛内務班に歸った。夜中は大人の兵隊から出る喇叭手が詰めていた。夜中でも不意に聯隊長や将官、更には部隊が營門を通過する事があるから其の時には禮式號音を吹いた。この風紀衛兵の他に國旗の掲揚降下をする勤務があった。國旗掲揚には「國歌」収納には「國の鎮め」を吹奏する。此は別に當番中隊を組んでするのだが、必ず喇叭・軍鼓・笛の儀仗號音を伴った。それで笛手も此の當番の週には連日朝晩出ずっぱりとなった。この衛兵勤務と國旗の服装は外出用の一張羅を着込んで見榮えがした。伸び盛りの年頃なので少なくとも半年に一度は寸法を取直して別の大きい服と靴に變えなければならなかった。
晝間の衛兵勤務で緊張するのは、聯隊長の出退勤時だ。衛門を通過する他の将校には敬禮する丈でよかったが、聯隊長の通過時には全員が衛兵所前に整列して敬禮するなか儀仗號音を奏した。大體の時刻は分っているのだったが矢張り緊張した。それよりいけなかったのが将官の通過時だった。将官の乗馬や将官旗を立てた乗用車を歩哨が見つけると笛手を呼んで豫令を吹かせる。是に應じて衛兵所の兵は全員整列し喇叭と軍鼓と笛の「将官」號音の鳴る中を敬禮する。滅多にないのだが、手順を間違えると聯隊長の責任になるから例えば豫め今日あたり旅團長が来訪すると週番司令や副官から衛兵司令の下士が聞かされる。然し自分が将官の號音を吹奏したのは年に一度あるか無いかくらいだった。
聯隊本部と大隊本部には喇叭長、喇叭手、鼓手、笛手がそれぞれ常駐してゐたが、副官邊りが見榮を張って笛手はなるべく容姿端麗の少年を選んでゐた。自分は専ら中隊附で本部附になった事はなかったが、然し仲間内では本部附になるのは運が悪いと云ふ事になってゐた。偉い人や小五月蠅い曹長連に囲まれて四六時中雑用にこき使われ、さぼって好きな事をする暇が無かったからだ。美しい顔立をしてゐるからと云って頭の中味まで上等とは限らないので飾人形とか本部馬鹿とか綽名を附けられ鼓笛内務班では餘り尊重されなかった。

【外出】
最初の外出は大隊喇叭長の伍長が引率して汽車に乗り首府メトロポリスまで行った。巨大な中央驛から地下鐵に乗り繁華街で御飯を食べ映畫を観た。首府は道路が矢鱈と廣く、馬車、自働車、市電が走ってゐて忙しかった。どうやって横斷するのかと云へば500米おきにある交差點に信號が立ってゐて車馬の通行を止めてくれる間に向ふ側に渡るのだった。そう云ふ規則にしてあって信號に逆ふと巡査に捕まる。兵隊でも民間の規則を破れば警察に捕まった。あとで憲兵に引渡されるのだが、憲兵隊での扱いが恐しいので兵隊も民間に出れば大人しかった。
半年たつと單獨で外出できるやうになり芝居や曲馬團見物に行った。金がないので格安の立見席か天井桟敷だ。自分には寄席が殊の外面白かった。秀逸なオチをつける藝人が人氣で、自分も幾人か贔屓を作って其れが出る處は必ず觀に行くやうに努めた。然し目立つ軍服なので餘りあちらこちら出入りするのは憚られた。赤と白の線が筋になったダンダラ模様の派手な肩飾の御蔭で笛手と分るので大人の店には入れなかった。これは鼓手になっても同じだった。

【酒保】
營内の酒保にも中隊附になると出入りが許されたが、年嵩の兵隊が屯(たむろ)して酒を呑んだりしており年端のゆかない子供が紛れ込むと揶揄われるのが常だった。官給されない品は自分で購入しないといけないから、酒保の賣店には厭でも行かないといけなかったが、酒保が開くとすぐに驅込んで下着や歯磨、手拭、鉛筆、菓子などを買ふと逃げるやうに戻ってきた。笛手の月給は初年度が25銭、2年目から30銭で孤兒院にゐた時の雑役駄賃より20銭ばかり低かったが、食事と衣類が格段によかったので不満はなかった。4年目に鼓手となれば35銭、40銭と昇給し小遣には不足しなかった。

【特務曹長の招待】
月にいちど中隊特務曹長が手下の鼓手笛手を自宅に呼んで御馳走して呉れた。他愛のない自家製の寒天菓子や練り焼で御茶を飲むのだが、隊では恐い親爺さんが軍服を脱いで自分の子供や奥さんに囲まれ寛いでゐるのを見るのが面白かった。うちの特務曹長は髭も生やしているので歳寄に見えたが驚いた事に未だ30歳そこそこで、俸給に相應しく小さな借家に暮してゐた。
狭い玄關、小さな居間、洗面所、風呂、厠、寝室、子供部屋、物置と詰込んであって、臺所兼食堂がいちばん廣い空間だった。長男は小學校をおえれば實業學校に入れて勤め人にするとか、退役すれば奥さんが軍人特許で煙草屋を開いて暮す、自身は恩給で樂隱居だとか云ふから、成程軍隊に居ればかう云ふ人生になるのか、これも悪くはない、なにしろ此れ以上に自分の人生が悪くなる事はもうなさそうだし、と大いに勉強になった。
奥さんは領主の屋敷で女中をしてゐたのだそうで、家の中がきちんと秩序立って整頓されており、クロスを敷いた食卓に出てくる皿や椀も作法に則って並んでゐた。奥さんは自分を見て「可愛い兵隊さん」と云ふ。生まれて初めて可愛いと形容されて妙な氣がした。更に自分の食事の仕方が仲々よろしいと褒めてくれた。孤兒院ではその當りの躾は嚴しかったので、大抵の處に出ても失禮とはならない挙措言葉遣が身についてゐた。此れは器量の良い子が良家の養子に出る事が多かったので、そういう教育方針となってゐたのだらう。奥さんは其の邊りが氣に入った様子だった。一緒に行った鼓手も奥さんに「可愛い兵隊さん」と呼ばれたが、飯の喰い方がうまいとは云われなかったと笑った。

【對抗演習】
年に一度、秋口に演習があった。師團と師團が互いに對抗して模擬戰を繰擴げるのだ。我が砲兵第1聯隊は第1師團隷下で兵營を出發し軍用列車に乗って北上、隣のガイツ縣に布陣するのが常だった。對するは西部のオスタリーチ縣から越境してくる第2師團。主に歩兵部隊の機動戰が展開され、我が砲兵隊は丘陵の背後に陣取って間接砲撃をするのだが、頻々と陣地變換を行うので仲々忙しかった。
兵隊には行軍する先々の村落で民家に宿泊するのが樂しみで、豫め十分な宿泊料が先方に渡ってゐるから上等の料理が出てきた。自分のゐる中隊本部は何時も大きな家に宿泊した。地主か大農場主の屋敷なのだろう。廣間で将校連が主人の饗應を受けてゐる間に下士卒は臺所で氣樂に食べ呑む事が出来た。家の娘や子供も一緒になって唄ったり踊ったりする。行軍そのものは退屈で疲れるばかりだったが、隊列を揃へて軍鼓、笛、喇叭を奏し乍ら村や町に入る時は誇らしい思ひがした。

【鼓手】
14歳の1月に鼓手になった。宗務部聖歌手から砲兵科に轉じ襟章の色が金から緑になった。今度は軍鼓と撥2本、撥を入れる鞘と負革を貰い、その打ち方と號音譜を覺えた。軍鼓の調整方も教わった。笛手の時と變らず當番室に屯(たむろ)して中隊長と将校連の御茶汲み、中隊長室と将校室の掃除、使走りなどをしてゐたが、中隊が列伍を組んで行動する時には必ず随いてゆき號音を打った。聖歌の練習と合唱に出なくてよくなったのは有難かったが笛手の時に比べて忙しい。行事には参加中隊の喇叭手・鼓手・笛手が集合して隊列の先頭、指揮官の後に位置し合奏をした。聯隊勢揃の時は39名の喇叭と鼓笛がそれぞれ二重奏を奏でる。指揮棒を振うのは喇叭長。これで行進するのだから勇壮で路傍の見物衆から喝采を浴びた。笛手と違い鼓手は衛兵勤務時には營庭に出て單獨で號音を打ち鳴らす。衛兵所に詰めて居る1人はその場を離れられないので、聯隊本部(夜間は週番司令室)に詰めて居るも1人が出てくるのだ。東西南北に向いそれぞれ1回宛打つのである。別の部隊が近傍にある時は部隊號音を先に奏する。國旗掲揚、起床、食事、課業始、會報、診察、授業、食事、課業終(國旗降納)、食事、點呼、消燈が平日の號音で、日曜には禮拜が加わり、10の附く日と月末に「給輿」が加わる。容貌で選ばれる笛手と違い鼓手は古参順に本部附となったから、自分も16歳の時に聯隊本部附になった。本部附の鼓手は聯隊喇叭長の傍に待機してゐて其の命令で營庭に出て號音を打鳴らすのだが、其の所為で給仕の仕事はしなくて濟んだ。
鼓手は鼓笛班の古顔の部類になるので今まで笛手だった時は寝臺戰友の鼓手の面倒を見ていたが、今度は新入の笛手が寝臺戰友として此方の面倒を見てくれる事となった。洗濯、繕いもの、被服の整頓、使走りなどだが、教えてやらなくてはならない事も澤山あり、してやらなくてはならない事もあった。よく見てゐて困った事があれば助けてやるのが年上の戰友の役目なのだ。なにしろ小學校尋常科卒業したての新入笛手だから右も左も分からない小僧で服の畳み方から酒保で要り用の日用品の類まで教えてやらないといけなかった。意地の悪い古顔から苛められそうになると仲裁の勞も取った。

【初出征】
やっと鼓手の勤務に慣れてきたかと思ったら、聯隊に出征命令が下り、蟻の巣を突ついたやうな大騒ぎとなった。中隊事務室は給養掛曹長が電話を掛けぱなしで、諸掛の兵が引っ切りなしに出入りし、まごまごしてゐると踏み潰されさうだった。鼓手笛手は聯隊本部の被服庫で出征用の被服を渡された。今まで着た事のない一張羅で帽子も靴も新品同然、随分風采があがった。
出征が決った翌日から應召兵が詰めかけ、中隊は2倍の人數に膨れあがった。鼓手笛手の内務班にも應召の連中がやって来て寢臺が足りないから罐詰の鰯みたいに床に並んで寢る始末だった。砲廠から砲車が澤山引出され兵隊が保存油脂を拭取って營庭に並べる。夜になって消燈になっても兵舎のあちこちの窓に明りが燈り、硝子を割って暴れるのも出た。特務曹長は中隊事務室で助手の上等兵と一緒に出征名簿を作るのに餘念がなく徹夜するのだらう、何か酒保から腹の足しになるものを買ってこいと云ってゐる。
5日程たって準備が整い、2倍の規模になった聯隊は營庭に整列、聯隊長の短い訓示が濟むと聯隊本部を先頭に中隊毎に衛門を潜り留守要員に見送られて征途に就いた。冬の舗装のない田舎道なので後尾は馬匹砲車の立てる砂塵が湧いた。自分は第2中隊だったので餘り埃を被らなくて濟んだが後尾の方はさぞ難儀だっただろう。5箇中隊(4箇中隊缺:第3大隊は重砲、第6中隊は高射砲だったので残留)が長蛇の列となって最寄の鐵道驛まで砲車を軋らせ、馬糞を撒散らし、巾だけば充分に取ってある未舗装の田舎の軍用道を進んで行くのだ。将校と下士は乗馬し、馭卒は6頭立の大きな輓馬に跨がって手綱を操り、前車と彈藥車の座席には砲手が座った。残餘は徒歩だ。
レオニア村の鐵道驛に到着し、幾つもの側線に並んだ貨車に馬と砲を積込んだ。兵隊も客車に乗った。列車は次々と出發し晝にはボロディノ港の埠頭に到着。砲馬を貨物船に積み替え兵隊も行列を作って乗込んだ。起重機が馬を空中にぶらさげ彈藥箱を船倉に収納し大砲や前車が甲板にゆっくりと卸されるのは壮觀だった。船に乗るのは初めてだったが、深い船倉に幾重にも組立てた棚みたいな處に押込められて窓もなく到頭、海原の波頭を見ることはできなかった。夜か晝かの區別は食事が来てわかると云ふ具合だった。
ふた晩目の早朝に東部のナイルロコ港に着き、砲馬を鐵道に積み替え北上した。何も無い荒野が延々と續く景色を車窓から眺め乍ら、停車する途中の驛で配給される辨當を食べ、夜も座ったまゝ眠った。
遠くに背の高い岩山が續く景色に飽きて来た頃、列車は停止し、そこで砲も馬も降ろし、聯隊は行軍の形を整えた。最早、軍鼓も笛も不要で、たゞ喇叭だけで號音を奏する命令が下り、到頭、部隊は戰場に到着したのだと分った。大砲の發射音で太鼓も笛も聞えないから喇叭にするのだが、砲側の兵隊は聯續射撃で耳が聞えなくなってゐて其の喇叭音すら聞へない事があるのだと云ふ。號令を掛ける将校下士は揃って大きな甲高い聲をしてゐた。そうしないと兵隊は命令を聞取れないからだ。
用事の無くなった鼓手たる自分と弟分の笛手は中隊本部の雑用係として働いた。将校准士官には戰時に限り公費で従卒が附くのだが、連中は将校の天幕で靴を磨いたり寢臺を整えたり湯を沸かしたりする丈で中隊本部の用事はしなかったから、此方は自分らが引受けたのだった。天幕を張る、机や椅子を並べる、梱包を解く、鉛筆を削る、洋燈の油を注ぐ、郵便を受取る、掃除をする、水を汲んでくる、茶を淹れて配る、その他ありとあらゆる雑用をした。天幕は秋期演習で何度もやってきたので綺麗に張れた。中隊本部の厠も作った。ちょっと離れた處に縦の細長い溝を掘り上に板を渡しておく丈なのだが野戰衛生規則で決っていて中隊看護手が監督をした。底に鄭重に石灰を撒く。次の野營地に移動する時は更に石灰を撒いて埋めて置かねばならない。各小隊もそれぞれ厠を作り250人が用を足すのだが、聯隊は1300人ゐるから考えてみると軍隊は施肥をし乍ら移動してゐるようなものだ。
中隊は朝晝晩と野戰炊事車から黒麺麭と温かい肉と豆の煮物に熱い珈琲か茶を支給されつゝ道無き道を往き第1日の行軍を終えた。野營準備を整へ兵隊は皆それぞれの天幕にもぐって早々に寝てしまったが夜半に銃聲が起こり騒然となった。敵の斥候隊が我が歩哨線に發見されたのだった。特務曹長は中隊に異常は無いか巡視に出掛け長い間戻ってこなかった。護衛の後備歩兵が警戒に列伍を組んで天幕の間を歩き廻ってゐた。敵は撃退された様子で特務曹長も歸って来ると中隊長に異常なしと報告した。けれど行く先々の小隊や段列で少し宛呑んで来たらしく何となく酒臭かった。本部の下士卒は其の裡また寝て了った。
朝食の時間となって昨夜は隣の中隊で負傷者が出たらしいと云ふ噂が流れ、なにせ敵は剽悍な土民兵だもの用心しなくては、子供なんぞ攫われてアラビアに賣飛ばされるぞと云ふ下士がゐた。笛手の小僧はそうなると西瓜だの棗が毎日食べられるだらうかと答へたので皆笑った。
中隊長は聯隊本部に出掛けた。作戰の打合せだ。戻って来ると小隊長3名と指揮班長を集め細かい指示を出した。その中で面白い事を述べた。現地居留民(土民)は友好部族は勿論、叛亂部族と云へども降伏した場合は正規軍と同じく扱ふべし、其の婦女子に就いても鄭重に扱ふべし、土民の財産は家畜を含め略奪すべからず。若し此に違反したる場合は軍法に照らして背反者を逮捕處分する。なんとなれば終戰後は土民は皆、我々と同じ共和國民となり國法の保護下に置かれるからである。成る程、云われてみれば其れはさうだ。敗戰の土民部落を侵略して略奪暴行をほしいままにする幻想は此處に厳しく否定されてしまい、古参の兵士は戰争の樂しみを奪われ元氣を無くす者もゐた。早朝、中隊は大隊の縦列に組み込まれ出發した。少し行軍を續け正午近く豫定戰場に到着した。

【砲戰】
中隊の砲車が續々と陣地進入を行ひ、馭卒が輓馬を後方に連れて行き、砲手は駐鋤を地面に打込み彈藥車から彈藥を取出して並べ始めた。中隊本部は砲隊鏡を立て電氣信號器を据え大隊本部との間に電線を延伸した。何もない平原の彼方に微かに壁のようなものが連なってゐるのが見えた。それは敵の隊列で緩慢に動いてゐた。それを長い間眺めてゐたが其の裡(うち)に平原の真ん中に敵騎兵隊が前進して来るのを認めた。其の大集團は列を組んで真っ直ぐ此方に向かって驅けてくる。
中隊長は「おい敵さんは、どうやらわしらを目指してやって来るらしいぞ」と傍らの特務曹長に云った。然し横合いから我が騎兵隊が猛烈な速度で出てきた。大凡(おおよそ)1000騎はゐるようだ。派手な突撃喇叭を吹きながら敵騎兵と正面衝突し、彼我混交して白兵戰が繰廣げられるのを砲兵は手を拱いて見物してゐた。ものの30分もすると敵騎兵隊は死傷した兵や馬を残したまゝ退いて行った。
然し敵歩兵の分厚い隊列が前進を始め此方に向かって来た。中隊長が「あれは三千はゐるだらう」と特務曹長に云ふ。到頭大隊からの射撃開始命令が電氣信號器に入り、中隊長が「各小隊、異常ないか」と叫んだ。ずらりと6門並んだ放列の各所から3人の小隊長が「異常なし」と順繰りに怒鳴り返し、中隊長は「駐鋤を強固にせよ」と指示した。途端に各砲車からカンカンと槌を打つ音が起こり、續いて中隊長「第2中隊は前方3000米を我等に向かい前進中の敵歩兵隊を今から砲撃する。方向○○」すると各小隊長が方向を復唱。中隊長「瞬發信管、装藥○號」各小隊長が復唱。中隊長「砲撃目標正發」各小隊長が復唱。中隊長「目標距離3000米」各小隊長復唱。中隊長「目標 敵歩兵隊」各小隊長復唱。中隊長「第1砲車撃て」第1小隊の第1砲車が放った初彈は大きく逸れたが、中隊長は落着き拂って射距離の修正を命令し、第二彈が敵隊列の前方に落ちた。中隊長は再度の射距離修正を命令、第三彈は敵隊列の真ん中で炸裂した。土砂が湧くのが見えた。
中隊長の「よろしい、射距離其の儘、第2中隊各小隊は各箇に聯續射撃 撃て」第2中隊の野砲6門の砲口が火を噴き暫くすると敵歩兵隊列の只中に土煙が幾つもあがり始めた。中隊長は特務曹長に大隊本部に電氣信號器を通じて諸元を報告させた。隣接の1中隊と3中隊でも恐ろしい聯射が始まった。聯隊の諸砲口は敵歩兵の前進に合わせ照準を修正する時だけ暫し沈黙した。空になった彈藥車が後方に待機してゐた別の彈藥車と交代し、それは幾度となく繰替へされた。砲煙が充満して何も見えなくなる時がしばしばあった。
中隊長は砲隊鏡を覗き放しで、指揮班長の特務曹長は信號兵と傳令を從え手に持った帳面に何やら書込んでゐる。自分は器械のやうに動く中隊の放列の直後で指揮を執る中隊長の傍に控えてゐたが、我が彈幕をかい潜って敵歩兵隊は猶も突撃前進を止めなかったから、氣が氣では無かった。驚いた事に敵歩兵の横手に新たな無傷の歩兵隊が湧いてきて我が放列の側面に向かって来るのが見えた。
隣の第3中隊が砲口を其方に向け直し、水平射撃を始めたが、敵歩兵は散開して殺到して来るので阻止できそうになかった。然し東の天空を銀色の飛行船が近づいて来るのを見ると自分は夢中になって嘆聲を發っした。大きな飛行船は大膽に高度を下げて接近して来た。地上に大きな影を印し乍ら飛行船は我が隊を超越して向かふ側に遊弋して行き、敵歩兵の頭上で暫し空中に停止した。間もなく黒い粒のやうなものが船腹から次々に落下して爆煙が湧き上がった。その直下で依然として前進してゐた敵歩兵隊は隊列を亂だし始めた。大凡(おおよそ)半數近くが草原に斃れ伏した儘動かなくなっており、間髪を入れず我が歩兵隊が大挙進出して逆襲を始めた。途端に信號手が電信器に入った砲撃中止命令を受信し、特務曹長が慌てゝ中隊長に傳へた。中隊長は「第2中隊射撃止め」と命令し、長時間を砲側で働いてゐた砲手供は一息吐く事となった。
両隣の各中隊も同様に休止した。離れた處で矢張り砲撃してゐた第2大隊の2箇中隊も俄に沈黙した。聯隊の野砲30門が砲口から白煙を棚引かせながら沈黙する中を平原の彼方から小銃や機關銃の發射音が流れて来た。砲兵聯隊の實戰は此處で終わる。
午後遅く叛亂土民軍は壊滅した。特務曹長の問わず語りに依れば土民軍と云っても我が軍と變らず機關銃や迫撃砲を持って持ってゐて其れ等は隣接の北帝國が邊境土民部族の大酋長に供輿したのである。此の會戰で捕虜となった敵軍司令部には北帝國軍の軍事顧問が混じってゐた。北帝國は邊境の叛亂勢力を密かに援助し以て我がレミニア領土を掠め取る心算らしいと。

【復員】
1430
1級従軍記章・砲戰記章

聯隊は来た道と同じ径路を辿って帰營した。號音は喇叭を止めて軍鼓でする事になり自分は相應に忙しくなった。レオニア村の停車場から兵營迄は全喇叭手、鼓手、笛手24名が鼓笛隊を組んで聯隊喇叭長の指揮のもと凱旋行進の吹奏をした。留守隊の應召兵は殆どが復員して了って鼓笛班も衛兵勤務と本部附や國旗掲揚の10人程が寝臺を使ってゐたが其れも翌日には平服に着替えて娑婆に戻って行った。出征中滞ってゐた給料が支給され序でに全員が緑色の砲戰記章と黄色い二本筋の従軍記章を貰った。どちらも真ん中に年號が入ってゐた。戰場にゐた日數分だけ給料は戰時増俸とて二倍になり大砲を撃ってゐた日は出戰手當とて割増が附いた。さすがの特務曹長も貯金に廻せとは云はなかったから、その金で外出の時に普段は入れないブルア・カナリオ劇場の天井桟敷を觀に行った。
教會で小學高等科の先生だった輔祭が中學校や高等學校の數學問題を集めた本を呉れたので面白半分に回答を讀んで別の解法を渡して置いたら、或る時その人が今度、數學の檢定試驗を受けてみろと奨める。其れに合格すれば小學高等科の數學を教える資格を貰えると云ふので其の氣になった。然し輔祭は他部隊に轉任となり話もそれきりとなって了った。

【現役志願】
當時の陸軍は再編成の時期にあって、我が砲兵第1聯隊も野砲兵第1聯隊と改稱し重砲や高射砲の諸中隊を分離して野砲専門となった。将校下士も進級して他の新設部隊に移る人が多くなった。當時の陸軍は擴張を續けてゐたから幹部が不足しており進級が早かった。16歳になり此の先どうしようかと考えたが何も浮かんでこなかったので兵隊を續やうと思った。職人の徒弟や商店の小僧になるには遅すぎたからだ。そこで現役志願を人事掛特務曹長に申出た。躯體檢査も合格したので17になると砲兵二等卒を命ぜられ同じ中隊の第4内務班に入った。
肩から鼓手の飾りがとれたので身輕になった。自分は他の兵から一目置かれてゐたやうで、先輩の二年兵は餘り無理も云はず、目の敵にされる事もなかった。内務班には初年兵掛と云ふ取締がゐて初年兵の一挙一投足を細かく見ていて誤りを正した。自分の挙措動作は子供の時からの見よう見まねで板についてゐたが、徴兵で娑婆から入營して来た連中はまごつく事頻りであった。初年兵掛は些細な事でも見逃さず怒鳴りつけ怠慢な新兵の顔を容赦なく平手打ちにした。一人の新兵がだらしなければ全員が罰を喰らった。かうした扱いは多分どこの軍隊でも新兵訓練につきものだらう。殺傷兵器を扱うのだ。常に緊張が要求されるのは當り前だ。然し自分は衛兵勤務についたり外出する時に第二装に着替えると左胸に砲戰章と従軍章の1級が並んでゐるから其れを見た記章なしの二年兵連は自分を先輩として遠慮勝ちに扱った。確かに兵營で食べた飯の數は此方が多いのだから軍隊と云ふのは可笑しな處だ。それでわざわざ初年兵掛上等兵の寢臺戰友に指名されたが、「やあ、あんたにやって貰ふのはすまんですなあ、下着の洗濯くらい自分でしますけん」と云ふ。こっちの方が兵營暮しは長いから其の人の氣が附かない處まで世話を焼いて多分不自由はさせなかったと思ふ。そういう特殊な立ち位置だったから連帯責任の時以外は無理を云はれたり毆られた事がなかった。特務曹長の馴染みと云ふので下士連中も妙に友好的たった。
執銃や繰砲の教練は初めてなので仲々苦勞だった。然し短剣術は鼓手の頃から多少の心得があったので中隊有數の使い手とて褒賞を貰った。他には徒歩傳令術と云ふのも成績がよかった。苦手なのは装填や彈藥運搬で砲車の人力搬送などは生き地獄みたいなものだった。即ち砲兵の癖に膂力が足りなかったのである。照準術や信管調整、信號術は巧かったから戰時命課は觀測要員になるかと思ったが、第6砲手と云ふ彈藥運びだった。
然し最も難儀なのが馬の扱いだった。乗馬はそうでもなかったが砲を曳く輓馬は大きく力が強いので噛みつかれたり抱きつかれたりするとたゞの怪我では濟まない。蹴られたら本當に此方の骨が折れてしまふ。

【下士志願 砲兵學校】
初年兵を終ったが上等兵にはならなかった。自分より優れた初年兵が大勢ゐたからだ。然し特務曹長は下士不足の折柄、行き場所の無い自分に下士志願を奨めた。
そこで二年目から隣のツーシン村にある砲兵學校野戰砲兵射撃術練習所下士候補生隊に分遣となった。野砲の砲車長として射撃の練習をした。正確な射撃には方向、距離、装藥量はもとより風向まで計算に入れないと上手く當たらない。刻々と變はる状況のもと短い時間の間に諸元を組立てる必要があり、然も暗算で當座の答を出すのだから仲々手強い仕事だった。然しなお手強(てごわ)いのが行軍演習で、戰場でいきなり此のやうな事態になっても慌てない訓練なのだらうが、命令一下、泥地砂地や坂道で砲車を人力曳行するに至っては全く閉口した。射撃術は優れてゐるが膂力に劣ると云ふ評価を得て成績序列は中位、やっと修業を終って原隊に復巋し伍長となった。

【伍長時代】
もとの中隊の第2班附となり下士室で暮らした。班附と云ふのは班長を補佐する役で、班長が2班の初年兵15人を訓練する時には必ず傍にゐて手助けをする。班長がゐない時は代理をする。教練助手の上等兵が模範動作をしてみせ、班長が初年兵に動作をさせる、班附は隊列に亂れが無いか動作の遅れる者がないか、隊伍脇にゐて見てゐるのだ。隊伍から脱落する者が出れば其の面倒を見る。砲兵だから砲彈の扱いには慎重を要した。最初は鈍(のろ)くても良いから確實な動作を心掛けさせ、段々迅速に動くやうにしてゆく。誤った照準は事故の元であるから殊更に丁重正確な操作を身に着けさせ必ず動作完了後の點檢を怠らない。全員を全ての役割に順繰りにつけて習熟させ、其の中で適性を見つけ誰は一番砲手、誰は彈藥手、誰は馭者と云ふ具合に戰時命課を決める。
班長は鼓手時代から顔見知りの軍曹で、内務班の半分程ある部屋に寝臺と机を並べ共用の長机もあった。給料は2圓25銭、翌年2圓6060銭。砲兵の教育は時間が掛かるもので、歩兵の教練をひと通り終えてからやっと砲の操作に取掛かる。間違えると暴發する虞があるので教える方も眞剣だ。お陰で朝から晩まで營庭や演習場で緊張して歸ってくると餘分な事はする氣力が湧かず夕飯を食ひ風呂に漬り點呼が濟めば消燈時間を待って寝てしまふ。此う云ふ暮らしが續いた。
食事は班の當番が下士室に持ってきて呉れた。當番は氣を利かせた心算で皿の盛りを増やしてくる。幾度云ってもそうしてくる。初年兵と違って古兵や下士はそんなに腹は減らないが自分は子供の時からの癖で全部食べてしまふ。食卓を共にする班長の軍曹は食べ残す。食事が来ると、お前これ喰ふか、と箸をつける前に豫め食ひ切れない分を自分の皿に取分けて呉れたりした。酒保の二階に下士集會所があり兵卒とは顔を合わせず酒を呑んだり寛いだり出来た。營内居住の曹長や中隊に所属しない軍醫部、宗務部、獸醫部などの本部附下士には三度の兵食が此處で出た。晝時になると營外居住の曹長や准士官がやって来て持参の辨當を食べてゐた。食事傳票を切れば營外居住でも兵食が支給されるが後で月給からその分を天引きされる。自前の安価な辨當の方が家計節約になるので敢えて兵食を摂るのは勤務の都合が出来た時に限られてゐた。特務曹長連は本来は将校集會所で食事する筈なのだが、上級のお歴々と供に會食するのが面倒なので専ら此方に来た。さすがに准尉になると下士集には顔を出しずらいが、たまに誰かの進級祝などあればやって来て祝杯の音頭を取ったりした。
風呂は大隊炊事場の浴場に下士用の浴槽が別にあって夕方から消燈まで何時でも入れた。冬は毎晩そこで暖まってから寝た。
同室の軍曹は何時も金が無いと云ふのが口癖で給料が入れば外出時に遊郭に寄って散財して了ふ。隊内での貸し借りは禁止だったから、どうやって遣繰りしてゐたものか。然し軍曹は何とかやってゐたから、何か絡繰りがあったのだらう。誰かが金を貸してやらねばあゝ派手に遊べる筈がなかった。軍曹の月給は3圓の四等給から始まって1年毎に1圓宛昇級し6圓の一等給まである。遊郭の線香代は一本(線香が一本燃尽きる間)で25銭。毎週の外出で月1圓。然し女好きの軍曹は線香の2本や3本は居續けた筈だから節約しても月3圓は掛かってゐたと思はれる。此の他に酒を呑んだりすれば更に出費は嵩む。心根の優しい良く氣の附く人だったが到頭そのうち軍隊を辞めてしまった。軍曹はあちこちに借金をして惚れた女郎を請出し仲良く裏長屋で暮らしてゐると聞いた。或る時、自分は馴染みの寄席から歸へる途中、路傍の占い師に先行きの運を見て貰った事があった。驚いた事にその占い師は軍曹本人で、御前は此の儘軍隊に残って居れば悪くはならない、と占って呉れた。

【軍曹時代】
伍長を2年やって軍曹に進級した。月給3圓、第2内務班長。毎年入隊して来る新兵が1年でちゃんと野砲を撃てるやうに訓練するのが役目なのだが、優秀な者が出れば自分の成績があがり曹長になる待ち時間も短くなる、へまな者が出れば其の逆となる。事故になれば班長の将来は見込みが無くなる。なので班の兵隊を丹念に觀察するのも仕事となった。相棒の班附伍長の意見も聴かないといけない。人事掛の特務曹長から兵隊に就いて聞かれると所見を述べて新兵の序列と戰時命課を決める参考になるやうにしなければならないのだ。いつも人事掛は内務班長の新兵評定を其の儘採用した。營庭で教練を進めてゐると年月があっと云ふ間に過ぎて行った。
軍隊で此のまゝ暮らす心算に最早なってゐたので考えも無しに軍曹を1等給の6圓になる迄3年間勤めた。最後の1年は班長ではなく軍曹の中で再先任の兵器掛だったが砲兵隊は輓馬を捨て自働車牽引に轉換を決めたから忙しかった。馬は輜重隊や獵騎兵隊に移管され厩舎は車庫に改築となった。自働車や牽引車の運轉教練が始まり自分も出張してきた輜重兵に操作を教わった。實は馬の扱いは苦手だったので器械化となり安堵した。自働車は馬のやうに大量の糞尿を垂れたり噛みついたり蹴飛ばしたりしない。

【曹長時代】
やっと器械化も落着き今度は給養掛の曹長に進級した。3等給の8圓で個室で暮し食事は下士集會所に行く事となった。中隊事務室の特務曹長の横で机に囓り附き兵隊の給料を計算し10日毎に支給する、被服や陣營具の更新、果ては營舎の修繕まで手配した。自分は計算が得意だったので間違ひはなかったが、事務の些末なのには辟易した。部下の事務兵は食事傳票をよく起し間違えた。給料袋の封筒に貨幣を入れ間違える事もあった。助手の上等兵と二人で點檢するのだが、たまに帳尻が合はず、多く渡しすぎた時は誰に渡したのか分からず決して戻って来なかったので自分の財布から補填しないといけなかった。被服掛の軍曹が員數外の靴を隠し持ってゐる事は知ってゐたが、いつも下士には程度の良い被服を提供して呉れるので多少の違反を暴くのは憚られた。
曹長を2年も勤めて27歳になってゐたから特務曹長が「そろそろ結婚しろ」と云い自宅に呼ばれると娘が一人ゐて、内のかみさんの知合いだ、小學校高等科を出ているし器量も人並み、地主の家で女中修業をしてゐる、作法も家事も太鼓判だ、どうだ嫁さんに貰へと云ふ。そうですか、とすんなり貰い、中隊長に婚姻願と營外居住願を出した。軍隊では幹部の結婚は許可制だった。
聯隊の近所にある雑貨屋の二階に間借りして二人で暮らし始めた。所属部隊官衙に30分以内で到着出来る距離に居を構えなくてはいけない規則なので、家に居ても聯隊の軍鼓が聴こへた。營外居住の手當7圓が加算され月給は一等給で17圓と勤功褒賞金月28銭4厘、此れで2人所帯を切盛りすると殆ど残らず、身分相應の貧乏所帯だった。毎朝、女房がつくる朝飯を食べ聯隊の營門で敬禮を受け中隊事務室の机に齧り付く、下士集で女房の辨當を喰い、4時を過ぎれば早々に家に戻って来て晩飯を喰ひ長い夜をのんびり過ごすと云ふ暮らしは悪くはなかった。數學の問題集を買ってきては解いてゆく愉しみも復活した。寝床に轉がって鉛筆を動かしてゐるのを見て女房は仕事かと思ってゐたらしい。
ところで女房は下らない三文小説が大の愉しみで、自分が聯隊に出てゐる間は借りてきたり古本を買ったりして讀み耽ってゐるらしい。戸棚に積んである冊子の何處が面白いのだらうと覗いて見たが美男美女の出てくる荒唐無稽な都合の良い話ばかりで、自分の寄席好きと同じやうなものかと納得した。女房は實家の小作小屋に行くと途端に田舎言葉に戻って了ふのだが自分と居る時はきちんとした標準語を喋った。地主屋敷に女中奉公してゐた時に習い覺へたと思はれる。然しどうも小説に出てくる科白の影響もあるのではないか、と考へると奇妙な氣分になった。女房も自分と同じで高等小學しか出てゐないから語彙が乏しく、よく此はどういう意味かと讀んでゐる頁を持って来て訊く事があった。それで誕生日祝に大きな辞書を買って来た。随分と氣に入ったらしく其れ以来辞書を片手に小説を読むやうになり、此方も煩はしさから開放された。

【特務曹長時代 出征】
28歳で特務曹長に進級し第3中隊人事掛を命せられた。早い進級のやうだが當時は軍備擴張時代であったので幹部が人手不足で自分のやうな若造でも進級できたのであった。准士官になったから今迄の官給被服と曹長刀は返納し、貰った支度金で軍服を仕立て指揮刀と拳銃及双眼鏡を整へなければならなかった。将校倶樂部の割引で揃へたが多少持ち出しとなり、暫く數學の問題集や女房の小説本に不自由した。おまけに子供が出来た。3月に女子が生まれて狭い貸間で鰯の罐詰みたいに折重なって暮らした。
到頭夏になって先輩准尉の紹介で見つけた借家に引越した。女房は家にある本を纏めて古本屋に賣り拂い其の金で讀んでゐない小説を買い込んで来た。三等給の18圓に馬飼料3圓では餘り樂とは云へない。實際には馬は居らず聯隊の側車を馬卒が運轉して毎朝迎えに来るのだった。うちの馬卒は大人しい男だったが轉把を握る途端に豹變し速度狂となった。冬は寒く田舎道を猛速運轉に乗って歸宅すると外套が凍り附いて板のやうになった。
女房が庭に薯や菜っ葉を植へ始めた。辨當には見滎を張って肉を挟んだ麺麭などを持たせて呉れるが朝晩は庭で採れた馬鈴薯のスープと云ふ始末だった。翌年に二等給の19圓になったが貧乏に大して違いはない。中隊事務室の人事掛助手や鼓手、笛手を月に一度は家に呼んで酒を飲ませたり菓子を喰はせたりする昔からの慣習なのだが、焼酎や手製の寒天しか出せない。
人事掛の仕事は下士卒の人事ばかりではなく、下士卒の最先任者として中隊運營全般も見ないといけなかった。殊に中隊長が古手であれば中隊運營にも飽きてしまい、書類に判を押す丈で殆ど特務曹長に任せ放しになる。そして3中隊はもうすぐ少佐に進級すると云ふ古参隊長だったから、新米特務曹長の自分が天手古舞をする羽目になった。數學の問題を解く愉しみも暫く沙汰止みで、食後他愛も無く轉がって子供と遊んでいる亭主の傍で、たゞ女房の通俗小説趣味丈が昂進したのであった。
1月に新兵が入營して来ると名簿を片手に其の受領から始める。豫め振分けてある内務班毎に連れて行き營内服に着替へさせ、着て来た娑婆の私服を實家に送り返す。此れは班長以下、古兵がうち揃って世話を焼いた。軍醫の躯體檢査があって不具合ある者は即日歸郷となったから其の申渡しと關係書類の訂正をしなければならない。新兵教育が始った頃合を見て身上調査をする。特務曹長室に一人宛呼んで差向かいで家族や生立ち學歴職業、特技などを聴取り、人物の鑑定もする。70人もゐるから最初は此んなに大勢の事をいちいち覺えきれるかと思ったが、不思議に名前と顔を記憶してしまい、中隊の下士卒150名全員の動向が手に取るやうに判ってしまふ。其れでなければ人事掛は勤まらないのだが、新兵が3箇月の教育を經て1期の檢閲を濟ませ特業を決める時には既に誰それは看護、誰は炊事、此れは上等兵候補、等と頭の中で決ってゐた。新兵も外出が出来るやうになると歸營刻限に遅れたり、呑んだくれて暴れたり、脱柵したり、懲罰にかけないと更正しないのも出てくる。あまり非行が重なると懲治隊に送って仕舞ふのだが、其れは中隊長や初年兵教育掛の成績が下がるので成る可く隊内處分で穏便に濟ませるやうになってゐた。營倉に放り込むか外出止めにするか等を決めるのも人事掛の仕事だった。

【總動員令】
毎年恒例11月の師團對抗演習が近づいて来たから準備萬端整えてゐると、急に将校集合の軍鼓が鳴り響き、聯隊本部から戻ってきた中隊長が「おい總動員が来た」と云ふ。事務室に居合わせた連中は暫く呆氣に取られてゐたが、何をどうして良いか判らなかったので、すぐに途中で止めた仕事を再び始めた。中隊長室に中隊附諸官が集って出征準備の編成打合せをする時に初めて事情が判った。隣の北帝國軍が我が國境を越えて侵入して来たので國軍は斷固此れを迎撃するとの由。北帝國は豫(かね)てから大レミニア主義を唱へ、レミニア人は悉くひとつの國家に集結すべしとて、我がレミニア共和國と合同し聯邦をつくろうと頻りに誘って来てゐたのだが、なかなか我國が首を縦に振らなかったのだ。然も我國の政府はどんどん軍備を強化する一方で、其れが北帝國の皇帝には餘程氣に喰はなかったらしく俄に變な雰囲氣となって到頭今度の侵攻となって了った。中尉が「困りましたナー」と慨嘆する。中隊長は「北帝國は面倒臭い奴らだ」と煙草を吹かす。少尉は出戰して勲章を貰ふ絶好の機會と意氣込む。自分は此れからやって来る煩雑な事務仕事を豫想し、どうせ泊り込みになるから着替を持ってくるやう女房に知らせないといけないと、ぼんやり考えてゐた。
中隊事務室の使役兵に公用外出させて家に聯絡をした。動員室から召集兵の名簿が来る。留守隊に残る教育要員と出征部隊に組込む下士・古年次兵の役割(戰時命課)は日頃から決めてあって、誰それは留守隊の中隊第1内務班長、誰それは出征部隊の中隊第1小隊第1分隊1番砲手と云ふやうに命課表が出来てゐる。その空欄になってゐる處に應召の豫備役兵を嵌めてゆく。平時の中隊は戰時編成の半分しか兵隊がゐない。足りない分を召集するのだが、聯隊區司令部が充員召集令状を發し、豫備役の4年分を聯隊に集める。翌日になると召集令状を手にした應召兵が續々と聯隊に詰めかけた。自分は營庭で名簿を手にして兵隊を受領した。中隊に来る豫備役兵は全員が數日で集った。中隊の人員は俄に2倍に膨れあがり、其れに留守隊要員が加わった。何處に其奴等を寝かすかと云へば兵舎にはとても収容しきれないから村の小學校や公民館、教會、宿屋に分宿させる。朝夕の點呼も食事も其處でやらせるのだ。
動員計劃に從い、やって来た應召兵の若い方から3年分を出征部隊に入れ、残りの1年分を留守部隊の教育要員に充てる。将校下士は日頃から戰時編成を満たす數丈を揃えてゐたが、第3小隊長と彈藥小隊長は召集者を充てる豫定になってゐた。そこで1年志願を終えて少尉補となってゐる豫備役2名が應召して出頭して来た。将校人事は聯隊副官の役目だから自分は關係しないが、誰それが其方の中隊附になると聯隊本部から聯絡が来るので中隊編成表に嵌め込む。
出征部隊の将校准士官には官費で従卒がつく。平時は従卒の給輿は私費で出すから、餘裕のある佐官以外は節約して誰も雇はない。然し誰それを従卒にすると平時から聯隊區司令部に届けてあって2週間の教育召集で軍装の付け方や兵器の手入れ敬禮などは曲りなりに出来た。従卒は徴兵檢査で甲種合格になっても入營は免れる。戰時になると其れが志願の形で入隊して来る。衣食住給料は官費で出るが其れに加へ駄賃みたいな金を将校准士官から渡す事になってゐて、幾らかは此方で決めるが娑婆で貰ってゐた給金相當が相場だった。将校准士官も出征すると俸給が倍になるから其れ位は出せた。自分も女房の親戚が地主屋敷の奉公人をしてゐるのを届出してあった。顔も見た事がなかったが、實際にやって来た奴は二十歳にもならない若造で、何が出来ると訊くと、目玉焼なら出来ますと云ふ。他には靴磨と寢臺整頓に洗濯なのだそうだ。兵隊に取られて戰死でもするといけないからと女房が親戚の伯母さんに頼まれたと云ふ。その伯母さんの末の息子だから、さう無碍(むげ)にも出来ず、特務曹長室で将校行李の番をさせて置いた。戰鬪になれば従卒は列外で行李と共に後方に下がっているからさう危險は無い。
かう云ふ按配で中隊の人員が補充され自分は人事掛助手の上等兵と一緒にせっせと出戰名簿を作り始めた。名簿の人名索引は學校出の兵隊を使役に呼んで作らせた。此れが1晝夜で終った時には既に營庭に砲車と車輌が並んでゐた。動員室に名簿を届けに行く時に通りかかると野砲の保存油で汚れた布を手にした古参の兵器掛軍曹が「愈々ですなー」と間延びした聲で云ふ。兵隊は被服倉庫から受領した出征用の第1装に着替えて装具を整えた。今迄の營内服と第2装は返納する。應召してきた留守要員に其れをまた支給して着せるのである。
中隊事務室では應召の後備役曹長が給養掛曹長と事務引繼をしてゐる。自分も留守隊の中隊人事掛になった豫備役特務曹長と書類の引繼をした。娑婆では實業學校の兵式體操教諭をしてゐると云ふ40代で頭の綺麗に禿げた人で「御苦勞様ですなー」と云った。何だか近い将来の自分を見る氣がして面白かった。其の人が現役を退く時に師團司令部副官部に呼ばれて煙草屋開業の免許をやらうか、それとも民兵隊の特務曹長になるか、倉庫の守衞もあると云はれたが、他には無いのかと訊いたら、學校の兵式體操の先生は給料は安いが體裁は好いと云ふ。それで縣立實業學校の教諭になって毎日生徒を追廻してゐるのだそうだ。

【出征】
翌朝、出征部隊は營庭に引込んである鐵道線路をぎっしり埋めた貨物列車に大砲と車輌を積込んだ。それが出發した後、聯隊は整列して聯隊長の短い訓示を聞き軈て到着した客車に乗込んだ。ボロジノ港で輸送船に兵器を積込む作業をした後、聯隊は乗船し、大陸南岸を東部ナイルロコ港に向った。15年前の鼓手だった時分に此の道筋は通ったのだが其の時は船艙に詰込まれたから海が少しも見えなかった。今度は甲板上の大きな士官室で他の将校と雑居したから存分に海景色を樂しめた。考えてみれば人並に船旅をした事が此の歳になる迄なかったのだ。自分は子供のやうにデッキに齧り付いて夕暮の海の流れを見てゐたが翌朝再び甲板で朝陽の水平線に昇るのを眺めた。深南部は緑豊かな美しい沿岸が左手に見へ一度ゆっくり遊覧の旅で上陸してみたいと思った。東部に入ると沿岸は砂色に變はり餘り樹が見へず妙にだゝ廣い景色が續いた。

【退却戰】
ナイルロコ港で兵器を卸し鐵道に乗って北上した。一晩たって前線に到着。何も無い荒原で地平線が遙かに見えた。彼方から騒音が頻りに響いて来たが前線がどうなってゐるのか一向に判らなかった。中隊は陣地進入すると一刻の猶豫なく放列を敷く。信號線が通じると早速大隊本部から命令が来た。中隊は彈幕射撃を始め、左右の他中隊もつるべ撃ちをする。自分は中隊指揮班長だから戰鬪詳報を書く時に備えて要點を記録する。敵影は見へないが、刻々射撃諸元が變る。半日そうやってゐたが、前方から我が歩兵が此方に向けて駈けて来始めた。其れが大勢で、側面を騎兵隊が猛速度で右往左往した。電話で大隊命令を聞いてゐた中隊長は俄に「おう撤収するぞ」と云ふ。「砲撃止め」を始めとする一聯の命令は即座に實行され、大隊は後退に移った。近くに味方の飛行機が墜落したのを茫然と眺めてゐた彈藥小隊長が「何だ陣地轉換か」と云ふ。此の少尉補は娑婆で百貨店の時計賣場主任をしてゐたが、部下の軍曹に「小隊長殿、早く指揮車に」と注意され「おし」と意味不明の應當をし乍ら手近の側車に飛込んだ。既に傍をぞろぞろと歩兵が大勢歩いてゐた。どうやら第1線を放棄して逃げて来るらしい。其の裡、敵彈が周囲に落下し始めた。3小隊の2番砲車が空中に舞上がったと思ふと轟音と共に地面に仰向けとなって轉がった。砲車に乗ってゐた砲手が5人ほど投出され一人は五體四散し跡形も無くなり、他の兵も腕がもげたり脚の飛んだ無惨な姿となって道路に横たはった。他隊にも同様の損害が出た様子だ。段列から擔架を呼び傷者を収容したがバラバラになった者は形其のものが無くなってしまったから認識票さへ拾へずに其のまゝ放棄せざるを得なかった。
我が聯隊は夕方になっても未だ車輌を停めず小休止もせず街道を只管(ひたすら)南に辿って行った。食事は給養掛曹長と其の助手が小行李から携帯口糧の詰った箱を幾つも取出して配った。糧秣廠御用達の食品會社が製造したと云ふ得體の知れない黒い棒で其れを囓った。酷く不味く昂奮と疲勞で食欲も湧かず歯型のついた其の變梃な棒は隊列の行く道に沿って點々と落ちてゐて、何か残飯でも無いかと随いて来る野鳥さへ敢て咥へて持って行かうとはしなかった。翌日晝前に東部ソバージャ縣最南端のベルベル村に至り敵の追撃も緩んだので大休止となった。點呼をすると戰死4、重傷6、輕傷2、行方不明14(うち2は後に復歸、うち6は停戰後になって捕虜となってゐたと判明、残りは遂に屍體さへ見つけられず現在に至ってゐる)。砲車の亡失2。炊事車からまともな食事が配給され今夜は此處で野營かと思ってゐたら、騎兵部隊が、と云ふより其の残存部隊がやって来たから、砲兵聯隊は更に運河を渡り後方に移動した。大隊長が廻って来て「此處で放列を敷いて射撃をやるかも知れん、その心算で居れ」と云ふ。中隊長は何となく嬉しさうになった。かう負けいくさ同然では勲章が貰へないと思ってゐたらしい。その時、平原の向ふ側から爆音が聞へ段々此方に近づいて来た。空に浮んだ銀色の粒が俄に大きくなり迫って来る。其れは敵の飛行船で我が騎兵部隊の縦列上に爆彈を落しに来たのだ。ところが敵船は俄に轉舵した。我が驅逐飛行隊が迎撃せんと殺到して行ったのだ。大きな船體は見る間に縮んで遠くに逃走して行った。其れを我が飛行隊が全速で追撃し同じやうに黒い點々となって空中に溶け込んでしまふ。それを仰ぎ見てゐた兵隊供が一齊に腕を振上げ喊声を擧げる。かうして其の日は暮れた。

【東部戰線】
東部戰線は膠着して年が明ける迄は會戰が無かった。空中戰鬪は盛んで兩軍の飛行隊は聯日の如く激突を繰返してゐた。死傷乃至行方不明で減った人員の補充を大隊副官に申請しておくと、間もなく兵站監部の補充兵教育隊から兵隊がやって来た。暫くの間は名簿の訂正で忙しかった。次いで中隊の戰鬪詳報を書いた。戰鬪中に記録した諸元と時刻を基に短いのを書いて中隊長に提出した。負軍(まけいくさ)では意氣があがらない。大尉は「うんさうか、宜しい。御苦勞」と云った丈だ。功績簿も作ったが滞りなく陣地進入をなし間接射撃を實行した以外に何も書く事が無かった。後退で苦勞したのは功績には入らない。第1小隊長の中尉が新しく編成された砲兵情報隊附に轉出したので、段列長の准尉が中尉に進級し後を繼いだ。自分は心太(ところてん)式に准尉に進級し中隊段列長の後任を命ぜられた。此れで面倒な人事掛の仕事から解放された。
中隊段列には彈藥と器材、携帯口糧、衛生材料等を積む自働貨車を集めた小行李、食事を作る炊事車、砲車・牽引車其の他武器の修繕をし豫備部品を携行する兵器班、擔架を持った衛生班があった。彈藥の補充と砲身等の部品交換は3日もあれば終ったが、糧食だけは毎日途切れる事なく續けないといけなかった。炊事手が大隊から来る給水車で茶を沸し珈琲を煮こみ250箇の水筒を満たした。兵站倉庫から届く材料を刻んで炊事車の大釜でごった煮をつくり、兵隊供は三度三度を長い行列を作って飯盒におかずをよそって貰ひ黒麺麭を受取った。此れが復員迄毎日朝晝晩ずっと續いた。
聯隊の近くに飛行部隊の發着場があって、其處に聯絡に行った時、鼓手時代の後輩と出會った。自分と同様に現役志願して砲兵になり、其れから更に飛行部隊に轉科した奴で、驚いた事には胸に武功章を附けてゐた。毎日空を飛んで敵の飛行機と機關銃を撃合ってゐる裡に撃墜數が増えて了い勲章を貰って少尉に任官したのだそうだ。戰争が終ったらゆっくり會はうと約束して別れたが其の後戰死して了った。敵の飛行機や飛行船が此方に飛んで来ないのは我が飛行隊が追拂ってゐるからだった。見上げる遙か彼方の空は聯日の空中戰鬪が繰廣げられ墜落する飛行機を見ない日が無かった。
内地の留守隊から2年兵になりたての現役兵が中隊に60人やって来た。豫備となって3年目の古い應召兵60人は内地の留守隊に初年兵教育要員として歸還して行った。志願にあらざる下士は召集解除にならないので出征部隊に残留となり不満顔で見送った。
内地からの郵便が来た。部隊が前線に出てゐたので配達する暇が無かったとて、何通も女房からの手紙を重なって受取る。内地の人が部隊名を宛先に書いて最寄の郵便局に出して置くと留守軍の軍事郵便局經由で戰地にある野戰郵便局に届く。それを中隊から取りにゆく。自分の手紙も野戰郵便局に出しておくと無料で内地に届く。筆無精だから「無事にゐる 安心せい 子供は元氣か 俸給はちゃんと届いてゐるか 戰地加俸諸手當は此方の小遣に貰って置く」と短いのばかりを書いた。檢閲は宗務部でするから餘り馬鹿な事を認めると従軍輔祭から訂正要請が来る。兵隊が軍機を漏すやうな事を書くと其の旨、人事掛に通知が来る。すると其の兵隊は要注意人物となって監視の對象となる。自分は面倒な事は嫌いだから文章は簡潔に濟ませ、野戰給養部の酒保で賣ってゐる繪葉書は子供も見るだろうと思ひ週に1度は出すやうにした。
衛戍地のレオニア村にある小學校から慰問の手紙と氷砂糖が来た。此れは終戰まで半年毎に届いた。縣の實業學校、中學校、高等女學校からも慰問袋が来たが、此方はドロップだのチョコレイトなど高級菓子や歯磨粉、歯刷子、手拭、石鹸と行った日用品で多少高級、婦人會からは襟巻、煙草などの防寒衣類と嗜好品が来た。運賃無料だから部隊名を宛先にして町村役場の兵事掛に持込めば留守軍兵站基地を經由して戰地に届く。自分も割當の袋を貰ったが、何處かの有閑夫人かららしく、香水の瓶と髭剃クリームが入っており、「戰地の御勤め御苦勞さまです、御國の為に頑張ってくださいませ」と高級紙に認めた手紙が添へてあった。出征以来、髭は伸し放題、歳も30になったし准士官だから髭を立てゝもよいだろうと思ひ、わざと剃らない。其れで従卒に髭剃クリームをやり、馬卒には香水をやったが、食い物ではなかったので連中も餘り喜ばなかった。
給養部は今のやうに慰安部門を持たなかったので、現地の遊廓は大繁盛だった。内地からも一旗組がやって来て即席の店を開いた。軍醫部が花柳病の防止に躍起となり、外出時に兵隊は無料で衛生具を貰った。と云ふより其れを持たないと外出の許可が出なかった。ところで給養部は入浴施設を用意してゐた。レミニア人は入浴嫌いが多いので餘り自ら湯に浸かろうと云ふ兵隊は少なかったが不思議に町まで遊びに行く時は前もって入浴した。

【北帝國軍の大攻勢】
我が東部軍はベルベル村に沿った運河に防御線を敷いて北帝國軍と對峙してゐた。敵軍は緒戰で蒙った損害を補充してゐるらしく仲々前進して来ない。我がレミニア軍も能く戰ったのだった。敵軍は廣い荒野を急激に前進して来たので補給線が長く延び糧秣彈藥の集積に手間取ってゐるらしい。おまけに敵の占領地域に残った我が遊撃部隊や非正規部隊が頻りに鐵道と道路の通行を妨害してゐた。線路が外してあったり橋が落ちてゐたり、悪くすると行李や手薄な守備隊が襲はれた。北帝國軍の後方守備隊は植民地の土民兵を充てゝゐたので軍紀緩慢で、占領地の住民の中で亂暴狼藉の被害に遭はない者はなかった。為に復讐目的で遊撃部隊に志願する者が大勢ゐた。殊に森林山嶽部の非正規獵兵隊は有名で彼等の手から逃れやうと投降して来る北帝國兵も珍しくはなかった程だ。
3月にやっと前進準備の整った北帝國軍は攻勢を始めた。我が聯隊は前線で阻止砲撃を行った。數日は持ち堪へたが、到頭第一線の歩兵塹壕線が突破され、敵彈が砲兵陣地にも落下するやうになった。此の時は大分やられた。人が空中に高く放り投げられて再び地上に落下するのを見るのは日常茶飯事だった。どこにも疵はついておらずたゞ死んでゐる。また運悪く榴彈の破裂をまともに受け襤褸肉のやうになってしまふ兵も大勢ゐた。榴彈が破裂すると破片が幾つもの不細工な肉切庖丁の形になって飛び散る。それが幾つも胴體にめり込んでしまふともう生きては居られないのだ。我が中隊の損害は砲車の亡失3、戰死5、負傷25、行方不明65(うち3535は後に捕虜となりたるを確認)、逃亡6を數へた。陣地で頑張ってゐる裡に損害が隊員の4割に迫った。部隊が半身不随の状態となったから聯隊は已む無く後退した。
我が東部方面軍はソバジランド縣を放棄し南のアルジェント縣に逃れ、其の北部山嶽地帯に陣地を構築した。北帝國軍も追撃の餘裕が無いらしくベルベル村と運河を占領したまゝ動かなくなった。
中隊は38%の人員を喪い、1月に内地帰還したばかりの豫備役兵60名を呼返さなくてはならなかった。4月中は防御陣地構築に専念した。

【停戰】
中隊長の豫想に依れば5月になって再び北帝國軍は攻勢を開始してアルジェント縣に進入するだろう、東部全域は占領され、我が軍は隣接する深南部で防衛戰を展開するだらうと云ふ。然し何時迄待っても北帝國軍の進撃は開始されない。そのうち變な知らせが届いた。北帝國の西隣にあるミグルシア王國がノルダ市(北帝國の首都)を奇襲爆撃し、強力な毒瓦斯爆彈によって帝國政府中樞、軍總司令部が壊滅したらしい、首都では生きてゐる人間は最早ゐないやうだ、と。ミグルシアの侵攻と同時に北隣のゴルゴニア國も越境して北帝國領土を囓り取らうとしてゐると知ると、聯隊の将校集會所に集った士官連は大きな疑念に覆はれた。今やってゐる戰争はどうなるのだろう。北帝國は四方を敵に囲まれた形になった。レミニアとの戰争を始めた張本人の北帝國皇帝は行方不明ださうだ。彼の右腕たる北帝國軍参謀本部は全滅したから、戰争を指揮する者が居なくなって、ミグルシア王國軍が北帝國を一擧に占領するのだらうか。
そのうち師團司令部から歸って来た聯隊長が将校を集め、停戰となったと云ふ。北帝國はレミニア共和國と戰争してゐる場合ではなくなったやうだ。自國本土を防衛する為に北帝國軍はミグルシアとゴルゴニア國境に兵力を集中せざるを得ず、主力は既に陣を拂い其方に移動した、我々の前面はもぬけの殻だ。おそるおそる斥候隊が前進するも敵の前線陣地は誰もおらず、一夜のうちに引揚げてしまった模様だ。敵であった北帝國軍は今や友軍であると聯隊長は説明する。我が軍は此れより北帝國北部に侵入したゴルゴニア軍の殲滅に向ふ、と云ふのだ。
狐に抓まれたやうな氣分で聯隊は翌日から運河を越へソヴァジランド縣のベルベル村陣地に入り、更に平原を北上、國境地帯に辿り着いた。
6月になると師團命令が出て我が聯隊は國境を越へ北帝國に入った。鐵道列車で2日を費やしゴルゴニア軍の侵入地域に進出した。帝國の北邊で矢張何も無い處だった。岩と樹が所々にあって柵を巡らせた白い石造の小屋が數軒其の蔭に固まってゐた。前線では北帝國軍がゴルゴニア軍を攻撃中で、我々は後方に放列を敷き援護射撃を行った。昨日の敵は今日の友とはよく云ったものだ。もともと同一言語の同一人種なので話も通じる。兵隊は互いに忽ち仲良くなり煙草や酒を交換し、将校は午餐の席を同じくした。北帝國とレミニア共和國は此の機會を逃さず合併してレミニア聯合共和國となった。軍も合併したが、装備も編成も服制もそれぞれ以前のものを其のまゝ使用した。自分は6月1日附でレミニア聯合共和國陸軍野砲兵第1聯隊附となったが、以前と變るところは何も無かった。肩章も隊旗も軍歌も變はらない。北帝國の皇帝は股肱の臣をミグルシアの毒ガス攻撃で一挙に喪った。豫てから皇帝に反對する勢力だった西部の地主貴族團が政變を起し残存してゐた皇帝派を悉く逮捕して息の根を停めて了った。拠所のなくなった皇帝は國外に亡命し、それに取って代った新政權はレミニアと和平を結んだ。ミグルシアとゴルゴニアの侵入を驅逐する為にレミニア軍が是非とも必要だったので、國體を合併する大膽な提案を行い、レミニア側は此れを呑んだのであった。首都ノルディアは壊滅状態なので、新首都はレミニアのメトロポリスに置き、政府機構も北帝國中央の役人が悉く毒瓦斯で亡くなった為、レミニア政府が國政の面倒を見る事となった。まことに奇妙な状況で北帝國のレミニア侵攻は頓挫終結するに至った。此れではレミニアが北帝國を實質的に併呑したのと同じなのだが、レミニアも下手に北帝國の民心を損ふのを避けたのだらうとは将校集會所の連中の感想だった。

【火星人襲来】
陣地での或る夜、天空に數條の光が走ったと見るや忽ち消滅したが、流星が落ちたのだらうと思った。然し其れは火星からやって来たのだ。レミニアでは東部のマリボルドリエンタ市、深南部ジルベリア縣の山奥、外地のベツルシア州の3箇處に流星が飛来した。其の隕石の様な物から繰出した奇怪な三脚機動兵器が人畜を掠い家屋を焼拂った。出動した軍を光線砲で一蹴し都會に向い進撃を始めた。北帝國にも飛来し西部ホーク縣の農村地帯、北部ノブパペルニア市、外地では漢口租界、南洋諸島に拠點を据えたらしい。地球の各地に火星人が降下した為に世界中は騒然となった。ミグルシアとゴルゴニアにも飛来した為、我々は人間同士の戰争をしてゐる場合ではなくなった。
火星人の弱點は高速度で飛行する航空機らしく、さしもの三脚兵器も投下爆彈が頭部に命中すると倒壊した。戰車砲が命中して爆發を起したのもゐた。マリボルドリエンタ港では海軍の戰艦が3器の火星三脚兵器を相手に奮戰、先頭器に主砲を命中させ、次の三脚器を體當りで倒し、残った1器を退却させた。聯隊の将校集會所では54門の野砲が集中射撃すれば脆弱な三脚兵器などは轉倒して了ふのではないか、然し實際に對戰した砲兵部隊は光線砲の照射によって全滅してゐるではないか、遠距離間接射撃をすれば光線は届かないだらう、などと議論が飛交った。出動は何時だろうか、と誰もが思ったが、ゴルゴニア軍の前線を目の前にして部隊が餘所に動ける筈も無かった。相手のゴルゴニアも同様で、數箇處に火星人が飛来し其の防戰に追われてているらしく、眼前の戰線は静まりかえったまゝだった。
2週間許りたった頃に、俄に火星人は全滅してしまった。三脚兵器が悉く停止したので決死の斥候が近づいて見た處、中の火星人は病死してゐた。地球の黴菌に感染し抵抗力がなかったので敢無く戰病死したらしい。そしてゴルゴニア戰線には再び人間同士の砲火が飛交ふ事となった。

【ゴルゴニア戰線】
ゴルゴニア軍は前世紀の装備のまゝで舊式だったから我々の敵ではなかった。大陸の廣大な北端部を占める大きな國だが氣候が嚴しく礦山と牧場しか無い。辛うじて南部の麥作地帯で食糧を自給してゐた。それ故ゴルゴニアは昔から南進意欲が強く、ミグルシア王國が北帝國を奇襲したと聞くや我も帝國の豊かな北部地方を我が物にせんと直ぐに南下の軍勢を興したのだ。兵數は大きいが練度は低く、文盲の野蠻な奴らだ。圖體が大きすぎて總身に知恵が廻らない。まさか我がレミニア軍が北帝國と仲直りして逆襲にやって来るとは思はなかったらしい。
聯隊の属する東部方面軍はゴルゴニア軍を難なく驅逐し國境外に押戻した。更に勢いにまかせゴルゴニア側に越境、ゴルゴニア領南部に占領地域を形成し其處に駐屯してしまった。我々の新しい聯合共和國政府は占領を止めて歸って来いと命じたが陸軍参謀本部は是はゴルゴニア再起を豫防する為に行ふ占領だからと主張し、到頭1931年末になる迄其のまゝ居座って大人しくしなければ進軍して全土を占領するぞとゴルゴニアを威嚇し續けた。よい迷惑なのは我々兵隊だ。1年半の間、其のゴルゴニア領内の陣地に居續けて無為に過さなければならなかった。何もない平たい處で、山も川もなく、もう9月からいきなり冬になって寒風が吹き續ける。10月から雪が降ってくる。11月からは洗面器の水が凍った。春になるのは5月を待たなければならなかった。
自分の率いる中隊段列は駐屯間には餘り用事が無い。炊事手とその手下供は炊事車を曳いて大隊の炊事場に出ていったきり其處で暮してゐた。飯は大隊段列が配った。野砲は射撃しなくなると故障もしないから、兵器分隊は暇潰しに賭場を開いて賑はってゐた。テラ銭を取って全員が小金持ちになったが、外出日に後方に繰出しては悉く散財してしまった。小行李は更に仕事が無く、定期に蹴球競技會を催した。誰でも見物に來れたが、誰でも券を買ってチームの勝敗を賭ける仕組が附いてゐたから仲々賑わった。賭券は胴元の小行李長の軍曹が帳場を仕切り、彈藥車長の上等兵が賭金の出納、豫備品車長の上等兵が審判長、娑婆で本物の博徒の子分だったと云ふ砲兵輸卒の馭者が用心棒、となって巧妙な運營ぶりだった。
聯隊長は兵隊が現地住民の集落に行くのを禁止し、「いづれ此の地も我が領土に編入されるやも知れず、住民も我が國民になるやも知れないから、乱暴狼藉はもとより占領下の土民と見下す態度すら取ってはいかん。違背する者は厳罰に處す。罪状重き者は野戰憲兵に引渡すも何等躊躇せぬ。さう心得よ」と命じた。兵隊の行く處は後方の兵站地にある給養部となり、軍は必要に迫られて其處に慰安場を開いた。掘立小屋の劇場兼映畫館、居酒屋の先に内地から應募して来た女郎屋が幾軒も並んだ區畫が出現し、兵隊が長蛇の列を作った。将校准士官用の高級料理屋兼待合もあって繁盛した。内地でくすぶってゐるより戰地に来れば花代も倍になるとて女郎の志願者は競争で、従って器量も氣っ風も好いのが出稼ぎに殺到した。兵隊は戰時増俸で給料が倍になってゐるから大尽氣分で吝(けち)な真似はしないし、自分がよく遊びに行った女の話では雇主への前借金はすっかり返濟してなお大枚の儲けを貯めつゝあり、戰争が終ったら獨立して店を持ってゆっくり暮すのだと云ふ。なるほど其れで此の區畫の隣に銀行出張所のある理由が分った。
1月に留守隊から訓練を終えた2年兵がやって来た。最初中隊の 3/4を占めた豫備役兵は留守隊から毎年やってくる現役兵と逐次交代して、 1930年には 2/4、となってゐたこれで 1928年1月入營の豫備役兵(1929年11月出征當時現役2年兵、1930年1月現役滿期豫備役編入即日再召集)が 1/4、1929年1月入營の豫備役兵(1930年1月出征部隊編入、1931年1月現役滿期豫備役編入即日再召集)が 1/4、1930年1月入營の現役2年兵(1931年1月出征部隊編入)が 1/4、1928年11月應召出征部隊編入の豫備役兵が 1/4 となった。餘った豫備役兵は内地の留守隊に歸還し、初年兵教育に従事してゐた古い豫備役兵と交代し、其の古い豫備役兵は晴れて召集解除となって故郷に歸った。然し應召中に「志願ニアラザル下士」となった者は幹部が足りないので隊に残って軍務を續けた。1930年の冬を越して1931年の春となり、相變はらず暢氣に遊んでゐると急に夏となった。ゴルゴニアの何も無い平原にも花が満開となり蝶が舞った。

【檢疫所】
8月に待望の復員命令が下った。聯隊は2年10箇月ぶりに戰場を離れ凱旋の途に就いた。自分は鼓手時代に砲戰記章・従軍記章の1級を貰ってゐたが、今度の戰争で新たに1級砲戰記章2・1級從軍記章2・ゴルゴニア駐箚記章を貰い、合計7箇の略綬を左胸に着けた。武功章が無いが地味な裏方の准士官には此れ位がお似合いであった。聯隊は真っ直ぐレオニア村の兵營に歸るのかと思ったが、途中で東部方面軍檢疫所に足留めを喰ひ、一日を過さなければならなかった。ゴルゴニアで悪い疫病に罹って居ないかを調べるのださうだ。國境に監獄みたいな高い壁で厳重に囲った中に消毒場があって、被服・所持品を蒸汽で滅菌し、兵隊本人も消毒湯槽の中を歩いたり暑い湯に長い間浸かったりした。所持品と被服を燻蒸して滅菌する間、大きな部屋で茶を飲み寝轉び乍ら雑談したり骨牌をしたりして過した。洗濯の手間が省けたが暫くは隊列は藥臭かった。

【砲兵學校】
1490 30■■Gg
14年事變1級従軍記章、砲戰記章、東部戰線1級従軍記章、ゴルゴニア戰線1級従軍記章、ゴルゴニア駐箚記章

應召兵は復員して居なくなり、豫後備将校准士官も召集解除で娑婆に戻った。再び平時の平和な兵營生活が始った。4中隊附を命ぜられ2年兵の教育掛をしたが計劃表を作り時たま演習場で野砲を撃ったりする位で、将校室に座って茶を飲んだり數學の問題を解いたりする時間の方が多かった。家も女房の小説本が増えて来たので手製の本棚を作ったり、相變はらず貧乏なので庭の畑を擴げたりした。
1年たって33歳の1月に砲兵學校に分遣となった。本當は准尉に任官した時に行かないといけなかったのだが出征中だったから今になって遅まき乍ら發令され、乙種學生となった。将校教育とて1年間の課程だった。學校はツーシン村にあるのだが、聯隊駐屯地の隣だから電車に乗って自宅から通った。戰争が起きなければ特務曹長のまゝ40歳で定年になる筈だったが、従軍中に人手が足りず准尉になって了ったので其の現役定限年齢45歳まで現役で軍隊に残る豫定となった。是も成行きかと思った。
もともと數學の問題を解くのが趣味だったから射撃諸元の計算などは得意な方で勉強は苦勞なしだった。同僚學生は全國から分遣になって来るから方言がまちまちで面白かった。舊北帝國軍の連中も混じってゐて今は聯合共和國軍の砲兵だから此の間の戰争の内幕を話してお互いの理解を深めた。ミグルシア軍の奇襲侵攻があった頃には北帝國軍の兵隊の間に厭戰氣分が擴がってゐて、突撃命令に従はない部隊も出たさうだ。其處に首府毒瓦斯奇襲が来て皇帝は逃げだし、やれやれと安堵する空氣が流れたと云ふ。
子供が出来た。今度は男兒で段々目鼻立ちが出来てくると母親似であった。娘の方は5歳になってゐたが此方は自分に似てゐた。

【将校任官】
翌年34歳になってゐた自分は砲兵學校の課程を修了し原隊に戻った。娘が村の小學校にあがった。将校連中は子供を中流子弟向きの上品な私立準備學校に入れるが、自分にはそんな金がないし庶民だから無理をする必要も無い。序でのやうにまた男兒が生れた。こちらは誰とも似ておらず女房の親戚にも似た人はいない。自分の親類に似てゐるのかも知れないが天涯孤獨の孤兒には其れが誰であるかは見當もつかない。
2度目の年功章を貰い袖の線が2線となった。最初に貰ったのが軍曹になって2年目の時だった。12年勤めると1線増えるから此れで24年も軍隊に居るのかと妙な氣分になった。2線の准尉は珍しいのだが子供の時から兵營暮しをしてゐたと云ふ識別にもなる。
36歳になって中尉に進級した。戰争で戰死したり新編部隊に轉属した将校が多くあったので自分の将校任官は戰時の例外だったと思ふ。平時では餘り見られない。然し俸給は月にして24圓で准尉の時と同じだった。寧ろ子供が増えてゐたので諸事節約せざるを得なかった。翌年1等級の25圓となったが其れが中尉の天井で3年間其のまゝだった。
40歳になって大尉に進級し3等級の34圓となったからひと息ついた。御蔭で女房の通俗小説本が徐々に増えていった。5中隊長を命ぜられたが事務は特務曹長任せで、たとへ事故が起きやうと此れ以上出世する心算もない下士上がりの特進将校だから氣樂にしてゐた。長女が小學校高等科を卒業する間際に擔任の訓導がやって来て縣の女子師範學校の試驗を受けるやう薦めた。算數がよく出来るから合格するだらうと云ふ。寄宿舎で學費無料だから反對する理由もない。本人も嬉しさうだ。いちど學校参觀に出掛けた。招待状が来て寮の暮しぶりなどを見せると云ふのだが對抗演習の迫ってゐる繁忙期だったので私服に着替へる暇がなく止せばよいのに聯隊から軍装のまゝ出掛けて了った。側車を乗附けると教頭が出てきて案内して呉れた。自分より官位が上の筈だが軍刀を提げて胸に何段も記章を並べた髭男を見ると妙に恐縮した態で却って此方の居心地が悪かった。先生が師範學校出だとすると官費負擔の志願豫備少尉補だろうから軍隊時代を思い出してゐたのかも知れない。手短に終へて校庭に待たせておいた側車に戻ろうとすると何やら生徒が澤山ゐて馬卒と賑やかに話をしてゐる。娘が「お父さん早いお歸りね」と云ふ。「演習が始るのでちと忙しくてな」と自分。生徒達に「不出来な娘でありますが皆さんどうか仲良くしてやってくだされ」と云い馬卒の敬禮を受けて側車に乗り師範をあとにした。親馬鹿を繪に描いたやうだった。

【西比利亜戰争】
此のまゝ大尉の現役定限年齢48歳まで穩當に勤め上げ、軍人生活を終りにしやうと思ってゐたところ、41歳の7月に動員令が降った。行先は西比利亜で相手は蘇聨邦だ。6月に獨逸軍が蘇聨領土に進撃を始めたのは知ってゐた。舊北帝國は1918年以来、西比利亜東部の白露政權(西比利亜共和國)を援助し駐箚軍を置いてゐたが、北帝國と合併して其れを引繼いだレミニア聯合共和國は事態を靜觀するのか、それとも獨軍と呼應して蘇聨邦を挟撃するのか、将校集會所でも話題に上ってゐた。そのうち政府は此の好機を逃さず到頭出兵して共産主義を根絶せんと決心したのだった。白露軍丈では弱體だからレミニアは2箇軍を西比利亜に置いてゐたが、いざ戰争となれば内地より3箇軍を出兵する手筈となってゐた。我が聯隊は第1軍第1師團隷下で日頃から演練の通りボロジノ港から乗船し一路遙か西比利亜に向い出征の途に就いた。
既に2度の出征を經驗してゐるから餘り感想は無かったが、輸送船は大西洋を南下しマザラン岬を廻って太平洋に出た。當時のパナマ運河は歐州戰争の為に獨逸と關わりのある國の通行は禁止となってゐたからだ。赤道祭を2度行ふ長い航海の末に極東の浦塩港に到着した。幸運に恵まれ中隊に事故は無かった。西比利亜鐵道にて赤塔(チタ)の兵站主地に入ったのは9月になってからだった。既に大氣は冷たく聯隊がザバイカル湖を迂回し進軍するにつれて中隊の給養掛曹長が兵に豫(かね)て用意の防寒服を支給した。蘇聨赤軍は型どおりの抵抗を示したが我が猛攻に後退を續けた。スターリンの粛正によって革命を支えて来た赤軍の練達幹部は其の殆どが監獄に入っており、實戰部隊の作戰は如何にも教科書通りで硬直し臨機應變融通無碍の片鱗さへなかった。然(しか)も部隊には政治将校が附属しており指揮官は其の同意が無ければ命令が出せないのだった。
我が聯隊は町や村を砲撃し移動しを繰返した。連日そればかしやってゐると體も頭も器械のやうに動く。赤軍の捕虜は後方に連行するのだが白露軍が其れを受取って政治将校は悉く殺ししまふ。道には政治将校の襟章を着けた射殺屍體が點々と散らばってゐた。白露軍は町や村を占領すれば共産黨員と其の協力分子を探し出しては即決で處刑して仕舞ふ。逆に赤軍が占領した處では白露軍に協力した者を問答無用で殺す。かうしてあらゆる處に民間人の凍った屍體が轉がってゐた。トムスク、オムスクと進軍し年末にはエカテリエンブルクに入城した。ウラル山脈は兎に角寒い。晝も夜も氣温は零下10度で道路は雪に埋れ碌に通行が出来ない。獨軍が西からモスクヴァに迫ってゐたから其處から疎開してきた赤軍の軍需施設が集中してゐた。暫く冬籠りした後、翌年の7月にはカザンを占領。赤軍の兵器工場が集っており此處を占領された赤軍は急速に威力を減じた。

【武功の由来1】
聯隊の属する第1軍は西比利亜の原野を西に進んで行くが、とるに足りない町に赤軍が籠って抵抗する事があった。そんなものは放って置けばよいと思ふのだが、其處から出撃して我が兵站線路を脅かすから掃討しないと思はぬ大怪我をする。そこで第1軍では取りこぼした赤軍があちこちに點在するのを追出すことにした。
大隊長から呼ばれて本部に行くと我が中隊は討伐支隊の一部となるべしとの命令を受けた。支隊長は歩兵3聯隊長だったが、作戰會議に出ると2人の歩兵大隊長の他に龍騎兵中隊長がゐた。歩兵の残る1箇大隊は餘處に出てゐるから歩兵聯隊は1大隊缺だ。赤軍はZ町にあって歩兵の集團らしい。先ず我が砲兵中隊が町を砲撃し、歩兵聯隊が主力となって町を占領する。逃出す赤軍を龍騎兵が快速で追撃する。と云ふ作戰となり、自分は中隊本部に戻って来て特務曹長に行軍準備を命じた。第1小隊長は下士あがりの古参中尉で律儀な男だが其れが趣味なのか何時も頓狂な議論を吹きかけては同僚連を困らせてゐた。第2小隊長は士官學校出の少尉で頭が良く彈道計算などは良く出来たが只それだけで面白くも何ともない若者だった。第3小隊長は應召の少尉補で地方では貯蓄信託銀行に勤めてゐたと云ふ。真面目一方だが餘り機轉の利かない鈍感な處があった。段列長の准尉は寒い處で長い不便な暮しをしないといけないのが不満らしく、其れを隠しもせず誰にでも非常に無愛想だったが其れを除けば普通の有能な准士官で必要な事は段取りよくこなした。自分も同じ道順で進級して来たから其奴が何を考えてゐるかは良く分った。
6門の野砲と6臺の彈藥車及行李を曳いて中隊は凍った道をぞろぞろと進んで行った。護衛の龍騎兵分隊が2臺の中戰車で前後を固めてゐた。先を行く歩兵聯隊から傳令の氣動自轉車がやって来て支隊命令を受取った。Z町から數粁ばかり離れた荒地が指定陣地だったから其處に進入し放列を敷いたのが正午前、炊事車が飯を配り終へた頃に急造電信線が開通した。支隊本部から電話で攻撃命令を受領し中隊は射撃を開始した。Z町の前面に進出してきた赤軍は我が歩兵部隊を壓迫しつゝあった。其れを目がけて撃つのだが敵兵が見へる譯ではない。軍の砲兵情報隊が配布する地圖の座標に照準を合わせて間接射撃をする。座標の指定は最前線の歩兵隊から刻々入電する。かうして30分許り器械仕掛の如く働いたが、敵は俄に後退して行くらしく支隊本部より砲撃中止命令が来た。我が歩兵大隊が敵を追撃せんとZ町に向け前進を始めたのだ。味方の頭上に砲彈を降らせてはいけない。
中隊は俄に暇になって炊事車が熱い茶を隊員の水筒に配った。離れた低い丘に觀測掛を出してゐたのだが、其處から電信が入り新手の赤軍歩兵が大勢丘の向ふ側を通過してゐると報告した。支隊本部に問い合せてみたが電話が通じない。赤軍斥候が通信電線を切断したやうだ。觀測掛の軍曹に數を聞いてみると二千はゐると云ふ。此れはいかん、さっき後退した敵は囮だった。態(わざ)と逃げて行き、我が歩兵部隊の追撃を誘ひ、充分に主力を引寄せた後、餘所に隠してあった潤澤な豫備隊を別働せしめ手薄な我が側面を突く心算なのだ。我が歩兵聯隊と龍騎兵中隊の主力は後退する囮の敵を追って側面をがら空にしたまゝZ町城門に迫ってゐる事だらう。戰線中央に残った兵力は聯隊本部兼支隊本部と軍旗護衛中隊及輜重の300餘しかおらず、赤軍の有力な別働隊二千がこゝに襲い掛かればひと堪りもなかった。Z町の方向で先頭に立った龍騎兵中隊が車載重機關銃を亂射しつゝ進撃路を啓開する音が風に乗って聴へて来た。敵主力が後方に廻り込んだのを知らない迂闊な突撃隊は真っ直ぐに進んで行く。
其れを只傍觀する謂(いわ)れは毛頭ない。丘の向側を通過しつゝある敵歩兵の大群を阻止すべく古参中尉の指揮する第1小隊を丘に派遣した。2門の砲車は猛速度で丘に駈け上がり陣地進入を行ったが驚くべき事に自分が發砲命令を下す前に直ぐさま獨斷射撃を始めた。敵を眼下に見下ろしつゝの直接水平射撃だった。信管は零距離。 「中隊長殿、うじゃうじゃおります。約2箇歩兵大隊。先頭は停止中。敵の損害多數の模様。」 という電話が發射音と共に中尉から入り此方も 「なんでもよいから撃ちまくれ」と大凡(おおよそ)砲兵将校とは思へない返答を發する。其れだけ事態は急迫してゐたのだ。
直ぐさま手許に残った2箇小隊4門の野砲に砲撃を命じた。敵の姿は見へないから丘上の觀測掛から送ってくる座標を頼りの間接射撃である。我が中隊は砲彈を發射し其れを器械の如く精確に終り無く繰返した。ふと思った。此の赤軍の指揮官は奇跡的に粛正を逃れた練達の古強者に違ひない。然し其の巧妙な迂回戰術は我が砲兵中隊が喰ひ止めるのだ。砲聲は休む間もなく續き空になった彈藥車が段列に下がり交代の彈藥車が疾驅して来る。砲兵陣地に遭遇した事を悟った敵は果敢にも一氣に此方を踏み潰さうと殺到して来た。其れを丘上の第1小隊の2門が眞正面から阻止し、荒地は敵兵の血と四散した肉で黒く覆はれた。我が中隊護衛の龍騎兵分隊長が前方に進出し度いと云ってきたので許可した。2臺の中戰車が丘の向ふ側に出て行き、車載重機關銃の發射音が間断なく聴こえ始めた。敵の第一波突撃隊は後退し、後續の第二波は我が砲兵中隊の野砲6門が間断無く送り込む砲彈に阻止され前進を諦めた様子だ。30分ばかり猛射すると敵は穴だらけの平原に夥しい遺棄屍體を残して後退して行った。
支隊主力の我が歩兵2箇大隊は不意の激しい砲聲を聞きつけ慌てゝZ町への進撃を中斷し戻って来た。支隊長は砲兵中隊の獨斷射撃に何も云はなかった。敵の大部隊はZ町を遺棄して他處(よそ)に移った。結局支隊は誰もゐない空っぽの町を占領したのだが、有力な敵部隊を取り逃し攻撃は空振りに終った。それどころか危うく支隊は敵指揮官の巧妙な戰術によって側面と後方を突かれ混亂潰走したかも知れないのだった。此れが武功章を貰った由縁である。押寄せる歩兵の大軍を零距離射撃で撃退した第1小隊長の中尉と逸早く敵の迂回部隊を發見し的確な座標を次々と指定した觀測掛軍曹及敵中に進出し追撃戰を展開した龍騎兵分隊長の伍長は、ひとつ上位の殊勳章を貰った。中隊そのものも師團長から感状を得た。中隊長の自分も小隊長の准尉も下士あがりで出世の先が見えてゐるから獨斷専行するに躊躇は無い。いちいち支隊本部に伺いを出してゐる暢氣な状況ではなかった事もある。機に應じた獨斷專行を咎めるやうな軍隊に未練は無い。幸いにも我が陸軍は此の點に於いては仲々融通が利いたのである。

【武功の由来2】
莫斯科攻略戰では西側に位置する獨逸軍と東側のレミニア軍が時に混交する事があった。獨軍の小部隊が苦戰してゐるやうだから援護に行って呉れと聯隊から命令を下され我が中隊は南部の前線に向った。緊急の事とて護衛はない。普通は騎兵か歩兵を同伴するのだが、今度は砲兵隊だけが列をなして行軍するから指揮班の特務曹長が心配顔を巡らせ駄々廣い平原を眺める事頻りであった。「何をきょろきょろしてるんだ」と訊くと、「成る可く早く敵影を見つけ自衛戰を始める為であります」と答へた。何の遮蔽物もない平地を見つけられずに遣って来やうとすれば快速の輕戰車か地面に穴を掘って隠れてゐる遊撃兵くらいだらう。「来たら零距離射撃で撃退する。まあ大丈夫だ」と宥めるのだが、その時の中隊で一番心配だったのは實は此の自分であった。然し中隊長が心配顔をしては隊員が安心しない。それで冗談を云ったりし乍ら進んだ。特務曹長も其れに附合って半分笑ったやうな中途半端の顔をしてゐた。前線に到着後の護衛は獨逸軍歩兵なのだが、其方は攻寄せてくる露軍の對應に忙しく我が砲兵中隊にかまってゐる暇も餘力も無いだらうと分ってゐた。
遠くに莫斯科の城壁が小さく見へる小高い處に陣地進入をなし放列を敷いた。遙か前方に獨逸軍の塹壕が數線あって赤軍の攻撃を受けてゐた。觀測手に無線電氣信號器を持たせ獨逸軍の前線に派遣した。有線電話を敷いてゐる暇がなかったのだ。我が觀測手は塹壕で獨逸軍から座標の指定を受けるのだが獨逸語だから分らない。我が中隊に大隊命令で一緒に附いて来た輔祭が獨逸語に堪能なので、觀測手と共に出て行き、獨逸語を通譯して呉れたので真面(まとも)に諸元を定める事が出来た。大いに助かった。彼かゐないと何も出来なかった。坊さんも伊達に従軍してゐる譯ではない。
敵は歩兵で最早戰車などの類は持っておらず大勢で遮二無二銃劍突撃をして来る。其の數は1箇大隊はあろうかと思はれた。獨軍が必死に機關銃を撃ち擲弾筒を發射し小銃狙撃をするにも拘らず遮二無二前進して来る。我が中隊が阻止砲撃を始めるが敵は怯まない。多大の損害を出してゐるにも拘らず怯む様子を見せない。赤軍もなけなしの兵力を振絞って突撃をして来る。第一波が壊滅すれば空(す)かさず第二波を繰出す。もう負けるのが判ってゐるから降伏してもよささうなものだが、構はず喊声を擧げて突っ込んで来るのだった。まるで狂人を兵隊にしたやうな異様な氣配だった。蘇聨邦の敗戰は見へてゐるのに鬼のやうに士氣旺盛だ。其れが不思議だった。到頭獨軍の第一線が破られ、蜘蛛の子を散らすやうに獨逸兵が第二線に逃げて来るのが望見できた。
赤軍は占拠した第一線塹壕にうじゃうじゃと溜って次の突撃を準備してゐる様子だ。背後から豫備の増援歩兵が更に一箇大隊やって来て塹壕に加はった。車輪の附いた蘇軍獨特の重機關を引っ張って来る隊もある。第二線に立籠った獨逸軍歩兵も慌てふためいて迎撃の用意を整へてゐる。其處から電話で座標を指定して来たので我が中隊は再び射撃を開始した。6門が續けざまに撃つ阻止彈幕を張ったのだが流石に塹壕を飛出して突撃して来た敵歩兵は此れに阻まれ先頭が前進を躊躇すると全隊が次々と後退を始めた。觀測掛軍曹が 「隊長殿ちょっと見て下さい」と云ふので砲隊鏡を覗くと敵歩兵は途中まで後退すると俄に踏み留(とど)まり踵を返して再び突撃を再開し始めた。不思議な事もあると思ふ裡に敵の占拠してゐた第一線塹壕から露軍機關銃が發射されてゐて其れは後退してくる露兵に向けられてゐた。督戰隊が後に控えてゐて後退する兵を洩れなく撃つのだった。それがあるから突撃は無理遣りに再興されたのだと判った。退いても味方に悉(ことごと)く撃たれる、それなら前進した方が生きる確率は高い、突撃する露兵も絶對絶命の判断を強いられ再び我が第二線塹壕に殺到してくる。此方も勤勉に絶え間ない阻止砲撃をする。第二線塹壕に拠った獨軍の銃火に薙倒されるのを避けやうとして到頭露兵の先頭中隊が一齊に地面に伏せてしまった。續く他隊も其れに倣ひ動かなくなり立って走る露兵が見當らなくなった。前進すれば獨軍の彈に當る。背後からは督戰隊の機關銃彈が降り注ぐ。絶對絶命とは此の事だ。
其處で指揮下の野砲全門に露軍督戰隊のゐる第一線塹壕に向け砲撃を集中させるやうに命令した。 「目標、敵の第一線機關銃座。全小隊各箇射撃」 練達の小隊長連は競って照準をつけ、獨軍の最前線塹壕にゐた派出觀測(觀測手と輔祭)から彈着報告が届く。露軍塹壕に砲彈が降注ぎ間斷無い射撃で5分も掛らずに敵の督戰隊は或いは撲滅され或いは後退して仕舞った。 指揮班の特務曹長が 「ふうむ督戰隊でも自分の命は惜しひと見えますな−」 と感想を述べた。露軍政治将校でもだらしの無いのがゐるのだなあと思った。後方から自分達を狙撃する督戰の銃彈が来なくなったのが判ると敵歩兵は諸處で銃を捨てあり合せの白ハンカチを振り、両手を頭上に掲げて投降を始めた。我々の前面に殺到して来た恐るべき赤軍兵は俄に烏合の衆となって獨逸軍に捕獲されて了った。もともと戰意の低い寄せ集めの兵に無茶な肉彈突撃を強要する程、赤軍は窮迫してゐたのだった。
獨軍の中隊長が我が指揮班迄やって来て敬禮を交すと何やら云ふ。 輔祭が通譯して呉れた。「貴隊が来援しなければ此方が危うく全滅する處だった」と謝意を述べてゐるのだった。此方も何か云はないといけない。 「あの大凡1箇聯隊はあろうかと思はれる赤軍兵の大群を前に能く戦線を維持なされた。さすがは獨逸軍である。」 それを輔祭の通譯で聞いた相手は顔に微笑を浮べ自分と握手を交したのだった。此んな事情で獨軍の危急を救ったとして中隊は再び師團長から感状を貰った。ふたつめの武功章の由縁である。敵督戰隊を潰した3人の小隊長と獨軍の座標指示を通譯した輔祭も武功章を得た。宗務部員で勲章を貰ったのは此の坊さんくらいではないだらうか。

【休戰】
1943年3月やっと莫斯科の東側城壁に迫る。我が聯隊が砲撃を加へ、歩兵隊が市内の赤軍を掃討し銃聲が聯日に亘り響いた。獨軍も西側に前線を敷いてゐたが不思議な事に一向に前進しやうとしない。其の裡にヒトラー總統が亡くなったと云ふ噂が流れて来た。聯隊の将校連は半信半疑だったが軈て伯林の親衛隊首脳部が悉く逮捕されたと駐獨大使館から聯絡が入った、獨逸軍は英軍に停戰を申込んだらしい、と将校集會所では其の話で持ちきりとなった。聯隊長が師團司令部の會同から戻って来て獨軍と合同で莫斯科入城式を行ふ日取を傳へたが序でに獨軍の状態をも知らせた。總統は前線視察の歸途、搭乗機が爆發墜落し事故死した由、獨國防軍は親總統派を一掃し新政權を樹立した由。總統は自ら軍の作戰指揮を執り幾度も大きな失策をした為、古参将軍連の不満を買ったらしく、軍部の中に叛總統の秘密結社が形成され、どうやら暗殺された様子だ。新しい獨聯絡将校がやって来て打合せを始めたが其れは新しい國防軍将校であった。今迄の親衛隊将校はどうしたと云ふ問いには一切答やうとはしなかった。親衛隊は占領地での民間人大量殺戮を行ってゐたから此れも國防軍古参将軍連の嫌悪する處だったらしい。親衛隊幹部は一掃され其の師團は解散若しくは國防軍に編入となった様子だ。
蘇聨邦は崩壊しスターリンは行方不明となった。5月になって獨は阿弗利加から撤兵、8月は拂及北歐より撤兵し歐州戰争は終結した。我が軍と一緒に戰って来た白系の西比利亜共和國が舊蘇聨邦に代って露西亜を統治する事になり其の名も露西亜共和國と改める。獨逸はバルト三國、白露西亜、烏克蘭を保護領として了い、新たに獨立した邊境諸國も幾つか出た。レミニア聯合共和國軍は西比利亜に元通りの駐箚軍だけを残し任務を終へた。我が5中隊の損害は戰死2、負傷5、行方不明15、捕虜3(うち収容所から脱走復歸1)、逃亡5。
明けて1月に西比利亜鐵道で浦塩港まで戻り、乗船して歸途に就いた。行きと違い今度はパナマ運河を通過したから早かった。2年半異國の戰場にあって自分は44歳になって ゐた。武功章2・1級砲戰記章・1級從軍記章、露西亜駐箚記章を貰った。餘り澤山の露西亜人の屍體を見たので憂鬱症に罹った。

【復員】
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14年事變1級従軍記章、砲戰記章、東部戰線1級従軍記章、ゴルゴニア戰線1級従軍記章、ゴルゴニア駐箚記章、西比利亜戰争1級従軍記章、武功章2、露西亜駐箚記章、部隊戰功章2

土産に毛皮の外套だの帽子だのを澤山持って歸ったら女房始め家族は喜んだ。長男が小學校を修へたから縣立實業學校商業科に入れた。残念乍ら中學校に行かせる程の餘裕は無く下士上がりの貧乏大尉には此れがしてやれる限界だった。
そろそろ師團對抗演習が近づいて来て中隊の特務曹長と其の相談をしてゐると、将校集合の軍鼓が營庭で響いた。本部に行くと聯隊長が「また動員令が降った」と云ふ。今度は何處かと云へば蒙古だそうだ。また船に乗って出掛けていくのかと思ふとうんざりした。其れから大騒ぎとなり翌週にはもうボロジノ港から輸送船に乗って大西洋を西に向ってゐた。
船の士官室で段々と話を聞いてみると、相手は支那共産黨軍で頻りと外蒙古に越境して何やら根拠地を築いてゐるから其れを掃討するのが今回の出征目的だった。以前より支那は國民黨軍が共産黨軍を討伐してゐた。日本軍と休戰して以来、餘裕の出来た國民黨軍は共産黨軍を邊境に追詰めた。退却して延安に根拠地を構えた共産黨軍は蒙古を勢力圏に入れやうとして内蒙から外蒙に侵入を繰返した為、露西亜共和國(舊西比利亜共和國)は軍を差向けた。然し餘り効果が無かった。そこで西比利亜駐箚のレミニア軍に應援を求めた。外蒙にはレミニア軍の獨立17師團が歩兵33旅團の2箇聯隊及騎砲工の特科部隊を隷下に置いて駐屯してゐたが、兵の中味はレミニア保護國出身の傭兵だったので餘りあてにはならなかった。支那共産黨軍の遊撃を受ければ命からがら逃出す。そこで内地から我々精鋭師團が出張する事になったのだ。

【蒙古戰線】
浦塩に上陸したのが11月、極東は既に寒くなっており、鐵道で蒙古平原の真ん中にある庫倫(クーロン)に到着した時の大氣は零度をきってゐた。獨立17師團の傭兵諸部隊は守備専門で前線に向けて出發する我々第1師團を見送るだけだ。先着の騎兵第1師團が既に支那共産黨軍の討伐を始めており、その後に我々は踏込んで行った。然し支那の共産黨軍は露西亜の赤軍の如く多勢で突撃してくる事がなく、茫漠たる平原の諸處に疎開し逃隠れし乍ら折を見て發砲してくる、手榴彈を投げてくると云ふ散漫とした戰ひ振りだった。油断してゐると小分駐隊が囲まれて全滅する事もあった。いったい何處から後方に廻り込んで来るのか、頻々と輜重が襲われ糧秣が奪われた。
我が砲兵聯隊も射撃すべき相手が見つからず専ら歩兵部隊の要請に従って指定された座標に榴彈を打込むだけだった。陣地があれば丹念に潰して行ったが、砲撃終了後に歩兵が突入してみると蛻(もぬけ)の殻となってゐるのが常だった。然し我が軍はじわじわと前線を押し出してゆき12月には内蒙に越境した。我が中隊の損害は戰死3、負傷7、行方不明5、捕虜12、逃亡4。
翌1月に第1師團は内地からやって来た第2師團と交代して復員した。それから1950年まで各師團が交代し乍ら共産黨軍を支那に押戻し、飛行第2師團が延安を猛爆撃してやっと蒙古作戰は終結した。共産黨軍は延安を放棄しより奥地に逃亡した。
自分は砲兵學校甲種學生に分遣の命令を受け従卒を供に一足先に内地に戻った。中隊の中尉が隊長代理になった。出頭日に間に合わないといけないと師團副官が云って西比利亜派遣軍の飛行船に乗せられ、北極廻りであっと云ふ間に故國のメトロポリス市ルブラン飛行場に到着したのには驚いた。後から復員してきた聯隊は海路だったので2月になってやっとボロジノ港に戻って来た。1級砲戰記章、1級従軍記章と3回目の年功章を呉れたが左胸に略綬を計10箇も並べ、袖に年功章を3本重ねると如何にも中古将校じみて居心地が悪いのだった。

【砲兵學校甲種學生・大隊長】
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學校は佐官進級に必要な課程で、自宅から通ってのんびり1年間を暮した。砲兵監部の射撃表調製を手傳い我が軍砲兵進歩に多少の貢献をなしたと思ふ。課程を終ると少佐に進級し原隊復歸となり、第2大隊長を命ぜられた。自分も46歳になってゐたので大尉のまゝだったら48歳が定年だから煙草屋か三等郵便局長でもして糊口をしのぐかと思ってゐたが定年が51に延びたから少佐で後備役編入になっても贅澤さへしなければ何とか隠退生活を送れさうだった。
次男が小學校を了へたので長男と同じく縣立實業學校建築科に入れた。中學に進ませ専門學校に行かせてやりたかったが貧乏将校の給料では此れ以上の學費が出せなかった。長女が師範學校を卒業し村の小學校の先生になった。分教場の1年生擔任で訓導、判任15等官待遇なのだそうだ。兵隊の位にすると将校勤務見習士官だと教えてやる。 駐在の一等巡査と同じ。海軍で云へば乗組生徒のひよっこだよと云ってゐると、そのうち教頭先生になってみせると見得を切った。校長にはならんのかと聴くと、女子はなれないのだと云ふ。然し私立の小さな準備學校(上流中流階級の子弟が通う小學校)の校長なら成れるかも知れない、試驗を受けて得業士號を取れば其れは可能だとか。その前に嫁に行った方がよかろうと揶揄ふと話は其れ迄となった。
平時の大隊長は暇だ。聯隊本部の2階に3箇の大隊本部があって、其の大隊長室のひとつに座ってゐるのだが、大してする事はない。兵隊は中隊長が見てゐるし、師團對抗演習と命課布達式の時以外は碌に自分の大隊に號令を掛ける機會も無い。經理委員首座にでもなれば面白かろうが序列下位の成り立て少佐にはその仕事は廻ってこない。勢い同僚少佐連と骨牌をやったり煙草を吹かして雑談したり、さもなくば數學の簡單な問題を解いたりの毎日で、4時になれば早々に歸宅した。何もしないから肥満した。
長女は家から分教場に通ってゐたが、翌年は2年生の擔任になり判任14等官待遇と昇給した。おゝ出世ではないか、兵隊の位になおすと特務曹長だ、海軍なら少尉候補生か上等兵曹、村で云へば三等郵便局長さんと同じ官等だと揶揄ってゐると、それから3年ばかり昇給しなかった。なんでも村の財政が苦しいので教員に出す給料も増やせないのだそうだ。

【新疆事變】
49歳になった年の8月に動員令が降った。聯隊長室に師團参謀がやって来て師團長命令を傳へ聯隊附中佐と大隊長3人で具体的な出動計劃を作った。今度は蒙古の西横にある新疆と云ふ荒地で、支那本土を追詰められた共産黨軍が越境して其處に本拠地を築かうとしてゐる。此れを斷固覆滅し支那に追返す、共産黨軍が支那本土で國民黨軍に殲滅されやうと我々の知った事ではない、と云ふのだ。其の新疆にはレミニアの西比利亜派遣軍の獨立17師團から歩兵34旅團が分遣されてゐた。以前の蒙古戰線ではレミニア保護國たる舊東方帝國兵から成る33旅團だったが、今度の34旅團は同じく保護國のリゾネシア王國兵から成ってゐた。これは舊東方帝國兵に比べれば逃亡癖が無く勇猛ではあるが餘り命令に忠實ではない氣風があって矢張餘りあてにならない。そこで内地から第1軍、第2軍の計4箇師團が派遣される事となった。
新疆も蒙古に劣らず寒い處だった。おまけに何も無い。歩兵隊が前進する際に援護射撃をするのが砲兵隊の仕事で、手の届かない處は飛行旅團の爆撃飛行機が急降下で爆彈を落した。然し敵も死にもの狂いで抵抗する。共産黨指導者は單に頭でっかちの頑固な坊ちゃんがただった。1年たつ裡に共産兵は逃亡して了い、支那本土に逃げ戻った殘黨は國民黨軍に殺戮された。我が大隊の事變間に於ける損害は、戰死12、負傷28、行方不明20、捕虜60、逃亡5。

【復員】
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翌年1月に復員した。もう自分も50歳になっており此れが最後の御奉公かと思ふと船窓の景色も亦格別なものだった。家に戻り再び退屈な暮しとなった。左胸の砲戰記章と従軍記章が各1箇宛増えた。
長女は4年生の擔任で分數を教えてゐるのだと威張ってゐる。判任12等官待遇に昇給したが、それは兵隊の位で云ふと准尉だ、海軍なら兵曹長だ、ほお偉いもんだ、と揶揄ってゐると高等師範學校の代數學の試驗を受けて得業士號を取ると云ふ。そうすれば私立の裕福な準備學校の轉職口も見つかり易くなるだらうとの由。愈々嫁の貰い手がなくなると心配になった。
長男が勝手に受けてきたK専門學校商科の試驗にうかったと云ふので學資を出す事にした。安手の専門學校で多少の勉強さへ出来れば合格する處だった。陸軍佐官の息子が實業學校しか出てゐないと云ふのは世間體が悪いからと女房も庇ふので其れもそうかと納得した。當時の手取は少佐で月54圓、大隊長手當4圓、馬飼料3圓、計59圓だった。長女は既に職に就いてゐたから家計に餘裕ができてゐた。長男は安下宿探して来て家賃は自分で稼ぐと云ふが無理をするとどんな曲った道に踏込むかも知れぬから其れ位の面倒は見てやるから勉學に専念せいと命じた。メトロポリス市ハイネルスキイ區代辯人街にある下宿にいちど行って見たが狭い屋根裏部屋で寢臺と机以外は餘り歩く隙間もない處だった。聯隊の曹長室の方がまだ廣いくらいだ。「こんな處で小説なんぞ讀み耽って怠けておってはいかんぞ」と云っておいたが、母親似だから是ばかりは仕様が無い。無事に3年間を落第せずに過してほしいものだ。此の街には息子の學校以外に法律専門學校と國際學園専門部があり、其の附属の實科學校やら市の實業學校が幾つか集ってゐた。隣の大法官街に大審院、控訴院、地方裁判所、高等海員審判所があり、それらの隙間にびっしりと代辯人と代書人の事務所が並んでゐた。川を渡った對岸は貧民窟だ。昔、監獄から逃出した囚人供が川を泳いで此方に渡り住着いたと云ふ。

【後備役編入】
51歳で中佐に進級し待命となった。此れは少佐のまゝ除隊するよりも恩給額が増加するからと云ふ軍の温情で、少佐の實役停年(中佐進級に要する經驗年數)は2年、自分は少佐になってから4年(うち1年の新疆出征は2年に數へる)たつから中佐に進級する資格は充分にあった。待命のあと後備役編入となり自分の現役生活は此れにて終了した。戰時命課に依れば事變に望んでは應召して原隊の留守隊長を務める事になってゐたから、軍服・軍刀・拳銃・双眼鏡などは維持しないといけなかった。恩給が月51圓50銭。普通の退營中佐より格段に多いのは子供の時から41年も勤續し、おまけに8年の戰地暮しをした所為だ。
次男は高等工業建築科の試驗にうかってメトロポリス市デムブラゼイ區アンダンテ街の寄宿舎で暮す事になった。學校の隣には工科大學の實習工場があって、序でに高等料理學校附属の食品工業學校もあった。大學工場には大抵の器械が揃ってゐて周邊の學生生徒がやってきては使ふのだそうだ。部屋の細長い窓から隣の大工街が見えた。鋸刃型の工場屋根が際限なく續く我國有數の器械工業地帯だった。レミニアの工業力も大したものだ。その向こう側に理科學校があって其處の氣狂學者が寢る間も惜しんで實驗を繰返し就中爆發事故を起すので餘り其方には行かない方がよいと息子が云ふ。學校は目と鼻の先で散歩がてら一緒に出掛けた。亂雜に建物が入組んでゐて校庭と云ふものが殆ど無い。學校教練は何處でやるのかと聞くと、首都の中を流れる廣いオリザ河岸まで隊列組んで出掛けるさうだ。大食堂で三度の飯を安く喰はせると云ふので一緒に晝飯を摂った。味は兵隊飯と似たやうなものだが何を喰ふかを選べる。悪くはない。

【戰時命課・退役】
後備役になっても動員令が降れば應召して豫め指定の職に就かねばならない。此れを戰時命課と云ふ。最初は原隊の留守隊長だったが、翌年に原隊の所属する第1軍司令部の兵站監部高級副官となり、次には第1軍兵站軍法會議判士長に指定された。歳を取るに従って段々と體を使はない後方に移って行く。幸い戰争は起らなかったから老體を驅って軍務に復歸する事はなかった。
長男が學校を卒業してレミニア商事會社に就職した。徴兵檢査は丙種不合格だったから兵役に就かなかった。誰に似たのか小説の讀み過ぎで強度の近眼のうえ碌に運動もしない薄っぺらの體格だったから兵隊にしたくても出来る相談ではない。會社は16級社員の繊維部生絲課絹布掛書記と云ふ肩書だが、要するに貿易商の手代だ。兵隊の位で云へば見習士官と云ふところか。
女房は學資を出して卒業させた甲斐がありました、と満足さうだ。女中も雇はずに家計を儉約して奮闘した御蔭だと云ふ。軍人も少佐くらいになると女中の一人は置いたものだが、そんな餘裕は家(うち)にはありませんと女房は云って家事は獨りでこなした。そうやって節約した貯金で息子供の學資を用意したのだった。
會社はメトロポリス市メトロ區大通4番街にあって、大きな事務所が立ち並んでゐる中に混じって肩身が狭そうに立ってゐた。近所には貿易商人組合、仲買商人組合、卸賣商人組合、倉庫會社、地所會社、受託差配人組合、郵船會社、運河會社、水産會社、薪炭會社、電氣會社、拓殖會社、製鹽會社などがあった。息子によればレミニア商事は我國の貿易を擔ふ大使命を負ってゐるのだそうだ。國の必要とするあらゆる物資の流通を扱ふ其の中で専ら絹の布を商ふ部署で商賣見習をする。日本の絹を仕入れて何處に賣りにゆくのかと聞けばアラビアの後宮だそうだ。よく分らんが樂しさうだからよいだらう。今度、汽船に乗って天津から横濱に出張するらしい。極東の夜の巷で沈没しないやう祈る許りだ。
長女は分教場の主任になってゐた。10等官で中尉相當だが、既に高等師範學校の代數の得業士號を取っており、今度は幾何のを取ると云ってゐる。さうすれば何處かの小さい上品な私立の女子準備學校の數學教師に職を得て、真面目に勤めていれば校長になるのも夢ではないと云ふ。それもよいが、そろそろ嫁に行ってほしいと自分は思った。
次男は學校の本科を卒業する年に徴兵檢査だったが甲種合格だったので兵役の猶豫願を出し研究科に進んだ。翌年に建築の得業士號を貰って學生の身分が無くなったので入營する事になった。學校にゐる間に自働車運轉免許を取ってゐたから輜重兵第1大隊に入る事になった。工兵かと思ってゐたが其方は土木科修了者で満杯なのだろう。後備役中佐の息子が兵卒では外聞が良くないと女房が云ふ。退役した上官の勧めで入ってゐた徴兵保險が滿期になって其の返戻金を一年志願兵の費用に充てた。士官候補の志願兵は食費被服費彈藥費など總て自辨なのだ。演習も濟ませて輜重兵少尉補になった。長男も保險に入ってゐたが其方の返戻金は家計の足しになって了った。次男は除隊してから警視廰の判任官となった。よくそんな處に入れたなと思ふが豫備役少尉補の肩書も少しは寄輿したのだろう。保安部建築課記録掛16等官試補と云ふのになった。試補は見習と云う意味だそうだ。建築課は建築申請を審査し違法建築を摘發する部署だが、新米だから持込まれた圖面を毎日せっせと整理する係をしてゐるとか。警察なのに巡査の制服を着ないのかと聞くと、建築は行政警察で司法警察ではないから平服で良いのだと云ふ。此奴は自分にも女房にも其の親戚の誰にも似ていない。多分自分の母の方の血筋なのだろう。其れがどんな人だったのか、またどんな親類がゐたのかは全く判らない。
自分は6年間の後備役を終へ55歳で退役となった。振返れば軍隊から外に出た事がなかったが、誰の暮しも似たようなものだらう。本来は路上で飢死してゐた筈が生き長らへ戰死もせず大した心配も無く暮してこれたのだからレミニア聯合共和國は良い處だと思ふ。

【註】
野砲隊の著名な将校。計算能力に優れ其の諸元組立は電光石火、射撃指揮は百發百中の精度と評された。雜卒から累進して佐官になった經歴から兵隊の氣持が良く分り人氣の高い隊長として隊附生活を送った。

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准男爵の家令 豫備役砲兵中尉

【工業都市ゴトビンド】
ボオ縣の最大都市ゴトビンドは精密器械や飛行機の製造で有名ですが昔は山脈の麓にある平凡な田舎でした。領主はゴトビンド准男爵で私の父が其處の家令をしておりました。此の地は低い峠を越へると西隣のデーモン峡谷地帯に出る為、中世の昔から東隣の舊ジルベリア王國、北隣の舊ランデンドルフ王國の軍隊が通過する、或はデーモン峡谷から傭兵團が出稼に行く街道になってゐました。ゴドビンド准男爵家は此の地の土豪供を率いて諸勢力の狭間で何とか亂世を生延びて参りました。
近世になってレミニア共和國が結成され深南部の諸侯も是に加はる事になると、ボオ縣一帯は中世の昔から時計や器械の製造が盛んだったのと地の利が良く原材料の供給に便利だった為、兵器工業の下請生産を擔ふやうになり、ゴトビンド村は町から市へと膨張しました。近代兵器は精密部品を多く用いるので其れをせっせと作ったのですが仲々評判が良く、自働車や飛行機の軍用化に伴ひ益々諸工場は大きくなりました。ゴトビンド市は歐州大戰以降の航空機製造で大きく躍進しました。大規模な火藥工場群と寫眞機器及感光紙工場もあります。近隣のピオニエール町は工兵器材、ボオ村には時計を始めとする計測機器の工場群があり、准男爵家は其れ等の工場の大株主として財界に重きを置いております。准男爵の位も多額の献金を折に触れて政府になして得たのでした。
私の父がやってゐた准男爵家の家令と云ふのは貴族で云へば御城の家老、商家で云へば大番頭みたいなものですが、ゴトビンド家は准貴族なので御城は無く、館(やかた)と云ふか平凡な三階建の大きな屋敷の一隅にある事務局を取仕切ってゐました。文書、會計、法務など、大凡内政に關する一齋の仕事を扱ひました。自宅は普通の市街地にあり、父は其處から通勤して居りました。私は其の町屋で育ちました。
母は市内の大工場主の娘で平凡な人でした。家令は直轄地差配人や會計士、辯護士と云ふ人々と同じ立場です。准男爵家の家族は奥と呼ばれる文字通り屋敷の奥で暮しており、家令とは餘り交流がありませんでした。専属秘書や家庭教師、乳母、小間使など奥向きの使用人は准男爵家の人々と共に食卓を囲むのですが、事務關係の要員は別に事務局で晝食を取り、定刻が来れば退勤してそれぞれの家に戻りました。奥向きの使用人も家令の配下となっておりますが、實務は執事と女中頭に任せ切りです。

【學校】
6歳から市内の準備學校に通い、讀み書き算盤を習いました。私塾みたいな氣の置けない處で教員はもと家庭教師や萬年大學生みたいな人が多く居ました。職工や小商人の子供が行く公立小學校は粗野だったので中流以上の家庭の子弟は其處には行かず、好みの準備學校に行きました。氣に入らなければ學校を變へればよいのですが、それぞれの校に格があって領主や地主層の子弟のみを受入れる由緒正しい處もあり立派な教育を施しましたが相應に學費が高く、私の家のやうに中流と云っても下層の方の子弟は學費も安い處に行きました。
9歳で市の8年制中學校に入りました。領主や地主の倅が行く10年制高等學校の簡略版みたいな處です。工場主や商人、技術者や知識人と云った中流の子弟は此處で學びました。生徒は卒業すると専門學校に進みますが、有名處は難しい入學試驗があって私は平凡な成績だったので入りやすい私立のK専門學校を選びました。父は其れなりの収入があったので、また長男と云ふ事もあり私の首府遊學を認めて呉れました。メトロポリス市ハイネルスキー區に學校はあって、歩いて通える代辯人街に下宿しました。表通りは體裁の良い事務所が並んでゐますが、私の宿は路地を入った木造の古屋が犇めく其の名も強力横丁と云ふ裏街です。私は餘り頭は良くありませんが羽目を外す事もなく3年間を過しました。

【兵役 就職】
19歳の時に徴兵檢査を郷里のゴトビンド市で受け甲種合格砲兵適となりました。大して運動をした譯ではありませんが體だけは丈夫なのでした。20歳になって入營しなければならなかったのですが専門學校研究科に入ったので徴兵猶豫となりました。商取引に就いて小論文を書き得業士號を貰い21歳になったので、徴兵猶豫が切れ1月にダーリエ彎にある海岸砲兵第2聯隊に志願入營しました。父が一年志願兵の費用を出して呉れたので、士官候補生ばかり集めた内務班で暮しました。最初は二等卒から始り、4月に一等卒、6月に上等兵、8月に伍長勤務、10月に伍長、翌年1月に軍曹で歸休退營しました。
學校から斡旋があって、石鹸會社に勤める事になりました。首府メトロポリス市にある本社の庶務部會計課で帳簿をつけるのが仕事です。會社に市電で通へるメトロ區大石橋の水路廣場に下宿しました。オリザ河の畔にある見晴しの良い處でしたが夏は蚊が多くて往生しました。
8月に再び入營し曹長で将校教育課程を2箇月やり10月に豫備役少尉補に任官しました。

會社に戻り、平々凡々と勤めて居りましたが、25歳の時に製造部技術課に轉じました。けれど仕事は前と同じで矢張帳簿つけをして居りました。27歳の時に齒磨粉工場の庶務係に轉勤しました。レミニア海岸の南沖に浮ぶビエルノ島にデントブローソと云ふ村があり會社の大きな工場が操業してゐました。其處の帳簿つけ仕事でした。豫備少尉補だからとて在郷軍人會の分會員になりました。28歳で庶務係長になり少しは給料も上がりました。帳簿つけはしなくとも良くなりましたが、職工の人事や揉め事の仲裁などの面倒な仕事をしなくてはならなくなりました。

【應召】
29歳の11月に總動員令が降り、取急ぎ汽船でダーリエ港に向ひ海岸砲兵第2聯隊に入營しました。北帝國が攻めて来たと云ふのでした。敵艦隊が襲撃してくるやも知れぬとて嚴戒體制が敷かれ、私は第1中隊の第3戰砲小隊長とて大きな要塞砲を2門任されました。然し待てど暮せど敵艦隊は沖合に出現しませんでした。我が海軍が機雷網を敷いて了ったので北帝國自慢の大艦隊は私供の深南部まではやって來れませんでした。偶に潜水艦が潜り込んでくる丈です。魚雷で輸送船を狙ったり、浮上して艦載砲で港灣設備を射撃しに来るのです。此れは我が驅逐艦や防備隊の驅潜艇に追拂れました。海岸砲兵と云ふのは損な役廻りで沿岸の要塞を守備する丈で戰地に出征をしません。従って勲章も貰へず腕を拱いてゐる許りです。
5月になると停戰となりました。北帝國と我がレミニア共和國は合併したと云ふので吃驚しました。北帝國の背後にある隣國ミグルシアとゴルゴニアが突如攻込んで来たので、とてもレミニアと戰争をしてゐる場合ではなくなった北帝國は、昨日の敵は今日の友、レミニアと和解し、レミニアは北帝國と合併する代りに軍を送ってミグルシアとゴルゴニアを驅逐する事にしたのでした。實際は突如として二正面作戰を強いられ弱り切った北帝國をレミニアが併合したのですが、そう云ふと北帝國民の感状を逆撫でする事になって今後とも不可(いけ)ないから、レミニア人は誰も表立って其れを云はず、平等合併と稱して居りました。

【復員 火星人襲来】
30
海岸守備3級従軍記章

除隊してもとの石鹸會社に戻り、轉勤で同じビエルノ島のラーヴォ村にある別の工場で庶務係長として勤めて居りました。北帝國との合併でレミニア共和國からレミニア聨合共和國共和國になった翌年です。6月の或る朝、ラジ?が正体不明の怪物が各處で暴れてゐると報じ、新聞を讀むと深南部ではジルベリア縣の東端にある山奥に落下した怪飛行艇から三本脚の物體が幾つも現れ長い触手を以て家畜や人間を手當り次第に捕獲してゐる、ジルベリア駐屯の歩兵聯隊が應急出動した模様、とあります。うちの實家のあるゴロビント市はジルベリア縣の西隣ですが、山地で遮られているから此方には来ないだらう、先ずは安心と思ひました。數日經って天文臺は寫眞で撮った夜空を彩る何條もの軌跡は火星から發されたものだらうとして、我が地球で暴れてゐるのは火星人に違いないと云ふ見解を公表しました。我が國のみならず世界中に火星からの飛行物體が落下してゐるさうです。避難民の云ふ處や軍の斥候隊の報告に依れば、火星人は捕獲した人畜の血液を抜取って其れを肥料に獨自の植物を栽培しつゝありと。どうやら食糧の自給を始めた様子でした。強力な光線銃の發射により我がジルベリア歩兵12聯隊は大損害を蒙り後退を續け、到頭ジルベリア市郊外に火星人は迫ったやうです。遅まき乍らアエロプラッツ飛行場から飛行第2師團の爆撃飛行隊が出動し可成りの戰果を擧げたと陸軍省は發表しましたが、私も豫備少尉補なので此れは撃ち落された我が爆撃飛行機も少なからずゐるだらうと思ひました。
いつ召集令状が来るかと待構えて居りましたが、不思議な事に動員令が降りないうちに火星人の前進は突然に頓挫して了いました。地球の病原菌に感染して火星人が全滅したからです。

【家業繼承】
34歳の時に庶務課長になりましたが、其れを3年も續けない裡に父が隠退すると云ひ出し長男の私が跡を繼ぐ事になってしまひました。准男爵は私を後繼の家令に指名したゐるとの由、代々恩ある殿様の依頼を斷る譯にもゆかず、よんどころ無く會社を辞め、ボオ縣の實家に歸り、ゴトビント准男爵家の家令となりました。家令は御屋敷の片隅にある事務局で領地と資産の管理をします。直營地の差配人や會計士、顧問辯護士、奥向きの執事、女中頭、などと相談し乍ら准男爵家の經理、財産管理、雇用人の給輿支給などをします。臣従する十數箇村の土豪からの貢納が月14,500圓許りありますが、此れは准男爵家の體面を保つ必要經費として屋敷の維持費、使用人の人件費やボオ侯爵への貢納、社交費に使います。此の他に准男爵領地に建ってゐる工場群からの地代、筆頭株主となってゐる航空機會社、火藥會社、寫眞器會社からの配當が可成りの額に上りました。合計で月に6萬圓くらいの収入がありました。此方の殆どは政治活動資金に充てられ、准男爵の属する共和黨に寄附されます。政治家をやると軒が傾くと云ひますが、確かに准男爵は質素な私生活を送って居り、先祖傳来の古い家具を其のまゝ使い續けるやうな處がありました。
私の事務局は此れ等金銭の單純な出入れ、債權及不動産の管理が表の仕事です。事務室には次席の古参書記と秘書補、庶務係主任に帳簿係主任が幹部で其の下に書記補、印字手と給仕が十數名居り、彼等は朝の9時に出勤して来て夕方4時頃にはもう歸宅しました。領主家の事務職は外聞も良く安定した仕事で勤務も樂なので成り手が多いのでした。私は採用に當って成る可く貧乏な家の子供を傭ふやうにしました。給仕をし乍ら夜學の實業學校に通わせ大過なく卒業したら事務員に採用しました。
御屋敷には下は女中から庭師、料理人、運轉手、小間使、乳母に家庭教師など大勢の使用人が居りましたが、此方は執事と女中頭(家政婦)が取仕切って居ります。首府に別邸があるので其方にも執事が居りました。そこで本邸の執事は大執事と呼ばれて居りました。直營農場は差配人に任せ切りです。殆どが工場敷地となって居るので農場は極小規模です。
此の定例仕事の他に、准男爵の秘書仕事もやります。准男爵は共和黨のボオ縣支部長をやっており、亦(また)ゴトビンド市の参事會員でもありましたから私は公私を問はず諸會合に随行する必要があり、演説原稿を整へ、頻繁に訪れる黨員や陳情者の應接もしなければならず、選挙の時期ともなれば運動資金の遣繰りを始めとする煩雑な事務が生じ、時には眠らずに仕事をする時節があります。寧ろそっちの方が忙しく手を抜けません。御蔭で國家政策の裏面も知り得る立場にありますが、そっちの方は部外秘が多く此處で語るには相應しくない事柄許りです。
准男爵は深南部貴族團の政見取纏め役として、ダーリエ大公爵(舊ダーリエ市國統領)、ジルベリア大公爵(舊ジルベリア國王)、ランデンドルフ大公爵(舊ランデンフォルフ國王)、panja大公爵(舊レーベ國王)、ボオ侯爵(舊ボオ侯國元首)、ザフィル侯爵(舊ザフィル侯國元首)の他に3人の侯爵、9人の公爵、9人の伯爵、3人の子爵、10人の男爵、12人の准男爵を順次訪問しては政務の懇談を行ふので、仲々の忙しさです。是に依り議會の貴族院に於ける深南部貴族團の意見が定り、其の動向は國政を左右する大きな存在となって居ります。

【舊北帝國融和策】
北帝國との併合で國號もレミニア聨合共和國となったのが1930年です。最初はとても不思議でしたが、おいおい准男爵の御供をして彼方此方を廻る裡に事情が分って参りました。併合時の彼我の遣取は奇妙なものであります。立場上、秘密は洩らせませぬが、お察し願います。舊北帝國の獨裁官は隣國ミグルシアが突如として首府ノルディアを毒瓦斯爆撃してくるとは思わなかった、のは本當なのでせう。御蔭で北帝國陸軍の頭脳たる總司令部と参謀本部は大勢の市民と共に壊滅し、政府官衙も全滅、國境を破ってミグルシア軍ばかりか北隣のゴルゴニア軍も侵入して来る、其の防戰の為にレミニアと戰争をしている場合ではなくなり、レミニア侵攻軍をミグルシアとゴルゴニアの撃退に振向けなければいけなくなりました。かねてより獨裁に反撥してゐたホーク縣の貴族團は政變を起し、獨裁官は此處で自らの運が尽きたのを悟り、國外に亡命、政權を奪取したホーク貴族團はレミニアと即時停戰し、交渉團を送って来ました。レミニア政府の首相は機を見るに敏な人だったので、北帝國とレミニア共和國の合併を提案し、両者の見解はすんなり纏って了ったのです。對等合併だと云ふのでしたが、實際は北帝國の軍指揮系統は壊滅しており、中央官衙は優秀な官僚が全員死亡しておりましたから、實際にはレミニアが軍の指揮と行政を引繼ぐしかなくなりました。
その頃は舊北帝國であった西部と北部の2地方を如何にして我々舊レミニア共和國と融和させるかが政界の課題でした。舊北帝國の政權を引繼いだホーク貴族團は獨裁官の残存勢力を徹底して排除してしまったので、中央官衙にはレミニアの官僚團が乗り込んで残務整理をしなければなりませんでした。戰後暫くは舊北帝國政廳なる事務引繼機關が置かれてゐましたが、段々とレミニア行政府の各官衙に取扱事項が吸収され、北帝國は自然に消滅してしまいました。
北部には極右の愛國黨勢力が強く、ゴルゴニア戰線に鐵兜團なる義勇兵旅團を送っておりました。帝國黨は實際に暗殺團を養っており、獨裁官の息のかかった人物を探し出しては裏切者として殺害に及び、レミニアの中央政府から派遣された知事や郡長なども善政を敷かないと途端に襲撃されました。此の為に此の政黨は非合法となってしまいました。

【西比利亜戰争】
1941年7月にレミニア聨合共和國は西比利亜に出兵しました。陸軍の第1軍(南部軍管區)第2軍(深南部軍管區)第3軍(東部軍管區)が西比利亜派遣軍となりました。他の第4軍(西部軍管區)、第5軍(北部軍管區)はそれぞれミグルシアとゴルゴニアからの越境を防御する為に内地残留しました。私は第2軍の海岸砲兵だったのですが、海岸砲兵は要塞に籠って敵艦隊を迎撃するのが任務なので聯隊は平時編成のまゝ内地に留まり、私にも召集は来ませんでした。
此の出兵の是非に關して議會は大いに揉めたのでしたが、その餘波は當時共和黨の幹部をしてゐたゴトビンド准男爵にも及び、航空機、火藥、軍用寫眞器の製造元の大株主だから必ず此の戰争で多大の利益を得るのだらう、其の為に出兵を推進しやうと熱心に畫策して廻ってゐるのだと、政敵の自由黨から囂々(ごうごう)たる非難を浴びたのでした。共和黨は貴族地主、資本家層の支持を受け政權を擔って来たのでしたが、自由黨は進歩的知識人、獨立自營業者、學生の支持を受け、更に婦人参政權が實現してからは主婦層を取込み厄介な論戰相手となってゐました。
私は領地の事務局は次席の古参書記に任せて専ら首府メトロポリス市にある准男爵の別邸に出張し殿様の秘書を務めておりましたが、右翼の憲政黨幹部が頻々と訪れては 「煩い自由黨の連中は、息子や夫を兵隊にとって戰死させるつもりか、戰費調達の増税反對、平和が第一、と阿呆のやうに唱えて學生と婦女子を扇動しておるが、何なら愛國黨の鐡兜團の猛者や帝國黨の暗殺者を差向けて天誅を下しても良い。極右諸黨幹部には其れなりの傳手(つて)があって今すぐにでも實行可能だ」 と物騒な提案をするのでした。准男爵は苦笑いし乍ら 「愛國の至情は誠に虞れ入る。が、其れをやると我が國内は混亂して出兵どころではなくなる。共和黨に任せて置いてくだされ。」 と鄭重に謝絶しました。
軈(やが)て議會に於いて共和黨を率いる首相が演説し、その主旨は 
「今や西比利亜の白露政權を實際に補助するは我がレミニア聨合共和國のみである。共産黨政權たる蘇聨邦は先ず露西亜の商工業者を殺戮し尽した。更に自國農民から強制徴収した莫大な穀物を輸出し、得られた金を以て高度な兵器工業を勃興せしめた。この為に七百萬もの無辜の農民が越冬の食糧を喪失し餓死した。更に農業集團化に抵抗した農民六百萬人が處刑された。スターリン粛正に依る處刑者は百萬人、強制勞働収容所に於ける死者は千二百萬人である。蘇聨は此の様に自國民を虐げ乍ら強大なる陸軍を得たのである。更に彼等は巧妙なる諜報網を世界中に敷き近隣國を侵略し全世界共産主義革命を企畫しつゝある。蘇聨邦の巨大な軍隊は波蘭東部を併合し、芬蘭に領土割譲を要求し、止まる處を知らない。此の情勢に於いて白露の西比利亜に蘇聨軍が侵入をなし得ないのは唯(たゞ)我が精強なるレミニア軍の駐箚あるが為なり。我が陸軍は1918年の出兵以来世界でたゞ獨り共産主義の擴大を阻止する防波堤の役割を果して来たのである。翻って極東に於いては満洲を奪還せんとした支那を膺懲すべく日本軍が此れと交戰中であるが、支那に權益を得たい米國は日本に撤兵を要求し日本帝國は其の對應に苦慮しつゝある。獨逸が佛蘭西を降伏せしめたが、是に伴ひ日本軍は北部佛領印度支那に進駐の擧に出たのは諸君の記憶に新しい處である。此れを警戒した米國は石油・鐡の對日禁輸に踏切り、英蘭を誘って通商航海條約を破棄すると云ふ經濟封鎖を實行した。其れは去年の事であったが、支那戰線は物資の不足に悩むやうになり、日本政府は自らの軍部を制御出来ず、追詰められた日本軍は若しかすれば、此れは若しかすればの話であるが、亜細亜南方の資源地帯を占領すべく軍を進めるやも知れぬ。レミニア聨合共和國は此の重大な局面に際し敢て日本と同盟を結び以て極東の安定を圖らんとする。現在は西比利亜の資源を日本に供給してゐるが、近く露西亜東部占領後はバクー油田地帯の資源を日本に供與し、裏面より日本の軍需を支へ支那事變の解決を援助する。更に支那共産黨を撲滅し露西亜・西比利亜・極東の安定を實行する。其の為に我が陸軍は出兵する。獨逸軍の露西亜侵攻はまたとない機會である。此れを逃せば世界の混亂は更に深まり再び太平の時は遙かに遠のくであらう。此處はレミニア人の平和追求の意氣地を見せる時である」
此れは共和黨首脳陣が考へ議會にて首相が明言し、全國民に實況放送され新聞に全文が掲載された政府方針の趣旨でありますが、實際にはゴトビンド准男爵が起草したものでした。私は准男爵から原稿を預かり其の字句を校正し、印字手を呼んで清書させました。准男爵は其の日の裡に赤いインクで訂正を幾つも入れ、其れは首相の口調に會ふやうにしたものですが、此方は再び清書しました。此れが首相の演説原稿となったのです。議會の庶民院に於いて自由黨も理路整然とした反論の餘地が無くなり賛成多數にて戰布告議案は通過、翌日貴族院に送られ満場一致で通過、樞密院からの議案差戻しは無く、國務院は國家元首の認證を得て到頭参戰に決しました。荒れ狂ふ世界情勢を救ふのは我々レミニアだ、と國民大衆は奮い立ち、もともと民衆の支持が薄かった自由黨の知識人連中も浮足立ってしまひました。財界は戰時好景氣を享受できると奮い立ち、民衆の氣分も東露西亜占領により暮しが今よりましになるとてお祭氣分に沸立ちました。
戰争は案外に長引き、2年8箇月續きました。蘇聨は消滅しレミニアの西比利亜派遣軍は莫斯科で獨逸軍と共に入城式を行ひ、其處を境界として西方をレミニアの支持する白露政權の西比利亜共和國が、東方を獨逸が併合する事となりました。
米國の禁輸政策に打撃を受けてゐた日本帝國はレミニア占領下の露西亜から軍需資源の供給を得て何とか持ち堪(こた)へ、對米戰争は回避されました。米國は歐州の戰争に参加する切っ掛けを失ひ、獨逸では總統が亡くなった為に軍部が政變を起し國家社會主義勞働者黨勢力を一掃しました。是に依り獨逸は急速に戰線を縮小し講和に傾きました。舊皇帝の復位が取沙汰されましたが此方の方は有耶無耶に終ったやうです。亜米利加が援助から手を引き困窮した支那國民黨政府は1944年に日本と休戰し、幾つかの日系傀儡政權と共存する體制を築きました。國民黨軍及諸軍閥軍に追はれた支那共産黨軍は蒙古に逃げ込み勢力圏を築かふとしましたが、此れと蒙古駐箚レミニア軍が衝突し、レミニア政府は權益保護及治安恢復の為に第1軍、騎兵第1師團、飛行第2師團から成る蒙古方面軍を派遣、支那共産黨軍を蒙古から驅逐しました。その後レミニア軍は交代で1箇師團を蒙古に派遣し1949年に至る迄國民黨軍及内蒙古の日本軍と共同して支那北邊に根拠地を置いた共産黨軍の撲滅作戰に従事しました。1949年の8月から12月にかけて敗残の共産黨軍が新疆に逃込んで新たな根拠地を築かうとしましたが、當地に駐箚してゐたレミニア軍と衝突し。レミニア政府は第1軍、第2軍、騎兵第1師團、飛行第2師團から成る新疆方面軍を派遣し此れを撲滅しました。
7年も西比利亜と蒙古で戰争をしてゐたのですから、民主黨は出兵に反對しましたが、其の際の共和黨政府首相演説原稿もゴトビンド准男爵が起草しました。私は其の校正をしましたが、ほんの10分で准男爵の手許に清書したものを返しに行きました。
いわく 「今度の出兵は共産主義に對する最後の止(とど)めである。國民諸君、貴君の親や妻や子供、愛する人々に、いな全世界の人々に恢復し難い厄災を振り撒く邪悪なものを我々の世界から永遠に抹消する。其れを否と云ふべき如何なる理由があるか、もしあらば此の場で御聞かせ願い度ひ」
我が准男爵は此の新疆出兵を最後に共和黨政府の内閣書記官長を辞め隠退しました。次期首相の聲も擧ったのでしたが、質素な書齋の椅子に座り夜食を摘まんでゐた准男爵は
「君、餘を幾つだと思っておるのだ」
と私に呟いたのでした。

【退役】
陸軍の方は45歳の時に後備役編入となり、戰時命課は海岸砲兵第2聯隊留守隊第1中隊彈藥小隊長でした。戰争になって應召するとこの職に就く事になります。此んな爺さんに勤まるのかと思っておりましたが、51歳の時に退役で總ての御役御免となり、その心配をせずとも良くなりました。

【註】
兵器産業界の重鎮たるゴトビンド准男爵の家令であるが、専ら主人の政界活動の右腕として活躍。決して表面には出ないと云ふ至って謙虚な人柄にも關はらず併合後の北帝國融和政策と西比利亜出兵の推進に深く關與した。

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庶民院議員の軍隊歴

【少年時代】
私は深南部ケーニヒス・ガルテン市で生れました。父はラジオの放送局長をして居りました。シュロッス區に放送局があったので通勤に便利なやうに其の近くに住んでゐたのですが、庭から大きな御城の塔が見えたものです。6歳の時から準備學校に通いました。10歳になって高等學校に入り、其處の寄宿舎に住むやうになったのですが、色んな奴がゐて仲々面白く暮しました。土曜と日曜には家に歸れたので餘り日常の不自由は感じませんでした。
研究科を修へると親元を離れ隣縣ジルベリアにある商科大學の選科に入り、下宿生活を始めました。ジルベリア市は中世の昔から銀山で榮えた處です。街の造りも贅澤でしたが盆地なので萬事が狭くなっており、道もケーニヒスベルクの1/3位しかありません。大學街の製本横丁にある居酒屋は三階建てで、その屋根裏に私の住む小部屋がありました。規則尽くめの高等學校と違って、寢るのも起きるのも自由、大學の講堂には出て行かねばなりませんでしたが、其れ以外は何をしやうが誰にも咎められない暮しを送り、あっと氣が着けば既に19歳になってゐて徴兵檢査の通知を貰ひました。
市公會堂で素裸になって躯體檢査の擧句、赤髭の徴兵官から甲種合格砲兵適と判子を貰ひ、大學修了の翌年まで徴兵猶豫となりました。私の専攻は交通學だったのですが、交通に於ける通信の役割と云ふ題で論文を書き22歳で商學得業士號を取得しました。父は相變らず放送局に居ましたから資料を貰ひ、自分でも氣象臺の豫報課や新聞社、消防署、鐵道、燈臺局、船會社、航空會社などを廻って危急通報の仕組を調べたものです。

【一年志願兵 就職】
徴兵猶豫が切れたので23歳になった年の1月に入營しました。志願して豫備士官候補生になりました。在營中に掛る費用一切は自費拂なので、父は黙って百圓餘を出して呉れました。南部にあるオスタリーチ縣の野戰重砲兵第2聯隊に入隊したのは良かったのですが、配属が標定中隊と云ひ全體何をする處か皆目分りません。志願兵は普通の内務班から離れた別室で寝起きしました。最初の3箇月は歩兵の教練で、4月から砲兵の教練に移りました。ひと通り野戰重砲が撃てるやうになると、今度は聴音器の取扱に進みました。蓄音機のお化けみたいな代物に車輪が附いてゐて、受音器を耳に被ると遙か遠くの音迄が鮮明に聴へました。目盛を廻し、音のする方向を探り、圖に示し、座標を特定するが聴音兵の仕事でした。戰線に沿って數粁毎に此の喇叭のお化けが置かれて居り、其れ等から集めた座標を組合わせて敵砲兵の發射位置を突止めます。其の情報は即時に放列指揮班に電氣信號で傳へられ、敵が何處に居るのかが判定されます。
この音源標定を残る半年かけて練習し、年末には砲兵軍曹士官候補生になって歸休除隊しました。現役期間は未だ1年残ってゐるのでしたが、1年志願兵の名の通り、後の1年間は現役兵のまゝ在郷待機となるのです。其のまゝ首府メトロポリス市に出てデムブラゼイ工務店の見習社員になりました。大學時代の友人が偶々其處に勤めてゐたので紹介して貰ったのです。彼は私より年長でしたが遇々講堂で隣合せに座って聴講する事があり、其れから共に安酒場で杯を交したり下宿で閑話する仲となったのでした。工務店はデムブラゼイ區の工場街に本店があって、事務所のすぐ隣には稼働中の所有巨大工場群が幾つも犇めいてゐます。私の席は營業部販賣課と云ふ處で事務所の1階大部屋にありました。百近い机が並んでゐて其の中の官廳掛と書いた札を探して行けば私の座っている處に辿り着けます。官廳からの發注を受け見積や代金請求をする部署ですが、其の勘定書に間違いが無いかを審査する係の書記がゐて、私は其の人の助手をしておりました。下宿はメトロ區大石橋街頬染横丁にある仕舞屋(しもたや)の二階で、朝夕の食事も出るから重寶でした。宿賃は月10圓でしたが、當時は15圓貰ってゐたので、残る5圓で衣服の體裁を整へたり、細々(こまごま)とした身の廻り品を揃えりしたものです。市電に乗ってメトロ急行電車の驛まで行き、其處からオリザ河の鐵橋を渡る快速電車で事務所まで通いました。歩くのも入れて1時間も掛らない道程でした。
デムブラゼイ工務店は前世紀の首都改造大工事の際に下水道整備の元請業者として頭角を現し、それから政府の土木請負をやってゐたのですが、今世紀に入って何時の間にか電氣器械製造を手掛け出し現在の大工場群を運營する會社となりました。デンブラゼイ區にある27箇の工場で製造してゐるものは、發電器、受配電器、電車、電裝品、工作器械、昇降器、電氣炉、電気溶接器、電動器、制御器、冷凍器、電熱器、自働清掃器、電氣工具、電池、電球、眞空管、計測器、自働器械制御器、スイッチ、電氣通信器、電話器、無線電信器、アンテナ、蓄音機、音盤、擴聲器です。本業の土木・建築も、道路、橋梁、隧道、築堤、水道、水路と大抵の物を造ります。其處で働く何萬人の中の一人ですから時々自分が一匹の蟻のやうに思へるのでした。

【豫備少尉補 佛蘭西駐在】
8月に将校課程修業の為志願入營しました。野戰重砲兵第2聯隊は第2軍の編成に伴い其の隷下となりランデンドルフ縣のバッテリエ町に移駐してゐたので、汽船に乗ってダーリエ港まで行き、其處から鐵道でジルベリア縣ボオ縣を通り、やっと營門に到着しました。全行程2日掛りでした。音源標定隊の指揮を執る訓練を受け、10月に豫備役砲兵少尉補に任官しました。任官仕度金が25圓でたので軍服を誂え階級章、軍帽、半長靴、軍刀、拳銃、双眼鏡を買ひ、其れ等を身に附けて首府の下宿に戻って来ました。
翌年25歳になって渉外課に配置換となり、佛蘭西國駐在事務所勤務を命ぜられました。高等學校と大學で仏蘭西語を習ってゐたから履歴を見てこうなったのでせう。ボロディノ港から渡洋客船の二等に乗って大西洋を東に航行し一週間後にルアーヴルに着き、鐵道で巴里に入りました。駐在事務所は主に技術上の調査をするのが目的で設けられてゐましたから、其處の庶務係書記となった私は技師連中の世話係と云ふ役どころで、派遣されて来た駐在員の下宿斡旋から出張旅費の計算、給輿支拂、現地人の雇用、来訪者應接、重要人物の接待、事務所の調度、警備まであらゆる雑務をやっておりました。
ちょうど巴里萬國博覧會をやってゐてエッフェル塔が満身に電氣を燈す様子は仲々の見物(みもの)でした。レミニアも展示館を置きましたが平凡な建物の中に平凡な品物を並べてある丈の質素なもので工夫が無いので餘り入場者はありませんでした。他の館ではアールデコ仕様の始りとなった華麗かつ現代的な装飾を競い合ってゐたから、愈々レミニア館は見劣りがしたのでした。蘇聨館は斬新なポスターで目を引きました。あの田舎にこんな才能が埋れてゐたのかと驚いてゐると、駐在所長が 「どうかね君、赤色革命によって日の目を見た若人が活躍しとるのは當(まさ)に感嘆すべき事だ。帝政時代では斯うはいかんかった。無能なブルジョワ層を全部抹殺したから、やっと才能の芽を開かせる事が出来たと云ふ譯だ。本来はブルジョア供がかう云ふ芽を大事に育てなければいけなかったのだよ。露西亜の金持や工場主は皆が工員の給料を据置いて、自分はたゞ火酒を呑みピロシキをつまむだけの阿呆だった。だから皆殺しになった」 と感想を述べたが、レミニアの工場主は連中とは全く違ふと云いたかったらしい、
冬の巴里は寒い許りで、夏になると人が避暑に出掛けて閑散となり、餘り外國人にとっては居心地の良い處ではありませんでした。下宿の食事は大蒜の利いた野菜汁を除けば、肉は硬くて噛み切れない程、麺麭も小麥ではあるものの水に浸さなければ柔らかくならない類の堅さで、其の水は石灰が多くて飲みにくい、と云ふ不自由さでした。湯で割った葡萄酒とチーズに馬鈴薯丈で命を繋いでゐたのでしたが、1年後にやっと歸國命令が出て、懐かしのレミニアに戻る事が出来ました。

【會社員生活】
其れから數年は凡々と勤め人暮しをしておりました。1年ごとに部署を替り、工場の資材倉庫管理に調達(電池製造部事務課材料掛倉庫出納係、音盤部事務課材料掛調達係)、文書發受(庶務部文書課文書掛發受係)、株主の世話係(經理部財務課資金掛株式係長補佐)と工場から事務所を點々と渉り歩きました。下宿も給料が少しづゝ上がったので段々廣い處に移りました。デムブラゼイ區の大工街の下宿は近くに工場群が見へ器械の騒音が日夜煩く、煙突の煙が日夜垂込めるので閉口しました。次ぎの下宿であるメトロ區大帝關所の心臓通はオリザ河畔の景色の良い處で綺麗な月に水鳥の飛ぶのが眺められましたが、夏に涌いてくる蚊の大群には悩まされました。月給は10圓くらいから始って此の頃には大體18圓くらい貰ってゐました。下宿代は食事附で10園くらい入れていました。

【應召 東部戰線】
29歳の11月に總動員令が下り、私の處にも充員召集令状が来ました。應召先が臨時第2砲兵情報隊とあって、よく見ると昔居た原隊の野戰重砲兵第2聯隊内が所在地となってゐました 取敢えず船に乗り深南部ランデンドルフ縣バテリエ町の聯隊に驅付けると、既に重砲聯隊は出發しており、砲兵情報隊の編成最中でした。隊長から標定中隊第3小隊長を命ぜられ、あの喇叭のお化け器械や車輌を貨物列車に積載しダーリエ港で輸送船に積替へ、翌日に東部のナイルロコ港に到着、再び列車で2日かけ國境地帯まで進出しました。此の東部の北邊は何も無い荒地が擴がってゐる丈の詰らない景色でした。音源測定中隊は彼方此方に分散配置となり、敵の動静に聴耳を立てゝ居りました。私の小隊は戰線西方の峡谷出口が受持で、グランポンド縣境に近い粗末な塹壕線の3箇所に喇叭のお化け(聴音器)を据附けました。互いに數粁離れてゐて聯絡は總て有線電話です。配置に仲々時間が掛り、小隊長の私は側車附二輪自働車で配下の聴音濠を彼方此方と驅けずり廻りました。10日程たつと敵軍の砲撃が始り、早速砲兵情報隊は發射時の閃光を撮影しやうとしましたが、間接射撃なので全く見えません。それで我が音源測定中隊が發射音を測定し此れを圖に刷って距離と方向を推算し、中隊長は各小隊の報告をひとつに纏めあげて情報隊本部に轉送し、其處に詰めかけてゐる各師團旅團の聯絡将校は自分の司令部に情報を傳へました。暫くして我が砲兵の射撃が始り、まる2日間の撃合いとなりました。3日目に敵の砲撃がやんだと思ふと直ぐに敵戰車の群が押寄せて来ました。我が戰車團が出て對抗しましたが、百戰錬磨の敵の方が戰術の腕前が上手(うわて)だったと見え、我が前線は崩れ、退却が始りました。
歩兵がぞろぞろ逃げて来るにつれ、砲兵情報隊にも撤退命令が下(くだ)り、聴音機を集合させ荒野の中を後ろに向けて行軍しました。途中、敵の追撃騎兵が襲撃して来た、撃て撃てと、歩兵隊が一頻り亂射を續ける時がありましたが、誤認と判り、指揮官が必死に制止して、やっと射撃が止むと云ふ滑稽な事態が幾度かありました。2日目にグスタヴ町に到着し、此處を防御線として死守すべしと命令が出ました。敵は攻めて来ては我が軍の抵抗の激しさに堪りかねて退き、我が軍は逆襲に出て敵を追いかけますが、敵はどんどん逃げて其れを追ふ我が軍は伸した餅のやうに平べったい隊形なってしまいひました。實は此の時、敵は主力を左右に分けて迂回運動をさせ我が軍を包囲せんとしてゐたのでした。此れに氣附いた我が司令官は敵の包囲網が完成する前に、急遽グスタヴ町を放棄し軍を後退させました。敵軍がグスタヴを左右から挟撃しやうと押寄せて来た時には既に我が軍は遙か南に逃走しており、町は蛻(もぬけ)の殻でした。我が軍も負軍(まけいくさ)ではありましたが、馬鹿ではありません。
私の隊は運河の畔にあるベルベル村に到着しました。其處はソヴァジランド縣南端でした。敵は縣全部を占領して仕舞ったのです。うじゃうじゃと味方の歩兵が塹壕陣地に集っており、我が隊は此れを通り抜け運河を渡って背後の山地に陣を置きました。我が軍は此のベルベル村に防御線を築き敵軍を迎え撃つ事となりました。私共は敵の野砲陣地の位置を標定する作業を續け、ベルベル攻防戰の際には我が隊の提供する情報は相當の役に立ったと思ひます。然し敵の壓倒的な戰車群に我が歩兵隊は抗しきれず、ベルベルを放棄して運河以南に撤退を餘儀無くされました。運河の此方側には山脈が聳え南方の平野に入るには、ひとつしか無い峡谷を通過するしか途はありませんでしたから、我が軍は峡谷を見下ろせる山地に第2の防御線を張りました。こうして北の荒地で損耗した諸部隊の補充と休養を行ふ事になったのが3月から4月にかけてです。敵も兵站線が伸び切って補給が續かなくなり、おまけに我が遊撃兵の襲撃で線路が寸斷されてしまたので、新たな攻勢を起すには未だ時日が掛りさうでした。
5月になって敵の威力偵察が頻繁にあり、今迄膠着してゐた戰線に新たな動きが出るかと云ふ其の時、突如として休戰になりました。敵の北帝國は西隣のミグルシア王國軍の奇襲に遭い首府が壊滅したのださうです。夜間の大規模な毒瓦斯爆撃で北帝國の總司令部と中央官廳は全滅し、おまけに北隣のゴルゴニアまでもが越境侵攻して来たのでした。北帝國の独裁官は亡命し親レミニア派の新政府が樹立されたので、我がレミニア軍は其れに協力して侵入軍を撃退する為に救援に出る事となりました。
よく事情が分らぬ儘(まゝ)に臨時砲兵情報隊はゴルゴニア戰線に移りました。私は少尉に任官しておりましが、休戰した北帝國領内を列車で何日もかけて北上し何も無い茫漠とした荒地に到着した時には小隊の兵隊は既に氣力が失せて、早く復員したいとしか云わなくなっておりました。此處に7月迄ゐましたが、新たな敵となったゴルゴニア兵の姿は一度も見た事がなく、もとより敵の砲撃も皆無で、我が標定中隊は何も仕事がありませんでした。兵隊は占領したゴルゴニアの民家に出掛けては餘った糧食を分け與え婦女子を相手に好き勝手な事をして遊んでおりました。軍命令が出てゐるにも關はらず不祥事は絶える事なく、うちの中隊からも軍法會議沙汰になった兵隊が何人か出ました。兵隊は馬鹿馬鹿しいと思ってゐたのでせう。出征時の精鋭振りと復員時の弛緩振りを見比べて是が同じ臨時第2砲兵情報隊かと思ふ許りでした。
7月に臨時砲兵情報隊はバテリエの兵營に歸り着き、解散となりました。今や北帝國と合併してレミニア聨合共和國となったから、どのやうに世間が變ってゆくだろうと思いましたが、何時迄たっても以前と同じで、ちょっと期待が外れた思ひとなりました。

【復職 英國駐在】
3060G
砲戰記章、東部戰線1級従軍記章、ゴルゴニア戰線1級従軍記章

デムブラゼイ工務店に戻り再び會社員生活を始めました。勤め始めた時に最初に配属された營業部販賣課官廳掛に戻り勘定書審査係長を命ぜられました。若い新入りが助手に附きましたが、昔の自分を見てゐるやうで餘り居心地は良いとは云へません。其れは最初に私が就いた席でしたから。
翌年、英國駐在事務所に轉勤となり、外洋汽船に乗って倫敦に行きました。此處では庶務係長として出張してくる技師連の面倒を見ました。巴里でやってゐたのと同じ仕事です。英國の食事は不味いと云はれてゐますが私の口には案外に合うので、佛蘭西にゐた時のやうな不自由はしませんでした。朝は麥粥を食べ、晝はサンドイッチ、夕はパブ(居酒屋)に寄って麥酒を飲み、下宿では卵の目玉焼ばかり食べてゐました。たまに仔羊肉の焼いたのを食べましたが餘り旨いとは思ひませんでした。
駐在事務所の目的は英國の持つ技術を調査する事でしたが、偶々軍事機密に手を触れてしまふ事があり、私が居た1年の裡にも或る技師が英國情報局保安部に引致された事件がありました。彼は電氣信號器械が専門でしたが、暗號の自働解讀に興味を持っており其れがいけなかったやうです。引取に行った時の先方係官は海軍の制服に大尉の袖章を附けた青年でしたが案外に鄭重で、御茶を御馳走になり冗談まで云ふくらい打解けました。然し其れ以来当該技師には何時も尾行が附くやうになりました。若しかしたら私も見張られてゐたのかも知れませんが、まるで氣が附かず暢氣に暮して居りました。
そう云へば私は獨身だったので偶(たま)に良からぬ處に遊びに誘はれる事がありました。行きつけのパブで何時もダーツ(投矢)を競って遊んでゐた英國人の友達と一緒に下町まで遠征し、怪しげな秘密倶樂部の會員になってしまひ、奇妙な景色を樂しんだ事があります。其の友達は株屋の店員をしてゐるのでしたが、後で良く考えれば保安部の下働だったのかも知れません。

【賃金事情】
英國から戻って、重電氣器械工場の事務課で原価計算係長を致しました。それからあちこちの工場の事務課庶務掛の主任や主事の仕事を營々と續けました。一番厄介だったのは同業組合との交渉で、職工は職種に應じて各々の同業組合に加入しておりましたから、其れ等の組合から賃金引上げの交渉にやってくるのです。礦山や輸送のやうに荒っぽい罷業騒動は起りませんでしたが、油断をしてゐると社會主義結社の秘密細胞が出来て居たり、共産主義者が紛れ込んで居て扇動を繰返すので、此れを摘發しなければなりませんでした。どうやるのかと申しますと、探偵を傭い職工の中に紛れ込ませて密偵させるのです。若し罷業が起きた場合にピケットを張らせない為に用心棒を養っておく必要もありました。其の為、右翼の私兵團や裏稼業の大親分の協力を必要としました。そちらの付合いにも面白い話がありますが、何分秘密の事項が多いので此處では申上げられません。
然し、我が工務店の賃金は非常に良く、無料長屋や寮もあって、工員の成り手が多かったので、大きな騒動は皆無でした。田舎の領主は地主連と協議し乍ら領民が樂しく暮せるやうに取計らふのと同じ氣持がデムブラゼイ工務店の重役會にもあって、其れには先ず給輿をどこよりも良くしないといけないと、なっておりました。其の為其の為本給の他に諸手當が充實しており、危險手當、通勤手當、被服手當、早出夜業手當、臨時出勤手當、食事手當、家族手當、有給休暇、精勤手當、年功褒賞金、退職金などに加へ、會社の利益増進に伴ふ増給もあって、他會社の模範とする處でした。其の頃は政府の社會保險制度が完成し、失業、勞働災害、疾病、老齢、寡婦、孤児等の保険金補助金支給が軌道に乗った時でしたから、デムブラゼイに勤めれば家族共々幸せに暮せると評判になり、我が工務店への求職は競争になる位でした。逆に云ふと職工の待遇が惨めな工場は人が居着かず自然に廢業となって行くのでした。
デムブラゼイ工務店の創業者は工場主だけが金持になって下働きが貧乏に喘ぐのは此の世の道理に反すると云ふ意味の家訓を残してゐるので、多分その気持が脈々と今も生きてゐるのでせう。此の道理を無視した資産家が餘に蔓延れば勞働争議が起き果ては革命が勃發するのは必定であるからです。

【ブライトン赴任】
38歳の時に南部支店庶務課長となりました。南部ウェルズ縣のブライトン市にある支店で、仕事の内容は少し規模が大きくなった丈で今迄と變りません。丘の上にあるアプールボ區に下宿しました。株屋通と云ふ俗物趣味の建物が並ぶ中の1軒に朝晩の食事附貸間があったので其處に落着きました。此の頃は月50圓貰ってゐたので、寝室と居間兼客間の2部屋續きに浴室附で20圓くらいの宿代でした。ちょうど丘の上にあったので窓から遠くウェルズ彎が望見でき、支店には市電で1515分もかかりませんでした。ブライトン市は昔から金融商人の町でしたが、娯樂設備も整っており、大切な御客さんの接待が行届いたので大いに重寶したものです。
港灣や治水の土木仕事を縣廳から貰って来るのが支店の主な業務でしたから工場を持たず職工關係の事務が省けたのは有難かったです。工事は地元の土木業者が下請するのですが、たまに業者どうしの縄張争いから刃傷沙汰になる事がありました。氣性の荒い連中の仲裁を取持つには其の筋の大立者の力を借りなくてはならず、不慣れな仕事に大いに冷汗を掻いたものでした。

【東方支店赴任】
ブライトンに1年ゐて、今度は取締役に選任され東方支店長となりました。なぜ私が下級の重役になれたかと申しますと、大學時代の友人が先に重役になっており、その推薦があったからでした。東方支店は舊東方帝國の首府だったチェファカステル府にあって、其處に赴任した當初は一擧に前世紀の世界に戻って了った様な錯覚に度々襲われたものです。 街の景色もそうでしたが、人間も奇妙に舊式で、非常に戸惑いました。私は無理にレミニア式で通しましたが、其れを尊大と受取られたやうで居心地はよくありませんでした。首府の目抜通は市電も自働車も走っておりましたが、少し郊外に出ると昔ながらの埃っぽい未舗装の狭い道路が畑の畦に沿って曲がりくねっており、橋の無い川には渡し船が往来しています。この田舎道を真っ直ぐに舗装して、川に鐡橋を架け、山に隧道を穿ち、用水路を張巡らし、港灣を拵へる、さう云ふ仕事をするのかと張切ったのでしたが、彼方此方にある都邑の整備から始めないといけないと本店から指示があり、水道工事や道路工事、市電を通したり、役所や公會堂や學校を建てる仕事に走り廻る毎日でした。
中世からの傳統が脈々と息づいており、總督府直轄官衙ではない地方の都邑役場は何をするにも賄(まいない)を取りました。手數料と云ふ名目で書類ひとつ書いて貰ふにも筆紙代と稱して幾許かの金銭を係の吏員に渡さないといけませんでした。この程度なら別に構いませんが、厄介だったのは下請業者が巧妙に工事資金の上前を刎ねる事で、おまけに現場の監督も不行届で設計通りの工事が出来ないのでした。そもそも現代式の工法を身に着けた職人が殆どゐないので支店直轄の職工學校を設けて技術教育から始めないといけませんでした。此の様にして外地の土木建築事業は遅々として進展しないのは、東方のみなら外地のずリゾネシアや南洋でも同様であったと思はれます。
いったい舊東方帝國の領主貴族は領民を人と思はず、地主層は牛馬の如く村民を使役して来た長い歴史があって、此れでは東方の民はレミニアのやうに樂しく暮す事が困難でせう。道で貴人の籠に遭遇すれば庶民は必ず地面に這いつくばって深々と頭を下げ禮をするのでした。飢饉となって民が餓えやうが領主は知らぬ顔で何の手立も打たないので、仕方なく總督府が道知事に命令し知事は郡長に命じ、備蓄糧食を放出して人々が餓死しないやう講ずるのです。1930年以前の舊北帝國時代には現地の昔からの方式を其のまゝ踏襲する間接統治方式だったから、糧食庫は嚴重に管理しないと何時の間にか有るあるべき筈の穀物がなかったりしました。1930年以降に北帝國とレミニア共和國が合併し聨合共和國時代となってからは、總督府の人事も刷新され直接統治が始ったので、殆どの現地人倉庫役人が無能或は故意の故に備蓄倉庫管理がまともに出来ないとて馘になってしまった程です。然し表向きは暮しやすくなったとは云へ民間では舊來の仕方が生きており、我々の様な元請業者は大いに苦勞しました。

【本店支配人】
東方に1年間ゐた丈で碌な仕事もしない裡に内地の本店支配人の職を命ぜられました。常務取締役に選任されましたが、是は大學時代の友人が専務取締役になってゐて其の推薦があったからでした。報酬もあがったので、メトロポリス市のハイネルスキイ區惑星街にある冥王星通に家を構ヘました。内地に戻った時には暮しは簡單な下宿にしやうと思ってゐたのですが、「君も偉くなったんだから工務店の體面もあるから、庭と門の附いた家に住んで客を招待できるやうにし給へ」 と専務の友人に云はれたからです。此れも仕事と思ひましたが、俄に執事と女中頭に酒蔵番、料理番、台所女中、掃除女中、洗濯女中、運轉手、厩番、門番、庭師、従僕、雑夫と15人許りの使用人を雇入れなくてはなりませんでした。執事は専務の家で働いてゐた従僕が昇格してやって来ました。運轉手は用心棒を兼ねてゐて、その為少し給金を良くしなければなりませんでした。もともと獨身の私は餘り家の事には構はないので使用人も氣樂だったやうです。この頃は130圓餘の重役報酬を貰ってゐましたが、殆どが使用人の給料に消えてしまひました。
成程、友人の専務が云ふ通り、家に訪問して来る紳士淑女が必ず週に何人かあって、晝夜を問はず應接間で本店の事務所では出来ない相談もするでした。仕様がないから私設秘書を置いて其方の用事をして貰ふやうにしました。筆頭株主のデムブラゼイ准男爵が共和黨の幹部だったので政治向きの客も多く、政府や省廳の人間は勿論、極右の首魁から極左の闘士まで廣く面談閑話する状態となり、今迄は餘り聯結できなかった政界財界のパズルがやっと繋がってきたのでした。 
此の10年間に歐州情勢が怪しくなって来て、此の頃には獨逸が再軍備を始め捷克(チェコ)のズデーデン地方と墺太利(オストリア)を併合し、蘇聨が芬蘭(フィンランド)に侵入し撃退されたかと思へば、極東では日本が支那の主要都市を占領、と物騒な事變が續發しておりました。私が東方支店に居た時、獨逸と蘇聨が波蘭(ポーランド)を分割占領しましたが到頭佛蘭西(フランス)も獨逸に占領されて仕舞ひ、主の居なくなった佛領印度支那に日本軍が進駐するなど、混沌としてきました。 
或る訪問客の觀測によれば、米國は不干渉主義で國内には親獨派も多く、當分は動かないだらう、大英帝國が滅ぼうと、米國大統領は動かないだらうと云ひます。若し戰争を始めれば息子や夫を軍隊にとられた御婦人連の選挙票が取れなくなり再選が難しくなるからださうです。まあ、米國は禁輸で日本を苛めてゐるが、あれは大統領が支那國民黨總統蒋介石の夫人に巧く丸め込まれてしまったからだ、と云ひます。 蒋介石は英語が喋れませんが夫人の宋美齢は米國の女子大學を出てゐますから大統領と議會から支援を引出す役割は彼女が専ら擔ってゐるのでした。
或る訪問客は共和黨の幹部でしたが、其の人が呟く事には、ひとつ心配があって、もし米國が禁輸を續ければ日本は對支那戰争を續けるに必要な物資、石油と鐡の缺乏により南方資源地帯占領の擧に出るやも知れぬ。そうなれば米國は仕方なく其れを阻止すべく開戰に動くかも知れない、日本は獨逸と同盟關係にあるから自働的に米國は太平洋のみならず歐州にも出兵し獨逸軍を壓迫するであらう。どうなろうともレミニアは局外中立にあって軍需景氣の恩恵に預る筈だが、此處に考えておかないといけない點があって、其れは獨逸が蘇聨をどう考へてゐるか、總統は英國占領が困難であると悟って西部戰線は現在停滞してゐる。レミニアの諜報員が寄せる情報を吟味すれば、早々に戰争状態を終らせないと獨逸國民は食糧不足により貧窮するのは明らに豫想出来る。とすれば獨逸政府は東方の穀倉地帯に目を向けるのではないか。蘇聨とは相互不可侵條約を結んでゐるが其れは假の姿だらう、西部戰線に注力する為の方便にすぎない。 若し獨逸が蘇聨領を狙ってゐるとすれば西比利亜の白露政權が其れに乗じて蘇聨に侵攻しやふとするのではないか。さすれは西比利亜駐箚のレミニア軍も動かざるを得なくなる。
話はそれきりでしたが、私には極東や歐州の情勢は遠い處の話で、デムブラゼイ工務店は情勢がどうならうと外國での戰争需要を受けて輸出用の電氣製品を増産する體制を作らばければいけないだらうと思ふ許りでした。然して私は工場の増設や職工の増募に忙しく立働く事となりました。其の裡に薄々豫想して居りましたが、レミニア諜報機關の報告に依り獨逸軍は1940年12月に蘇聨侵攻準備を始めたのが判りました。雪融けの泥濘期が終り道路が固まる翌年5月に開戰かと思っておりましたが、獨逸總統がユーゴスラビア侵攻に手間取った為に遅れて6月に對露開戰を實行しました。 
獨逸軍が得意の電擊戰術を使ひ破竹の勢いで白露西亜、烏克蘭を占領した時に、レミニア政府は豫想通りに参戰提案を自國民に示しました。白系露西亜人の西比利亜共和國が此の機會を逃さず蘇聨に西から攻込んで共産黨政府を覆滅しやうと云ってゐる。西比利亜に駐箚軍を置く我がレミニア聨合共和國は此れに協力すべく出兵したい。世界の秩序を亂す共産主義を撲滅する良い機會である。其れを受け地主貴族が主導する與黨共和黨は早速全國規模の宣傳活動を始めました。我々産業界の主立った者供は既に個別の情報を提供され戦争準備を完了して居り、残る仕事は實際に兵士を送出す國民の納得を得る事だったのでした。 左翼諸政黨の戰争反對意見は餘り國民の賛同を得られず、むしろ戰争は直ぐに終り勝利は我等のものとならうと皆が思いました。
私自身は別段に反對する理由もなく、共産主義は嫌いだったので、出兵もよいかと暢氣に思って居りました。やっと工場の増産體制も整って来て、ひと息吐いたのが1941年の初夏でした。 應召が来る者は大體の豫想が附くので其の補充用用に餘分の人員を配置し、新たに設けた職場や作業組の為に新しく職工を募集しましたが、デムブラゼイ工務店は給輿が良いので成り手を見つけるのに困る事はありませんでした。
内務省社會局は出征者に留守家族手當を給する事にしましたが、其れ丈では留守を守る家族の生活には足りないので、會社の方でも應召者には休職給丈ではなく出征手當を上乗せしやうと重役會で決りました。軍人の給輿と會社の休職給及出征手當を貰ふと、ほゞ應召前の収入に匹敵するので戰争に行く者に金銭面での不満は生じないだらうとなりました。其の人件費は何處から出すのかと問ふと、特需の儲けを充てると代表取締役が述べ、結局デムブラゼイ工務店は今度の戰争で殆ど増収は見込めず、我々は只働きをする事になるのかと重役連は不平を並べましたが、我社が今日あるのも國の御蔭、猶太人や支那人の如く金を溜込む為に會社があるのはない、國の為に活動してゐるのである、國とは即ち國民が絆を結ぶ場所であり、國民とは諸君自身であり諸君の家族である。と代表取締役は訓(さと)し重役連中は納得したのでした。レミニア人の地主貴族には大昔から此のやうな考えが根付いてゐますが、下層の身分になるに從って筋道立って云はれないと判明(はっきり)と自覺できないのでした。代表取締役はデムブラゼイ准男爵の家系に列なる人でありましたから、我が社は貪欲に金銭を蓄へる丈の拝金亡者ではない、レミニア國家に無くてはならない公の器なのである、得た利益は我が社で働く人々の為に使ふのが道理である、と説きましたから誰も此れには反對出来ないのでした。他社も同様な態度を取っており其の幹部は決して驕る事なく質素な暮しに徹してゐました。

【西比利亜戰線 應召】
自宅で訪問者の相手をしてゐると秘書が顔を出して、區役所から人が来てると云ふので出てみると、兵事係の若いのがゐて 「お目出たう御座います」 と此方の顔を見て氏名を確かめると、さう挨拶しました。充員召集令状を届けに来たのですが、訪問者の處に戻ると、「重要機關の役職者は召集免除になるから」 と云ひます。其の頃には政府の参戰宣傳も全國に行届いてゐて社會の根幹にある人であればある程、自ら進んで名譽の出征に應ずべきであると世間の皆が思ってゐたので、「そうもいかんでせう」 と應召する事にしました。地主領主の殿様や其の子弟が應召し或は志願で入隊するのは當然の義務と思はれてゐましたが、さう云ふ貴顕郷紳ではない庶民も大農場主、大商人のみならず職人親方や私のやうな給料取が進んで入營するので、いやでも兵隊に行かなければならない若い連中も自然と奮い立ち、今度の戰争は是非とも勝たなければならないと全國民が一致團結したのでした。 おまけに電擊戰で知られる獨逸軍が東から、我がレミニア軍と白露軍が西から蘇聨を挟撃するので最初から勝負は決ってゐるやうなものです。
私が目指す獨立第2砲兵情報隊の編成は隣縣バテリエ町の野戰重砲兵第2聯隊で行ってゐたので其の駐屯地に行くのですが、混雑した船と鐵道を乗繼いで行くのも面倒なので飛行船に乗る事にしました。従卒は戰時に限り公費で傭へるので、うちの若い従僕を其れに仕立て、行李を持たせてルブラン空港から聨合航空の朝便に乗りました。レミニア縣とデーモン縣を隔てる山嶽を眼下にし乍ら船上で輕い晝食を摂る裡に午后早くランデンドルフ飛行場に到着、鐵道で聯隊に出頭しました。應召の旅費は将校の場合、二等席が無料となりますが、其れは鐵道船舶の場合であって、飛行船は自費です。 
野重2聯隊の本隊は既に出征しておりましたが、兵舎は留守隊要員を収容してゐて満員で、情報隊は營庭や演習場に天幕を張り編成作業をしました。私は少尉で標定中隊の第2小隊長を命ぜられ、蓄音機のお化けのやうな聴音器を9臺、光源測定器3臺、圖解車3臺を預けられた。小隊には聴音分隊3箇、光源分隊と圖解分隊が各1箇在り、小隊附として軍曹が附きました。中隊本部に通ったり各分隊を廻るには馬卒の運轉する小型自働車がありましたが、側車附の自動二輪がありましたから専らそちらに乗ってゐました。小隊長用に天幕があって其處に寝泊りしました。家から連れて来た従卒が寝床や軍服の手入などして呉れましたが、食事は野重聯隊の将校集會所で摂りました。入隊したのは7月でしたが1週間もしない裡に出征となり、聯隊に引込んである線路に器材を積載し其のまゝ貨物列車仕立でジルベルハーフェン軍港に向ひました。朝たって午后には既に埠頭に到着し輸送船に一切合財を積變へ出航、大西洋を只管南下し、マザラン海峡を越へ今度は太平洋を北上しました。二等船室の相部屋で、特務曹長と一緒でした。私と餘り歳が違はない其の人は砲兵學校の嚮導隊にゐたとかで測定には年季が入ってゐるやうで今度の編成では中隊指揮班長を勤めてゐました。 
下士兵は船艙に組んだ蠶棚みたいな處で雑居となってゐましたが、寢轉がってゐるか起きてラムネを呑み乍ら博打をやってゐるかで、飯丈は三度食べるから外から見ても段々肥ってくるのが判りました。 
8月に極東の浦塩港に到着し、直ぐ西比利亜鐵道に乗って一路に西に向ひ、1週間後には赤塔(チタ)で隊は第2軍司令官の檢閲を受けました。我が獨立第2砲兵情報隊は第2軍の直轄となって、野戰重砲兵第2旅團、野戰高射砲兵第2旅團、野砲兵聯隊2箇に標定情報を送る任務に就きました。レミニア軍は9月にトムスク、10月に ノボシリスクと順調に進軍しましたが、天候は冬に向ひ道路が泥濘と雪によって徐々に通行が困難となり、11月オムスク、12月にはエカテリエンブルクに辛うじて到達しましたが、到頭ウラル山脈の入口を前にして餘りの寒冷さに冬營に入りました。 
西から露西亜に侵攻した獨逸軍は電擊戰により莫斯科の手前迄迫りましたが、兵站線が延びきり、短期決戰を期してゐた為に冬季装備の用意が無く、降りしきる雪の中で停滞して仕舞ひました。此の有様に業を煮やした獨逸總統が自ら軍司令官に就任し直接の指揮を執るやうになったのですが、レミニア軍の将校連は其の報せを聞いて單なる政治家が大軍を動かせるのかと首を傾げる者、いや奇跡が起きるだらうと云ふ者、我々レミニア軍が更に進撃すれば蘇聨は體力が弱るから獨逸軍とて立直るだらうと豫想する者、など将校集會所では論議が盛んとなりました。 
翌1942年ウラル山脈を越えたレミニア軍と白露軍は蘇聨が疎開させた兵器工場を次々と占領し莫斯科に向け進みました。 10月にはコブロフの銃器工場に到達し、去年既に中尉に進級してゐた私は此處で大尉に進みました。本職ではない豫備役であるうえ測定は音源しか扱ってないので、情報隊の陣營掛を命ぜられました。こまごまと後方の面倒を見る此方の方面は娑婆でも散々やって来て割りと得意なのでした。さて困ったのは前線から捕虜が大勢送られてくるのでしたが、見てゐると軍司令部の護衛についてゐる白露軍(西比利亜共和國軍)部隊が事も無けに捕虜を射殺して仕舞ふ事でした。政治将校は問答無用で始末されましたが、さうでない兵隊も殺られてしまひます。占領した村落は共産黨のパルチザンが潜伏してゐましたが村民の中に紛れ込んで見分けがつかないので、住民を纏めて廣場に集め機關銃で薙倒しました。女子供老人の區別もなく皆殺しです。此れは白露軍のみならずレミニア軍も遣りました。レミニア旗を振って恭順と歓迎の意を示してゐた村民が氣が附くと背後から歩哨を倒し彈藥庫や車輌に放火するから、戦場で殺氣立ってゐる兵隊はやられた戰友の復讐に易々と皆殺しをやりました。御蔭で道路の両側には屍體が山積みとなって冬はまだ宜しいが、氣候が暖かくなって放って置くと腐敗するので、穴を掘って埋めなければなりませんでした。軍の直轄部隊に埋葬勤務隊がありましたが、其れは専ら自軍の兵隊が對象で、敵兵や民間人は扱いませんでしたから、各部隊の陣營掛が路傍の放置屍體の處理をしました。情報隊段列の二等主計は 「うちは補給よりも埋葬の方が巧くなりましたなあ」 と真面目な顔附で云ふので、苦笑いをするしかありませんでした。
1943年2月には莫斯科に迫りました。3月に入って暫く西側にゐる獨逸軍は前進を停め、レミニア軍は訝しく思ったのでしたが、軈(やが)て獨逸總統が前線視察中に飛行機事故で亡くなったと云ふ報せが舞込み、今迄の親衛隊聯絡将校がぴったり姿を消し、代って國防軍将校が現れるやうになったので、獨逸政變の噂は俄然として眞實味を帯びて来ました。モスクワ入城は3月末になってやっと實現し、我が隊は莫斯科に駐屯する事になりました。蘇聨は消滅し、スターリンは亡命と稱し行方不明、獨逸は8月に新政府のもと佛蘭西、白耳義、和蘭、北歐、阿弗利加から撤兵し休戰、其の代価として東方の生存圏を確保しました。 
1944年1月にレミニア軍はザバイカル以西に撤兵しましたから、我が隊は歸國復員する事となりました。今度はパナマ運河が通れたので歸路は2週間餘に短縮し、2月にはジルベルハーフェン軍港に到着、鐵道でダーリエ縣、ボオ縣を越えランデンドルフ縣のバテリエ兵營に入って解散、私は記章を四箇貰ひ軍服のまゝランデンドルフ飛行場から飛行船に乗って首府メトロポリス市ルブラン空港に辿り着きました。

【復員 復職】
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砲戰記章、東部戰線1級従軍記章、ゴルゴニア戰線1級従軍記章、西比利亜戰争1級従軍記章、露西亜駐箚記章、部隊戰功章

社の事務所で再び本店支配人を續けました。諸工場は戰時特需が終り次々と製造場を縮小したのはよいのですが、其處で働いてゐた職工や技手、應召で缺けた職を埋めてゐた臨時工が餘剩となって、庶務部長が馘首候補者を長い表にして持って来ました。不要になった人員を解雇するのは容易な方法ですが、社主や専務が不同意で其の言分に依れば、産業界の主導的立場にある我が社が簡單に人員整理に走れば他社も其れに追随して失業者の大量増産を行ふだらう、さすれば直ちに戰後不景氣が到来する、さう云ふ事は國民福利に叛する非道の行ひだ、考え直し給へ、と云ふのでした。重役會では職工の大量解雇は愚策として退けられ、さすればどの様な策があるのかの問ひに社主は其れは君達が考へなさい、其の為に重役報酬を貰ってゐるのだらう、と變梃な回答を寄越すのでした。
自宅に戻って凱旋祝の客を迎へて連日宴會の真似事をしてゐる裡に、或る日、大學の友人だった専務取締役總支配人がこっそりやって来ました。この男は體が餘り丈夫ではないので兵隊に行かなかったのですが、西比利亜の状況を聞きたがりました。四方山話の果てに、彼はふと思ひ附いたやうに囁きました。 「どうかね、西比利亜の赤塔(チタ)と浦塩(ウラジオストック)邊りに工場建てるのは」 よく訊いて見ると、 「どうせ舊蘇聨の誇る工場群は戰災で荒れてゐるだらうから、露西亜新政府との合辨で電器工場を建てれば我社の利益が上がる。品質保持の為には技師も技手も工員も、うちから送込む必要がある。休止縮小した生産場の餘剰人員や應召者の穴埋に傭った臨時工も新しい居場所が見つかると云ふ事さ」 成程、巧い事を考える奴だなあと思ひました。然し皆は物好きにも西比利亜みたいな遠くて寒い處に態態(わざわざ)行くだらうか、いや失業して戰後不景氣の世の中に放り出されるよりは良いだらう、幹部の技師や技手、職長組長連中も西比利亜の新工場でひとつ上の職級に昇進させれは喜んで行くのではないだらうか、と私も考へました。 専務の友人は 「此れは社主にも大株主のデムブラゼイ准男爵にも内緒で下相談濟みの事だ、まあひとつ宜しく尽力して呉れ給へ」 と事も無けに云ひました。
翌年までに我が社の西比利亜進出は實現し、私は屡々北極海を飛行船で横斷し現地との交渉や視察、細部の調整などをしなくてはなりませんでした。デムブラゼイ工務店の動きに釣られ他社も次々と西比利亜に工場を設け、多くの技術者職工が海を渡りました。現地傭いの露西亜人職工を指導する為に、昨日の熟練工が現地では組長や職長になり、技手だった者が技師になり、技師だった者は技師長に昇進して各々の職務に励んだのでした。同道した家族は今迄より幾段か裕福な暮しを得て喜びました。こうして心配された戰後不況は遂に訪れず、レミニア經濟は安定を保つ事ができました。
大學の友人だった専務取締役總支配人は或る時ふと洩した處に依れば 「もし将来に於いて獨逸が再び露西亜進出を行はうとすれば露西亜政府の後楯たるレミニア駐箚軍はザバイカル以西に出て行き戰鬪に参加するだらうが、其れに當ってはレミニア本國からの兵站線が長大過ぎる。最近の西比利亜戰争では陸軍の兵站總監部が非常な苦勞をした。大西洋と太平洋を經由して兵器糧秣を輸送するのに多大な費用が要した。大西洋からインド洋を經由しても同じだ。それで西比利亜に豫め主要な軍需生産工場を育てゝ置く必要が出てくる」 そう云ふ思惑が有るのは知っておりましたが、「其の發案者は君か」 と問べば 「其れは云はんでも判るだらう」 成程、社主の懐刀と異名を取る彼は此の様にして世界の一端を動かしてゐるのでした。
世界情勢も漸く鎮静し、翌年3月に日本と支那が休戰、更に獨逸軍の佛蘭西占領解除に伴ひ日本軍は佛領印度支那から撤兵、極東にやっと平和が訪れました。日支事變はレミニアが日本に石油及鐵鋼を供給したから支那國民黨軍を追詰め續けてゐましたが、到頭日本に有利な形で終結しました。と云っても支那撤兵の代りに満洲占領を世界列強が認め現地權益を確保したに止まったのですが、御蔭で支那の一部併合を求める軍部過激派が政府や財閥の要人を暗殺する事件が頻發しました。宰相が暗殺の危險をも顧みず奮闘し、天皇が強く軍部を諫めたので、さしもの陸軍も今が引き時と大人しくなったさうです。満洲を手に入れた為に景氣が恢復し國民がひと息吐き日本は徐々に戰時の興奮状態が治って鎮静化したとはレミニアの在日本大使の報告です。
支那側も9月には國民黨軍の共産黨討伐が始りました。此の頃、國民黨軍は500萬に達する大勢力を誇ってゐましたが、其れは地方軍閥を編入して膨張したので、餘り質の良いものではありませんでした。然し國民黨總統の蒋介石は米國の援助を取附け兵器を充實させたので破竹の勢いで共産黨軍を北部に追詰めて行きました。世界は此の情勢を興味深く眺めて居りました。
レミニア軍は西比利亜戰争終結後、蒙古に勢力を擴大しやうとする支那共産黨軍の浸透を排除すべく出兵し、内蒙古討伐、延安爆撃を行ひました。陸軍の1箇軍に加へ飛行師團が騎兵師團が1年毎に交代で現地に出征し延々と戰鬪を展開してゐましたから我社の西比利亜工場は此の軍需に依り繁盛しました。1948年に大學時代の友人代表取締役總支配人が私の事務所にやって来て 「今度デムブラゼイ區會議員に立候補するから後を宜しく頼む」 と云ひます。驚いてゐる間に本當に區會議員に出て仕舞ひ、私は後任の總支配人の席に座る事になりました。前から共和黨員だった友人は到頭、會社員でわ満足せずに政界に出やうとしたのです。會社の經營を獨りで切盛りしなくてなならなくった私は愈々忙しく立働くやうになって、そろそろ隠退して家族がゐる譯でも無いから何處か田舎で頭を休め乍ら好き勝手に暮したいと思ふやうになりました。考えて見れば學校を出て以来、無闇に人や工場の世話許りして来て詰らない暮しだったのです。
區會議員の友人は時折やって来ては無駄話の合間に今度はメトロポリス市の参事會員になりたい、其れには社主も大株主のデムブラゼイ准男爵も後援して呉れるから多分再来年邊りにはそうなるだらう、その節はまた宜しく願ひます、と冗談めかして云ひます。市には土木工事で御世話になってゐるから其れもよからう、せいぜい御贔屓にと返して置くのですが、満更繪空事では無い處が此の友人の恐いところでした。

【應召 新疆出征】
支那の情勢は思はぬ影響をレミニアに及しました。國民黨軍に追われた共産黨勢力は延安に根拠地を定めて必死の抵抗を試みて居りましたが、内蒙古に浸透しやうとして満洲境界にて日本軍に驅逐され、今度は外蒙古に越境するやうになって居ました。外蒙古警備の為に駐屯してゐたレミニアの西比利亜駐箚軍の1箇旅團と共産黨勢力の紛争が頻發した為に、遂にレミニア聨合共和國は1945年1月に派兵を決定しました。此れを蒙古事變と稱し、蒙古派遣軍(第1軍、騎兵第1師團、飛行第2師團)が蒙古から内蒙古に進出、蒙古全域から支那共産黨勢力を排除する作戰を行ひました。延安の共産黨根拠地はレミニア飛行師團の激しい爆撃に依り壊滅状態となりました。派遣軍は内地から交代で派遣される1箇歩兵師團と常駐の第5飛行旅團に縮小し、共産黨軍の残存勢力の掃蕩を行ったのですが、事變は1949年末まで續きました。南側から共産黨軍を追詰めるべき國民黨軍は内部の腐敗が激しく度々共産黨の手玉に取られ敗退したので此のやうに長い年月が掛ったのでした。
事變が始った時に私は未だ豫備役に在ったので召集されるかと思いましたが、蒙古に出征したのが南部の第1軍であり、こちらは隣の深南部管區にある第2軍所属だったので遂に出る機會はありませんでした。1949年1月に後備役編入となり、あと6年たてば退役と云ふ時に、奇妙な巡り合せで應召しました。延安を放棄した支那共産黨軍は青海に移動し新疆に浸透しやうとしましたから、新疆駐屯のレミニア軍の1箇旅團と衝突するに至り、我が陸軍は蒙古の時と同様に新疆派遣軍(第1軍、第2軍、騎兵第1師團、飛行第2師團)を差向けました。此の中に私の属する第2軍が入って居り、手許に充員召集令状が届きました。
會社の役員などしてゐると市廳兵事課に申出れば召集猶豫となるのでしたが、やはり名譽の出征から逃げるのは不體裁ですから、なに直ぐに片付くさ、と私は直ちに應召し、古い軍服と軍刀等を引っ張り出し身に着けるとルブラン空港から飛行船に飛乗りました。将校應召者は部隊までの鐵道客船二等運賃が無料ででしたが、私は乗付けてゐた快速飛行客船の高い運賃を支拂ふ丈の収入がありましたので此方を選びました。隣のデーモン縣の美麗な峡谷を眼下にし乍ら船上で晝食を摂り終れば既にランデンドルフ縣の飛行場に到着しました。バテリエ町の野戰重砲兵第2聯隊までは鐵道で1時間程です。其處で編成中の獨立第2砲兵情報隊に出頭し、留守隊附を命ぜられました。仕事は經理委員首座で、應召兵に宿舎、三度の食事を用意する元締です。兵舎は野戰重砲の兵隊で既に満員なので我が隊は演習場に天幕を張り野戰同様の暮しをしました。
5月、少佐に進級し、新疆にある本隊の前線出征となりました。任務は歩兵第3師團派遣觀測将校です。飛行船で北極海を越え新疆の本隊に追及した後、第3師團司令部に出掛けました。此の歩兵師團には野砲兵第3聯隊があり、此れに測地圖や氣象状況、測定結果などの砲兵情報を本隊から取寄せて提供するのが仕事でした。流石に野戰砲兵丈あって觀測兵が敵地に肉薄して敵所在を探知し砲列は陣地變換を繰返しては直接砲撃をする奮戰振りで感嘆すべきものがありました。
此の新疆事變は年末に終熄しましたが、不思議な事に私は前線に在るにも關はらず支那共産黨軍の兵隊を見る事が出来ませんでした。支那本土から新疆に逃込んで来た支那兵は軍服も碌に揃って居らず、形勢不利となれば直ちに逃げ散り民間人の中に紛れ込んでしまふのです。

【復員】
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砲戰記章、東部戰線1級従軍記章、ゴルゴニア戰線1級従軍記章、西比利亜戰争1級従軍記章、露西亜駐箚記章、新疆事變1級従軍記章、部隊戰功章

首府メトロポリス市の會社事務所に戻って再び工務店の總支配人をやっておりましたが、まだ後備役に在るので戰時命課が来ます。動員になった時に就くべき職を軍司令官から命ぜられるのですが、私は「第2軍司令部砲兵部砲兵聯絡将校」と云ふのに決りました。新疆でやってゐた師團の砲兵聯絡将校と同じやうなものです。2年後に戰時命課は變って「第2軍留守司令部砲兵部砲兵聯絡将校」になりました。軍司令部が出征してゐても軍留守司令部は内地にあるので愈々老人扱となった譯です。然も軍隷下の諸砲兵部隊を監督する砲兵部は餘り仕事がない部署なので、此方も氣樂に構へて良いだらうと思ったのでした。
更に其の翌年に戰時命課は「第2軍彈藥大隊長」となりました。老眼で細かい數字や記號が見難くなった53歳の初老軍人には丁度良い職です。兵站主地と前線諸團隊の間を往き来して彈藥の供給をする隊です。然し此れは1年しか在任せず、翌年は「第2軍捕虜収容隊長」を命ぜられました。そして55歳になった1月に目出度く退役となりました。私の軍歴は以上で終りですが、國民としての義務は果したと思って居ります。

【區會議員 市参事會員 庶民院議員】
さて新疆から復員して暫くたってから、例の大學時代の友人が庶民院議員に當選してしまい、彼が度々やって来ては 「君も隠退する抔(など)と老人みたいな事を云って居らずに此處はひとつ僕を助けて呉れんか」 と念を押すやうになりました。確かに工務店の仕事は飽きてゐたのですが、政界には餘り興味がなかったから生返事をしておりました。其の裡、幾度も奨められた擧句に共和黨員になって仕舞ひ、住んでゐたルブラン區の區會議員に當選したので會社は辞めました。私を誘った友人は大いに喜び 「2年後にはメトロポリス市参事會員だ」 と勝手に決めて段取りしたので、到頭其の様になったのでした。 選擧参謀は 「貴方の軍歴が仲々の人氣でしてな、紳士方からも巷(ちまた)の勞働者からも文句が出ない。」 と云ひます。そんなものでせうか。
區會と云ふのは村會や町會と同じで土地の地主10人が議員となりますが、其の他に庶民10人が住民選擧で出て来ます。農場主や工場主、商人、醫者や私立學校の先生抔が議員になりますが、勞働者や小作人が混じる事もあります。私の入った區會はルブラン區の地主が10人(共和黨7、憲政黨2、愛國黨1)、他の公選議員が10人。内譯は私を含む共和黨が5(元會社役員(私)、内科醫院長、仲買商人、仕立屋、農場主)、憲政黨1(元司祭)、自由黨1(準備學校長)、人民黨1(元職工)、勞働組合聨合會1(前職不明)でした。仕事は區の土木改良計畫や林野管理、空港の安全規制、街路景観維持抔、極く退屈なものでしたが、住民の利害關係や黨派の動向を具(つぶさ)に見る事が出来ました。
市参事會は元は首府メトロポリス市の13區からそれぞれの領主が参事會員として會同し市長の施政を承認し要すれば提案及助言を行う機關でした。領主にはレミニア、ラトニアの2大公爵、ハイネルスキイ、ルブラン、フラリオンの3伯爵、メトロ、デムブラゼイ、フランチェスカの3准男爵(以上共和黨)、スドフィーノ騎士(憲政黨)、ツエントロベルダ、クラムボン、マリブロン、クヴァドの4土豪(以上自由黨)がありますが、前世紀になると此の他に領主以外の市民から公選参事會員として13名が加はりました。此れは時代が最早領主貴族の手に負へない複雑な様相を呈して来たからです。私が加わった時の公選参事會員の内譯は、元會社役員(私を含めた6人)、元役人2、元同業組合長3(以上共和黨)、學者(自由黨)、組合専従者2(人民黨1、勞働組合連合會1)でした。國内最大の都市行政なので煩瑣な承認事項や提案事項が山程ありましたが、最も困難なのは貧民街の改良でした。首府には全國各地から職を求めやって来る人々が犇めき合っておりました。不幸な巡り合せで落伍した者は場末に吹き溜って食ふや食はずの最低限の暮しをして日々を凌がなくてはなりませんでした。私が隠密裡に視察した丈でもデムブラゼイ工務店の如き大會社大工場に職を得て幸福に暮す勤勞者が如何に例外的存在であるかを思ひ知る許りでした。
友人は既に農工商務省参輿官になって忙しくやって居たのでしたが、「此れではいかんなあ、共産主義や社會主義の芽が出るのは當然の成行きだ。資産家は富を民衆に分ち與へるべきだ、其の仕組を作らんといかん」 と天を仰ぐのでした。そして 「手が足りん、君の助けが要る」 と云ひ、私は庶民院議員に出馬する羽目になって了ひました。選擧費用は黨から出る建前でしたが實際は半分以上を私の蓄へを叩(はた)いて捻出しなければ足りません。些事から開放された氣樂な老後を期待してゐたのに政治道樂など始めて一體どうするのだと思ひましたが、友人の仕事を手傳ふ裡に忙しさにかまけて餘り将来の事を考へなくなりました。
議會はレミニア區5番地にあって周囲に民選議員が泊ったり事務所に使ふ宿が集ってゐました。其の宿代は自費で賄ふので私は節約の為にルブラン區の自宅から通いました。夜間早朝の仕事がある為に自家用自働車が主な移動手段でしたが、豫定が混んでない時はメトロ急行電車や市電に乗りました。歳費は貰ふのですが其れ丈では足りません。秘書や運轉手を傭ったりしなければならず訪問や宴會にも費用が掛りました。庶民院の逓信土木委員會に出てゐた時に電話の自働交換器を普及させる事案を審議し、彼方此方(あちこち)の郵便局電信局に視察調査に出向きました。此の時は出張費を歳費から出して不足分は自費で補填したものです。此のやうに政治に手を出すと財産を失ふのが實感できました。大會社からの寄附金は黨に行って仕舞ふので議員も損な仕事です。
數年を逓信土木員會で過し今度は今度は農工商務委員會に出やうになりました。友人が農工商務大臣になった時に農工商務省の参輿官に任ぜられ、専ら議會と農工商務省の取次役をしました。今度、友人が總理大臣になれば、多分内閣書記官長にさせられて、こき使はれるでせう。乗りかかった船だから仕様が無いのですが、私も變な友人を持ったものです。

【註】
内閣總理大臣の片腕として活躍する實力者。首相のデムブラゼイ工務店總支配人時代に補佐役として業績を擧げレミニア經濟の舵取を擔った。現在は國民福利の實現に向けて奮闘中。其の謙虚な人柄は今回の聞取りに於いて自分の偉業には一言も触ない事で判る。デムブラゼイ工務店の巧みな従業員福利體制、西比利亜での合辨工場設立成功には此の人が居なければ到底成就し得なかっただらう。激務の合間を縫って出征し砲兵情報将校としての責務を果した軍歴は保守層の支持を集め、また獨身にして美男子である事から有權婦女子の票を浚ひ、庶民院議員聯續當選を為し、自らは質素極まりない暮しに甘んじ、刎頸の友たる首相と連携して政局の舵取に邁進する姿は眞(まこと)にレミニア政治家の鏡と稱しても過言では無い。
首相の先導を完璧に實現する能力は尋常では無いが、其の秘訣は敵を作らない人柄にあると云へやう。極右から極左に至る主要人物と幅廣い交流を保ち、實質的な利益誘導を巧みに用ひ勤勞層に安心を與へ舊勢力の信頼を得る術には獨特のものがある。現在の共和黨の政策は次ぎの如くである。限られた階層への資産の過度な蓄積は國家を滅亡に導く、上流のみならず新興の資本家は須(すべから)く剩餘の富を人々に分配し以て全國民の餓えを癒し希望を與ふべし。此れは古来よりレミニアの長老連が民を導くに當り守ってきた掟であり國是である。それを此の人物がレミニア聨合共和國に於いて維持し實現してゐるのは驚くべき事である。

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